KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その269 常陸国
この鹿島神宮と香取神宮を鹿島灘に開いた狭い東端の開口部に配した閉鎖海域である古鬼怒湾は常陸国の南部に広がっており、その北端部に那珂川が注ぎ、西端部に毛野川が注いでいました。いや、正確に言えば、古鬼怒湾を挟んでその北が常陸国で、古鬼怒湾およびそれに注ぐ毛野川より南および西が下総国ということになります。
下総国は総国の北半分ということになりますが、古鬼怒湾の西の地域は低湿地帯で水田稲作地としての開拓は困難で、北方の毛野国方面から出雲系氏族が進出することは難しかったと思われます。また仮にこの低湿地帯を通って古鬼怒湾の南にある下総台地や北西にある常陸台地に進出したとしても、これらの台地は武蔵野台地の高位面と同じく古代の技術では水源がなかなか確保できないために水田稲作には向いておらず、開拓は容易ではありませんでした。
それゆえ、下総台地や常陸台地も武蔵野台地高位面と同じく原野となっており、後に馬の飼育場所となり、武士団が生まれることになったのです。この下総や常陸を根拠地としたのが桓武平氏で、そこから平将門が出てくるのです。また平忠常の反乱後にこの地を支配した源頼信の子孫がこの地を拠点として関東一円に勢力を広げ、そこから源義家が出てくることになるのです。そのように後世において武士の発生に深く関わることになる下総台地や常陸台地ですが、この弥生時代や古墳時代においては単なる開拓困難な原野でありました。
それゆえ、これらの地にはもともと出雲系氏族はあまり進出してきていなかったようで、例えば常陸台地の北にある筑波山にある筑波山神社は男体山頂に筑波男大神を祀り、女体山頂に筑波女大神を祀るという典型的な山岳信仰の神社ですが、この神社では筑波男大神はイザナギと同一神とされ、筑波女大神はイザナミと同一神とされています。
これはもちろん同一神であるわけではなく、単に合祀された後に習合しただけのことなのですが、例えば毛野国の赤城神社や二荒山神社の場合はこの習合する人格神がオオアナムチなどのような出雲系の人格神であったのが、この常陸国の南西部では出雲系の神の痕跡は無く、山岳神に習合するのがいきなり大和神となっており、これはつまり大和王権が南から進出してくる以前にこの地に出雲系氏族があまり進出していなかったということを表しているといえましょう。

そして、古鬼怒湾の北岸にあり那珂川の河口が開いていた地が水戸でありました。水戸の名の由来は那珂川の水運の河港であったからであると言われていますが、古代においては水戸に河口があったのでしょう。
この水戸より北には起伏の乏しい平地や台地が広がっており、古鬼怒湾から上陸してそれを見た大和王権の人達はこの水戸より北の地を「一面に平らな土地」という意味で「直地(ひたち)」と呼び、それが「常陸」という国名になったのです。
この平らな土地を南東に向けて流れて水戸で古鬼怒湾に注いでいたのが那珂川ですが、那珂川を遡っていくと下野国の東部に入っていき、那須烏山で那珂川に注ぐ荒川という支流を北西に遡ると塩谷町で毛野川と連絡することが出来、またそのまま那珂川を北に遡っていくと下野国の北東端の那須岳の水源に至りますが、その東にある白河で阿武隈川の最上流部に乗り換えることも出来、阿武隈川は郡山、二本松、福島、伊達を通って岩沼で仙台湾に注ぐのであり、那珂川は北関東や東北地方の山岳地帯と連結しており、その周辺に居住する出雲系氏族も那珂川を通っていくらかはこの常陸国の水戸近辺へも進出してきていたようです。

水戸の東の太平洋岸の磯崎にある酒列磯崎神社と、そこから海岸線沿いに北の大洗海岸の岬の上にある大洗磯前神社は、両社とも太平洋に面した岬に建てられた神社で、2社で1つの祭祀を行う1セットの神社となっています。
この2社の創建は平安時代といわれ、856年に大洗海岸に2つの神の神霊が現れ、自らをオオアナムチとスクナヒコナであると名乗り、「昔、この国を作り終えて東の海へ去ったが、この国を救うために再び戻ってきた」と託宣したので、オオアナムチを大洗磯前神社に祀り、スクナヒコナのほうを酒列磯崎神社に祀ったといわれます。
この856年の頃というのは律令体制が機能しなくなってきて地方政治が乱れ始めた時代で、この常陸国でも大和王権以降の価値観の正統性が揺らいで、それより古い時代の神である出雲神のオオアナムチやスクナヒコナへの信仰心が復活したのかもしれません。
この2神が国を作った後で海へ去っていったというのは、この時代には既に存在していた記紀神話の中のスクナヒコナの逸話を基に創作したものでしょうけれど、現代ならともかく古代においては、元々この2神への信仰の存在しない地でいきなり託宣だけが下っても祭祀が発生するはずもないと思われるので、元々この地にも出雲神への信仰は存在したのでしょう。ただ、それが856年の時点までは大して盛んでなかったのも事実のようですから、この地におけるかつての出雲系氏族の活動もそれほど盛んなものではなかったのでしょう。
むしろ、この2つの神社の海に面した岬の上にあるという立地条件から考えて、この2社の場合は、もともとは海神や航海神、漁業神の祭祀が行われていた地に、平安時代になってリバイバルした出雲神が合祀されたと見たほうが適切かと思われます。
そして、その海神に関する祭祀の起源は、安房神社や玉前神社、鹿島神宮などの祭祀と同じく、鹿島灘や常磐沖の漁場を目指して日本列島東岸を北上していった南洋系海洋民による祭祀であったと思われ、それはそのまま3世紀以降は大和王権による漁業や交易、航海の無事を祈る祭祀へと変遷していったのでしょう。

この水戸以北の平原地帯は、特に那珂川の流域などは南方の下総台地や常陸台地などとは違い水田稲作に非常に適した土地であったので、紀元前250年以降の時代には出雲系氏族も進出して居住してはいたのだと思いますが、この地は落葉広葉樹の生える標高1000m.以上の山岳地帯に乏しいために元々の縄文時代の人口が少なく、出雲系氏族の開拓による共同体は小規模なものに止まったのでしょう。出雲系氏族にとっては開拓も大事でしたが交易も大事で、もっと基礎人口の多い毛野国や武蔵国というような魅力的な選択肢は他に多くあったのであり、あえてこの常陸国にこだわる理由も無かったのでしょう。
そこに3世紀以降にやって来るようになった大和王権勢力は、もともとは漁業基地を作るために関東へやって来たわけですが、現地との交易のために現地駐在員も置かねばならないわけで、それらの駐在員の生活を賄うためにある程度の開拓地はあったほうがいいわけで、太平洋東岸方面は上総や下総あたりはあまりいい土地も無かったのですが、古鬼怒湾の北岸に穀倉地帯と成り得る優良な平原が割と手付かずで存在していたわけで、毛野国などは既に先住の出雲族が占有しているわけですから、大和王権としてはこの常陸国の水戸より北部の平原地帯、特に那珂川流域は重点的に開発する土地となったのです。
こうして、水戸を中心とし那珂川を主要内陸水路とした古鬼怒湾の北に広がる平原地帯、すなわち「直地国(ひたちのくに)」は、3世紀以降の大和王権の関東における本拠地となっていったのです。この地からは南の古鬼怒湾を通じて東は鹿島灘の漁場へ出ることが出来て、そこから南へ行けば総の国の海岸線を通って東海道の航路に繋がり、また古鬼怒湾の西側に注ぐ毛野川を遡っていけば毛野国や武蔵国の蝦夷、つまり出雲系氏族の共同体と交易することも出来ました。交易重視の大和王権の東国政策上、この常陸国は本拠地としては最適であったといえます。

そして、この水戸を中心とした平原地帯である「直地国」の北限は、那珂川が下野国から流れ入ってくる地点あたりであり、それより北側には山地が広がり、その山より北側は蝦夷の住む未知の領域と見なされました。つまり常陸国は大和王権にとっては辺境国であり、最果ての地だったのです。
いや、3世紀の時点ではまず常陸国の開拓が先決で、そのような地理概念すら成立していなかったでしょう。だいたいヤマトタケルの東征の行われた4世紀初めぐらいになれば常陸国の開拓もだいぶ進んでいたでありましょうから、そのあたりの地理概念で考えてみることにします。
まず4世紀初めの時点で大和王権の連合に参加していたのは、まず大王の本拠地である大和国、そして摂津国、河内国(和泉含む)、山背国、木の国、伊勢国(伊賀・志摩含む)、淡路国、阿波国、讃岐国、尾張国と、このあたりまでは大王家やその直臣の直轄地、あるいは初期における同盟国で、いわば江戸時代的に言えば天領と譜代藩というところでしょうか。
そして近江国、播磨国、丹波国(丹後・但馬含む)、吉備国、安芸国、伊予国、土佐国、美濃国、三河国、遠江国は大和王権連合を構成する同盟国で、出雲や防長や九州、駿河(伊豆含む)、甲斐は交易相手であり、相模、総は海岸線のみが大和王権の拠点で、常陸が大和王権の東国の拠点で飛び地のような感じでした。そして、越、飛騨、信濃、毛野、武蔵はあまり詳しくは分からないながらも交易相手としている領域で、常陸よりも北の地域、つまり東北地方も同様で、太平洋岸の一部共同体のみ交易相手としていましたが、まだほとんど未知の領域でした。
まぁ国単位で意思決定をしていたわけではなく、共同体単位での意思決定であったので、これは便宜的表記であって、実際は一国の中でも友好的地域やそうでない地域などがモザイク状に入り組んでいたわけですが、全体の傾向として強いて書けばこうなるということです。

これらのうち、4?6世紀の間には更に駿河、甲斐、防長、九州、出雲、越、飛騨、信濃における多くの共同体も順次、大和王権の連合に参加していくようになったのですが、7世紀初めの時点ではまだ北関東と東北地方、越後地方は大和王権の連合には参加しておらず、蝦夷の支配する領域で、大和王権の連合である「倭国」ではなく、蝦夷の居住地域である「日本(ひのもと)」であり、倭国とは交易相手の関係でありました。
ところが7世紀になってから倭国は朝鮮半島から撤退したことによって東向き政策に転じ、また緩やかな連合形式ではなく中央集権国家を志向するようになり、蝦夷の領域である「日本」をも含んだ日本列島における中央集権型の統一国家「日本国」を志向するようになり、蝦夷の領域へ進出を開始しました。
常陸国でも、それ以前は常陸国の範囲は水戸より北の平原一帯というような限定された領域で、それより北は蝦夷の領域ということにしていたのですが、このような状況変化を受けて、常陸国の領域を更に北方に拡大し、現在の福島県、宮城県南部をも含んだ巨大なエリアとし、そこを重点開発地域としたのです。
そうした新たに設置された常陸国北部地域へ進んでいくためのルートが那珂川でした。古鬼怒湾北岸の水戸から那珂川を遡っていくと白河で阿武隈川に乗り換えて福島県東部の内陸部を貫通して宮城県南部を流れ、仙台の南で仙台湾に注ぎ、また阿武隈川に注ぐ支流の五百川から猪苗代湖に乗り換えて、猪苗代湖から流出する日橋川が阿賀川に合流して福島県西部を流れ、阿賀野川となって越後に入って新潟湾で日本海に注ぎますから、水戸から那珂川を遡って白河を越えれば、新設の常陸国北部地域への進出のための内陸水路は確保することが出来るのです。
また、那珂川以外で北方へ向かうルートとしては、東海村で鹿島灘に注ぐ久慈川ルートがあり、久慈川を北へ遡っていくと袋田の北で現在の福島県エリアに入っていき棚倉で社川に乗り換えますが、これも白河の少し下流の矢吹町で阿武隈川に合流するので、新設の常陸国北部地域を網羅する内陸水路に繋がるのです。
これによって常陸国は東北地方進出のための前進基地となり、那珂川を遡って新生日本国の開拓民や軍団が北へと進んでいき、7世紀半ばには拡大された常陸国のほぼ全域に新生日本国の勢力が及びました。そして7世紀末には更に東北地方の奥地へ進出する前進基地とするために、その常陸国の北部の新設地域を独立させて更に山形県南部を加えて、新たな重点開発地域である「道奥(みちのおく)国」を設置することになったのです。それによって常陸国は元の領域に戻ることになり、東北進出の拠点も、その新設の「道奥国」に移っていくことになるのです。この「道奥(みちのおく)国」が「みちのく」の語源となり、ほどなく「道奥」は「陸奥」と書かれるようになり、平安時代までは「陸奥国」と書いて「みちのく」と読むのが一般的だったといわれます。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。