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日本史についての雑文その275 蝦夷地と琉球
これで本州の北端まで見てきたことになりますが、続いて蝦夷地、つまり北海道についても少し触れることにします。「蝦夷地」という呼び名は「蝦夷の住む地」という意味であり、日本国の中央政府の人間はこの地に蝦夷が住んでいると認識していたということになります。律令政府にとっての「蝦夷の住む土地」というのは青森県地方であったのであり、北海道地方はその延長線上の地であり、青森県地方に住んでいるのと同じ蝦夷族の住む地であるという認識であったのでしょう。

北海道は2万年前のヴュルム氷期最盛期の時代には北方の樺太と地続きで、樺太もユーラシア大陸と地続きで、歩いて多くの新モンゴロイド狩猟民が渡ってきました。そしてこの頃は津軽海峡も地続きであったために、その新モンゴロイド狩猟民は歩いて本州方面へも渡っていきました。
この北海道から本州へ渡った新モンゴロイド狩猟民が東日本の縄文人の主要な構成要素になっていくのですから、縄文時代に北海道に住んでいた人々の多くは本州の東日本の縄文人と共通の先祖を持つ人々であったと思われます。
ただ1万4千年前に津軽海峡の陸橋が消滅したために海によって北海道と本州は分断され、新モンゴロイド狩猟民同士の行き来が不可能になったことによって、それぞれが独自の発展を遂げていくことになり、互いの交流が無いわけですから、自然と全く違ったものに育っていったと思われます。
特に北海道と本州とで違っていた点としては南洋系海洋民の影響の有無で、黒潮は北限が三陸沖までで、そこまで北上すれば太平洋の彼方へ去っていきますから、北海道には南洋系海洋民の影響は及びません。一方、日本海側の対馬海流はその多くは津軽海峡を抜けて太平洋へ出て親潮と混ざって三陸沖へ南下して太平洋の彼方に去っていきますが、一部は北海道の日本海側を北上して宗谷海峡からオホーツク海へ抜けていきますから、東南アジア系海洋民の影響は幾らか及びました。また、親潮に乗ってアリューシャンやカムチャツカ、千島列島方面からやって来た海洋民というものもいたのですが、このエスキモーと同系と思われる北方系海洋民の影響を本州は殆ど受けなかったのに対して、北海道は比較的強くこの影響を受けたようです。

このようにして北海道と東北地方は、基本的には同質の縄文文化の基盤の上にありながら、その内容はかなり違ったものとなっていったのです。例えばアイヌ語は日本語とは全く別言語とされ、文法的には日本語と同じくツングース系統の言語の特徴であるSOV型でありながら、日本語には見られずアメリカ先住民族やエスキモーの言語と同じ抱合語の特徴を有し、また発音も日本語とはかなり違うのは1万年以上もの長い年月の間互いにほとんど交流が無かったからであろうと思われ、語彙に共通したものが殆ど見られないのも交流の欠如および、アイヌ語には南方系の語彙が欠如しており、日本語には北方系の語彙が欠如しているからなのでしょう。特にアイヌ語と日本語との距離を遠くした要因としては、アイヌ語が文字を持たなかったこともあると思われます。例えば琉球語が「ひらがな使用」という共通の基盤を持っていたため、日本語との距離を近いまま維持したのとは対照的といえるでしょう。
このように言語などはかなり違ったものになっていったのですが、縄文時代の生活様式としては基本的には同じような狩猟採集生活であったのであり、もちろん地域特性による違いはかなりありましたが、ただそれは地域差といえるレベルに留まったものでした。むしろ決定的に北海道と本州の古代文化を隔てたものは弥生文化の有無の違いだったといえるでしょう。
暖流である対馬海流の本流は津軽海峡から太平洋に抜けていく津軽暖流のほうで、北海道の西岸を北上する宗谷暖流はあくまで支流であって、本州の日本海側が受けていたほどの暖流の恩恵を北海道の日本海側が受けるというわけではありません。そして北海道の東岸は完全に寒流の親潮の影響を受けており、またなんといっても高緯度地方ですから古代においては稲作の北限を超えていたと思われます。
また、対馬海流に乗って稲作を伝えていた出雲系氏族も、対馬海流の本流が北海道沖までは達していなかったため、ほとんど北海道までは到達しなかったと思われます。そうこうしているうちに2世紀には地球が寒冷化し始め、稲作が北海道に伝わる機会は失われました。
日本列島における地域共同体は水田稲作を集落の構成員共同で行うことによって形成されたもので、それが小国家にまで発展して弥生文化を築いていくことになったのですから、水田稲作が伝わらなかった北海道においては本州以南のような農村共同体は生まれず、つまり小国家も生まれず、弥生文化も生まれませんでした。
例えば宗教も、本州以南においては縄文以来の自然信仰の上に重層的に農耕神や開拓神、航海神などへの信仰や、共同体守護のための祖霊祭祀も加わっていって神道が形成されたのですが、北海道においては農村共同体が生まれなかったために自然信仰のみの状態が続き、本州以南とは異質な宗教世界が形成されたのです。

こうして古代北海道では古代日本とは異質な文化が成立したのですが、これがアイヌ文化そのものではありません。この古代北海道文化は縄文時代の延長である続縄文文化といわれるもので、これが独自に発展して6世紀に擦文文化という鉄器を使用して雑穀農耕をいくらか行うような文化で、本州でいえば縄文時代末期の生活に似ているような感じの文化が成立しました。
この頃、本州最北端の青森県地方では寒冷化の影響で稲作が困難になり、9世紀には律令国家の外の蝦夷の地という扱いを受けることとなりました。こうした状況の中で青森県地方の蝦夷の人々は交易に活路を見出して北海道の南端部へも渡ってくるようになったのです。
北海道は巨大な菱形の本体部分と、その南西に付属した渡島半島の部分とでは気候や植生も違っており、本体部分が本州とは隔絶した環境を有しているのと違って、渡島半島部分は東北地方の延長といえる特徴を有しており、植生も東北地方の北部と共通したものでした。そういう地であるので青森県地方の蝦夷の人々にとっても暮らしやすい土地であり、津軽海峡を渡って渡島半島の南部にも住み着き、北海道の擦文文化の民との交易を行ったものと思われます。
つまり、日本列島の中央政府の側から見れば、青森県地方も北海道南端地方も、両方とも「蝦夷の住む地」であり「蝦夷地」であったわけなのです。実際は蝦夷は北海道の南端部に少し住んでいただけなのですが、北海道の北のほうがどうなっているのかなど中央政府の人々は知りませんから、とにかく津軽海峡の北の陸地は蝦夷の住む土地であるという理解をするようになり、北海道は「蝦夷地」と呼ばれるようになったのです。
そして11世紀末に奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされて東北地方の北端まで日本国の中央政府の管轄内に入るようになると、日本人、つまりアイヌ人が言うところの「和人」が北海道南端部に進出するようになり、この和人のもたらした文化の影響を受けた擦文文化が、更に北海道北部地方に存在した熊を神聖視するオホーツク文化の影響も受けて、13世紀ぐらいに独自のアイヌ文化へと変化していくこととなったのです。

要するに、「アイヌ人」と総称できるような民族集団は13世紀に生まれたのであり、結局はそれがアイヌ国家といえるようなものを形成することは無かったのであり、また「アイヌ人」の先祖は東北地方に居住していた「蝦夷」そのものではなく、「アイヌ人」の先祖を構成していた種族のうち最も主要な種族と、「蝦夷」の先祖を構成していた種族のうち最も主要な種族とが同一であったというような関係であったと解釈すべきでしょう。
9?13世紀ぐらいは、北海道の大部分にはアイヌ人の先祖となる種族が居住しており、北海道南端部に蝦夷が少し住み着いていたという状態で、それが13世紀以降は北海道南端部に「和人(といっても実際はほとんどが日本人化した蝦夷だが)」がやって来るようになり、その和人が既に住んでいた蝦夷を同化して北海道南端部に和人居住区を作り、その影響を受けて北海道においてアイヌ人社会が形成されるようになりましたが、和人は北海道南端部より北へ行くことはあまり無く、あくまで和人とアイヌ人は住み分けており、交易関係にはありましたが、混じり合うということは無く、何度か衝突などもありましたが、基本的には住み分けて共存していたようです。
そういう状態が18世紀末にロシア船が蝦夷地に来航したことへの対抗措置として江戸幕府が蝦夷地を直轄地として開発を開始するまで続き、それ以降、アイヌ社会の和風化が進み、1868年の明治維新以降は日本人の北海道への入植が大々的に行われるようになり、アイヌ人の同化政策が行われていき、現在はアイヌ人はほとんど日本人と区別がつかない存在となっています。

最後に、北の辺境である蝦夷地に触れたついでに、南の辺境である琉球についても触れておきます。
日本本土と蝦夷地と琉球の共通点は、1万4千年前のヴュルム氷期終結以後にほぼ似通った縄文式の文化を有していた点です。しかしその後の歩みが違っており、日本本土では紀元前4世紀から紀元前後のあたりまでに弥生文化への移行を完了し、琉球と蝦夷地はその移行は起きませんでした。
そして蝦夷地では上記したように国家が形成されることはなかったわけですが、琉球はアイヌ社会とは違い、12世紀ぐらいから独自に稲作を中心とした農耕社会に移行して各地の豪族が力をつけていき、15世紀には統一王朝が成立して、日本国とは別個のれっきとした独立国家を形成していました。それにもかかわらず、現在に残る琉球語はアイヌ語よりも遥かに日本語に近く、日本語と同系統である唯一の言語とされています。これはつまり、縄文時代の元来の琉球民族と日本民族との同質性が、縄文時代の蝦夷地の住民と日本民族との同質性よりも高かったからでありましょう。

2万年前のヴュルム氷期最盛期には九州南端から福建省あたりまでは琉球古陸という細長い弧状の陸塊が繋がっており、対馬陸橋を通って日本列島へ入ってきた新モンゴロイド狩猟民のうち、それほど多かったわけではないと思いますが、この琉球古陸の方面へ南下していった人達もいたと思われます。
そして1万4千年前にヴュルム氷期が終結して海水面が上昇した際に、この琉球古陸もその大部分が海中に沈み、標高の高かった部分だけが島となって取り残されました。これが南西諸島なのですが、この島々に新モンゴロイド狩猟民が取り残されたのです。
ここから縄文時代に入るのですが、琉球古陸が消えたことによって、この南西諸島は黒潮の通り道となり、黒潮に乗って北上してきた南洋系海洋民が南西諸島にも漂着するようになっていきました。また、南西諸島の西端は台湾や南シナに近く、東南アジア系海洋民の活動エリアに接していたので、島伝いに東南アジア系海洋民もやって来るようになりました。
このように見てみると、琉球地方の住民の構成は縄文時代の日本本土における住民の構成とほぼ同じであり、それゆえに琉球語と日本語はその発音も語彙も文法も似通ったものが多いのです。いや、むしろ琉球語の特徴には日本語の古語の特徴と似たものが多く、孤立した島であるゆえに日本語の原初の形態を残したものであるといえるでしょう。
琉球語は後に13世紀になって表音文字として日本から平仮名を導入して公文書などにも使うことになりますが、例えばアイヌ語などの発音は平仮名で表記するのは困難なのですが、琉球語の場合は全く無理なく表記可能であり、つまり日本語と同系統の言語であるということなのです。

こういう感じですから、琉球では日本本土の縄文文化と似通った文化が生じました。ただ、森林地帯が豊富ではなく、海が豊富であったので、狩猟採集よりは海洋民の行う漁労や交易のほうが中心となったものではありました。宗教的には日本本土で神道の前段階に見られたような原始的なシャーマニズムが存在したようです。
ただ、日本本土のほうには紀元前4世紀にもたらされた稲作革命が琉球には長らくもたらされなかったのです。これはやはり大陸からも日本列島からも隔絶した島であったからでもありましょうし、また、稲作がもたらされていたとしても、海の幸などの恵みが豊富であり、また多くの島では十分な耕地も無かったので、稲作は定着しなかったのでしょう。こうして似通った縄文文化を持っていた日本と琉球はここで歩む道を違えることとなり、日本本土では稲作共同体からリーダーが生まれて共同体の統合、小国家化へと進んでいったのですが、琉球では海洋性の縄文文化がずっとそのまま続いたのでした。

そうして日本本土では大和王権の成立を経て律令国家を形成し、それが解体しつつ封建制へ移行しようとしていた12世紀ぐらいになって、琉球でもようやく稲作や畑作を中心とした農耕社会に移行しました。これは、おそらく交易網が広がってシナや日本、東南アジアなどを結ぶアジア貿易の中継基地化してくるに従って、多くの異国人が琉球に駐在するようになり、そうして増えた人口を養うために農耕を行う必要性が生じて、大陸や日本から農耕技術が伝えられたのでしょう。
そして農村共同体の共同作業を通して地域の指導者が現れ、彼らが交易で利権を持つようになり豊かになり勢力を拡大して豪族となっていき、それらの豪族同士の合従連衡の中から王権が生まれていったのです。こうした変化というのは日本本土においても紀元前4世紀から7世紀にかけてゆっくり進行したものなのですが、狭い琉球ではこの変化が急速に進展して、15世紀には統一王朝の支配する琉球王国が成立しました。この琉球王国ではシナや東南アジア、そして日本などの影響を受けて独自の文化を形成し、アジア交易で栄えることとなったのです。

この成立したばかりの琉球王国には15世紀に神道が導入され、琉球八社といわれる神社が建てられて信仰を集めました。その代表格の神社が那覇港を望む高台にある波上宮であり、社伝によれば、釣り人が浜辺で光り言葉を話す霊石を見つけ、石が自ら熊野権現であると名乗り、この地に社を建てて祀れば国家を鎮護すると神託を下したので、その旨を琉球王府に奏上して、社殿が創建されることになったとのことですが、この地はもともと海の神に関連する聖所として崇敬されていたようです。
このような社伝や経緯を見ると、これは日本における神道と全く同じものであり、日本において農耕社会から統一国家を形成する過程で生じた神道が、この琉球でも農耕社会から統一王朝が形成された後、別に日本人による強制でもなんでもなく自然に受け入れられて信仰を集めたのですから、つまり農耕開始前の琉球社会や文化というものが日本本土における農耕開始前、すなわち縄文時代の社会や文化と極めて似通っていたということを表しているといえるでしょう。

15世紀に成立した琉球王国は16世紀前半にはシナや東南アジア、日本との間の中継貿易によって繁栄して黄金時代を迎え、奄美大島から八重山諸島までの南西諸島のほとんどを支配するようになりますが、このような貿易の繁栄はシナを支配していた明朝の海禁政策を利用したものであり、16世紀後半になって明が海禁政策を緩和してシナ商船がアジア海域で活動するようになり、更にスペインやポルトガルの商船が活動するようになると、琉球王国の商船の存在意義は薄くなり、琉球は衰退し始めました。
16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵以後、日本と明の関係は悪化し、明に朝貢せずに明との交易を再開したい江戸幕府は琉球を介した間接貿易を考案し、琉球に申し入れたのですが、これを琉球王国が日本への服属と解して拒否したために、1609年に江戸幕府は薩摩国を支配する島津氏に命じて武力侵攻をさせて琉球王国を服属させました。なんとも乱暴な話ですが、当時の日本は実質的にはまだ戦国時代でしたから、こういうことが普通の風潮だったのでしょう。
こうして17世紀以降、琉球王国は日本に服属することになり、表向きは琉球王国は存続しましたが、薩摩藩の間接統治を受けることとなり、薩摩藩は琉球を介した密貿易で富を築くことになりました。そしてそのまま明治維新を迎え、明治政府は1872年に琉球王国を廃止して琉球藩を設置し、1879年には琉球藩を廃して沖縄県を設置し、正式に日本の領土となり、その後、本土と同じ法が施行されることとなり、徐々に近代化していくこととなり、住民も日本人化していきました。もともと日本人と極めて近い民族であったので、アイヌよりもスムーズに同化していったものと思われます。

このように、北海道と南西諸島には、7世紀に正式に成立し12世紀には本州、四国、九州の全域に及んだ「日本民族」という民族集団とは異質な民族集団が、19世紀後半までは存続していたといえます。
ただ逆に言えば、19世紀後半から極めて短期間、おそらく50年ほどの期間で、これらの異民族集団は日本民族と全く区別がつかなくなるほど日本化されているのであり、その同化の過程において例えば現在のシナ共産党政府がチベットや東トルキスタンで行っているような民族浄化政策などが行われたというわけでもないにもかかわらず、現在のチベット族やウイグル族がシナ人に対して保持している程度の独自性すら、アイヌ人や琉球人はいとも簡単に失ってしまったのでした。
これをもって日本人の異民族同化政策がシナ人のそれよりも優れているなどと主張したいわけではありません。おそらく日本人がチベット人やウイグル人を同化しようとしても、決して上手くいかないでしょう。いや、誇大妄想狂のシナ政府じゃあるまいし、そもそもそんなことをしようとは思わないでしょうが。
アイヌ人や琉球人が簡単に日本人化したのは、それらがもともと日本人に近かったからだといえます。具体的には、民族を構成した種族が似通っていて、割と似通った自然環境の中で似たような縄文文化を長期間にわたって共有し、その後も一定の交流を継続していたという点で、日本人に同化しやすい要素が揃っていたのだといえます。
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