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日本史についての雑文その268 タケミカヅチ
上総国一宮の玉前神社から九十九里浜沿いに北上していくと犬吠埼に至り、その北岸に銚子漁港があり、今はその西に利根川の河口が存在しますが、古代においては常陸国南部の大部分と下総国の北中部を占めていた古鬼怒湾が鹿島灘に向けて口を開けていました。
古鬼怒湾には那珂川と毛野川が注いでおり、また西の江戸湾ともその間にある低湿地帯の細かな水路で連絡は可能で、その低湿地帯を通って江戸湾に注ぐ太日川、利根川、荒川、そして多摩川などを通って毛野国や武蔵国などの蝦夷の多く居住する土地と行き来することが出来ました。

鹿島灘やその北に延びる常磐沖、三陸沖は世界有数の漁場で、大和王権はこの地の漁業資源確保のために進出し、例えば鹿島灘方面の漁場への出航基地としては古鬼怒湾の開口部の南東にあった銚子漁港があり、そこに水揚された海産物は外洋へ出て行った漁船で波の穏やかな古鬼怒湾内に運び込まれて物資集積場で小船に積み替えられて、更に湾内を進み河川を遡って奥地の蝦夷の共同体との交易品とされたのです。特に毛野国方面との交易は重視され、それを主に担ったのが3世紀前半のミマキイリヒコ大王の長子であったトヨキイリヒコを祖とした毛野氏だったのです。
また、そうした内陸部との交易によって得た物産を今度は畿内方面へ海路で送る場合には、小船から外洋用の大型船に積み替えて東海道航路の起点となるのも、この同じ物資集積場でした。この東海道航路が玉前神社のある玉埼、安房神社のある房総半島南端部、そして三浦半島から相模湾、伊豆半島へと繋がっていくのです。
そうなると、この物資集積場が大和王権にとっては重要拠点となるわけですが、古鬼怒湾はもともと水深が浅く、特に内奥部のほうに行けば行くほど浅くなって大きな船は入れなくなっていきますから、物資集積場は自然と湾の東のほうの開口部近くの地ということになります。
銚子漁港の位置は直接に鹿島灘の荒波に接する地でしたから、ここから波の穏やかになる古鬼怒湾内に向けて行かねばなりません。もともとは古鬼怒湾は鹿島灘に大きく開口した湾で、その開口部は大洗から銚子の間という広大なものでしたが、那珂川や毛野川が鹿島灘に放出した砂礫が波に運ばれて大洗から鹿島までの湾の外縁部に堆積して弓状の砂浜海岸を作り、鹿島と東庄の間の狭い海峡が古鬼怒湾の開口部となっていました。
その開口部から少し湾内に入った南岸に香取があり、北岸に鹿島があったのであり、この古鬼怒湾の開口部を南北から扼する地である香取と鹿島が大和王権の物資集積場となり関東における重要拠点となったのです。重要拠点であるので、ここは玉前神社のような現地氏族の「本領安堵」のパターンではなく、大和王権から直接派遣されたスタッフによる直轄地となりました。そのスタッフというのが忌部氏と並ぶ祭祀関連の重要氏族であった中臣氏であり、これらの地で彼らが祭祀を執り行った神社が下総国一宮の香取神宮と、常陸国一宮の鹿島神宮でした。

現在は「?神宮」と名乗る神社は沢山ありますが、江戸時代以前は神宮といえば伊勢神宮と、この香取神宮と鹿島神宮、合わせて3つの神社のみが神宮と呼ばれていました。皇祖神を祀る(まぁ実際は違うのですが)伊勢神宮は別格としても、現在でも香取神宮と鹿島神宮に対する皇室の崇敬は格別のもので、毎年元旦の早朝に天皇陛下は東方を向いてこの両神宮に御拝なさいます。
「神宮」というのは「宮」という王の住居を表す言葉が入っていることからも、大王や王権の成り立ちと深い関係にある特別の神社のことなのでしょう。大和王権を成り立たせていたものは東国との繋がりであり、それは初期においては東海地方との繋がりであったので、東海進出の拠点であった伊勢神宮は特別に重要な神社であったのであり、おそらくは最初は伊勢神宮のみが「神宮」であったのでしょう。
それが7世紀半ばになって大和王権が関東や東北も含めた「日本」という統一権力へ脱皮しようとする際に、関東や東北への進出の拠点となったのが香取と鹿島であったので、この地にあった両神宮が伊勢神宮に並んで「神宮」と呼ばれるようになったのでしょう。ですから、7世紀前半以前の香取神宮や鹿島神宮は現在のような国家鎮護の神社ではなく、もっと違った意味合いのものであったと思われます。ただ、古くから重要拠点であったのも確かで、それだからこそ7世紀半ばに特別扱いされることにもなったのだといえます。

香取神宮の祭神は経津主大神で、別名を伊波比主命といいます。別名などといっても実際はこれらは全く別の神で、要するにこの2つの神の祭祀を同時に行っていたのです。経津主大神は大和の石上神宮で物部氏が祀っていた刀剣の神と同じ神で、伊波比主命は波の神、海の神で海上交通の神にも通じるものでしょう。おそらくは最初は海の神を祀っていた場所に、後で大和からやって来た人達が経津主大神を合祀したのでしょう。
一方、鹿島神宮の祭神はタケミカヅチですが、これは非常に多様な神格を持った神で、基本的には雷神で、同時に武器の神、刀剣の神、武神、軍神ともされますが、元来は鹿島の土着神で海上交通の神であったともいわれています。また鹿島神宮の神は地震の守り神ともされており、境内には地震を抑える要石もあり、何らかの巨石信仰にも関わりがあるようです。また、鹿島神宮の神の使いは鹿、特に白鹿であるとされており、鹿島神宮には鹿園があり鹿が飼われています。これがタケミカヅチと共に中臣氏によって奈良の春日大社に勧請されて引き継がれたので若草山には鹿が飼われているのです。
また、タケミカヅチの別名としては「鹿島神」というものがあり、これが鹿島のもともとの土着神の名で、タケミカヅチとは別の神ではないかとも思われます。そして、タケミカヅチの別名としては他に「タケフツカミ」「トヨフツカミ」というのもあり、これは香取神宮の祭神の経津主大神と同じ神を指すと思われます。
つまり、鹿島神宮の祭神のタケミカヅチと香取神宮の祭神の経津主大神は同一神であるということなのです。確かにこの2つの神ともに刀剣の神であり武神であるという属性は共通しています。しかし経津主大神はもともとは畿内で物部氏が祀っていた神ですからこの2神が同一神ということはなく、これは単に混同が生じていると見たほうがいいでしょう。

日本書紀の国譲り神話においてタケミカヅチは登場します。オオアナムチに国譲りを迫るために高天原から葦原中国(日本列島)に派遣される神なのですが、最初は神々はフツヌシを推薦したのですが、そこにタケミカヅチが「フツヌシだけが勇士で、私は勇士ではないというのか」と怒って割り込んだので結局この2神を一緒に派遣することにしたのです。日本書紀においてはタケミカヅチあるいはフツヌシの単独の行動というものは無く、常に「二神は」「二神に」などと、2つの神はまるで1つの神であるかのように扱われています。
一方、古事記のこの部分はフツヌシは登場せず、替わりにアメノトリフネという神が出てきますがほとんど活躍せず、タケミカヅチが主体となった描写となっています。
推測ですが、この神話の原型においては高天原から葦原中国に派遣されたのはフツヌシのみで、ここに描かれている2神の行動の主語は全部フツヌシであったのではないかと思います。日本書紀編纂の中心時期は持等天皇期ですが、その時期に政治の実権を握った藤原氏の祖は中臣氏で、その信仰する武神であるタケミカヅチを活躍させるためにこの部分にタケミカヅチを割り込ませたのではないでしょうか。
また、記紀のイワレヒコの東征伝承の中でもタケミカヅチは登場して、苦戦するイワレヒコを助けるために自分の分身である剣の「フツノミタマ」あるいは「サドフツノカミ」を高天原から地上の高倉下という者の持つ倉に落としたとされていますが、これも剣の名前からして、この部分のもともとの主語はフツヌシであった可能性が極めて高いといえるでしょう。
古事記のほうは、原古事記のテキストが出来た天武天皇期は藤原氏は没落しており、原古事記においてはこの部分はフツヌシが主体の描写であったのではないかと思います。それを基にして太安万侶が古事記を仕上げた8世紀初頭の時期は藤原氏が台頭していたので、ここでフツヌシを消してタケミカヅチに入れ替えたのではないかと思います。フツヌシをもともと祀っていた物部氏は既に滅びていたので、そういうことも出来たのでしょう。
日本書紀の国譲り神話のほうでそこまで大胆な改竄を行わなかったのは、おそらくあくまで日本書紀は国家の正史であったので、藤原家という私家の都合でそこまで露骨な改竄はやはり遠慮され、せいぜいタケミカヅチをフツヌシと一緒に葦原中国へ派遣する程度に止めたのではないかと思います。まぁイワレヒコ東征伝承のほうは挿話のような扱いだったので割と気軽に改竄できたのかもしれません。
ただ、それでもそこまでの改竄が受け入れられるということは、タケミカヅチにもフツヌシ同様に武神としての性格があり、しかもフツヌシと近しい関係にあるという認識が8世紀初頭の記紀編纂期に日本政府の中で共有されていたということではあると思います。いや、タケミカヅチの武神という性格は、フツヌシと近い関係にあったからこそ、フツヌシの武神という属性がタケミカヅチの属性でもあるかのように混同された結果であり、そうした混同の結果、8世紀初頭にそのような認識が共有されていたのではないかとも思えるのです。

香取神宮と鹿島神宮の間で12年に1度行われる大祭に「式年大祭御船祭」というものがあり、長い歴史の中で細部は色々変わったようですが、基本的には鹿島神宮の祭神のタケミカヅチと香取神宮の祭神のフツヌシが船に乗って水上で出会うというものであり、現在は12年に1度、北浦や利根川の水路などを使って行うのですが、おそらく元来は古鬼怒湾の海上で毎年行われていた例大祭であると思われます。
しかし、元来無関係のはずのタケミカヅチとフツヌシがわざわざ海上で会うというのもおかしな話で、おそらく元来は海上で出会っていたのはタケミカヅチとフツヌシではなく、古くから鹿島と香取で祀られていた海上交通の神同士ではなかったかと思います。それはおそらく玉前神社の玉埼神のように南洋系海洋民によって祀られていた神で、この鹿島と香取の2つの神社の2つの海神で1セットになって古鬼怒湾内の海上交通の守護神であったのでしょう。
そして、そこに3世紀になって大和王権が成立してから、中臣氏が鹿島や香取における交易拠点の管理のために派遣されてやって来て、大和からフツヌシ祭祀を持ち込んで、鹿島と香取の海上交通の神に合祀したのでしょう。タケミカヅチは元来は鹿島の土着の雷神であり、中臣氏が大和から持ち込んだ神ではなかったので、中臣氏が持ち込んだのはフツヌシだけだったはずです。
どうして中臣氏が物部氏の祀っていた神であるフツヌシを祀るようになったのかについてははっきりとは分かりませんが、物部氏が大和王権に加わるようになって以降はフツヌシは大和王権氏族の共通して祭祀する神であったのかもしれませんし、あるいは中臣氏は物部氏と元来何らかの血縁的繋がりがあったのかもしれません。
中臣氏が鹿島と香取にフツヌシ祭祀を持ち込んだ時点では、既に鹿島の土着の雷神であるタケミカヅチは、鹿島の海上交通の神に合祀されていたのではないかと思います。いや、そもそも鹿島にはもともと土着の雷神タケミカヅチへの信仰があり、そこに南洋系海洋民が鹿島と香取にセットで海上交通神の信仰を持ち込んだというのが実際のところではないでしょうか。そして、そこに更に3世紀以降に中臣氏がフツヌシ信仰を合祀したというわけです。

海上交通の神が祀られていただけのことはあり、この鹿島と香取の地には既に海洋民の交易の根拠地が出来上がっており、大和王権としてはそこに進出して対蝦夷交易の根拠地としたのは当然の選択であったといえるでしょう。そしてそこに駐在する中臣氏やその他の大和族のためにフツヌシの祭祀も行うようになったのです。そうしているうちに海上交通の神とフツヌシが同一視されるようになっていったのでしょう。
そしてそれは同時に、鹿島においては元来の土着神であるタケミカヅチとフツヌシも同一視されるということにもなったのです。それで元来は雷神であるタケミカヅチに、フツヌシと同じ刀剣神や武神としての性格が付与されるようになっていったのです。そこで鹿島における中臣氏は、言わば物部氏からの借り物の神であるフツヌシよりも、むしろこのタケミカヅチのほうに自分の氏族としてのアイデンティティーを強く感じるようになってきて、雷神である武神であるタケミカヅチを中臣氏の主祭神や氏神として位置づけるようになったのです。そういうわけで鹿島神宮の主祭神はフツヌシからタケミカヅチに変わったのです。ただ香取神宮のほうにはタケミカヅチ信仰は無かったので祭神はフツヌシのままでした。
このようにタケミカヅチとフツヌシの神格が重なるようになり、そうした混同が7世紀半ば以降に鹿島神宮の地位が上昇したり、中臣氏がこのタケミカヅチ信仰を畿内にも持ち込んだために畿内でも広まり、その結果、8世紀初頭の記紀編纂時に先述したような混同が生じることになったのです。

つまり、そうなるとタケミカヅチの本来の神格はひとまず雷神ということになります。このタケミカヅチの使いとされているのが鹿なのですが、鹿は縄文時代にまで遡る狩猟採集民による山の神への捧げ物でしたが、この鹿島の地はそもそも野生の鹿の多く生息するような山地ではありませんから、鹿島神宮における神使としての鹿は、他の地から伝わった鹿のイメージによって構成された一種の観念上の産物であったと思われます。
それはおそらく雷神の眷属として鹿が最も相応しいと思われたからでしょう。雷神というのは古代においては神の怒りによる自然災害であると同時に、田んぼに落雷することによって稲の生育にエネルギーを与える作用があるとも思われていました。それゆえ「稲妻」というのです。一方、鹿はその毎年生え変わって成長する角が稲の生育と同じ季節サイクルであることから稲作の守護神として扱われ、雷と鹿は稲作を通じて繋がるのです。そして、もっと直接視覚的には、鹿の最大の特徴といえる角の形が稲妻の形に似ているというのもあります。
これで、鹿が雷神タケミカヅチの使いである理由は了解できるのですが、これはまず雷神信仰が存在するということが前提となっており、ではどうして雷神信仰が発生したのかについての回答にはなっていません。雷神の農耕神的な側面も水田稲作が普及してから派生したものであり、元来の雷神はやはり神の怒りの発露であり自然災害の神でしょう。

ここで引っかかってくるのが鹿島神宮の神、つまり「鹿島神」の地震の守り神としての側面です。この茨城県南部地方というのは地震の巣であり、現在でもしょっちゅう群発地震が起きています。そういう地であるから地震が恐れられ、地震災害から守ってくれる神への祭祀がこの鹿島の地に生じたのでしょう。これが鹿島神宮の本来の祭神である「鹿島神」の正体ではないかと思うのです。
現代においては地震や雷などの発生のメカニズムはある程度は解明されていて、まだまだその謎が全て解けたわけではありませんが、少なくとも地震と雷が全く別々の成因で発生するということは認識されています。また現代のような大都市圏のようなライフラインの集中した人口密集地帯の出現は例えば阪神大震災を見るように、大地震による被害のリスクを最大限にまで高めています。
しかし、これらは全て現代ならではの現象であり、古代においては地震は確かに恐ろしい災害ではありましたが、阪神大震災のような破壊的な二次的被害の生じるようなものではなく、突き上げるような地鳴りと振動の後、家が崩れていたり木が倒れていたり山が崩れたりして、それに巻き込まれて人的被害が生じるというようなものでした。
地震というものがこのようなものであるのならば、それは雷のもたらす現象とそれほど大きな違いは無いということになります。雷の特徴は突然の閃光と轟音、その後で木が真っ二つになっていたり家が崩れていたりして人的被害が生じるのであり、雷撃の直撃を受けて死ぬ人もいたでしょうけれど、それはむしろ少数派であったでしょう。また閃光ならば地震の際にもよく観察されますし、なんといっても台風や大雨などと違い「突然襲ってくる自然災害」という点では共通したものがあります。
もちろん、地震と雷は明らかに別々の自然災害であることは古代人も認識はしていたと思いますが、むしろ共通点が多く、しかも当時は発生メカニズムが全く不明で、あまりに突発的で逃れようがなかったので神の仕業であると認識され、雷と地震の差異としては、神の怒りが空を通してやって来るのか地面を通してやって来るのかの違い程度ではなかったかと思います。
ですから、そもそも怒って自然災害を起こす神が共通の存在で、その怒りの顕われる経路が違うだけなのだと考えれば、地震群発地域である鹿島で地震神信仰が生じた後、そこから派生して雷神信仰が生じたとしても、それほど不自然なことではないと思われるのです。つまり、鹿島神宮の地における祭祀のうち最も原初のものは地震神を鎮める祭祀であり、地震神こそが「鹿島神」の正体なのだということになります。

そこで、その地震神を抑えているという鹿島神宮の境内にある要石の存在が引っかかってくるのですが、この要石は地上部分は小さいのですが地中の部分が大きく、地下深くに繋がっていると言い伝えられています。実際、徳川光圀が七日間かけてこの要石の周りを掘ったそうですが石の根元に辿り着くことが出来ず断念したそうです。
もともとはこの要石の下には龍がいると伝えられてきました。そうなるとまるでヨーロッパのレイラインのような一種の龍脈を制御する巨石を使った祭祀を想像させられます。だいたい、そもそもこの地上に出ている部分の小さな要石が実は巨石であるということをどうして古代の人は知っていたのかが問題です。
それを合理的に説明するためには、要石が周囲の土砂に埋まる以前の、その巨大な姿を露出していた時代から人々は要石に注目し祭祀の対象としていたと考えるしかないでしょう。鹿島のあたりは元来は海で、砂礫が堆積して出来た地ですから、その砂礫が堆積する前には要石は古鬼怒湾、いや太古においては南関東海峡の鹿島灘への出口の海上に屹立する岩塊であったと考えられます。その岩塊に対する信仰が太古において存在したのであり、それが鹿島神宮の祭祀の最も原初の発祥であったのではないかと思うのです。
この鹿島の地は中央構造線の東端にあたります。秩父山地から東に向かった中央構造線は岩槻を経て香取と鹿島の間を通って鹿島灘に抜けていきます。つまり、岩槻より東の南関東海峡の東半分というのは中央構造線という大断層線によって形成された窪みなのです。そして鹿島は中央構造線の東端のすぐ北にあり、その地はもともと海でしたが中央構造線の北側の岩塊が幾らか露出しており、その最も東に位置した巨大な岩塊が要石であったのです。
いや、鹿島という地はもともとは香島といったそうですが、それはもともとこの地が砂礫に埋もれる前に海上に「香島」という島が存在したからであろうと思われ、この要石こそが、その「香島」そのものなのではないでしょうか。

実は「中央構造線の北側の露出した海上の岩塊」というもので信仰の対象となったものが今まで述べてきた中に存在し、それは伊勢の夫婦岩なのです。古代の人が中央構造線というものを把握していたということは無いでしょうけれど、同じような特性をもった岩塊がこの鹿島の地でも信仰の対象になったということはあり得ないことでもないと思います。
実際、この地が地震の巣であったのはすぐ南に中央構造線が通っていたからであり、これはまさに要石が押さえていたという龍脈そのものであり、太古の人々というのは不思議なことにこうしたラインを把握していた可能性があり、中央構造線沿いには古くからの祭祀場が散在しているのです。主要な例を挙げれば、阿蘇神社、伊豫豆比古命神社、大麻比古神社、日前宮、伊勢神宮、砥鹿神社、諏訪大社、金鑚神社、大宮氷川神社などです。ならば、そうした龍脈の日本列島における最東端を押さえつける巨大な岩塊に対する祭祀が発生しても不自然ではないとも思います。
そうした太古の、おそらく縄文時代に遡る巨石信仰こそが鹿島神宮の祭祀の原点であり、その巨岩である「香島」が次第に砂に埋もれ頂上部分を残して見えなくなっていくにてれて、それは要石と呼ばれるようになり信仰の対象となり、そこから地震神信仰、雷神信仰などが派生し、この土地そのものが「香島」と呼ばれるようになっていきました。その後、南洋系海洋民によって海上交通神が合祀され、交易によって農耕民の雷神信仰や鹿を霊獣とする信仰も加え、3世紀には大和王権勢力がフツヌシを合祀し、その後、フツヌシ信仰と従来の雷神信仰を合成して雷神であり武神である鹿島神宮の主祭神タケミカヅチが生まれたのです。
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