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日本史についての雑文その267 総の国
現在の房総半島は古代においては本州からは切り離された島で、「房総島」とでも呼ぶべき存在でした。現在でも千葉県のことを「千葉島」と呼んだりしますが、これは県境が太平洋、江戸湾、利根川、江戸川というふうに全て海や川で構成されているゆえの異名です。古代においてはこの利根川や江戸川の部分が南関東海峡であったわけで、周囲を海に囲まれた名実ともに島であったわけです。
ただ南関東海峡は水深が浅く、特に房総島の北西端部の柏や流山の北の部分は毛野川や太日川、利根川の運んできた土砂が堆積して低湿地帯となり陸地化し、房総島は狭い低湿地帯で本州と繋がった房総半島になりました。

つまり、これによって、相模国の三浦半島の先端から東を眺めた場合、この房総半島が日本列島東岸の漁場に行こうとして東へ進もうとする進路を塞ぐ形となったのです。こうして、この元房総島の部分とその北西に付属する低湿地帯の本州との架橋部分とを総称して「ふさぐ国」という意味で「ふさの国」と呼ぶようになり、後に「総国」という字があてられるようになったのです。
この「総国」が7世紀中頃の律令制施行時期に南北に分割され、北側を「下総国」、南側を「上総国」と呼ぶようになりました。現代的感覚では、房総半島の付け根側にある「下総国」のほうがより中央に近く、房総半島の先端側にあたる「上総国」のほうがより辺境に位置するように見えるのですが、古代の感覚では南関東は海路で移動する地域でしたから、畿内から房総半島に行く場合、まず最初に房総半島先端部の「上総国」の方面に着き、そこから海岸線沿いに北上して「下総国」の方面に至るのであるから、畿内に近いのは「上総国」となり、これで間違いないわけです。

更に8世紀前半には、この「上総国」から房総半島南部を東西に走る房総丘陵よりも南の半島南端部の、もともと安房と呼ばれていた地域が「安房国」として分割されました。この安房地方は阿波国からやって来た人達が居住していた地域なので、もとは「阿波」という地で、後に「安房」という漢字をあてたのだとされます。また、この安房地方には「勝浦」や「白浜」など、紀伊国と共通した地名も見られ、阿波や紀伊などから黒潮に乗ってこの房総半島南端の安房地方へやって来た人達がいたようです。
黒潮に乗って遠江や駿河の沖合いを通過した場合、三宅島などの伊豆諸島北部に辿り着き、そこから島伝いに北上してくれば大島に至りますが、この大島から西に向かえば伊豆半島の下田の白浜海岸に着きます。ここにも紀伊国と共通した地名があるわけです。この下田の白浜海岸にはエビス信仰の三嶋神社がありました。そして、大島から北東方向に向かえば、下田に行くのとほぼ同じ距離で房総半島南端部の安房地方の「白浜」に着くのです。そしてこの白浜地区の西端の地の海に面した地に、大島に向かい合うように安房国一宮の安房神社が建っているのです。おそらく、ここが黒潮に乗って大島経由で房総半島へやって来た人達の上陸地点だったのでしょう。
安房神社の祭神はフトダマで、これは忌部氏の祖神です。平安時代初期に忌部氏の一族であった斎部広成が書いた神道資料である「古語拾遺」によれば、イワレヒコが奈良盆地に政権を立てた紀元前74年に忌部氏の天富命がイワレヒコの命令を受けて阿波国を開拓して、さらに阿波忌部氏の一部を率いて房総半島の南端に上陸して、そこを安房と名づけて、忌部氏の祖神であるフトダマを祀る社を創建し、それが安房神社の起こりであるとのことです。
神武紀元元年というのは切りが良すぎで、この史料の全てを鵜呑みするわけにはいきません。おそらく南関東に忌部氏や中臣氏、毛野氏などがまとまった形で進出し始めるのは実際は3世紀に大和王権が成立してからのことでしょう。かといってそれ以前は関東地方に西国起源の海洋民が全く進出していなかったかというと、そういうわけでもなく、紀元前後、あるいはもっと古くから、阿波国や紀伊国などで活動していた海洋民が黒潮に乗って、あるいは沿岸伝いに房総半島南端部にもやって来ており、そこを「安房」と呼んで、何らかの海洋民的な祭祀を行っていた可能性は大いにあります。あるいはそれらと一緒に忌部氏の一族もやって来ていたのかもしれませんが、安房の地でフトダマを祀るようになったのはおそらく3世紀以降に忌部氏が本格的にやって来るようになってからでしょう。

どうして3世紀に大和王権が南関東へ勢力を伸ばすようになってきた際に忌部氏もやって来ていたのかですが、やはり共同体があるところには政治があり、政治といえば「政(まつりごと)」で、この時代は政治と祭祀は一体となっていて、祭祀に関連する技術者氏族であった忌部氏は何処であれ必要だったのでしょう。
あとはやはり現実的には一種の褒章であったのでしょう。この安房地方への大和王権の勢力の進出に武力行使が伴ったということではなかったようですから武功というわけではなかったのでしょうが、それならば何らかの外交交渉や宗教的な祭祀の統合など、つまり利得や価値観の何らかのヘゲモニーの確立というものはあったと思うのです。そうしたヘゲモニーの確立の中には、他の場所においては武力によるヘゲモニーの確立がなされた場合もあるでしょう。
そうした一定地域における大和王権のヘゲモニーの確立において何らかの手柄が認められた氏族はその地域と大和王権の関係における何らかの利権を保証されるということはあったでしょう。例えば麻のよく育つ土地において、その地で採れる麻の畿内の大和王権直営の市場における販売権を独占的に与えられた氏族の場合は、その土地を開墾してせっせと麻を植えるでしょうし、鯵のよく採れる海岸地域においてその地で採れた鯵の干物の畿内での販売権を独占的に与えられればせっせと船を作り漁港を増やしていくでしょう。
忌部氏などは祭祀に関わる氏族でしたから、戦場での武功というよりは祭祀におけるヘゲモニーの拡大など、つまり比較的に平和的浸透において功が多かったのではないかと思います。阿波国や安房地方においてもそれらの地におけるそうした働きが大和王権に評価されて、これらの地で何らかの特権や利権を与えられて、それゆえ一生懸命に開拓をしたのではないでしょうか。

後に戦国時代に基礎が形成され江戸時代に制度化された「武士道」という価値体系が登場するまでは、少数の例外や観念的価値観の世界を除いては、日本列島における権力機関を維持する求心力というものは純粋にこうした利権体系であったのです。半独立的な氏族がより大きな権力の行う事業に参加し、それへの協力の見返りに事業達成の後に発生する利権の分け前に与るというシステムです。その事業が戦争である場合は、自弁で武器を持って参戦し、陣借りをして戦い、敵将の首を取ったり勇猛に戦ったりして功名を上げて、勝ち戦の後は例えば領地であるとか特産物の専売権などを保証してもらうということになります。
つまり日本列島における戦国時代までの軍隊というものは、基本的には利得を求めて寄せ集まった自弁の氏族連合軍ということになります。こういう軍隊というのは統率が難しく、特に勝利による大きな利権獲得の望みが低い場合などは手っ取り早く最低限の元手を取るために略奪などを引き起こします。また、勝ち戦の場合は軍団としての統一した行動よりも個人的な手柄を優先して軍事行動の効率を低下させることが多く、負け戦となると我先に逃げ出したり裏切ったりします。こうした日本の武士団における構造的欠陥を克服していった者達が戦国時代には勢力を広げることに成功し、その最大の成功者が信長・秀吉・家康らの三傑なのです。
この「自弁の氏族連合軍」という、言わば寄せ集め所帯という形は、軍隊だけに限らず日本列島における権力機関そのものの基本形でもありました。7世紀における律令制の導入はそうした形を乗り越えようとした改革だったのですが、結局は根本的にはそれは変わることはなかったのです。
大和王権という権力機関も、基本的にはそうした「自弁の氏族による連合政権」というものであり、各氏族は利権や利得を求めて王権の事業に参加しているのであり、それは忌部氏でも中臣氏でも物部氏でも同じことであったのです。いや、大王家だって基本的にはそうしたスタンスであったでしょう。各地方の土着の出雲系氏族だって、大和王権に参加する見返りに、自らの支配する地域における物産を大和王権と取引する権利を保証されるわけです。それがあるから大和王権に参加するのであって、別に大和王権に屈服したから従っているというわけではないのです。
こうして利得絡みで「ゆるやかな連合」である大和王権は拡大していったわけで、そうした寄せ集め所帯に統一性を持たせるために重要であったのが祭祀の共有であったわけですが、各地方や各氏族の祭祀を温存しつつ統合していく神道の手法は「ゆるやかな連合」を維持していくには最適の方法でした。
しかし、この神道形式の祭祀統合という手法は、大和王権の成長に伴って確立されたもので、いわば成長時代に見合った制度であったのです。4世紀半ば以降、この利得絡みの連合形式を朝鮮半島南部にまで拡大していき、北方の高句麗にその進出を阻まれた後、成長が頭打ちになると、次第に王権内部でその欠陥が表面化してきて、朝鮮半島政策を巡って仲間割れを起こすようになってきました。そのように求心力を喪失しつつあった大和王権においてより強い王権の求心力が求められるようになり、そうした「強い王権」を支える価値観として着目されたのが6世紀に伝わった新来の仏教であったというわけです。

そこらへんの詳細はまた後で触れるとして、とにかく安房地方の忌部氏の活動というのも、ゆるやかな氏族連合である大和王権において忌部氏が保証された何らかの半独立的な利権に関わるものであったと思われ、記紀や社伝にあるような大王の命令に従って開拓したなどという忠臣的な行動というのは後世における潤色表現と見なして差し引いて読むべきでありましょう。
そうして安房地方に進出してきた忌部氏は房総半島の南端の地にもともと存在した海神信仰あるいはエビス信仰の祭祀場所に自分たちの祖神への祭祀を習合させて安房神社という形にしたのだと思われます。そしてその元の土着的祭祀がいつしか廃れて忌部氏の祖神祭祀だけが後世に残ったのです。
この場合は、もともと畿内地方に勢力を持った氏族が自らの祖神祭祀を持って関東へやって来たパターンであるのでこのような経過を辿ることになったのです。また、こういうパターンの場合に全てがこういう経過を辿るとも限りません。土着祭祀のほうが残る場合もありますし、両方残る場合もあれば、両方消える場合もあります。
ただ、安房地方における忌部氏のような場合はこのような経過を辿ったパターンであったということで、また、それとは違って、もともと現地に土着していた氏族が大和王権のシステムに参加する場合、戦国時代風に言えば、いわゆる「本領安堵」のパターンの場合はまたこれとは違った形態の祭祀の変遷を辿ることになります。実際、このパターンのバリエーションの神社が全国で最も多いのではないかと思います。

それは例えば上総国一宮の玉前神社(たまさきじんじゃ)のような場合のことだといえます。玉前神社は房総半島の東岸、つまり太平洋岸で九十九里浜の南端の地にあります。九十九里浜は房総半島から太平洋に注ぐ夷隅川、一宮川、南白亀川、真亀川、木戸川、栗山川、新川などの短い河川が河口から放出した砂礫が太平洋の波で海岸線に戻されて堆積して形成された砂浜海岸ですから、古代においては現在よりも海岸線は内陸寄りであったと思われ、玉前神社の地は古代においては海岸沿いであったと思われます。
九十九里浜の北端には犬吠埼があり、その北岸に鹿島灘を北に見る位置に銚子漁港があり、ここは現在でも年間水揚量日本一を誇る日本屈指の漁港で、古代から多くの魚が獲れたと推測されます。そしてその北には古鬼怒湾の鹿島灘への開口部が広がり、銚子と向かい合って開口部を挟む位置に鹿島があり、また銚子から西に向かい古鬼怒湾に入っていくと香取に至ります。
そういった南関東における大和王権の本拠地といえるエリアと房総半島南端の安房地方との中間点がこの玉前神社の地であったのです。それゆえ、この地はそれらの間の中継地として大和王権勢力が進出し、現地勢力に協力を要請するというアプローチをしたと思われるのです。そして現地勢力はそれを受け入れ、大和王権との間に何らかの取引関係を結んだのだと思われます。

そこで玉前神社なのですが、この神社の祭神は玉埼神(たまさきのかみ)といいまして、その正体はウガヤフキアエズであるとも言われています。またウガヤフキアエズの妻であり海神の娘とされるタマヨリヒメも合祀されています。
これは、おそらくは、もともとこの地は砂浜海岸が形成される以前の古代においては「玉埼(たまさき)」という名の岬であり、そこで現地民が祀っていた海神、あるいはエビス神の名が「玉埼神」であったのでしょう。現地氏族が大和王権に参加するようになっても玉埼神への祭祀はそのまま残り、更にそれに加えて、この地に交易のために大和王権の人間も住むようになり、そうなると彼らも玉埼神への祭祀を行いつつ、彼らの信じる神も祀らねばならないのです。おそらく彼らは海を行く人達であったので海人氏系の海神を信仰していたのでしょう。
そこで、現地の人達が玉埼神を祀る玉前神社において、大和王権の人が信仰する海人氏系の海神、すなわちウガヤフキアエズやタマヨリヒメも合祀するようになったのです。そうすれば現地駐在の大和王権の人ももともとの自分たちの海神への祭祀を行うことが出来ますし、現地の人との祭祀の共有も進み、現地の首長霊を祀る正統性を大和王権の大王が継承するようにもなり、関係もより円滑化します。このようにして同じ場所で祭祀していくうちに、いつしか玉埼神とウガヤフキアエズが同一神であるかのように見なされていくようになったのです。

このような形の土着神と大和系の神との祭祀共有型の神社というのは、例えば六甲山地の東端にあった廣田神社で見られた、土着のエビス神とアマテラスとの習合などと同じことであり、これが海神でなく山神で見られることも多く、例えば富士山本宮浅間大社や三嶋大社などもそうでありました。
例えば浅間大社のように土着神に対するもともとの信仰がよほど強固なものである場合は土着神(浅間大神)と大和系の神(コノハナサクヤヒメ)の両方の名前が祭神として残りますが、土着神に対する信仰がさほど強くなかった場合などは、いつしか土着神の名が消えて大和系の神の名(例えばアマテラスやニニギなど)や、あるいは大和王権の人々が信仰した出雲神(例えばオオモノヌシやスサノヲなど)の名だけが残ったりします。この文章で今まで取り上げたような神社はもともと篤く信仰されているような神社が多いのでむしろ前者のタイプが多く、全国において多数派であるのはほとんど無名な村の小さな祠のような神社で、そういうところの祭神はアマテラスであったりスサノヲであったりします。これは大部分がこの後者のパターンなのです。そのように考えれば、こうしたタイプの祭祀共有型の神社は全国で最も多いのではないかと思われます。
また、主祭神の名前に大和系の神の名が無いような極めて強固な土着神信仰、あるいは出雲神信仰の神社の場合においても、境内の相殿や摂社、末社の祭神をよく見てみると殆どの場合はアマテラスやニニギなどの大和系の神の名が見えます。こういう神社のある土地の場合は大抵は現地氏族が「本領安堵」されているパターンなのですが、それでも交易などのために大和王権の人間もいるわけで、そういう駐在員も大和系の神への祭祀も出来るように一定の配慮はなされているのであり、そういう意味で幾らかの祭祀の共有は全国の大抵の神社では行われていたのです。
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