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日本史についての雑文その262 秩父山地
信濃国の佐久穂で千曲川に注ぐ抜井川を遡って十石峠を歩いて越えて乗り換える河川が神流川ですが、秩父山地に沿ってこの神流川を下っていくと最後は秩父山地の山塊の北に出ます。この秩父山地の山塊の北端にあるのが御嶽山で、その北麓である神川町の二ノ宮に武蔵国二宮の金鑚神社があります。
この金鑚神社の起源は社伝によればヤマトタケルが東征の帰途にこの地に立ち寄って伊勢神宮から持ってきた神器の1つである「火鑚金」をこの地に鎮めたのが起源であるとされます。この「火鑚金」というものが何なのか分かりませんが、名前からして金属精製に何か関係のありそうな道具なのかもしれません。

ヤマトタケルの東国遠征については焼津や富士山周辺における足跡まで追いましたが、その後の行程について簡単に言えば、駿河を出て次に相模に行くのですが、これはおそらく海路でしょう。そしてその後、浦賀水道を横切って上総に渡り、それから陸奥に行って蝦夷を服属させます。これが東征の本来の目的であったかのように一種クライマックスとして日本書紀では描かれています。
この陸奥で蝦夷に相対する際にもヤマトタケルは船に乗っていますから、上総から陸奥へ行ったのも海路であったのでしょう。もちろん途中の寄港地もあったのでしょうけど、そのあたりは日本書紀では省略されていると見ていいでしょう。
この蝦夷に相対する際にヤマトタケルは船に大きな鏡を架けて蝦夷を驚かせています。蝦夷が驚くぐらいですからさぞかしよく光った鏡であったのでしょう。そうなるとこれは伊勢神宮の水銀で磨いた例の大鏡である可能性が高くなります。そもそもヤマトタケルは焼津に現れる前には伊勢神宮に立ち寄って叔母のヤマトヒメから草薙剣やその他いくつかの神宝を貰ってきているのです。その中に大鏡、あるいは大鏡を作るための道具や材料などが含まれていた可能性はあります。そうでなければ陸奥国で急に大鏡が出現するというのは不自然なのです。
となると、その大鏡そのもの、あるいは大鏡作成のための器具もしくは材料などが、この「火鑚金」であったのかもしれません。それを秩父山地の北端の山に祀るというのはどういうことなのか。この金鑚神社の少し北東に「丹荘」という地があります。そして金鑚神社には鉱山の神である金山彦尊が祀られているともいわれ、境内の奥の山中には鏡岩という岩も存在します。あるいはこの地には「丹」つまり水銀を含んだ辰砂が産出したのかもしれません。詳細まではよく分かりませんが、ヤマトタケルは大和王権の何らかの拠点を築きたかったのでしょう。

ヤマトタケルは陸奥国で蝦夷を服属させた後、まぁ服属といってもこの部分の日本書紀の記述があまりにも一方的に大和側を美化しているので眉唾ものとして、実際は友好的関係を構築したという程度であったのだと思いますが、とにかく陸奥をあとにして、その後は常陸を経て甲斐に入り、甲府市の酒折で一旦落ち着きます。
陸奥から常陸は海路だったのでしょうけど、常陸から甲斐は陸路であったか海路であったか分かりません。ただ、その後の記述でヤマトタケルが陸路を行く場合は割と詳細に越えた峠の名などを書いているのにここではそういう記述が無いことや、この後ヤマトタケルが関東平野には足を踏み入れていないこと、実際この4世紀初頭の時点では大和王権は関東平野にはあまり進出していないことなどを考えると、おそらく常陸からは来た道を引き返すように海路で上総、相模、駿河という経路で進み、富士川を遡って甲府盆地に入って盆地北部の酒折に落ち着いたのでしょう。
4世紀初頭の時点において、甲斐国の場合は既に大和王権の拠点がいくらか築かれていた可能性は大いにあり、またどうして甲斐国に行ったのかというと、この時点でヤマトタケルは次の作戦行動である「信濃と越の偵察」を決定しており、そのための前線基地として甲府盆地の酒折まで進出して一旦休息をとったのでしょう。
甲府盆地から信濃へ行くならば普通は、釜無川を遡って宮川に乗り換えて諏訪湖へ出るか、あるいは塩川で清里まで遡って千曲川の支流に乗り換えて佐久盆地の南端に出るかのいずれかですが、ここでヤマトタケルは一旦、武蔵に出てそれから上野に移動して碓氷峠を越えて軽井沢から信濃国に入っています。また、おそらくこの碓氷峠でヤマトタケルと分かれた従者の吉備武彦は草津から中津川で中越地方へ入っていったと思われます。
しかし信濃に入るには遠回りすぎますし、越の国に行くにもこの道は険しすぎます。どうしてヤマトタケル一行はこんな変なルートを選んだのでしょうか。しかしよく考えれば、これは隠密行動なのですからマイナーなルートや意外なルートを選ぶのは当然のことだといえるでしょう。
この甲斐から武蔵への移動ルートも、おそらくやや険しいルートで、酒折から笛吹川に出て、笛吹川を最上流部まで遡り、甲武信ヶ岳の南東の雁坂峠を越えて荒川の最上流部に乗り換えるというルートです。何故このルートだと思うのかというと、甲府盆地から信濃を経由せずに武蔵を通って更に北の上野に行くにはこのルートしか無いということと、この荒川上流域にヤマトタケルに関する伝承が残っているからです。

雁坂峠で荒川に乗り換えて少し東へ下った地に三峰山があり、その北麓で荒川の近くに三峯神社がありますが、社伝によれば、ヤマトタケルが東征の際、碓氷峠に向かう途中で三峰山に登ってイザナギやイザナミの国造りを偲んで創建したといいます。そういうわけで祭神はイザナギとイザナミなのですが、これは後世に付け加えられたもので、おそらくはもともと山岳信仰の神社であったのをヤマトタケルが遥拝したのでしょう。
また、三峰から更に荒川を下って行くと秩父に至りますが、秩父の更に少し下流の長瀞の宝登山の東麓には宝登山神社があり、社伝によればヤマトタケルが東征の際に宝登山を遥拝するために登っていると巨大な犬が出てきて道案内し、そこに猛火が襲ってきたところ、その巨大な犬が火中に飛び込んで火を踏み消したといいます。巨大な犬は山の神の使いであったといいます。
これは、日本書紀にある信濃国でヤマトタケルが山中で道に迷ったら白犬が出てきて道案内をして神坂峠を越えて美濃へ出ることが出来たという逸話と、焼津での火難の逸話とが合成されたような伝承で、これも後世の創作の可能性が高く、もともとは山岳信仰の地であった場所にヤマトタケルがやって来たのでしょう。
三峰と長瀞の間にある秩父市の中心部には秩父神社があり、ここも元来は秩父市中心部の南にある武甲山に対する山岳信仰の神社でした。どうして信濃を目指しているはずのヤマトタケルがこうした武蔵国の荒川上流域の山岳地帯で山岳信仰の聖山ばかり巡っているのか不可解に思われるかもしれませんが、これは「国境」という固定観念を捨てて見てみれば、別に全然不可解なことではないのです。

つまり、「甲斐国」「武蔵国」などという区別は、後世の我々や日本書紀作者が勝手に引いた線分けなのであって、4世紀初頭の当時においては厳密な地図があるわけではなく山中の国境の線など曖昧なものであり、里に下りて多くの住民と接触するわけでもなく山中を巡っているのみの場合は自分がどこの国にいるのかなどということは大した意味など無いのです。ましてや、この4世紀初頭においては「甲斐国(峡の国)」という概念は存在していたかもしれませんが、おそらくまだ「毛野国」や「武蔵国」というような大和王権から見た概念自体が成立しておらず、関東については南関東の海沿いのポイントが認識されていただけであったことでしょう。
8世紀の人間である日本書紀の作者の意識は「武蔵国」や「上野国」という概念を当然のこととしていますから、ヤマトタケルの足跡を辿る際にそれらの国名をいちいち挙げていきます。それを読んでいると、ついついヤマトタケルがそれらの国に何か用があって出かけていったかのような錯覚に陥るのですが、実際は4世紀初頭のヤマトタケル自身はいちいち自分が今どこの国に居るのかなど意識しておらず、そもそもヤマトタケル自身がこの時に碓氷峠より東の国を一括して「吾妻」と命名するという大雑把さであったのですから、「自分は今、武蔵国の西部の山中にいる」などという精密な地理感覚を持って行動していたわけがないのです。
実際のところはヤマトタケルの意識としては、おそらく「自分は今、もともと居た酒折の北東の山中の奥深くを北へ進んでいっている」というような感じであったことでしょう。つまり、「武蔵国西部」ではなく、あくまで「甲府盆地の周辺の山地」を探索しているという感覚であったのです。そういう「甲斐周辺」の山中の山岳信仰で住民が集まっている地点を訪ねては様々な交渉を行い、祭祀に参加したり神宝を見せたり渡したり、色んなことをやって山の住民と協調して、甲斐国の周辺の山地における大和王権の拠点を増やしていこうとしたのでしょう。そうやって甲斐国から碓氷峠までのルートを開拓しようとしたのでしょう。

雁坂峠から荒川を東へ下って三峯神社のある三峰を通れば、次に秩父神社のある秩父を通り、ここから荒川が北へ向かって流れていき、宝登山神社のある長瀞を通りますが、ここからまた荒川が東へ流れていき、碓氷峠方面から逸れていくので、ここで山道を少し歩くと阿久原で神流川に乗り換えることが出来ます。この神流川を少し下ると神川町に至り、ここには先述の金鑚神社があります。ここでヤマトタケルは神宝の火鑚金を山岳祭祀に奉げたりしているわけです。
秩父山地は実は中央構造線が走っている場所で、宝登山神社のある長瀞などは、中央構造線の南に沿って分布する三波川変成岩の露出する地なのであり、また、おそらく金鑚神社も中央構造線のライン上に存在します。関東平野の鹿島灘、岩槻と延びてきた中央構造線は長瀞や神川を通って上野国の下仁田を通過して碓氷峠の南を抜けて八ヶ岳連峰を北から包み込むようにしてカーブしてから南西へ向かい諏訪湖に至るのです。中央構造線といえば伊勢から紀伊にかけてのラインでは水銀鉱脈が存在し、辰砂が産出しました。それと関連する何らかの特殊事情がこの秩父山地の地にもあったのかもしれません。ヤマトタケルの行動がそうしたこの地の何らかの特殊事情(鉱山?)と関係があるのか無いのか分かりませんが、とにかく何らかの拠点にしようとはしていたのでしょう。
それだけこの地は重要な地で、この神川町から神流川を少し下ると上野国に入って高崎で烏川に注ぐのですが、この烏川を遡って、更に支流の碓氷川を遡ると、念願の碓氷峠に辿り着くのです。
ヤマトタケルはおそらくこのルートを辿って酒折から碓氷峠まで移動したのであり、これは後世に線引きされた令制国の分類で言えば確かに武蔵と上野を経て碓氷峠へ至ったということになるのですが、ヤマトタケルの意識としては甲斐の東の山中を北に行けば碓氷峠に着いたという感じであったでしょう。

ただ、そうはいっても、このヤマトタケルの通った道は「武蔵国」であったこともまた事実であり、単なる山岳信仰の地ではなく、そこにはヤマトタケルよりも昔にやはり甲斐や信濃から進出してきて武蔵国を開拓した出雲系氏族の通過した痕跡も残されていたのです。
例えば秩父神社の祭神にはオオアナムチも含まれているのであり、元来は武甲山の山岳信仰の地に出雲系氏族が荒川の流れに乗ってやって来て、荒川沿いに農村共同体を開拓し、そこで山の神「秩父大神」を祀る里宮を作り、そこに出雲の開拓神のオオアナムチを合祀するという、毛野国の赤城神社や二荒山神社で行われたのと同じパターンが繰り返されているのです。
こうした出雲系氏族は紀元前250年以降、神流川から利根川を下り、そしてまた荒川を下り、こうした武蔵国西部の山岳地帯から更に東へ進出していったのです。少し話がヤマトタケル関連で脱線しましたが、引き続き武蔵国の内陸水路について考察していきたいと思います。
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