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日本史についての雑文その270 みちのく
ではここから「みちのく」、つまり東北地方を見ていきます。まず東北地方は非常に広大です。本州全体の3割の面積を占めます。南北に細長く、最南端の白河関から最北端の大間まで630km.あり、東京と大阪の間や、大阪と福岡の間の距離より遥かに長く、横幅だって決して狭くはないので広大な地方なのです。
広大であるということは収容できる人口が多いということで、実際、縄文時代には非常に多くの人口を抱える地域でした。ヴュルム氷期の最盛期に日本列島に渡ってきた新モンゴロイド狩猟民の多くは樺太陸橋を渡って北から日本列島に進入してきたので東北にも多くの人がやって来たのです。その上、東北地方においては縄文時代になってから森林の狩猟採集生活に最も適した落葉広葉樹林帯が広がることになったからです。
これはつまり、東北地方には落葉広葉樹の生育に適した標高1000m.以上の山岳地帯が広く分布していたということでもあります。南北に長い東北地方には、その形に沿って南北に長い山地が3本の系統となって並んでいます。まず東北地方の西部、つまり日本海側には白神山地、出羽山地、越後山脈が南北に連なる出羽山系を形成しています。また、東北地方の中央部には恐山山地、奥羽山脈が南北に連なる奥羽山系を形成し、また、東北地方の東部、すなわち太平洋側には北上山地、阿武隈山地が南北に連なる北上山系が形成されています。
これによって南北に長い東北地方は更に縦に4つの南北に細長いエリアに細分化されます。すなわち、日本海と出羽山系に挟まれた「日本海沿岸エリア」、出羽山系と奥羽山系に挟まれた「奥羽西盆地エリア」、奥羽山系と北上山系に挟まれた「奥羽東盆地エリア」、北上山系と太平洋に挟まれた「太平洋岸エリア」の4つです。

奥羽山系よりも日本海側にある日本海岸エリアと奥羽西盆地エリアは日本海側気候で、暖流の対馬海流が津軽海峡まで達しているために意外と温暖です。特に夏はフェーン現象が多くて晴天が多く気温も上がります。冬は晴れの日は少なく雪がよく降ります。特に奥羽西盆地エリアは豪雪地帯となりますが、冬の寒さや雪は農耕にはそれほど影響は無く、春の雪解け水が豊富で夏が暑いわけですから水田稲作には適しています。
そして日本海岸エリアには海岸沿いに南から庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野という感じに、沿岸平野がほぼ等間隔で存在し、これらにそれぞれ最上川、雄物川、米代川、岩木川という大河が流れています。つまり古代においてはこれらの沿岸平野は海の底であったか、あるいはこれらの大河の運んできた土砂の堆積した干潟地帯であったということになりますが、その干潟地帯の南北には岩礁海岸があるので天然の良港も大抵は付属していました。
出羽山系には隙間が多く、これらの日本海岸エリアの干潟地帯に注ぐ大河はその隙間を通って内陸部へ遡ることが出来ますので、峠などで船を乗り換えることなく内陸部の奥羽西盆地エリアにまで至ることが出来ます。
例えば庄内平野から最上川を遡ると山形盆地と米沢盆地がありますが、山形平野は約600平方km.、米沢盆地は約900平方km.の広さを有し、単体でも奈良盆地や京都盆地、長野盆地や近江盆地よりも遥かに広大です。また、秋田平野から雄物川を遡ると横手盆地があり、横手盆地も約900平方km.の広さがあり、また能代平野から米代川を遡ると大館盆地があり、津軽平野から岩木川を遡ると弘前盆地があります。
また、少し東北地方から外れますが、新潟平野の新潟湾に注ぐ阿賀野川を遡ると会津盆地に至りますが、この会津盆地も上記の一連の奥羽西盆地エリアの南端にあたる盆地です。
このように、日本海岸エリアには、天然の良港と干潟地帯と大河の河口という「海都」としての機能を備えた地域が南北に幾つも並び、そこから内陸水路である大河がそれぞれ穀倉地帯としての「山都」たる盆地が南北に並ぶ奥羽西盆地エリアへと繋がっていたのです。そしてそこには縄文時代以来、多くの人達が暮らしていました。縄文時代末期になって気温が下がったことによってやや人口は減らしましたが、それでもまだまだ膨大な人口を抱える地域ではありました。

そうした「海都」を複数抱えた日本海岸エリアへのアプローチとしては日本海沿岸を南から北へ流れる対馬海流に乗った日本海航路がありました。日本海航路は北九州、出雲、越の方面から東北地方の日本海岸エリアへ至る海路で、敦賀から琵琶湖の水運を利用することによって畿内とも繋がっていました。
西日本から東北地方へ海路で向かう場合、日本列島が弓状に反っているため、太平洋航路よりも日本海航路のほうが断然距離が短く、しかも太平洋に比べれば日本海のほうが遥かに穏やかな海であったので航海の危険もより少なく、西国から東北地方へアプローチする海路としては日本海航路が常に中心となりました。
翡翠を求めて日本海航路に乗って越の国へ進出していた出雲系海洋民は、膨大な人口を抱えた地域である東北地方にもそのまま日本海航路で進出してきたと思われます。最初は日本海岸エリアに着き、そこから内陸水路を遡って奥羽西盆地エリアへも進出していきました。
出雲系海洋民の当初の目的は交易を行うことだったのですが、紀元前250年以降、徐々に再び地球が温暖化し始め、南から順々に日本列島も暖かくなってくると、それまで西日本に普及していた水田稲作が東日本にも次第に普及していくようになりました。そのノウハウを西日本から東日本に広めていったのは出雲系海洋民であり、その経路は日本海航路と、日本海沿岸地域から内陸へ伸びる内陸水路であったということは、ここまで見てきた通りです。
日本列島の気温は紀元前250年以降、紀元前後あたりのピークへ向けて少しずつ上がっていき、それにつれて稲作の北限ラインも北上していき、おそらく紀元前100年ぐらいには東北地方の北部でも水田稲作の受容がなされ、それに並行して出雲系氏族の東北地方への進出や開拓が進んだと思われ、紀元前後には東北地方各地に出雲系氏族と現地土着民との混住した「蝦夷」の共同体が多数形成されていたと思われます。

出雲系氏族は日本海岸エリアの各地から内陸水路を遡って奥羽西盆地エリアの各地に進出していきましたが、奥羽西盆地エリアと奥羽東盆地エリアの間を隔てる奥羽山系も場所によって高低の落差が激しく、各所に隙間もあり、そうした峠の低い部分や隙間を通って割と容易に河川を乗り換えて奥羽西盆地エリアから奥羽東盆地エリアへと進出してくる出雲系氏族も多かったと推測されます。
この奥羽東盆地エリアには、南部には郡山盆地、福島盆地があり、中部には北上盆地があります。特に北上盆地は一ノ関から盛岡まで南北に細長く続く長大な盆地で、約1800平方km.の面積を誇ります。奥羽東盆地エリアは内陸性気候で、冬場の雪は奥羽西盆地エリアほど多くなく、夏はフェーン現象によって暑くもなりますが、北部や中部では曇りの日も多く平均気温は日本海側ほどは高くありませんでしたので、あまり北のほうへ行くと水田稲作には適していなかったようです。
そういうわけで、出雲系氏族は奥羽西盆地エリアから奥羽山系の峠を越えて、南部においては郡山盆地、福島盆地に進出し、そこを南から北へ流れる阿武隈川を下って仙台湾に出て仙台平野へも進出し、また、中部においては出雲系氏族は北上盆地に進出し、おそらく北上盆地における稲作の北限は盛岡あたりであったと思われますが、そこから北上盆地内を南へ向かって延々と流れる北上川を流れ下り、石巻湾に出て、仙台平野に至ったと思われます。

ただ、この奥羽東盆地エリアとその東の太平洋岸エリアの間は内陸水路の連絡が悪く、海路で行こうにも太平洋は波が荒く海流も早いために危険で、太平洋岸エリアへは進出が困難でした。
また、それでも何とか進出したとしても、太平洋岸エリアの西にある北上山系は太平洋に張り出してリアス式海岸を形成している地が多く、太平洋岸エリアには八戸平野と仙台平野、そして福島県の太平洋岸地域ぐらいしか平野といえるものが無く、しかもこの太平洋岸エリアは南部の福島県部分を除いては夏は悪天候で気温が上がらない傾向があるため、あまり水田稲作には向いていないのです。ですから、おそらくこの太平洋岸エリアには、福島県部分を除いては出雲系氏族はあまり進出しなかったと思われます。
このように、紀元前100年頃、遅くとも紀元前後ぐらいには出雲系氏族は東北地方の日本海岸エリア、奥羽西盆地エリア、そして奥羽東盆地エリアの中南部、および仙台平野と福島県東岸地域に進出して現地土着民と混合して蝦夷となり、各地に農村共同体を形成し、また漁業なども行い、盛んに交易を行うようになっていたと思われます。

その頃、奈良盆地では九州の豊の国から本拠地を西に移してきた海人氏の族長であるイワレヒコが紀伊半島に居住する南洋系海洋民の助力を得て、紀元前74年に奈良盆地東南部に王権を打ちたて、環瀬戸内海経済圏を形成しましたが、それを継いで豊の国勢力を排除した2代目のカンヌナカワミミの時代以降、そのシンパの紀伊半島の南洋系海洋民や出雲系海洋民は東国との交易を志向するようになり、太平洋岸を少しずつ進んでくるようになりました。
おそらくこの大和系の海洋民たちは2世紀の初めぐらいまでには関東地方北東岸の鹿島や大洗を経て福島県東岸地域にも出没して寄港地を作ったりするようになり、常磐沖の漁場で海産物を獲って、磐城や相馬あたりの蝦夷共同体にそれらを売って替わりに食料や生活材を得たりするような交易を行うようになっていたと思われます。
そして、2世紀後半から3世紀初頭になると地球は寒冷化局面に転じるようになり、気候変動の影響で凶作となったシナ大陸では黄巾賊が暴れ回るようになり三国志の動乱時代となっていくのですが、日本列島でも気候変動の影響は生じ、特に東北地方は最も強く影響を受けたと思われ、水田稲作の北限ラインが徐々に南下してくるようになり、じわじわと国力が落ちてくるようになったのです。
また、気候変動に伴う混乱の末、畿内地方では3世紀初頭に大和王権が成立し、東海地方への進出を加速させ、日本列島の各地に使者や偵察を派遣したりして交易網の拡大を図りました。そうした一環として、福島県東岸地域における大和系海洋民による海産物の交易も大和王権の交易事業の一環として組み込まれるようになりました。
そうした中で4世紀初頭、シナ大陸では北方遊牧民の五胡がシナ帝国に侵入してシナ帝国が消滅した頃、それとほぼ同緯度の東北地方の蝦夷勢力も困窮しつつあった頃、福島県東岸地域で大和王権と蝦夷勢力の間で交易上のトラブルが起こり、その収拾のために大和からヤマトタケルが派遣されてきて、磐城か相馬あたりで何とか事態は大和王権側に有利な形で収拾したようで、その後、ヤマトタケルは更に船で仙台湾や石巻湾にまで至り、そのあたりにも三陸沖漁場に出るための寄港地を設け、更に北上川を遡って新たな交易相手となる北上盆地の蝦夷の国々も視察してから引き返したのでした。
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