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日本史についての雑文その274 奥六郡と津軽
その岩木山の北に広がる津軽平野の北端にある十三湖の湖畔には鎌倉時代から室町時代にかけて非常に栄えた十三湊という港湾があり、盛時には北海道や渤海国、朝鮮半島やシナ大陸とも盛んに交易を行っており、日本国の北の玄関口と認識されていたといいます。室町時代の後期以降、この十三湊は岩木川などの河川の運んでくる土砂の堆積によって十三湖が浅くなったことによって次第に港湾として機能しなくなり衰微していったといわれます。現在の十三湖の水深は平均1.5m.です。
そう考えると、おそらく古代においてはこの十三湖はもっと水深が深く、かつ南側へもっと広かったと思われます。そして日本海への開口部ももっと広く、津軽半島西部一帯に広がった大きな湾であったと思われます。そしてその湾の外縁部には砂浜海岸が形成されて内部を潟湖としていたのであり、その潟湖の北岸の最も水深の深い部分に港湾があり、そこを拠点として各地と交易が行われていたと思われます。

2世紀ぐらいから始まった地球気候の寒冷化の影響が徐々に大きくなっていくにつれて、東北地方の北部では一旦普及した稲作の維持が難しくなる場所も出てきました。現在のような品種改良のなされた稲とは違い、古代の稲は寒さに弱かったのです。特に最北端の青森地方や、太平洋側の三陸地方、岩手県内陸部の北部地方も食料の自給が困難な状況となっていったと推測されます。
そうなると足りない分は交易でカバーするしかないわけで、寒冷化が進むにつれて東北地方の蝦夷勢力による交易は盛んになっていったのです。その主要物流路は日本海航路であったので、津軽の十三湊の役割は大きくなっていったのであり、また畿内方面との交易の玄関口として秋田港や酒田港も盛んに使用されるようになりました。そのようにして大和王権との接触が頻繁であったので、日本海側は内陸部に比べると早く日本化していったのだともいえます。

東北地方の北部は寒冷化のために交易を必要としたわけですが、その玄関口は津軽平野、能代平野、秋田平野のような日本海側の平野ないし干潟地帯とその付属港湾であったのですが、その取り扱う輸出品は東北地方北部の内陸部で生産や産出がなされた物品であり、その日本海側と内陸部を結んでいたのは内陸河川ルートでした。
すなわち、それらは岩木川や米代川、雄物川であったのですが、これらの河川で内陸部へ入っていくと、先述したように最終的には全て奥羽山脈を越えて北上川に連絡するのです。逆に、これらの日本海に注ぐ東北地方北部の河川は、北上川以外には東北地方南部に連絡することは殆どありません。つまり、北上川は東北地方北部の大動脈であると同時に、仙台湾に開いた北上川だけが内陸河川としては唯一、東北地方の南部と北部を連結するルートだったのです。
北上川は東北地方最大の河川で、岩手県北部の岩手郡の山中に源流を発して、南へ流れ下って北上盆地の北端に入り、盛岡、花巻、北上、奥州、平泉、一関というふうに、南北に伸びた北上盆地内の各地を北から南に流れ下って、その後、宮城県に入って、現在は女川の北で太平洋に河口を開いていますが、これは近代になってからの河川付け替え工事によるもので、古代においてはそのまま南流して仙台湾に注いでいました。
そして、北上川からは桶谷で注ぐ江合川を遡って中山峠で最上川水系に乗り換えて新庄盆地を通って庄内平野から日本海へ出ることが出来、北上で注ぐ和賀川を遡って湯田高原で雄物川水系に乗り換えて横手盆地を通って秋田平野から日本海へ出ることが出来、盛岡の北で注ぐ赤川を遡って八幡平で米代川水系に乗り換えて能代平野から日本海に注いだり、その能代川水系から矢立峠で岩木川水系に乗り換えて津軽平野から日本海に注いだり出来ます。これらの日本海岸エリアとの連絡路を使って北上盆地の蝦夷勢力は日本海航路の拠点の港湾との間で物資を動かして交易を盛んに行っていったのです。
また、日本海方面だけではなく、太平洋方面への連絡路も北上川からは出ており、花巻で北上川に注ぐ猿ヶ石川を東へ遡ると遠野を通って笛吹峠で鵜住居川の上流部に乗り換えて、鵜住居川を東へ下っていくと三陸海岸のやや南部の釜石で太平洋に注ぎます。また、盛岡で北上川に注ぐ簗川を東へ遡ると区界峠で閉伊川に乗り換え、閉伊川を東へ流れ下っていくと三陸海岸中央部の宮古で太平洋に注ぎます。また、盛岡の北で北上川に注ぐ赤川の最上流部は安比高原で安比川に乗り換え、安比川は北上山地内の渓谷を北東へ流れ下っていき馬渕川に注ぎ、馬渕川は八戸で太平洋に注ぎます。こうして太平洋側の三陸沖で獲れる魚介類も北上盆地へ運ばれたり、日本海航路のほうへ回されたりもしたのでした。

このように仙台湾から北上川を遡れば一気に盛岡まで到達し、更に北上川の支流から東北地方北部の各地へ連絡することが可能なのです。だから、東北地方北部へ進出するためには北上川の流域を制することが不可欠なのであり、逆に言えば、北上川流域の要衝である北上盆地の盛岡、花巻、北上、奥州、平泉、一関のエリア、いわゆる「奥六郡」と呼ばれた地域を7世紀?8世紀の時点で蝦夷が押さえていたからこそ、その間は日本海岸エリアをいくら日本国側が押さえても内陸部の蝦夷勢力をなかなか平定することは出来なかったのです。
そういうわけで、724年に仙台の東に日本国の東北地方北部への進出拠点である多賀城が築かれて以降は、日本国と蝦夷勢力の間ではこの奥六郡の争奪戦が繰り広げられていくことになるのです。そして最終的に9世紀初頭に坂上田村麻呂が奥六郡の蝦夷勢力の長であったアテルイ軍を破り、802年に奥州市の水沢に胆沢城を築いて奥六郡を平定したことをもって蝦夷の地を平定したとされたのです。
この北上川流域の奥六郡を押さえる者が東北地方の北部を制するのであり、後に平安時代後期にこの奥六郡を支配した安倍氏、それに続く清原氏、そして奥州藤原氏が東北地方北部において独立的権力を築き、北上川から伸びる内陸水路を辿って日本海側の諸港湾をも押さえて、畿内や北海道、果ては満州方面や朝鮮半島、シナ大陸方面とも独自の交易を行うことにもなるのです。

この北上川の最上流部の支流である赤川から安比高原で乗り換えた安比川が馬渕川に注いで、馬渕川を下って太平洋側の八戸平野に出ることが出来るのですが、この馬渕川の河口の少し北で太平洋に注ぐ奥入瀬川を西へ遡っていくと水源である十和田湖に至ります。
十和田湖は青森県と秋田県の県境にあるカルデラ湖で、現在も活火山に指定されています。何故なら、十和田湖火山は現在のようなカルデラ湖を形成したのは遅くとも今から5000年前のことですが、その後、西暦915年に日本列島で過去2000年間で最大規模といわれる大噴火を起こしているからであり、この時に発生した火砕流が十和田湖周囲の半径20km.圏内を焼き払ったといわれています。
つまり、915年に青森県中南部一帯の地形は根本的に変わったということになり、それ以前のこの地域での河川の流れがどのようなものであったのか、とにかく辺境の地であったので記録も残っておらず不明であり、現在の河川の流れで考えてみるしかないわけですが、まぁ大まかなところでは、とにかく十和田湖付近から奥入瀬川が東へ流れ出て八戸平野で太平洋に注ぎ、十和田湖付近に岩木川の支流である浅瀬石川の水源があったのであろうということです。つまり、八戸平野からは奥入瀬川と十和田湖と浅瀬石川、岩木川を乗り継いで津軽平野へ連絡することが出来たということです。
また、この岩木川の支流の浅瀬石川に黒石温泉で注ぐ中野川を遡ると、八甲田山の西麓で堤川に乗り換えることが出来て、堤川は北へ流れ下って青森市を通って青森港で青森湾に注ぎます。ちなみに青森港から少し内陸に入った地に縄文時代の有名な集落跡遺跡である三内丸山遺跡があります。
青森港から青森湾を北上していくと津軽海峡に至ります。また、青森港から船を出して東へ向かえば野辺地湾や陸奥湾に行き、下北半島方面に上陸することも出来ます。これで、八戸平野と津軽平野、そして青森湾や陸奥湾、下北半島とが内陸水路や内湾で繋がったわけです。もちろん、津軽平野の十三湖から日本海に出て津軽半島の日本海側を北上して龍飛岬に至って津軽海峡を挟んで北海道の松前を望むことも出来ましたし、八戸平野から下北半島の太平洋岸を北上して尻屋岬を経て下北半島北端であり本州最北端の大間崎に至って津軽海峡を挟んで函館を望むことも出来ました。

この一体性のある青森県地方は、三内丸山遺跡があることなどからも、縄文時代には多くの人々が居住していた地域であったようです。そして紀元前100年以降、地球気温が上昇していた時期においてはこの地域も出雲系氏族が進出し開拓して稲作を行っていた可能性はあります。暖流である対馬海流も津軽海峡を通っていたので、その影響も多少受けたことと思われます。ただ、それでもやはり本州の最北の地であり、しかも古代の農業技術や稲の品種改良もなされていないわけですから、穀倉地帯というわけにはいかなかったでしょう。
そういう状況の青森県地方に2世紀後半から地球寒冷化の影響が及んでくるようになり、徐々に水田稲作は厳しい状況となっていったものと思われます。そうなると、そこに住む蝦夷たちは生活していくために交易に力を入れることになるわけで、津軽の十三湊や八戸港、青森港、陸奥港などを拠点として南方地域や北海道方面とも交易するようになっていったと思われます。
そうして、この中世極小期へ向かう地球寒冷化がピークに達したのは7世紀から8世紀にかけてのことで、この時はこの青森県地方は水田稲作は不可能になったのだと思われ、この地の蝦夷の人々は交易に特化していったのだと思います。
その最悪の時期がようやく過ぎたばかりの頃に日本国の勢力がこの地に及んだのですが、その日本国が採用していた国家統治スタイルは律令国家化であり、律令国家の基本は班田収受という、公有地である口分田を公民に耕作させるというスタイルであり、稲作が基本条件となっていたのです。ところがこの青森県地方は全体的に稲作不能状態であったので班田収受を行うことが出来ず、律令国家化が不可能であったのです。

そういうわけで、この青森県地方は9世紀以降も律令国家体制の外に置かれることになり、蝦夷の居住地ということにされたのです。ここに居住する蝦夷たちから見れば、律令国家から締め出されたような形になったわけで、まぁ気軽ではあったでしょうけど、悪く言えば辺境地として見捨てられたようなもので、例えば先述の915年の十和田湖の大噴火なども、日本の歴史時代における最大の火山噴火であったにもかかわらず、中央政府の公文書にはほとんどその記録は残っておらず、つまり何ら救済措置も講じられなかったということで、まぁ棄民同然の扱いだったわけです。
ですから、彼らは自力で生きていくしかなかったわけで、北方や大陸との交易に活路を見出していったのでしょう。そうこうしているうちに11世紀初頭ぐらいから地球気温が上昇するようになり、再びこの地でも稲作も可能になり、そこまでに培っていた交易ルートと合わせて、独自の影響力を持った地域となっていきました。更に南方の奥六郡で安倍氏、清原氏、奥州藤原氏などの俘囚勢力が京都の中央政府から半独立的な地方権力を打ち立てるようになると、それらの勢力と結びついて北海道や大陸との交易を担当するようになったのです。
この青森県地方の地に中央政府の支配が及ぶようになるのは、奥州藤原氏が鎌倉幕府によって滅ぼされて東北地方が幕府の支配化に入り、幕府がこの地の守護に南部氏を任命してからのことです。それも鎌倉時代には南部氏は実際にはこの地に赴任していなかったので、現地氏族の安東氏などが独自の権力を維持しており、室町時代になってから南部氏がやっとこの地に赴任するようになって初めて実質的にこの地に中央政府の威令が及ぶことになったようです。
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