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日本史についての雑文その263 氷川神社
武蔵国の北辺の国境線を形成する神流川は金鑚神社を通り過ぎた後、上里町で烏川、そして利根川に合流し、利根川となって東へ流れます。この利根川の南岸が武蔵国の北端部ということになりますが、このあたりは北岸の上野国南端部の伊勢崎や太田などと同じく関東平野の北西端部で水田稲作に適した土地であったので利根川や神流川、烏川などを下って進出してきた出雲系氏族による開拓が行われ、本庄や深谷などは毛野国と一体化して栄えました。
この武蔵国北端を流れる利根川が古代においては羽生市の川俣で南へ折れて江戸湾へ向かって流れる下流部となるのですが、この利根川の下流部が武蔵国の東辺の国境線となります。この利根川の下流が鷲宮町、久喜市、春日部市を通り、越谷市と吉川市の境界付近で江戸湾に注いでいたのですが、この下流部の比較的川上にある鷲宮町の利根川西岸、つまり武蔵国の東端に鷲宮神社があります。

鷲宮神社は関東最古の大社とされ、後には関東鎮護の神社として広く崇敬を集めた重要神社です。「大社」というのは現在では規模の大きい有名な神を祀る神社はみんな大社というようですが、もともとは大社というのは出雲大社や熊野大社のように出雲系のものだけが名乗っていました。つまり鷲宮神社は関東で最古の出雲神祭祀の神社であるということになります。
おそらく宇都宮や日光の二荒山神社や赤城神社、咲前神社などのほうがここより出雲神祭祀の起源は古いのかもしれませんが、これらは元来から出雲神祭祀専用の神社というわけではなく出雲神は合祀されただけです。おそらく出雲神祭祀専用の神社としてはこの鷲宮神社が関東最古なのでしょう。
そういうわけですから鷲宮神社の祭神はオオアナムチで、社伝によれば出雲国造の祖である天穂日命が出雲から武蔵へやって来て、天穂日命のお連れの出雲族と現地族が共同でオオアナムチを祭祀したのが起源であるとされています。天穂日命とは国譲り神話に登場する神で、もともとはアマテラスの子とされていますが出雲に国譲り交渉に派遣されたのに出雲側に寝返ってそのままオオアナムチに仕えた神で、元来は出雲神であったのでしょう。
そのような神話に登場する神が開拓者として登場するわけですから、この地を出雲系氏族が開拓したのは非常に古い時代であるということなのでしょう。おそらくは紀元前250年ぐらいのことだったのでしょう。
また、武蔵国の祭祀の場合、秩父山地の神社以外はこのように出雲神への祭祀が前面に出て、毛野国の諸神社、また信濃の諏訪大社や駿河と甲斐の浅間神社の場合のように縄文的な山岳信仰が前面に出るということが無いというのが特徴となります。まぁ西部以外は山が無いわけですから当たり前といえば当たり前なのですが、河川の下流域の開拓神祭祀の典型的な形だといえるでしょう。
ただ、このような利根川下流域の出雲系開拓神を祭祀する神社がこの鷲宮にあるというのがポイントで、これはつまり、「出雲系氏族もここまでしか開拓出来なかった」ということを表しているとも考えられるのです。おそらくは利根川流域の場合、河川の氾濫や水ハケの関係などで、弥生時代の技術で開拓可能であったのはこの鷲宮あたりまでであり、ここから下流地域は低湿地帯で農耕には不向きで放置されていたのでしょう。後にこの低湿地帯に東から大和王権勢力がやって来て「むさし国」と呆れることになるわけです。

この利根川の下流の西を流れていたのが荒川だったのですが、荒川は先述のように甲斐国からは雁坂峠を越えてその最上流部に乗り換えることが可能で、また甲武信ヶ岳の北で信濃国を流れる千曲川の最上流部が三国峠を越えて乗り換える中津川も三峰の西で荒川に注ぎますので、甲斐や信濃から荒川ルートで出雲系氏族が武蔵国へ進出することも容易であったでしょう。
荒川は武蔵国の北部を流れる河川ですが、甲武信ヶ岳の東麓の水源から三峰、秩父、長瀞などの秩父山地の山岳地を流れてから東に向かい、寄居から関東平野北部に出て熊谷に至ります。現在の荒川は熊谷から南南東に流れて大宮台地の西を通り川越で入間川の合流を受けてから23区の北区で隅田川を分流してから江東区と江戸川区の間で東京湾に注ぎますが、これは江戸時代の治水工事の結果の流路であり、それ以前は熊谷から更に東へ流れて行田市から南南西に流れて、大宮台地の東側の鴻巣や桶川、蓮田、岩槻の低湿地帯を通って、大宮市街地から見沼区、緑区、越谷、吉川のラインまで入り込んできていた江戸湾に注いでいました。ちなみに、この古代における荒川河口部の流路は現在の元荒川ではなく綾瀬川の流路でした。現在の元荒川の流路を流れて越谷で江戸湾に注いでいたのは星川という別の河川でした。

大宮市街地の北東にある大宮公園内に武蔵国一宮の大宮氷川神社がありますが、古代においてはこの大宮氷川神社のすぐ南まで江戸湾が入り込んできており、大宮氷川神社は江戸湾に面していたといってもいいと思います。
社伝によれば1世紀のミマツヒコカエシネの時代に創建されたとされていますが、その祭祀の起源は更に古い時代に遡るでしょう。というのも、この大宮氷川神社の祭神はスサノヲ、イナダヒメ、オオアナムチであり、イナダヒメはスサノヲの妻で、オオアナムチはスサノヲの子孫で、子であるともいわれ、とにかく典型的な出雲神を祭祀する神社であり、古墳時代においては武蔵国造によって厚く崇敬されましたが、武蔵国造は出雲系氏族で、出雲国造と同族とされているのであり、国造というのは律令時代の国司などとは違い、現地の土着の有力豪族が務めるものでしたから、武蔵国では昔から出雲系氏族の勢力が強かったということになります。そういえばこの大宮氷川神社の北東にある鷲宮神社を創建したのは出雲国造の祖であった天穂日命でありましたから、その子孫が武蔵国造となったのかもしれません。
大宮氷川神社の「氷川」はもともとは「簸川」と書き、これは出雲の簸川郡に由来し、大元は出雲を流れる斐伊川に由来します。その斐伊川の河口部の海岸沿いには出雲大社がありオオアナムチが祀られていたわけで、この斐伊川に由来する名の大宮氷川神社が江戸湾沿いにあり、オオアナムチやその父母神であるスサノヲやイナダヒメを祀っているわけですから、これは信濃や甲斐から荒川を下ってきて紀元前250年以降に武蔵国を開拓した出雲系氏族が武蔵国における出雲大社として大宮氷川神社の祭祀を行ったと考えることも出来ます。

また、この大宮氷川神社の南東にある見沼区中川の中山神社はかつては中氷川神社と称し、また更にその南東には緑区三室の氷川女体神社があり、これら3つの神社は江戸湾の海岸線に沿って一直線に並んでいたのであり、氷川女体神社の更に東には荒川の江戸湾に注ぐ河口部があったのでした。
氷川女体神社は3世紀前半のミマキイリヒコ大王の時代に出雲大社からイナダヒメを勧請して創建されたとされますが、もともと大宮氷川神社でスサノヲの神霊を祀り、中氷川(中川)神社でオオアナムチの神霊を祀り、氷川女体神社でイナダヒメの神霊を祀り、元々はこれら3社が一体となって「氷川神社」を形成していたともいわれることからも、これら3社の創建は紀元前250年以降の弥生時代の出雲系氏族の開拓時代にまで遡るものであったと思われます。
つまり、荒川の江戸湾に注ぐ河口部の西の海岸線一帯に広範囲にわたって関東の出雲大社とも呼ぶべき出雲神祭祀のメッカである「氷川神社」の祭祀エリアが広がっていたということになり、まさに「大宮」と呼ぶべきエリアであったということになります。これは、荒川を下りながら開拓地を川下へと拡大してきた出雲系氏族がとうとう江戸湾に到達した記念碑的な意味合いの祭祀場であったのかもしれません。

さて、現在の荒川の南南東へ向かう流れは、江戸時代初期にもともとの荒川の東への流れを堰き止めて、熊谷の南を流れていた入間川の支流の和田吉野川に荒川の流水を導いて、川越と大宮の中間地点で入間川に合流させたものだったのです。つまり現在の荒川の下流部というのはもともとは入間川の下流部だったのです。
入間川は現在の埼玉県の南部を流れる河川で、武蔵国においては北部と南部の間の中央部を流れる河川でした。入間川は秩父の武甲山の南の湧水を源流として東へ流れ、飯能から関東平野の中部に出て、入間、狭山を通り、狭山から北へ向かい川越で武蔵野台地の北に出て低地を流れて南流するようになり、大宮台地の西側の低湿地帯を南東に流れて、富士見市のあたりまで入り込んできていた江戸湾に注いでいました。
氷川神社は大宮氷川神社を総本社として武蔵国の各地に多数存在しますが、最も有名なものが川越氷川神社です。入間市で入間川から分流して入間川の東を並行して流れる河川に赤間川がありますが、赤間川は川越市の中心部を流れた後、もともとは川越城のあった地から東へ向かい伊佐沼に注ぎ、伊佐沼から新河岸川が流れ出て荒川の西に並行して南へ流れて富士見市のあたりで江戸湾に注いでいました。
この入間川の分流の赤間川が川越市中心部を通る際、川越城の北で川越氷川神社のほとりを通過していました。古代においてはもちろん川越城もありませんでしたから、川越はこの川越氷川神社を中心に農村共同体を発展させていったのでしょう。
川越氷川神社の祭神はスサノヲ、イナダヒメ、オオアナムチ、そしてイナダヒメの父母であるアシナヅチとテナヅチという、何れも出雲神話に登場する神々を祀っており、この入間川水系にも出雲系氏族による開拓が及んでいたということを示しており、川越はその中心地であったのでしょう。
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