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日本史についての雑文その273 東北地方北部
庄内平野から日本海航路を北に向かうと、海岸線には最初は鳥海山が巨大な山容を見せ、その北に子吉川の河口があり、その周囲に小さめの沖積平野である本荘平野があり、笹森丘陵を挟んで北に秋田平野が広がります。
秋田平野は南東から流れ込む雄物川の下流域に形成された沖積平野で、古代においては雄物川は現在の秋田港に注ぐ旧雄物川の河口に流れており、その南の大森山あたりまでを開口部とした湾が雄物川流域に沿って広がり、湾内は干潟となっていたと思われますが、平野の東部の現在の秋田市街地は陸地であったと思われ、もともと出雲系氏族が開拓して稲作が盛んに行われていたようです。

その雄物川下流域に広がった湾の開口部近くの北岸に733年に出羽柵が庄内平野の酒田から移転してきて、日本国の日本海沿岸部における領域がこの地まで前進したことを示しました。この出羽柵が760年に秋田城と改称され、出羽国北部の統治の根拠地となったのです。

この秋田城のすぐそばにあった神社が古四王(こしおう)神社です。古四王神社はもとは越王神社といいまして、先述の北陸方面担当の四道将軍であったオオヒコの子孫といわれる阿倍比羅夫が6世紀半ばに越国から海路でこの秋田の地まで来た際に、この地の齶田浦神の祭祀場に自らの先祖のオオヒコを合祀して越王神社としたのが始まりだとされています。
阿倍比羅夫は出羽方面への進出の先駆けとなった越国の海洋系の豪族で、下越地方や出羽方面、そして津軽方面にまで足を伸ばして盛んに交易を行っていました。阿倍氏の活動エリアには越王神社と同系の名称の神社が散らばっていますから、阿倍氏が各地で土着神と自らの祖神のオオヒコとを習合させて作っていた越王神社の1つとして、この秋田の地にも創建したのでしょう。
社伝ではこの齶田浦神の正体がタケミカヅチで、3世紀前半にオオヒコがこの地へやって来て北門鎮護のためにタケミカヅチを齶田浦神としてこの地に祀ったということになっており、そういうことがあったので7世紀にオオヒコの子孫の阿倍比羅夫がこの神社にオオヒコを合祀したのだという説明になっています。
しかし、3世紀の段階でオオヒコがこの地までやって来たとは思えず、仮に来ていたとしても、タケミカヅチが北門鎮護の神として扱われるようになったのは7世紀以降のことですから、3世紀のオオヒコがこの地にタケミカヅチを祀るということはないと思われ、このようなオオヒコ伝承は7世紀に阿倍比羅夫が越王神社を創建する際に創作された話であろうと思われます。タカミカヅチもこの時にオオヒコと一緒に合祀されたのでしょう。
つまり、7世紀以前はこの地では齶田浦神という名の土着神、おそらく蝦夷の信仰する海洋神であろうと思われる神に対する祭祀が行われていたのでしょう。そこに7世紀半ばに阿倍比羅夫がやって来て大和系海洋民の居住区を作り、この齶田浦神にオオヒコとタケミカヅチを合祀した越王神社を創建したのでしょう。そうして大和側の根拠地がもともと形成されていた地に、733年になって出羽柵を移転してきて、それが秋田城となっていったのです。

秋田平野から雄物川を南東へ遡り、更に内陸に入っていくと奥羽西盆地エリアに入り、横手盆地に入ります。横手盆地は奥羽山脈と出羽山地に挟まれた秋田県内最大の平地で、非常に広大な盆地で現在は国内有数の穀倉地帯であり、古代においても生産性の高い土地であったと思われます。
雄物川は横手盆地の北部の大曲から盆地南部の湯沢まで遡り、更にその水源は山形や宮城との県境付近の大仙岳にまで至ります。大曲の南で雄物川に注ぐ横手川を遡ると横手盆地東部の横手市を通り奥羽山脈の中に東に向いて入っていき、岩手県に入って湯田高原で和賀川に乗り換えることが出来ます。この和賀川を東へ下っていくと北上市で北上川に合流します。
また湯沢の北で雄物川に注ぐ皆瀬川を南東へ遡っていくと、花山峠を越えて宮城県に入って一迫川に乗り換えることが出来ます。一迫川を下っていくと迫川に合流して豊里で北上川の下流部に合流します。

秋田平野から日本海の海岸線沿いに北上すると男鹿半島が突き出ており、その根元に八郎潟があります。現在は八郎潟はその大部分が昭和に干拓されて大潟村になっていますが、それ以前は日本で2番目に広い湖でした。ただ、この八郎潟は海と繋がった汽水湖であり、その名の通り、湾の出口付近に砂礫が堆積して湾内部を閉鎖水域にした典型的な「潟湖」だったのです。
だから、その古代における姿は日本海に向けて開口した大きな湾であったのであり、男鹿半島はその湾の対岸に浮かぶ島だったのです。そこに河川が運んできた土砂や砂礫が堆積して湾口をどんどん狭くしていき、しまいには湾縁の土砂と男鹿島とが繋がって男鹿半島と八郎潟が形成されたのです。
いや、古代においてはこの八郎潟の原型となった湾は更に北方の能代平野の干潟地帯とも繋がっていたとも考えられます。能代平野は米代川の下流域によって形成された沖積平野ですから、もともとの海岸線は現在よりも内陸寄りで、そこより海側はもともとは海で、次第に干潟が形成されていったと思われますから、八郎潟とも繋がっていたと思われます。そして米代川の運んでくる土砂の量が多かった能代平野部分は陸地化し、そこから少し外れた八郎潟は潟湖のまま残ったということです。
男鹿半島が天然の良港となっており、能代平野は水田稲作に適応した土地であり、対馬海流は津軽海峡まで達していましたから、この能代平野周辺にも出雲系海洋民はやって来たと思われます。
この能代平野から米代川を遡ると、大館、鹿角を通って八幡平にまで達し、見返峠を越えて岩手県に入り赤川に乗換え、赤川は盛岡市北部で北上川の最上流部に注ぎます。この米代川流域地区は穀倉地帯であると同時に良質の材木の産地でもあり、日本海で漁業や交易を行う海洋民にとっては重宝な地域でありました。また、大館で米代川に注ぐ下内川を北に遡って最上流部に達すると矢立峠を越えて青森県に入って平川の最上流部に乗り換えることが出来ますが、平川は北へ流れて弘前盆地へ入り、弘前市中心部の北で白神山地から弘前盆地へ流れてきた岩木川に合流し、岩木川は弘前盆地から北流して津軽平野へ流れて日本海に注ぎます。

この弘前盆地の平川の近くの猿賀という地に猿賀神社があります。この神社の主祭神は上毛野君田道命といいまして、5世紀前半のオオサザキ大王の時代の大和王権における蝦夷討伐の武将であったといわれます。おそらく名前からして関東の毛野氏の一族であったようで、日本書紀では上毛野氏の祖のタカハセという者の弟で、朝鮮半島などでも活躍していた武将のようです。
その田道が伊寺水門というところで蝦夷と戦って敗死して従者によって埋葬されたが蝦夷がその墓を暴くと大蛇となって毒気を吐いて暴れたので蝦夷の人々が恐れてこの地に田道を祀ったのだといいます。後に8世紀末に坂上田村麻呂が田道の神霊に導かれて蝦夷に大勝したので田村麻呂はこの地に田道を祀る祠を建てて祀ったといわれ、807年に社殿が建てられたといいます。
しかしオオサザキ大王の時代には蝦夷征討の戦いはまだ起きていませんから、この田道の死というのは戦死というよりは、おそらく港で死んでいるようなので、交易上の何らかのトラブルによるものだったのでしょう。大和王権側が報復行動にも出ていないようなので、あるいは田道のほうに蝦夷の法に触れる何らかの落ち度があったのかもしれません。
ところがこの田道が8世紀の日本国のほうでは何故か蝦夷征伐の伝説的英雄という扱いになっていて、8世紀前半に成立した日本書紀にもそのように書かれていますから、そうした田道英雄説は7世紀から存在したのでしょう。8世紀末に坂上田村麻呂はその蝦夷征伐の伝説的英雄の田道の導きによる戦いであることを強調して士気を鼓舞して蝦夷を打ち破ったというわけです。
田道のおかげで勝利したわけですから田村麻呂は田道を祀らなければならないわけで、そこで蝦夷の人達が大蛇の神を祀っていた地に田道を祀る祠を建てたというわけです。何故そこに祀ったのかというと、日本書紀では田道が死後に大蛇となって蝦夷を討ったと記述されていたからです。だから大蛇信仰のあった地を選んで田道を祀る祠を建てたのです。
この猿賀神社の相殿には出雲系の穀物神であるウケモチが祀られており、境内社にはコトシロヌシやスクナビコナも祀られていますから、おそらくは元来はこの地では蝦夷によって大蛇神であるオオアナムチへの祭祀が行われていたのではないかと思われます。そこに坂上田村麻呂によって田道が合祀されて盛大に社殿など建てて祀ったものですから、いつしか田道が主祭神となったのでしょう。
しかし、何故、7?8世紀の日本国において田道が蝦夷征伐の英雄ということになったのかというと、それはおそらく建国後まだ間もない日本国における若く未熟なナショナリズム、いやこの場合は幼さゆえに歪んだ小中華思想の産物といってもいいかもしれません。分かりやすい例としては、まだ生まれたての国家といってもいい小中華思想国家である韓国において現在、単なるテロリストに過ぎない安重根が「義士」と称えられたり、単なる漂流者に過ぎない安龍福なる人物が「将軍」という称号を与えられたりして、それぞれ国民精神を高揚させる象徴的な役割を果たしているというのが挙げられるでしょう。
対外的に強くあらねばならないという強迫観念を持った時代において、このような、冷静に考えれば対外的にトラブルを起こしたに過ぎないような人物が英雄に祭り上げられることはよくあることで、7?8世紀の田道も、まぁ彼はれっきとした武将でしたから安重根や安龍福などよりはよほど立派な人物だったのでしょうけれど、それでもかなり美化された扱いを受けていたのでしょう。

さて、能代平野から日本海沿いに更に北上すれば海岸線に張り出した白神山地を東に見ることとなり、その山塊が途切れた後、東に広大な津軽平野が広がります。津軽平野の北端には十三湖という日本海に繋がった汽水湖があり、この湖に南から弘前盆地や津軽平野を流れてきた岩木川の他、鳥谷川や山田川が注いでいます。
この津軽平野の南端にそびえる標高1625m.の単独峰が岩木山で、その位置は弘前盆地の西にもあたり、岩木川の最上流部の北にそびえる山でもあります。この岩木山の東南麓に岩木山神社がありますが、もともとは山岳信仰の神社で山頂に祠があったのが始まりのようです。
800年に日本海側を進んだ坂上田村麻呂がこの地にまで至り、岩木山大神の加護によって東北平定をなし得たとして岩木山の山頂に社殿を建てて岩木山大神を祀ったといいますが、この岩木山大神というのは古来からの山の神であったのでしょう。そしてこの時、自分の父である坂上苅田麻呂も合祀しています。おそらく蝦夷平定は坂上父子二代にわたる事業であったのでしょう。そして岩木山神社の主祭神とされているのは顕国魂神という神なのですが、これはオオアナムチのことだとされています。
つまり、原初の山の神と、開拓神としての出雲神、そして大和王権の系統の神が三層的に祀られるというパターンは、赤城神社や二荒山神社などで見られたパターンと同一であり、この地には元々は縄文時代以来の岩木山への山岳信仰があり、そこに津軽平野や弘前盆地に進出してきた出雲系氏族の開拓神信仰が加わり、そして800年に坂上田村麻呂がやって来て大和系の祭祀を加えたのだということです。
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