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日本史についての雑文その272 東北地方南部
古代において新潟平野は大きな入り江の新潟湾だったわけですが、その東端に注いでいた阿賀野川を遡ると越後山脈の北を東へ向かい、福島県に入ると阿賀川と名を変えます。阿賀川を更に遡ると会津盆地に入り、喜多方市の山都町で南から只見川が注いできます。この只見川を遡っていくと会津地方の西端を通って最後は尾瀬湿原にまで至り、そこで利根川の支流の片品川に乗り換えるのですが、途中の会津川口のあたりで御神楽岳の南を通ります。
この御神楽岳は新潟と福島の県境にあり、別名を天津嶽ともいい、3世紀前半のミマキイリヒコ大王の時代に各地に派遣された四道将軍のうちの、北陸方面に派遣されたオオヒコと、その子で東海方面に派遣されたタケヌナカワワケがこの地で出会い、御神楽岳の山頂にイザナギとイザナミを祀ったといわれており、2人が出会った土地だから「会津」というのだそうです。この御神楽岳の山頂の祭祀が何度か移転した後、6世紀中頃に会津美里に遷り、伊佐須美神社となったといいます。
四道将軍といっても、3世紀前半の大和王権草創期にこのような遠方を平定するような軍事行動を起こせたとも思えないので、おそらく実態は交易を求めるための外交使節か、あるいは偵察隊や探検隊の類のものであったと思われます。この2人以外の残り2人は吉備国と丹波国に派遣されたようですが、これら2国も3世紀の時点では平定などされていませんから同様のことであったでしょう。
おそらくオオヒコは北陸道を東へ進んで最後は新潟湾から阿賀野川を遡って山都町から只見川を遡り、一方タケヌナカワワケは東海道を東へ進んで江戸湾に入り利根川を遡って尾瀬湿原に至り、そこから只見川に乗り換えて下り、御神楽岳の南で出会ったのでしょう。御神楽岳では何らかの山岳信仰が行われていて、2人はそこにイザナギとイザナミを祀らせてもらったのでしょう。イザナギとイザナミは瀬戸内海で信仰されていた国造りの神で、この親子はイザナギやイザナミを信仰しており、自分たちの探検が新たな国造りの一歩となることを祈念して古の国造り神を祀ったのでしょう。

喜多方から更に阿賀川を遡っていくと、猪苗代湖の西で南へ向かい会津若松を通って栃木との県境の荒海山の水源にまで至りますが、最上流部で山王峠で毛野川(鬼怒川)の最上流部に乗り換えることが出来ます。また、この阿賀川に猪苗代湖から流れ出て会津若松の北で注ぐのが日橋川です。そして猪苗代湖の北岸に流入する長瀬川を遡っていくと猪苗代湖の北にある磐梯山の東を北上して更に磐梯山の北に回りこんで最上流部の白布峠で最上川の支流の鬼面川に乗り換え、米沢盆地方面へ行くことが出来ます。
ちなみに、磐梯山の北側の長瀬川の流域には「裏磐梯三湖」などと総称される様々な湖沼がありますが、これは1888年の磐梯山の水蒸気爆発による山体崩壊や火山泥流で長瀬川がダム状に堰き止められて形成したもので、それ以前は普通に長瀬川が流れて水源は白布峠まで至っていたのです。
そして猪苗代湖の東岸に注ぐ短い河川の水源である中山峠では五百川に乗り換えられますが、この五百川を東へ下っていくと郡山盆地に入り、郡山の北で阿武隈川に合流します。阿武隈川は福島県南端部の旭岳から発してからまず白河を通りますが、ここで水戸方面へ流れる那珂川と連絡します。またその少し下流の矢吹町で社川の合流を受けますが、この社川を最上流部まで遡っていくと棚倉で茨城の日立方面へ流れる久慈川と連絡します。

この福島県南端部の棚倉には陸奥国一宮の都都古別神社があります。都都古別神社は現在、棚倉に2社あり、所在地の名をつけて馬場都都古別神社と八槻都都古別神社と呼びます。どちらも主祭神はアジスキタカヒコネであり、おそらくどちらかが本社でどちらかが分社なのでしょう。アジスキタカヒコネはオオアナムチの子であり出雲系の神であり、この地には出雲系氏族が進出してきていたのでしょう。
この2つの都都古別神社の社伝の伝える神社の創建伝承は微妙に内容が違っており、八槻都都古別神社の社伝によるとアジスキタカヒコネが父神のオオアナムチを助けて奥羽を開拓して、その徳を慕った住民がこの地に祭祀したとなっており、馬場都都古別神社の社伝によれば4世紀初頭のヤマトタケル東征の際に、ヤマトタケルがアジスキタカヒコネをこの地の近くの山に祀り、807年に坂上田村麻呂が棚倉の地に遷座してヤマトタケルも合祀したとなっています。
この2つの神社の社伝を総合したものが真実に近いのでありましょう。すなわち、もともとこの地には出雲系氏族によってアジスキタカヒコネが開拓神として祀られており、それは当初は近くの山に祀られていたようですから、更に古くから存在した山岳信仰と習合したものであったのかもしれません。この地は奥羽東盆地エリアの南東端に位置する地なのですが、紀元前250年以降に日本海側から進出してきた出雲系氏族はここまで開拓してきたのでした。
そこに4世紀初頭に常磐沖の交易上のトラブルを収拾するためにやって来たヤマトタケルがこの地にも立ち寄り、アジスキタカヒコネを祀ったのでしょう。そうした故事が現地に残っていたのを9世紀初頭に既に日本国に組み込まれていたこの地へやって来た征夷大将軍の坂上田村麻呂が聞きつけて、アジスキタカヒコネと共にヤマトタケルも祀り、立派な社殿を造営したのでしょう。それは、地主神と共に天皇家の祖先神を祀ることで、この地における朝廷の権威を高める狙いがあったと思われます。

矢吹町を通った後、阿武隈川は須賀川、郡山を流れ下り、五百川の合流を受けた後、福島盆地に入り福島、伊達を通過して阿武隈渓谷を抜けて仙台平野の南部に出て岩沼で仙台湾に注ぎます。
阿武隈川の河口から仙台湾の海岸線沿いに北上していくと、まず名取川の河口があり、名取川を遡ると西へ向かい、秋保温泉から二口峡谷に達しますが、下流でこの名取川に注ぐ広瀬川を遡ると仙台市の中心部を通って奥羽山脈の関山峠まで達して、そこで乱川に乗り換えて山形盆地の北部に入り天童の北で最上川に合流します。また秋保温泉の東で名取川に注ぐ碁石川の上流の北川は笹谷峠で馬見ヶ崎川の最上流部に乗り換え、これを下ると山形盆地の南部に入り山形市を通ってから寒河江で最上川に注ぎます。
名取川の河口から仙台湾の海岸線に沿って少し北上すると七北田川の河口があり、その北に仙台港があり、そこに注ぐ川が砂押川ですが、これを少し遡った川沿いにあったのが多賀城でした。724年にこの地に多賀城が築かれ、その後の律令政府による東北地方進出の本拠地として機能することになったのです。

この多賀城の東に松島湾に面した塩竈港があり、そこに陸奥国一宮を称する塩竈神社があります。塩竈神社の主祭神は塩土老翁神で、タケミカヅチとフツヌシも祀ります。社伝によればタケミカヅチとフツヌシが塩土老翁神の先導で東北地方を平定し、その際に塩土老翁神がこの地に留まって現地の人達に製塩を教えたのがこの神社の始まりだといいます。
タケミカヅチは鹿島神宮の祭神、フツヌシは香取神宮の祭神であり、これは大和王権成立前の2世紀ぐらいに鹿島や香取にまで進出してきていた大和系海洋民の漁業交易基地が福島県の太平洋岸地方の各拠点を経て、この塩竈の地にまで達してきていたということを示していると思われます。
主祭神の塩土老翁神はもともとは南洋系海洋民が信仰していた海の神や塩の神であったようで、日向神話では山幸彦を竜宮に導いたり、イワレヒコに東征を促したりしており、南洋系海洋民にとっては海上における道案内の神でもあったようで、航海安全、海上交通の神として信仰されていました。この塩竈を根拠地とした大和系海洋民がそこを拠点とした漁業活動や交易活動の安全を祈るために持ち込んだ神なのでしょう。

同じく大和系海洋民が祀っていたと思われる神社が塩竈の東で、石巻湾の東端にある牡鹿半島の東に浮かぶ小島である金華山にある黄金山神社です。この神社の名前はまるで金鉱山の神社のようで、実際に祭神は鉱山の神である金山毘古です。天平時代に日本で初めて金を産出した地であると言われてきたが、しかしこの島から金が採掘されたということはなく、実際にその時に金を産出したのはこの島から北西に少し内陸に入った地で江合川沿いの桶谷で、桶谷にも「黄金山神社」という神社があります。
どうやら「黄金山神社」の名は桶谷のほうが元祖で、もともとこの牡鹿半島の東の小島では別の祭祀が行われており、この地方を代表するような知名度を有していたのでしょう。そこに近隣で金が産出されたので何らかの情報の混乱が生じたか、あるいはこの地でも鉱山の神を合祀するようになったかしたのでしょう。
それで、そのもともとの別の祭祀とは、明治の神仏分離前は弁財天が祀られていたということからも、やはりそれは海に浮かんだ小島で行われていた祭祀ですから海神に関連した祭祀であったのでしょう。つまり塩竈神社と一連の大和系海洋民による漁業や交易に関連した祭祀が行われていた可能性が高いといえます。
この島は三陸海岸の南端に位置しており、ここを根拠地として大和系海洋民は三陸海岸にも進出していって三陸沖の漁場で魚を獲ったのでしょう。4世紀初頭にヤマトタケルが陸奥国に至り、おそらく福島県の太平洋岸におけるトラブルを収めた後、更に北に足を伸ばして北上川流域の蝦夷の国々まで訪れていますから、この時に何らかの商談が行われた可能性もあり、三陸沖で大和系海洋民が活発に活動するようになるのは、これ以降ではないかと思います。

さて、日本海側に目を転じますと、新潟湾から日本海に出て海岸線を北へ向かうと、ほどなく下越地方北部の海岸線には山地が張り出した状態が続きます。そのまま海岸線を更に北へ進むと、この山塊が途切れて視界が開けてきます。そこが庄内平野です。「山の端に出たところ」という意味で「出端(いでは)」と呼ばれ、「出羽」の語源となった土地です。この庄内平野の港湾都市である酒田の最上川河口部あたりに708年に出羽柵が築かれて、日本国による東北地方の日本海側の蝦夷勢力圏への進出の前進基地となるのです。
庄内平野は最上川、赤川、日向川によって形成された広大な沖積平野で、古代においては海岸近くの部分は干潟地帯であったと思われます。
この庄内平野の南端に金峯山があり、その山頂に金峯神社があります。この山ではもともと山岳信仰が行われていたようですが9世紀になってから山頂に社殿が建てられ、10世紀末に吉野の修験道の山である金峯山の神を勧請したので金峯神社といわれるようになったのだそうです。つまり修験道の修行場で、神仏習合色の強い神社であったのですが、ここの祭神がスクナビコナやオオクニヌシ、コトシロヌシというふうに、出雲系の神なのです。
また、庄内平野の東にある羽黒山には出羽神社がありますが、ここも修験道の道場として有名ですが、祭神は伊氏波神(いてはかみ)と倉稲魂命(ウカノミタマ)で、伊氏波神はこの山の神なのでしょうが、倉稲魂命は出雲系の穀物神でした。更に羽黒山から南の山中奥深くにある湯殿山には湯殿山神社があり、ここも修験道の道場ですが、祭神にはオオアナムチとスクナビコナが据えられています。
そして、庄内平野の北の海岸線にそびえる標高2236m.の巨大な単独峰である鳥海山には出羽国一宮の鳥海山大物忌神社があり、祭神の大物忌大神は稲倉魂命のことであるとされています。ここも別名は鳥海山大権現と称して、神仏習合色の強い神社でした。
どうやら、東北地方の場合、もともと山岳信仰が行われていた地に出雲系開拓民によって出雲神が合祀されたという点では関東地方などで見られたパターンと同じなのですが、7世紀以降の日本国による平定以降、中央集権的な大和系の神や仏教の教化政策によって一旦はそうした地元神の祭祀が廃れて、その後、中央集権制が解体していき、他地域へ強制移住させられていた俘囚たちが帰還してくるようになった頃に、神仏習合の形をとって、その中で古来の出雲神も復権を果たしていったようなのです。
いや、このようなパターンは、常陸国の大洗磯前神社などでも見られたパターンであり、日本国建国時のやや過激な強圧的宗教政策の嵐の去った後、神仏習合という形をとって全国各地でも同じような現象が生じたのではないかとも思えます。

この庄内平野から最上川を遡っていくと新庄盆地で小国川の合流を受けますが、この小国川を東に遡っていくと山形と宮城の県境の中山峠で江合川に乗り換え、江合川を下っていくと大崎や桶谷を通って北上川の下流部に合流して石巻湾に注ぎます。
新庄盆地から更に最上川を遡っていくと山形盆地に入り、山形盆地北部で最上川に注ぐ乱川から関山峠を越えて広瀬川に連絡し、仙台市中心部を経て仙台湾に注ぎます。また山形盆地南部で最上川に注ぐ馬見ヶ崎川を遡っていくと蔵王山の北の笹谷峠を越えて名取川の支流の碁石川の上流部に乗り換え、最終的に名取川は仙台湾に注ぎます。
馬見ヶ崎川の合流地点より上流の最上川は山形盆地の西の山間部に遡っていくことになり、米沢盆地に入り、米沢盆地を流れる様々な支流を受けます。そして米沢盆地の南の吾妻山の水源にまで至りますが、吾妻山の西の白布峠で長瀬川に乗り換えて、長瀬川の注ぐ猪苗代湖を経由して郡山方面や会津方面にも連絡することになるのです。
このように、福島県、山形県、宮城県という東北地方南部の各地域同士は内陸水路での連絡は割と緊密なのですが、そこから東北地方北部地域への連絡となると、山形と秋田の県境や、宮城と岩手の県境などが山地に阻まれがちで、あまり連絡が良くありません。
主要な連絡路としては、石巻湾に注ぐ北上川を盛岡方面まで遡っていくルートと、あとは海路ということになりますが、三陸沖は波が荒いうえに海岸線に平野部が無く、しかも内陸部にアクセスする水路が乏しいため、太平洋側は北上川ルートがメインになります。そして日本海側は日本海航路が主要移動路ということになります。
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この記事に対するコメント

最近の考古学の最先端では、3世紀中ごろ(
卑弥呼が死んだ頃)には、高地性集落の分布変遷が、それまでの西日本中心から東日本にも拡大しているので、四道将軍の派遣を認める傾向が出てきています。

日本の国家統一と高地性集落の分布変遷
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33144977.html

【2007/08/08 14:00】 URL | yama #7ScjOPVQ [ 編集]



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