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日本史についての雑文その276 台湾と朝鮮
これが台湾の場合は、ヴュルム氷期においては琉球古陸に含まれていたので西南日本や琉球と共通した種族の新モンゴロイド狩猟民もやって来ていたと思われ、またヴュルム氷期終結以降には琉球と同様、スンダランド起源の旧モンゴロイドの南洋系海洋民や東南アジア系海洋民もやって来たとも思われ、それらだけであれば西南日本や琉球と極めて似た種族構成であったといえます。縄文時代あたりはかなり共通した文化を持っていた可能性もあります。
しかし、紀元前2000年以降に中央アジア方面から華北や雲南やタイ、ミャンマーなどの東南アジア内陸方面へ移動してきたシナ・チベット語族の言語を話す新モンゴロイドの種族のうち、華北に住んでいたシナ人が4世紀以降シナ南部に移動してきて、それによって次第に押し出されたオーストロネシア語族の言語を話すシナ南部に居住して独自に発展していた旧モンゴロイドの種族が台湾に渡り、そこからフィリピンやインドネシア方面に広がっていったのですが、台湾においては日本の古墳時代ぐらいにはこの種族が極めて多くなり他の新モンゴロイドや旧モンゴロイドを呑み込んで、これが主流となり台湾原住民の諸族を形成しました。
このようにして出来上がった台湾原住民は同時代の日本や琉球の文化とはまた違った独自の文化を持つようになりました。ただ、そうは言っても起源は同じく南方系の旧モンゴロイドの海洋性文化ですから、日本や琉球に来ていた南洋系や東南アジア系の海洋民の文化と共通した部分も多々あり、また彼ら台湾原住民の中からも黒潮に乗って日本列島方面へやって来た者もいたであろうと思われ、少なくとも、シナ大陸を占有するようになったシナ・チベット語族系の新モンゴロイドの末裔であるシナ人よりは文化的に近しい関係にあったといえます。

そうした原住民の居住する台湾は、言語がバラバラな多数の原住民種族が狩猟採集生活を送りながら分立抗争する島となり、国家が生まれることがなく長い年月が経ち、この間、日本との交流は倭寇の停泊地にした程度であり、事実上皆無といっていいでしょう。
その後、台湾は1624年にオランダ、1662年に明の遺臣である鄭成功による占領を受け、1683年にその鄭氏政権を滅ぼした清朝が行きがかり上、統治することになったが「化外の地」としてほとんど放置されました。しかしそうは言ってもバイタリティー溢れるシナ人ですから、18世紀あたりから、福建省あたりから閩越系のシナ語を話す南方シナ人の食い詰めた移民が台湾に渡って開拓や交易をしようとしました。
ただ、清朝はシナ人が台湾に住みつくことを好まなかったので、女性の移住は禁止され、移住していった福建シナ人はみんな男でした。そういうわけで彼らは彼らに友好的になって共に平地で暮らし始めた原住民の部族の女性と結婚して混血児を作り、この混血児を中心とした友好的部族の末裔が人口を増やして共通言語として福建省の閩越語をベースとした台湾語を使用し、現在で言うところの「本省人」という台湾の人口の80%以上を占める民族集団を作ったのです。
こういった状況の台湾を、1895年以降、日本が統治することになったのですが、民族血統的には近からず遠からずという程度でしたが、文化的には縄文文化はともかくその後は日本とは違いも大きく、言語も全く違い、そもそも以前からの交流の歴史がほとんど無いわけですから、統治は本当に大変であったろうと思います。それが1920年代以降は安定し、台湾人の日本人化も進むようになったのは、日本人の台湾統治が優秀なものであったと自負してもいいところであると思います。ただ、日本統治以前の台湾社会が、あまりにも「化外の地」として放置されて原始状態に近かったので、台湾人にとって史上初めてまともな統治である日本の支配があまりに隔絶したものとしてむしろ反発よりも歓迎される面のほうが多く、受け入れられやすいという側面はあったとは思われます。

また、朝鮮半島については、ヴュルム氷期においてシベリア方面から南下してきたツングース系言語を話す新モンゴロイドの種族は西南日本に渡る際に必ず朝鮮半島を通るのであり、西南日本に住んでいた新モンゴロイドと同じ種族の新モンゴロイドが朝鮮半島にも住んでいたと思われ、ヴュルム氷期終結以後は朝鮮半島南部の海岸には対馬海流に乗って日本列島の日本海側にやって来たのと同じような種族の東南アジア系海洋民もやって来たと思われます。
ただ、朝鮮半島の北部にはまた別の新たな北方民族の流入が断続的にあったであろうし、それが半島南部にまで下りてくることもあったでしょう。また、朝鮮半島の西部からはシナ人の流入もあったことでしょう。北方民族もシナ人も、多少は日本列島へもやって来た可能性はありますが、海で隔てられた日本よりは陸続きの朝鮮半島、それも北部のほうが段違いに多くの影響を受けたと思われます。
そういうわけで、朝鮮半島では農耕開始前の太古の時代においては縄文文化と類似した文化が見られ、農耕はシナ方面から伝わったものですからその導入はむしろ日本よりも早く、その農耕文化も弥生文化に類似した特徴があります。ただ日本との類似性は南のほうへ行くほど強くなり、北のほうへ行くほど、また時代が下るほど、日本との異質性が強くなるというのは、やはり北方のほうからジワジワとシナ文化や北方文化の影響が浸透してきているということでしょう。
紀元前2世紀までは、朝鮮半島の南部については西南日本との文化的類似性はかなり高かったと見ていいでしょう。ただ、朝鮮半島には南洋系海洋民文化の要素が欠如していたので、西南日本の中でも特に北九州や出雲との類似性が高かったと思われます。

ところが紀元前108年に第一次シナ帝国を確立した漢の武帝が朝鮮半島を占領して属領にしてしまい、その後すぐに緩やかな統治となったのですが、それでも4世紀初頭に第一次シナ帝国が崩壊するまでは朝鮮半島は約400年間もシナ帝国の影響下にあり、シナ文化の大きな影響を受けました。
ただ、シナ帝国の属領統治の方針により、この期間は地域共同体や小国家の発展が抑制されていたため、シナ文化の影響は個別的部分にとどまり、社会制度上の影響はあまりありませんでした。むしろ最大の悪影響は、国家形成への動きが完全に立ち遅れていたことでした。
そういうわけで4世紀初頭に朝鮮半島におけるシナ帝国の抑止力が消滅した後、北からは高句麗などの北方民族の勢力、南からは日本列島の倭国の勢力が侵入してきて、力の空白を埋めようとしたのです。もともと半島の北部は北方民族の文化と類似性が強く、半島の南部は倭国の文化と類似性が強かったからでした。
そうした中で、半島北部は高句麗に占領され続けましたが、半島南部においては倭国の影響下で原住民の独自の共同体が形成されていき、国家が形成されていき、南北朝時代のシナ大陸に接近することによって倭国からの自立を果たしていくことになりました。ただ、これによってシナ文化の影響を再び強く受けるようになっていきました。
そして、第二次シナ帝国を築いた唐と組んだ新羅が663年に百済を滅ぼして倭国の勢力を朝鮮半島南部から駆逐し、668年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島北部も平定し、676年には唐の勢力も追い払い、新羅による朝鮮半島の統一的な支配がなされることとなったのです。

この統一新羅はシナ帝国の朝貢国となり、シナの政治制度などを積極的に取り入れることとなり、同時代の日本がシナ文化の導入はいくらか抑制的であったのに比べ、新羅においてはシナ化が加速度的に進んでいき、政治制度だけでなく文化的にもシナ化が進んでいきました。これは漢の属領となって直接統治を受けていた時代よりもむしろ政治制度化されたシナ化であり国家そのものがシナ化していくという意味で、よりシナ化の度合いが強く、朝鮮半島国家そのもののシナ化としての「小中華思想」というものを生み出しました。
日本においても当初は「小中華思想」が形成されたのですが、それは日本を中心とした、かなり改変された中華思想であり、それも10世紀に唐が滅びて第二次シナ帝国が消滅すると日本における律令体制も崩壊し、中華思想も捨てられました。一方、新羅も唐の滅亡後は後を追うように滅亡しますが、その後を継いだ高麗も新羅と同様の基本的には小中華思想を奉じたシナ風の中央集権の律令国家となりました。これは新羅時代にシナ化が制度化されるまでに進展していたからでした。
その後、朝鮮半島では14世紀末に高麗を滅ぼして李氏朝鮮が成立しますが、これは高麗よりいっそう小中華思想の度合いを強めた国家で、ここに至って朝鮮半島はほぼシナ帝国の属国と化します。そしてその李氏朝鮮と日本は1876年の日朝修好条規締結以降、やっとまともな交流を開始することになるのです。
統一新羅の成立以前は日本人は朝鮮半島とは活発な交流を行っていたのですが、新羅と日本は過去の経緯もあり基本的に疎遠で、そのうちに朝鮮半島国家はシナの属国と化していくにつれて対外的に閉鎖性を増していき、特に華夷秩序の外に身を置くようになった日本とは正式に国交を持たず、それでも隣国ですからそれなりの交渉や衝突などはありましたが、それらは倭寇のような非合法なものか、あるいは朝鮮通信使のような単なる官官接待のようなものか、さもなければ元寇や秀吉の朝鮮出兵のような突発的戦争のようなものばかりで、民間の活発な交流というものは1876年以前は存在しなかったと言っていいでしょう。

そしてそうした民間交流が1200年ぶりぐらいに復活した時点で、朝鮮の社会は日本で言えば平安時代ぐらいのレベルで停滞したままだったのです。その後、日清戦争、日露戦争を経て朝鮮半島におけるシナやロシアの勢力を排除した日本では、朝鮮半島の安定化と自立を促すための発展のために日本の保護国とするべきであるという論調が支配的となり、それが日韓併合という案に発展し、1910年に日韓併合がなされたのです。
このように、朝鮮半島の住民は日本人と血統的には比較的近く、特に南部に関しては、台湾人やアイヌ人よりもよほど日本人に近しい存在であったといえます。ただ文化的には、元来は類似点のほうが多かったのですが、統一新羅以降はシナ文化の強い影響を受けて完全に変質し、日本文化との共通点はかなり少なかったと思われます。そして民間レベルでの交流はほぼ皆無であったわけですから、やはり朝鮮半島の統治も困難なものであったと思われます。
これが順調に行われ、朝鮮人の日本人化も進んでいった理由は、やはり併合時の日本と朝鮮の間の文明レベルの差があまりに大きかったので、民衆レベルでは日本の統治は歓迎される要素のほうが多かったことと、李氏朝鮮末期の統治があまりにも酷いもので民衆の反発を買っていたこと、そして、長年のシナへの属国思想が染み付いた朝鮮の人々にとっては現実的に朝鮮半島を軍事的に押さえている日本こそがシナに代わる新たな宗主国であるという考え方はそれほど抵抗を感じるものではなかったということが挙げられると思います。

このように、相違点というものに着目すれば、台湾も朝鮮も日本とは違った点が大きいように見えますが、どちらも縄文時代においては日本と似通った文化を有していたわけで、しかもその縄文時代というものがその後の歴史時代に比べて圧倒的に長いわけですから、巨視的に見れば同系統の文明であるとも考えられるわけで、日本による統治が一定の成果を上げたというのも頷ける部分もあるのです。

さて、最後に余談で台湾と朝鮮にまで話が飛んでしまいましたが、これでやっと河川ルートや海路、古い神社の伝承などを使って古代日本の各地の実際の姿を復元していこうという試みは終了し、これでやっと元の年代順の歴史叙述に戻れます。
私は本来、この文章はあまり個々の歴史事象に深入りせずに全体像を俯瞰するような叙述を心がけたいと思っており、特に現在の国民国家文明のサイクルに入る以前、つまり幕末以前の歴史についてはそのようにしていきたいと思っているのですが、720年の日本書紀成立以前の歴史については、あまりにも歴史の実態が不明であり、そのために私がやろうとしている全体的な文明史の叙述にも支障をきたす恐れもあるため、この時代については少しこうやって深入りして再構築を試みている次第であります。
また、私がこの文章で考察していきたいテーマの1つに、日本文明というものが外来の文明を主体的に取捨選択して取り入れることによってリニューアルを繰り返してきたものであるという考えのもとで日本史を世界史の中で捉え直していきたいというものがあります。そのために日本の対外関係を見ていかねばならないのですが、最初から日本という国家が統一国家でなかった以上、7世紀末に日本国が成立する以前の日本列島内の「国際関係」を見ることや、その後の東国との関係を見ることも、日本の対外関係史の一種であり祖形であるものを見ることを意味し、日本という国や日本人という民族が対外関係においてどのような行動パターンをとることが多いのか考察する上でも大いに意義があると思ったのです。
そういうわけで思わず長い脱線になってしまいましたが、ここまでの脱線部分での考察を踏まえてここからの歴史叙述をやっていくわけで、とにかく昔のことなので正確なところが不明の部分が多く、それを全て不明のままで置いておいては歴史叙述として繋がっていかず、全体史の像が結べないので、いくらか思い切った仮説でその不明部分を補っていかねばいけないのですが、ここまでの脱線部分の中にもそうした仮説が幾つか提示されており、そうした仮説も使っていきたいと思います。
ただ、あくまで仮説ですので細部においては歴史的事実とは食い違った部分もあるかもしれませんが、それでも大きな歴史の流れとしてはそれほど大きな間違いは生じないように、仮説は使いつつもだいたいは正しいと思われる大まかな歴史の流れの範囲内でのやや突っ込んだフレキシブルな部分として使っていきたいと思います。
では、ここで脱線前の流れに戻し、何せ脱線が長かったもので、もう一度10万年前からの流れをまずは簡単に振り返ってみたいと思います。
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