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日本史についての雑文その265 相模国
現在の皇居、つまりかつて江戸城の本丸のあった地から南の江戸湾の海岸線は古代においては芝、高輪、品川あたりを通って、JR大森駅あたりから内陸部に切れ込んでいき、田園調布の南あたりに多摩川の河口が開口し、そこから海岸線は南に向かい、JR鶴見駅あたりで鶴見川の河口が開口し、そこから海岸線は南西に向かいJR横浜駅あたりに至りました。
高尾山の東麓から発して八王子から日野、稲城と、多摩川の南には多摩丘陵が東西に広がり、更に多摩丘陵は多摩、町田、川崎市西部、横浜市西部と南北にも繋がっていき、三浦半島の全域を占める三浦丘陵に繋がっていきます。高尾山の東麓に水源を発する境川とこの多摩丘陵によって武蔵国の南辺の相模国との国境線は形成されます。

鶴見川の水源は町田市の多摩丘陵の中の小山田にあり、鶴見川はそこから町田市や横浜市北部を南東に流れ下り、鶴見で江戸湾に注いでいました。この鶴見川の最上流部から少し北へ歩くと、同じく多摩丘陵から発して北東へ流れて府中の南で多摩川に注ぐ小栗川に乗り換えることが出来ます。
また、この小栗川の最上流部から少し南へ歩くと相原で境川に乗り換えることが出来、鶴見川の水源からも少し南へ歩けば常盤で境川に乗り換えられます。また境川の最上流部から少し南へ歩けば相模川の上流部に乗り換えることも出来ます。
その境川は鶴見川の南に並行して武蔵国と相模国の境界線上を流れた後、大和市で多摩丘陵や国境線の西に出て相模国に入り、真っ直ぐ南下して藤沢で相模湾に注いでいましたが、古代においては江ノ島を西端とした三浦丘陵の西への延長した岩塊と大磯丘陵の岩塊との間は大きな入り江となって相模湾は大きく内陸に入り込んでおり、境川は現在のJR藤沢駅の北ぐらいでその入り江に注ぎ、そして相模川は現在は茅ヶ崎で相模湾に注ぎますが古代においてはより内陸の寒川あたりでその入り江に注いでいました。
このように多摩丘陵の内陸水路によって多摩川、鶴見川、境川、相模川は連絡し合うことが出来たのであり、また、相模国への経路としては、甲府盆地の笛吹川から笹子峠を越えて桂川に乗り換えて大月を経由して相模川を下ってくるか、あるいは桂川をいったん遡って山中湖と篭坂峠を越えて酒匂川を下って小田原へ出るルートもあり、また、駿河国から箱根峠を越えて早川に乗り換えるか、あるいは足柄峠を越えて狩川に乗り換えるかの何れかのルートで小田原に出ることも出来ました。

こうした内陸水路を使って紀元前250年以降に信濃国や甲斐国、駿河国の方面から武蔵国の南端部や相模国に出雲系氏族が進出してくることも可能ではあったと思います。ただ、相模国には北西部のごく一部を除いては標高1000m.以上の落葉広葉樹林帯というものがほとんど無く、縄文時代の人口は毛野国や武蔵国に比べて大して多くなかったと思われ、そうなると必然的に内陸水路を通って交易や開拓にやって来る出雲系氏族も毛野国や武蔵国へ向かう数よりは少なくなったと思われます。
また、この内陸水路自体、多摩丘陵経由の分はともかくとして、笹子峠も箱根峠も足柄峠ともに、いずれとも極めて険阻なルートで、そのような険しく危険なルートを越えてまで辿り着きたいと思わせるだけの魅力が相模国にあったのかは甚だ疑問であり、そんな危険を冒してまでわざわざ人口の少ない相模国を目指すよりは、甲斐国からならば素直に柳沢峠を越えて多摩川に乗るか、あるいはどうせ危険なルートならば雁坂峠を越えて荒川に乗って武蔵国に進出したほうがマシというものでしょう。そういうわけで、内陸水路を通って相模国へ進出してくる出雲系氏族というものはあまり多くなかったと思われます。

東国においては、内陸水路で移動する道を「東山道」といい、海路で移動する道を、日本海側は「北陸道」、太平洋側は「東海道」といいました。例えば近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽は東山道だったのですが、当初は甲斐国も武蔵国も東山道であったようです。つまり、これらの国は内陸水路で行き来する国々ということで、内陸水路で出雲系氏族が進出していた国々であったということです。
一方、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模、安房、上総、下総、常陸は東海道で、これらの国々は内陸水路よりは海路によっての移動が主体となる国々であり、しかも太平洋側ですから、南洋系海洋民の進出がよく見られた地域であったといえます。ただ、日本海航路に比べて太平洋航路がリスクが大きいために、その進出速度は遅く、出雲系氏族が内陸水路で進出してきた地域においては出雲系氏族のほうが主流となる時期が長かった地域もありました。しかし、この相模国においてはそうではなく、出雲系氏族はそれほど多くは進出してきてはおらず、この相模国やその東の江戸湾湾岸地域、房総半島地域、つまり南関東は南洋系海洋民の文化の強い地域のなっていったと思われます。

例えば、これは武蔵国の南部になりますが江戸湾沿岸地域ということでは、鶴見川の河口部にあった鶴見神社があります。この神社の境内の神木の根元からは弥生時代に遡る祭祀遺跡も発見されており、古くから樹木神に関する祭祀の場となっていたと思われ、他にも境内地には多くの神木が茂っていました。
鶴見神社のもともとの名前は杉山神社で、祭神は樹木神の五十猛命で、別名は杉山大明神といい、相殿には天王宮がありスサノヲを祀ります。おそらく、もともとは杉山神社と天王宮という別々の神社があり、それが後に合祀されたのでしょう。天王宮で祀られるスサノヲのほうは多摩川から鶴見川流域へと広がってきた出雲系開拓民が祀ったのでしょうけれど、同じ出雲神でも杉山神社の五十猛命の場合は意味合いが違います。
海辺にあって巨木をご神体とする神社で、出雲系の樹木神である五十猛命を祭神として、別名が杉山大明神というと、伊豆半島に分布していた「来宮神社」の諸神社と共通項が多いことに気付きます。伊豆市や熱海市にある来宮神社の祭神は五十猛命であり、熱海の来宮神社の境内には神木があり樹木信仰があったとされ、別名は来宮大明神といいます。また伊豆半島南部の河津には来宮明神があり祭神は杉鉾別命という樹木神で、これらの来宮神社は本来は樹木信仰を伝えた漂着神を祀るエビス信仰の神社で、その樹木神を後に伊豆半島に進出してきた出雲系氏族が祀り、出雲系の樹木神であった五十猛命に習合させたものだと思われます。
ならば、それらの来宮神社と共通項の多いこの鶴見神社(杉山神社)の場合も元来は樹木神を信仰する漂着民の祖を祀るエビス信仰の神社で、伊豆半島のそうした信仰が相模湾から三浦半島、そして江戸湾の沿岸沿いに伝播してきたものではないかと思われるのです。もともとそうした信仰があった地に弥生時代後期に鶴見川を下って出雲系氏族がやって来て、スサノヲ祭祀を行うと同時に、既存の樹木神に出雲系の樹木神の五十猛命を習合させたのではないでしょうか。
つまり、伊豆半島に存在していた南洋系海洋民の宗教文化が海岸線を伝って江戸湾にまで達していたということになります。そうした痕跡が相模国の南部の相模湾地方にも残されています。

相模湾は相模トラフが通っている海で、トラフとは海溝ですから相模湾の水深は深く、湾内の深い場所の深度は1600m.にも及び、駿河湾に次ぐ深さを誇ります。駿河湾や富山湾もそうでありましたが、深海につながっていることによって多様な水産資源に恵まれることとなり、海洋民にとっては暮らしやすい海域ということになります。
そういうわけで相模湾には海洋民が多く暮らすようになりました。これらの海洋民が何処からやって来たのかというと、黒潮に乗って三宅島などの伊豆諸島北部に辿り着き、そこから島伝いに北上して大島に達し、大島から伊豆半島に渡って海岸線を北上して相模湾に至るか、あるいは大島から直接北上して相模湾に至るかの何れかの経路でやって来たのでしょう。
だから相模湾地方と伊豆半島地方は海洋民文化の点では共通点が多く、相模湾地方の特に西部には来宮神社が分布しています。また「来の宮」、つまり漂着神信仰のバリエーションの1つである下田の白浜海岸の祭神で、もとは三宅島からやって来たという三嶋大明神の正体が「天竺の王子」という伝承がありますが、箱根山のカルデラ内にある芦ノ湖の湖畔にある箱根神社の社伝によれば、「天竺斯羅奈国・波羅奈国の姫君と王子が日本へ来て箱根三所・伊豆二所の両権現となった」との伝承があり、これに照らし合わせれば、三宅島に漂着した天竺の波羅奈国の王子が三嶋大明神となり、同じく天竺の斯羅奈国の姫君が箱根神社の祭神となったということになります。つまり相模国の南西端にある箱根神社もエビス信仰の神社であるということになります。

箱根山はもともと百万年前に伊豆半島が本州に衝突した後に活発になった地底のマグマ活動が原因で今から40万年前から噴火活動が始まり、最初は標高2700m.ほどの成層火山であったのが山体崩壊を起こしてカルデラ化を繰り返し、今から約3000年前の大規模な水蒸気爆発でカルデラ内に大湧谷を生じて、その時生じた土石流で早川の上流部が堰き止められてカルデラ内に芦ノ湖が生じました。
箱根山はこの時以降は大規模な噴火は起こしていませんが、火山活動はずっと継続しており、箱根山は古くから、おそらく縄文時代から霊山として信仰の対象となってきましたが、それは単なる山岳信仰というだけではなく、富士山の浅間大神への信仰と同じような火山神信仰であったと思われます。また、箱根山には極めて多くの温泉が湧いており、そういう意味でも霊場であったと思われます。
ただ、カルデラ内の芦ノ湖の湖畔にある箱根神社に関しては、そういった火山信仰に加えて、小田原に注ぐ早川の水源としての芦ノ湖への信仰という意味合いも強く、赤城神社や日光二荒山神社で見られたような農耕民による山岳信仰の要素もありました。
箱根神社はそういった山岳信仰の神社であったのですが、この箱根の地は海にも近く、すぐ南には来宮神社もある熱海もあり、伊豆半島エリアに近接していましたので、近辺にはもともと南洋系海洋民のエビス信仰が存在し、箱根神社はそうしたエビス信仰も取り込んだのでしょう。

この箱根山から東南へ流れる早川と、足柄峠の南の金時山から東南へ流れる狩川、そして富士山東麓から東南へ流れる酒匂川が足柄平野を流れて小田原で相模湾に注いでいました。この足柄平野はこれらの河川の運んだ土砂によって形成された沖積平野なので、古代においては平野南部の現在の小田原市のあたりは海で、次第に干潟が形成されていったのでしょう。
黒潮に乗ってきた南洋系海洋民はこの足柄平野の干潟地帯で活動しつつ、その根拠地は伊豆半島か、もしくは足柄平野の東の大磯丘陵の海岸線に張り出した岩礁海岸部であったことでしょう。この大磯丘陵の東に相模平野が広がり、ここが相模国の中心地ということになります。
相模平野は相模川と境川によって形成された沖積平野ですから古代においては前述のように海岸線は相当内陸に入り込んでおり、相模川の河口は寒川のあたりにありました。この寒川の相模川河口の付近に相模国一宮の寒川神社がありました。この地は7世紀後半以降は高句麗系渡来人によって開拓された地ですが、この寒川神社の祭祀がそれよりかなり昔から行われていたと思われ、その祭神は寒川大神といわれます。
この相模国の寒川神社だけでは寒川大神の正体はよく分からないのですが、下総国にも寒川神社があり、こちらも海沿いの地で、現在の千葉市の中央区の江戸湾沿いの地にあり、海上安全の神として古くから信仰されています。つまり、寒川大神というのは海の神で、海洋民の祀る神であったのです。

また、この相模平野の東端の岬の先端に浮かんでいる島が江ノ島ですが、ここに江島神社があり、宗像三女神を祀っています。島の西方に奥津宮があり多紀里姫命を祀り、島の中央の中津宮に市寸島姫命を祀り、島の北方の辺津宮に田寸津姫命を祀り、これら三女神を総称して「江島大神」といいます。
また、この江島神社は安芸宮島の厳島神社、琵琶湖の竹生島神社と並んで「日本三大弁天」といわれ、弁財天を祀っていました。これは、弁財天が水神と習合しやすいからで、特に宗像三女神と習合することが多いのです。江島神社は水神を祀る神社であるということになり、海上の島で祀られているわけですから、海神であり航海神の祭祀ということになるでしょう。
おそらく、宗像三女神を祀りながらそれらを別称して「江島大神」と呼称していることから、宗像三女神のほうが海神繋がりで後に大和王権によって習合させられたのであり、もともとは「江島大神」という海神がこの江ノ島で祀られていたのでしょう。そして、それは寒川大神や来宮明神、また箱根神社のエビス信仰や三嶋大明神、鶴見神社の杉山大明神などの祭祀と共通項で括れるような存在であったのではないかと思うのです。

このように、相模湾から江戸湾の鶴見、そして千葉にまで南洋系海洋民の海の神への信仰は広がっていたのですが、こうした南関東の「海の道」、つまり「東海道」に、3世紀に畿内で成立した大和王権の勢力が進出してくるようになったのです。それは尾張、三河、遠江、駿河という順で西から東へ進んできたものですから、駿河国の後はまずは相模国へと進出してきたのでした。駿河国に完全に大和王権の勢力が及ぶのは4世紀後半のことですが、最初のアプローチは3世紀前半のことでしたから、その際に箱根山のことも認識はされたであろうと思われ、箱根山の西までが駿河国で、箱根山の東がまた別の国であるという定義づけはなされたと思われます。そこで箱根山に登ってみて箱根峠(箱根の坂)や足柄峠(足柄の坂)から東のほうを見てみると、平野や丘陵地が広がっていたのであり、その領域を名づけて「坂から見た土地」という意味で「坂見の国」と呼ぶようになり、それが後に「相模国」となったのです。そして相模国の東端は相模湾の東端にある三浦半島と、それに連なる多摩丘陵と内陸部は境川のラインとなり、その向こう側は武蔵国の領域とされたのです。
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