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日本史についての雑文その271 陸奥と出羽
そのヤマトタケルの遠征後、4世紀初頭のシナ帝国消滅後に朝鮮半島に混乱が生じて、半島での既得権確保のために4世紀中頃に西日本勢力が朝鮮半島への進出を開始し、大和王権もそれに乗っかって西方志向を強めたために、その後は大和王権と東北の蝦夷勢力との間は比較的良好な交易関係が維持されたようです。
ところが6世紀後半に大和王権が朝鮮半島での勢力を大きく後退させ、シナ大陸においては6世紀末に隋が成立、7世紀初頭には唐が成立して、シナ帝国が復活して倭国にも大きな圧力となってくるようになると、大和王権は次第に東方志向に回帰するようになりました。

この頃までに既に大和王権は太平洋側は常陸国北部の平野部、日本海側は上越地方までは連合内に取り込んでいましたが、そこから更に北進して勢力拡大に乗り出したのです。その乗り出した時期が7世紀前半から中頃にかけてのことで、丁度、2世紀から継続していた地球寒冷化の流れのクライマックスといえる6世紀から始まった地球気温の急激な低下期、すなわち中世極小期がピークに達した頃で、東北地方の蝦夷共同体が打ちのめされて疲弊していた頃のことでした。
そこで大和王権は7世紀前半に、まず常陸国の範囲を北に拡大して現在の福島県と宮城県南部地域まで含めるようにして、また越国の範囲も北に拡大して中越地方と下越地方も含めるようにして、阿武隈川と阿賀野川の流域まで進出することにしたのです。また同時に常陸国を拠点として北関東方面への進出も開始しました。
その結果、7世紀半ばには阿武隈川と阿賀野川の流域、加えて更に内陸水路を辿って米沢盆地のあたりはほぼ大和王権の勢力範囲に入ることとなったのですが、折りしも660年に朝鮮半島に唐軍が攻め込み、新羅と唐が連合して百済を滅ぼしてしまい、百済の救援要請を受けた大和王権が朝鮮半島に出兵して663年に白村江で大敗を喫して、これにより倭国は完全に朝鮮半島から撤退することとなり、唐や新羅の圧力を受けることとなったのです。
そこで、朝鮮半島からの亡命民も含めた倭国の住民は結束して、新たに日本列島において東国の「ひのもと国」も含めた中央集権体制の統一国家を建国する方針を固め、その国号を「倭国」を改め「日本国」とし、元首の称号を「天皇」としたのです。それが670年のことでした。そこから律令の整備や国史の編纂などの様々な建国事業が本格化していくのですが、東北地方への進出もその建国事業の重要な一環として更に進められることになったのです。

そうした「日本国」の建国を受け、更に672年の壬申の乱の収拾を待って、7世紀末には常陸国の北部の新設地域であった阿武隈川流域や阿賀野川上流域、米沢地方を独立させて「道奥国(みちおくのくに)」として、更に阿武隈川河口から仙台湾に出て、仙台湾に注ぐ河川を南から順番に遡っていってその流域を勢力下に組み込みつつ北上していき、日本国の勢力範囲を少しずつ北へ広げていきました。
一方、日本海側では中越地方や下越地方まで含めた越国を越前国、越中国、越後国に分割し、越後国から更に日本海を北上して下越地方北部の海に迫る山塊の北側に広がる庄内平野へ進出し、8世紀初頭には庄内平野および最上川流域を「道奥国」に組み込み、日本国の支配下としました。
しかし、この庄内平野地方は日本海航路によって越後国との繋がりが強かったので、708年に「出羽郡」と名付けられて越後国に組み込まれました。ちなみに「出羽」とはもともと「出端(いでは)」といい、「越後国の北の山地の端を出たところにある土地」という意味です。「いでは」が「でわ」に訛って「出羽」という字があてられたわけです。
ところが、更に日本海岸エリアを北進するために、712年にはこの出羽郡を越後国から分立して「出羽国」としました。この後、最上川の上流域である山形盆地や米沢盆地の地域も出羽国に加えられましたが、それも出羽国を強化して日本海側の進出を後押しするためであったと思われます。基本的には出羽国は日本海沿岸国であり、海路で進出していく地域という位置づけでした。
一方、「道奥国」は「陸奥国」と字を改め、「みちおくのくに」は「みちのくに」「みちのく」と呼ばれるようになっていき、「みちのくに」が訛って「むつのくに」と読まれるようになっていったようです。
「陸奥国」はその名の通り、内陸路で進出していく地域であり、まずは地道に仙台平野の内陸水路の流域を順々にその支配下に組み込んでいき、8世紀初頭には石巻で仙台湾に注ぐ江合川の流域、大崎のあたりまで進出し、724年には仙台の東に多賀城を築いて陸奥国の本拠地とし、国内の支配を固めていきました。
こうして8世紀前半には、江合川と最上川のライン、すなわち現在におけるほぼ宮城県と山形県の北端のラインを日本国の北限とするようになっていき、更に733年には出羽国方面では更に海路で北上して秋田平野方面も支配下とするようになり、8世紀後半には日本国は北上盆地と横手盆地、そして更にその北の奥の蝦夷勢力と対峙していくことになりました。

その後、8世紀後半には横手盆地の蝦夷が日本国に帰服するようになり、北上盆地の蝦夷勢力は9世紀初頭の坂上田村麻呂による蝦夷征討によって平定され、9世紀中頃までには北端部の津軽平野、弘前盆地、八戸平野の地域を除く東北地方は日本国に組み込まれるようになり、9世紀前半から中頃にかけては多くの蝦夷が俘囚として日本各地に強制移住させられて開拓に従事させられることとなったのです。
このような征服地の原住民を支配地域内の別の土地へ移住させるというような統治方法は、進出した地域の既存の共同体を温存するというのを常としてきた従来の大和王権のやり方とは大いに異なるものでした。これはシナ帝国の手法の影響を受けたもので、シナ帝国を模倣して中央集権国家を志向した時期の日本国ならではの日本史上でも珍しい特異現象といっていいでしょう。
しかしその後、9世紀後半には地方政治が大いに乱れて中央集権体制が機能しないことが明確となってきました。これは、9世紀になってから中世極小期を脱した地球気温が回復傾向を見せ始め、日本列島においても各地の農業生産が安定して地方勢力が力を持つようになってきて、中央政府の派遣した国司がそれを抑えきれなくなってきたからでもあります。
それに伴って各地に強制移住させられていた蝦夷の俘囚たちも各地で叛乱を起こすようになり、9世紀末から10世紀初めにかけての中央集権体制の崩壊とほぼ時を同じくして、ほとんどが東北地方の生まれ故郷へ帰っていったようです。

東北地方では日本国による平定後、最北端の青森県地方には津軽平野を根拠地として蝦夷勢力は残っていましたが、それより南は陸奥国と出羽国が置かれて日本国の支配を受けるようになっていました。
出羽国は日本海航路で畿内からアクセスが容易な沿岸国という位置づけで、本来の範囲としては日本海岸エリアに相当し、経済優先の、いわば畿内の朝廷の直轄地のような扱いでした。一方、陸奥国はそういった特区的扱いの出羽国を除いた東北地方の内陸部および太平洋岸のエリアで、本来の範囲としては奥羽西盆地エリア、奥羽東盆地エリア、太平洋岸エリアに相当し、奥羽東盆地エリア、つまり北上盆地に本拠地を置いて東北地方を政治的に支配する中心的機能を担っていました。
ところが9世紀後半に地方政治が機能不全に陥ったことによって陸奥国の政庁を通した東北地方支配というのが不可能になり、その分、畿内と直結した出羽国の比重が増して、出羽国に奥羽西盆地エリアも加えて、東北地方を支配する中心的機能を出羽国に移そうという動きも生じました。
現在よく見られる歴史地図などでは陸奥国と出羽国の境界線は奥羽山系のラインとなっていますが、正確な測量地図の存在しない時代においては、基本的には出羽国は沿岸国であり日本海岸エリアがその領域であり、それ以外が陸奥国であるという認識が一般的であったのですが、奥羽西盆地エリアの帰属に関しては、その時代ごとの状況に応じて、陸奥国に力のある時代は陸奥国に属し、出羽国に力のある時代は出羽国に属するというような感じであったようです。
しかし、出羽国はやはり基本的に経済地域であり政治地域ではなかったので、出羽国を通じての東北地方全域の支配というのはやはり無理があり、その上、10世紀初頭には中央集権体制が崩壊してしまったので、中央政府によって東北地方をコントロールすることは出来なくなりました。
そうなると本来は東北地方の政治の中心は陸奥国に分類されている奥羽東盆地エリア、特にその中でも最大規模の盆地である北上盆地ということになり、この地に帰還してきた俘囚たち、つまり復活した蝦夷勢力が力をつけていき、有力な現地勢力となっていったのです。そして11世紀初頭から地球気温は中世最大期に向けて急上昇を開始し、東北地方の生産性も上がり、北上盆地の「奥六郡」といわれた地域を中心に蝦夷の一族であった安倍氏が急速に強大化して陸奥国北部を実効支配するようになりました。

陸奥国は関東地方から陸路で繋がる地域であったので、関東の強大な陸上軍事力を有した政治勢力を通じて統制するのが最も良く、それゆえ朝廷は11世紀後半から関東地方に勢力を有する河内源氏に命じて陸奥国に介入させて安倍氏やそれに続いた清原氏を討伐させ、関東の源氏勢力を使って東北地方の間接統治をするよう目論見ましたが、現地勢力を完全に押さえ込むことは出来ず、しかも12世紀になって関東の源氏勢力が衰えたので、陸奥国では奥六郡の平泉を中心に蝦夷の末裔の藤原氏が勢力を伸ばして陸奥国と出羽国の全域を支配下において半独立国を形成するようになり、中世最大期における地球気温の上昇がピークに達した12世紀後半には繁栄の絶頂期を迎えました。
このように蝦夷は復活し強大な勢力を持つようになったのですが、平泉を中心に蝦夷国家が繁栄して周囲と盛んに交易を行うようになり、その交易圏は北海道や満州地方、アムール河方面まで及んでいたようですが、やはり何といっても日本列島内の諸政治勢力との交易が中心であったと思われ、畿内や関東などと盛んに交易するようになったことによって、むしろ蝦夷の日本化が進展して、この頃になると、文化的にはもうあまり他の日本人と変わりないようになっていたようです。
また、藤原氏による自治によって東北地方を一元的に支配していたため、陸奥国や出羽国という区分自体があまり意味が無くなり、陸奥国と出羽国を一括した呼称として「奥州」という呼称のほうが一般的となっていきました。この「奥州」から日本海航路で畿内と交易したり、白河関を通る陸路で関東と交易したりしていたのです。

そして12世紀末に関東において鎌倉幕府という強大な軍事政権が成立したことによって、関東の政治勢力の統制を受けやすい地である陸奥国エリアである平泉に本拠地を置いていた藤原氏は鎌倉幕府によって討伐され、奥州は一元的に鎌倉幕府の支配下に入ることとなりました。
鎌倉幕府は古代律令政府とは違い、日本列島を東西に二分して東国のみを治めるというコンセプトを持った統治機関であり、その支配下に入ることによって奥州は、域内における出羽国の存在意義が経済的にはともかく政治的には極めて小さいものとなり、まさに「奥州探題」という政庁によって一元的に統治される「奥州」という政治単位となったのでした。
鎌倉幕府に続いた室町幕府も東西二分統治という手法を引き継いだ統治機関であり、幕府そのものは京都に置かれましたが、半独立的に東国を支配する「鎌倉府」という統治機関が設けられ、奥州を支配する奥州探題はこの鎌倉府の支配下に入りました。そして15世紀中頃に鎌倉府が事実上消滅すると、奥州は再び半独立的になり、各地で土着勢力が割拠する戦国時代へと入っていき、16世紀末に豊臣秀吉によって平定され、17世紀以降は関東に本拠地を置く全国政権である江戸幕府の支配下に入ることとなり、この時代に大きく発展することになるのです。
このように、11世紀以降の歴史においては東北地方は関東地方の政治権力と結びつくことが多く、それゆえ関東からのアクセスが良い奥羽東盆地エリア、すなわち「陸奥国」が政治の中心地となる傾向が強くなり、一方、日本海岸エリアのほう、すなわち「出羽国」は経済的には豊かな地域でしたが、政治的な指導力を発揮するということはあまりありませんでした。
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