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日本史についての雑文その266 東海道
大和王権の関東地方における目線は、今まで見てきた毛野国や武蔵国では東から西を見て、西へ向かって進出していく目線でした。それがこの相模国においては、その国名の命名法自体が「箱根の坂から東を見る」というように、東を見て東へ進んでいく目線となっています。
これはどういうわけなのかというと、大和王権の関東への進出経路というものが、まず駿河国方面から海路で相模、上総、下総、常陸の南関東の海沿いに海岸線を東へ進出していき、下総国の香取と常陸国の鹿島にまで至り、そこを拠点として反転して、今度はそこから西へ向かい、下野や上野、武蔵などの北関東の内陸部へ進出していったからなのです。


では、なぜ大和王権は南関東の海の道を東へ東へと進んでいったのでしょうか。関東地方に住む出雲系氏族との接触が望みであれば、なにも鹿島まで遠回りせずとも、相模湾から三浦半島を回りこんで江戸湾に入って、そこから利根川や荒川、多摩川などを遡っていけばいいのです。江戸湾経由であろうが、鹿島から古鬼怒湾経由であろうが、どちらにしてもこれらの河川の下流域の湿地帯を通らなければならない以上、条件は同じはずです。条件が同じならば距離は短いほうがいいはずです。海路で鹿島まで行くルートの場合、房総半島の南へ回りこんでいかなくてはいけないので遠回りになるのです。
いや、もし鹿島が目的地であったとしても、房総半島の南を回るルートよりも、江戸湾の東奥にまで進出してから流山の北あたりの低湿地帯の水路を経由して古鬼怒湾に出て、古
鬼怒湾を東へ進んで鹿島へ至るルートのほうが距離は短いのです。しかし大和王権はこのルートは選んでいません。つまり鹿島にただ着けばいいというわけではないのです。低湿地帯で小型船に乗り換えたりすることなく外洋を進む大きな船に乗ったまま鹿島に着くということに意義があったわけです。要するに、鹿島や香取は最終目的地ではなく、そこから大きな船で出かけていく更なる目的地があったということなのです。
それはヤマトタケルの東征ルートにもあるように、陸奥国であったというのもある意味では正解でしょう。鹿島神宮や香取神宮は東北の蝦夷に備えた前進基地であったとも言われますし、ヤマトタケルは常陸を経由した後に船で陸奥国に向かい蝦夷を服属させたといわれています。しかし、鹿島や香取がそのような「進出」や「征服」というような複雑な機能を持つようになったのは後のほうになってからのことであり、当初はもっとシンプルな意味合いの場所だったのではないかと思うのです。

なぜ鹿島や香取のような日本列島の東岸方面、古鬼怒湾内の太平洋への出口付近に拠点を築く必要があったのか。内陸への進出が目的ならばもっと古鬼怒湾の奥のほうに拠点を置けばいいのです。あるいは江戸湾内部に拠点を置けばいいわけです。しかしそうではなく鹿島や香取に拠点を置いたということは、外海に用があるわけです。それも日本列島の南岸ではなく東岸に用があるわけです。
日本列島の南岸には無くて東岸の外海にはあるものとは何かというと、それは「親潮」です。つまり、千島海流のもたらす世界一といわれる豊富な水産資源があるのです。しかも日本列島の東岸の沖合いでは北上する黒潮と南下する親潮がぶつかって混合水域を形成し、冷たい親潮が黒潮の下に潜り込んだ際に親潮に含まれていた豊富なプランクトンが黒潮の層に浮き上がってきて、黒潮に乗ってきたカツオやマグロも大繁殖するのです。
こうした黒潮と親潮の混合水域は鹿島灘から三陸沖までの南北に広い範囲で形成されますから、その豊富な水産資源を求めて海洋民は漁に出るのであり、大和王権としては鹿島や香取のような古鬼怒湾の鹿島灘への出口近くの港を漁業の拠点としたのです。
日本列島の東岸にそのような豊漁の約束された漁場があると聞きつけて、駿河国からそこを目指すとしたならば、大きな外洋船でそのまま目指すのが当然であり、わざわざ江戸湾に入っていって小船に乗り換えていくはずがないのです。そういうわけで大和王権は駿河、相模から浦賀水道を横切って上総国へ渡り、邪魔な房総半島の南を回りこんで日本列島の東岸に出て、そのまま九十九里浜を北上して鹿島灘へ進出したのです。

先ほど、鹿島や香取から更にその先の目的地があると言いましたが、それは鹿島灘から三陸沖の漁場であったわけです。しかし先ほどはそれが陸奥国であるというのもある意味では正解であるとも言いました。それはどういう意味かといいますと、これらの漁場で魚を大量に獲ったとしても、それらを全部自分たちで食べるわけにもいかず、また現在のように冷凍技術があるわけではないので畿内などの遠方に運ぶわけにもいかないので、それらの漁獲物を元手に漁場の近くで交易をしなければならず、その交易相手として例えば陸奥国の住民は重要な顧客であったということなのです。
いや、大和王権にとってはそうした交易相手は陸奥国だけではなく、例えば鹿島灘エリアで獲れた魚は鹿島から古鬼怒湾の奥に入っていき毛野川を遡って小山や宇都宮の出雲系氏族の共同体、あるいは低湿地帯を経て江戸湾に入り太日川や利根川、荒川などを遡って上野や武蔵の出雲系氏族の共同体との交易品目とされたのでしょう。そして常磐沖や三陸沖の漁場で獲れた魚は陸奥国の住民との交易品目となったのでしょう。
大和王権はそのようにして「ひのもと」と呼んだ東のほうの蝦夷の国々と交易して、鹿島灘から三陸沖において獲れた海産物と引き換えにそれらの地域の豊富な物産を得て、それを今度は鹿島や香取を物産集積基地として、そこから房総半島の南を回って浦賀水道を西へ向かって横切り、相模湾を西へ進み伊豆半島の南を回って駿河湾、遠州灘へ行く航路を使って畿内方面へ運んだのでした。
このようにして大和王権は豊かさを得ていたのであり、この東国における漁業基地としての鹿島や香取、そして物流海路としての「東海道」の各寄港地や拠点も重要であり、また、東国の交易相手との友好関係も大和王権の存続に関わる重要事であったのでした。

3世紀はじめに成立した大和王権、いやその前身であった紀元前74年に奈良盆地南部で成立したイワレヒコの海人氏政権は、シナ帝国と深い交易関係を築こうとした北九州勢力への反発から生まれた政権であり、そのため最初から西向きではなく東向きの要素が強く、東国に新たな交易関係を開拓していかねばならない宿命を背負っていました。
それでもまだイワレヒコの代には彼自身の本拠地であった東九州の豊の国と一体となった環瀬戸内海経済圏のようなものを構想できたのですが、イワレヒコの死後、紀元前36年に奈良盆地の出雲系勢力が彼らの血を引くイワレヒコの子であるカンヌナカワミミを立てて、豊の国の勢力の後押しを受けたイワレヒコの長子であるタギシミミの勢力を排斥し、豊の国とは袂を分かって奈良のイワレヒコの王国を継いだので、この海人氏政権は必然的に活路を東国に見出すことになったのです。
それで、この紀元前後のあたりから、紀伊や伊勢のほうに居住して奈良盆地の海人氏政権と関係していた南洋系海洋民や出雲系海洋民の中の一部の冒険的な者たちは日本列島南岸伝いに、あるいは黒潮に乗って、東国を目指していったのではないかと思います。彼らは別に後の大和王権のように内陸部の開拓をしようなどという動機があったわけではなく、いかにも海洋民らしく、更なる漁場を求め、そして更なる交易相手を求めていたのだと思われます。

そのようにして少しずつ、東海道方面の海岸沿いに海人氏系の海洋民のコロニーが形成されるようになっていき、それらの一つが鹿島であり香取であったのでしょう。例えば鹿島は中臣氏が開拓した地だとされていますが、この最初に鹿島の地にコロニーを作って漁業に勤しんでいたのが中臣氏の一族であったのかどうかは分かりません。後にこの地に進出した中臣氏がそのように自称しているだけなのかもしれませんし、あるいは本当に中臣氏と関係のある一族であったのかもしれません。
ただ、何にせよ言えることは、鹿島や香取の地には紀元前後あたりから畿内由来の海人氏系の海洋民が漁業を行うための拠点を築いており、その頃から素朴な海神、あるいは漁業神などの祭祀が行われており、それが後に鹿島神宮や香取神宮の祭祀に変わっていったのだということです。
あるいは伊豆半島から相模国のあたりの海岸部に見られた来宮神社やその他の一連のエビス系や海神系の信仰にも彼らは関与していたのかもしれません。これらの地の信仰の起源はおそらくもっと古いものであったのでしょうけれど、彼らも後に紀元前後にその祭祀に加わるようになったか、あるいは彼らはもっと早くからこれらの地に進出して、こうしたエビス信仰を伝えた主体でもあったのかもしれません。
とにかく、そのようにして海人氏系の海洋民が南関東の地にも漁業と交易のためのコロニーを海沿いに点々と築くようになっていき、その後、3世紀になって畿内で海人氏政権が発展して大和王権が成立すると、大和王権の勢力が南関東にも及んでくるようになり、東国での漁業と交易が大和王権を支える重要な産業として位置づけられるようになり、鹿島や香取などの拠点も更に整備されて鹿島神宮や香取神宮の形が整えられました。
大和王権は鹿島神宮や香取神宮を根拠地として漁業を行い、そして関東や東北の蝦夷勢力と友好関係を築いて交易を活発に行いました。鹿島と香取の両神宮が蝦夷に相対する拠点であったというのはそういう意味であり、対蝦夷の外交窓口であったと解釈すればいいでしょう。

こういうわけですから、蝦夷と交易上のトラブルが起きて交易が滞るようなことがあれば大和王権にとっては一大事というわけで、それが現地当局では解決できないほど話がこじれた場合には大和の王権本部から大きな権限を託された然るべき立場の者が外交使節として派遣されてくるのです。それが「ヤマトタケルの東征伝承」の真実ではなかったでしょうか。「蝦夷の反乱」というのは、要するに陸奥国の蝦夷との交易上のトラブルの発生であり、それを収めるためにヤマトタケルが派遣されてきたのでしょう。もちろん多少の武力行使や威嚇は十分に想定の範囲内のことではあったでしょうが、基本的には紛争の収拾と現状回復が任務だったのではないかと思います。
そして、紛争の収拾後、ついでに陸奥国や信濃や越の視察を行ったのでしょう。これらは全て蝦夷の居住地で人口豊富な地ばかりであり、どうやらヤマトタケルは大和王権の後継者として新たな交易相手を模索していたのでしょう。おそらく征服対象とか、そういう大それたことではなかったと思います。基本的に7世紀半ばまでは、関東や東北というのは大和王権にとってはあくまで交易相手であり、征服はおろか、本格的な開拓の対象地ですらなかったと思われます。
大和王権の関東地方へのアプローチはだいたい以上のような感じでありましたので、それをふまえて、更に出雲系氏族の状況なども踏まえて、相模国より更に東のほうの南関東の状況を見ていきたいと思います。
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