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日本史についての雑文その264 武蔵野台地
この入間川に川越の北で合流するのが越辺川ですが、この越辺川に坂戸市で注ぐのが高麗川です。越辺川にしても高麗川にしても、秩父山地の東端の湧水を源流として武蔵野台地の北辺の低湿地帯を流れてから入間川に注いでいました。
この高麗川沿いの秩父山地に少しかかった高台部分である日高市の新堀に高麗神社があります。日高市や飯能市のあたりはかつては高麗郡といって、高句麗からの亡命民が開拓した土地であったのです。

大和王権は7世紀半ば以降、それまでの朝鮮半島重視の西向き政策を改めて、それまであまり重視していなかった関東や東北方面への進出を重視する政策にシフトしていくようになり、663年に白村江の戦いで大敗して朝鮮半島での基盤を全く失うとそうした傾向は本格化して、670年には国号をそれまでの「倭国」から「日本」に改めて、それまで大和王権側が蝦夷の支配する異国として「日本(ひのもと)」と呼称してきた関東や東北をも包含した新しい「日本国」として再出発する方向性を示しました。
その方針を実行するためには今まで「むさし国」などと言って開発を敬遠していた武蔵国の開発にも本格的に取り組まなければいけません。しかし、この頃ピークを迎えていた地球寒冷化の影響で江戸湾の海岸線がいくらか後退して、また河川の運んでくる土砂の堆積も増えて、以前よりはいくらか低湿地帯の開発も容易にはなっていましたが、相変わらず開発の困難な地域でした。
そこで新生日本国の朝廷では、この武蔵国をはじめとした関東の未開発地域の開拓に、シナ大陸の最新の灌漑技術を有した朝鮮半島からの亡命民氏族をもって当たらせることにしたのです。

朝鮮半島では唐と新羅が連合して663年に百済を滅ぼし、668年に高句麗が滅ぼされていました。そして百済に加担した日本も朝鮮半島からその勢力を駆逐されてしまいました。これによって朝鮮半島では百済人や高句麗人、倭人は迫害されるようになり、その上、朝鮮半島で今度は唐と新羅が争いを始めたりしたので、多くの亡命民が日本列島へ逃れてきました。
この亡命民には百済人や高句麗人はもちろん、多くの朝鮮半島で生活していた倭人も含まれていたであろうし、半島の混乱に伴った勢力争いに敗れた新羅人も幾らか含まれていたことでしょう。そして百済人にせよ高句麗人にせよ新羅人にせよ倭人にせよ、彼らの多くの実態は食い詰めた被支配階級の土着人ではなく、華僑と縁戚関係を持った支配階級であったと思われます。敗戦や戦乱の中で半島で迫害され追い出されたのは敗亡側におけるそうした支配層であったであろうし、船を仕立てて日本列島へ逃げてくるのはそれなりの地位や実力がある者であるということでした。
そうしたエリート階層であればこそ、シナ大陸の最新の灌漑技術や土木技術にも通じていたであろうと思われ、また、そうした実力は有していながらも彼ら亡命民は、百済系や高句麗系、新羅系はもちろん、半島出身の倭人系も含めて、既存の「倭国」の内部においては全く生活基盤や勢力圏を持っていなかったのです。「倭国」には「倭国」の既存の支配層が存在し、倭国の中の土地も財産も既に占有されており、彼ら新参の亡命氏族には食い込む余地はほとんど無かったのです。
そこで彼らは生きていくために「倭国」以外の新天地を開拓していかなければいけないわけです。幸い、その使命を遂行するだけの技術や実力は持っていました。そしてそうした彼らの状況を日本国の朝廷は理解し、悪く言えば利用し、まぁお互い利害が一致した形で、朝廷は彼ら亡命民に新天地である関東地方の開拓を命じたのです。
つまり、7世紀後半における日本国の東方開拓熱というのは、朝廷の方針という側面もあるのですが、朝鮮半島からの亡命民を大量に受け入れたことによる自然必然の流れであったという側面もあったのです。
この高麗川流域の高麗郡という地も、8世紀初めに高句麗からの亡命民氏族であった高麗若光に朝廷が開拓を命じた土地なのであり、その際に「高麗郡」という地名がつけられたこの地は当時は不毛の原野であったそうです。高麗若光がその地の開拓を始めると関東各地に散らばっていた高句麗系の亡命民から多くが馳せ参じて協力し、見事に開拓は成功し、住民は高麗若光の功績を称えてこの地を流れる川を「高麗川」と名づけ、彼の死後、彼を祀る神社として高麗川沿いに高麗神社が建てられたのです。

ここでポイントは、これは8世紀初めの出来事であり、この地は関東平野の西端にあたるということ、そしてこの高麗郡の開拓開始時には既に高句麗系だけでもかなりの開拓民が関東一円に散らばっていたということです。つまり、新生日本国による関東平野の開拓は7世紀後半から始まっており、それは朝鮮半島からの亡命氏族が中心となって行われ、やはり倭国時代からの流れに則って関東平野の東部から西部へ向けて進められていき、この8世紀初めの関東平野西端の高麗郡の開拓はそうした一連の運動の仕上げ的な位置づけの出来事であり、高麗神社の創建にはそうした記念碑的な意味合いもあったのではないかと思われるのです。
この高麗若光という人物は高句麗の王族であったとも言われており、相当高い地位の人物であったようです。そういう人物であったからこそ、「高麗郡」というように地名まで賜ることが出来ているのであり、他の身分がそれほど高くない亡命民氏族の開拓した土地の場合はそうした栄誉は必ずしも与えられないことも多かったと思われます。また、日本列島で生きていくに際して、わざわざ百済系や高句麗系と名乗るよりも倭人系であるように振舞うほうが得策であると判断した亡命民も多かったと思われ、わざわざ正直に出自を明かしていたのはよほど由緒のしっかりした貴族や王族出身者だけであったのではないかとも推測されます。
そういうわけですから、関東地方一円に高句麗や百済、新羅にちなんだ地名が溢れていないからといって、7世紀後半から8世紀にかけての関東地方の開拓における朝鮮半島系の亡命民の果たした役割を殊更に過小評価する必要は無いと思います。

この高麗郡は現在の日高市や飯能市にあたるのですが、日高市において秩父山地から出てきて東に流れているのが高麗川で、飯能市において秩父山地から出てきて東に流れているのが入間川です。飯能市は現在の埼玉県の南端に位置し、飯能市の南にあるのが現在の東京都の北端となる青梅市です。この青梅において秩父山地から出てきて東に流れているのが多摩川です。つまり秩父山地においては多摩川は入間川の南を流れているということになります。
多摩川は甲斐国北東部の笠取山の南斜面を水源としており、大菩薩嶺の北西で、柳沢峠で笛吹川の支流の重川から乗り換えた柳沢川の合流を受け、更に東へ流れて武蔵国に入った地点で、大菩薩峠で笛吹川の支流の日川から乗り換えた小菅川の合流を受けます。そのまま多摩川は秩父山地の中を東に流れていき、奥多摩を通過して青梅から関東平野に出て武蔵国の南部を流れます。青梅より東に広がる武蔵野台地は多摩川によって形成された青梅を扇頂とした扇状地の上に富士山から降ってきた火山灰土である関東ローム層が乗ったものです。

扇状地というのは扇頂から放射状に広がる高位面においては山地からもたらされた大量の砂礫が分厚く堆積しており、その扇状地を形成した河川の多くの分流が地下深くを流れる伏流水となり、地上に流水があまり見られない状態となるために水田稲作には不適な土地となります。そして扇状地の更に川下の低位面においては堆積する砂礫の分厚さが減るので伏流水が各所の湧水地から地表に出てきて河川となり、水田稲作に適した土地となるのです。
多摩川の形成する扇状地である武蔵野台地においても同じことで、扇頂である青梅から立川あたりまでの高位面は元来は水の確保が困難であるので原野となっており、江戸時代に玉川上水が開削されてから水田稲作が出来るようになったのです。一方、国分寺や国立あたりには多くの湧水地があり、このラインより東の低位面においては水田稲作が行われました。地表に現れている多摩川本流は青梅から福生、昭島、立川というように南東方向に流れていましたが、実際は多摩川は地下では伏流水の形で東方向に多くの分流を出していたのです。
ただ、この広大な武蔵野台地の低位面においても全体的に盛んに水田稲作を行うためには江戸時代などにおける用水路の整備を待つこととなり、古代から特に栄えたのは低位面の中でも多摩川本流が流れる府中市を中心として多摩市、稲城市、調布市のあたりということになりました。多摩川は暴れ川で、現在は東京都と神奈川県の県境を流れて羽田空港の南で東京湾に注ぐ下流部は古代においては洪水被害なども多く、低位面で中流沿いの府中あたりが適度に水田稲作を行うには最も向いている地だったのです。

そういうわけで、古代から府中は武蔵国の中心地であり、国府が置かれていました。徳川家康が江戸に本拠地を構えるまでは武蔵国の中心地は一貫してこの府中の周辺であったのです。武蔵国の一宮も実は大宮氷川神社ではなく、もともとはこの府中にあった小野神社であり、小野神社は高麗神社のようにこの地の開拓氏族の祖神を祀った神社でした。あるいはこの氏族も渡来系(朝鮮半島からの亡命民氏族)であったのかもしれません。
ところがこの小野神社は近くにある大国魂神社のほうに崇敬が集まるようになって衰微していくようになり、かわって三宮であった大宮氷川神社のほうが一宮となったのだそうです。ちなみに二宮はあきる野市にあった二宮神社で、これは国常立尊を祀る神社でした。この二宮も一宮も大和系の神を祀っていたわけで、それを差し置いて一宮になった三宮の大宮氷川神社の祭神は出雲神であったのです。つまり、大和王権や新生日本国による開拓を経た後においても、武蔵国においては基本的には出雲神を信仰する人達が多かったのでしょう。それはつまり、この武蔵国を最初に開拓したのが出雲系氏族であり、そうした出雲系氏族による国作りの期間が長く、その期間に武蔵国の基礎が形成されたということです。

この府中の中心地にあり、一宮の小野神社よりも崇敬を集めたという大国魂神社もまた、出雲系の開拓神を祀る神社でした。この神社の祭神は大国魂大神で、これは大和国の大和神社の祭神であった倭大国魂大神と同一神です。大和神社の倭大国魂大神は3世紀前半のミマキイリヒコ大王の時代に大王家に祟りをなした神で、託宣によって大和神社で祀って鎮めるようになり、八千矛大神や御年大神のような出雲系の神と共に祀られていることや、このオオモノヌシやオオアナムチと酷似したエピソードから、出雲系の神であろうと思われ、おそらくはミマキイリヒコの時代よりも遥か昔から大和地方の出雲族によって祀られていたのでしょう。
それと同じように、この武蔵国の大国魂神社も4世紀初頭のオオタラシヒコ大王の時代に大国魂大神の託宣に従って創建されたといわれ、出雲国造の祖である天穂日命の末裔が武蔵国造となり、この大国魂神社の祭祀を行ったとされることから、この武蔵の大国魂大神も古くからこの地で出雲系氏族によって祭祀されていた出雲系の神であろうと思われ、この大国魂神社においては祭神の大国魂大神はオオクニヌシと同一神と見なされています。オオクニヌシとはオオアナムチの別名です。
また、この大国魂神社の祭礼で有名な「くらやみ祭り」は深夜に府中の町中の灯りを全て消した中で神輿が練り歩くという奇祭ですが、現在は夕方に行われるようになっています。なぜ夕方に行われるようになったのかというと、深夜の暗闇の中で性の開放、つまり夜這い合戦が繰り広げられていたからで、そうした風習を「淫靡である」として明治以降は改めるようになり、深夜の祭礼も戦後になって夕方に行われるようになったのです。
しかし本来はこの性の開放は「歌垣」の性格を帯びたものであったようです。「歌垣」というのは古事記や万葉集などにも記載がある古代日本以来の風習で、特定の日時場所に老若男女が集会して、共同飲食しながら歌を掛け合う行事で、言霊信仰に関係あるようで、後世の歌合わせや連歌の風習の原型となったものですが、同時に性の開放も伴っていたようで、集団成人式の場での歌垣が次第に若い未婚男女が求愛歌を掛け合いながら対になって恋愛関係となるという形となっていきました。
同様の歌垣の風習は東南アジアや南シナにおいて伝わっており、これら地域から日本海ルートで東南アジア系海洋民が日本列島の出雲などに伝えたものであったと思われます。古事記における最も代表的な歌垣神話としては、八千矛神(オオアナムチ)が越の国の女神であるヌナカワヒメ(翡翠の女神)に求婚する際の歌垣があります。
このように元来は歌垣は東南アジア系海洋民の伝えた出雲系氏族の文化であったのであり、この風習が出雲から越に伝わり、信濃や甲斐を経てこの武蔵国の府中にまで、大国魂大神(オオアナムチ)への祭祀と共に伝わったのでしょう。

このように武蔵野台地の低位面である府中あたりにはもともと出雲系氏族の共同体が存在していたのであり、そこに7世紀後半以降、東のほうから新日本国による開拓が及んでくるようになり、大国魂神社の出雲神への祭祀なども温存しつつ、つまり既存の出雲族と協調し共生しながらその開拓は進められたと思われます。
ただ、武蔵野台地の立川以西の高位面に関しては水の確保が難しかったので水田稲作は普及せず原野のままとなっていました。こうした原野は馬の放牧に適しており、7世紀後半以降にこの地へ進出してきた朝鮮半島起源の亡命民、特に高句麗系移民は元来が騎馬戦法が得意な民族であったので、この武蔵野台地の高位面で馬の飼育や訓練を行うようになり、後にここで騎馬戦法の訓練も行われるようになり、この武蔵野台地は坂東武者の発祥の地の1つとなっていくのです。
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