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日本史についての雑文その277 古代の東亜諸部族
10万年前にアフリカ中南部において出現した現生人類はその数を増やして、7万年前に北方に分布していた原人や旧人などの先行人類が氷河期に適応できずに滅びた後、6万年前に現生人類の一部はアフリカ大陸から他の大陸へ移動を開始しました。これらのうち北へ向かった集団は4万年前までに北アフリカ、中東、ヨーロッパ、コーカサス、中央アジアなどに広がり、後に乾燥地適応してコーカソイド(白色人種)となり、アフリカ中南部に残った集団は後に熱帯適応してネグロイド(黒色人種)となりました。
そして、東に向かった集団はインドを通って5万年前にインドシナの東のスンダランドに達し、ここで海洋民としての特性を強め、3万年前までには一部はインドシナから北上してシナ地域に広がり、一部はスンダランドから太平洋地域のポリネシアやミクロネシアへ拡散していきました。これらが旧モンゴロイド(旧黄色人種)です。おそらくこの時に太平洋へ拡散した旧モンゴロイドの一部が日本列島にもやって来たと思われ、これが日本列島における最初の現生人類ということになるのでしょうけれど、その人数はごく少ないものであったと思われます。また、スンダランドからオセアニアに渡った旧モンゴロイドは後にオーストラロイドというネグロイドによく似た人種となり、これが後にアボリジニーなどのオセアニアやメラネシアの原住民となりました。
シナ地域から更に北上して3万年前にシベリアに達した旧モンゴロイドは寒冷適応して新モンゴロイド(新黄色人種)となり、狩猟民としての特性を強めていきました。この新モンゴロイドが2万年前のヴュルム氷期の最盛期に人口を増加させてユーラシア大陸を南下し、満州、モンゴル、中央アジアなどの草原地方に広がっていきました。また、東シベリアにも分布しエスキモーとなり、更に東に向かい、地続きとなっていたベーリング地峡を渡ってアラスカやグリーンランドへ渡り、更に南下して南北アメリカ大陸の原住民となりました。

この2万年前の新モンゴロイドのユーラシア大南下の際に、ユーラシア大陸の東端の満州方面へ南下した新モンゴロイドの一派が樺太陸橋と対馬陸橋を通って樺太、北海道、朝鮮半島、日本列島および琉球古陸へも移動してきたのです。
そして、1万4千年前にヴュルム氷期が終わり、海水面が上昇して樺太、北海道、本州、四国、九州、南西諸島、台湾はそれぞれユーラシア大陸とは切り離された島となり、朝鮮は半島となりました。これらの地域にはこの段階ではツングース系の新モンゴロイドの様々な部族が住んでいたことになります。
また、このヴュルム氷期の終結後、現在のインドシナ半島からインドネシア一帯に存在した大陸塊であるスンダランドも大部分が6000年前までに水没し、この間にここに居住していた旧モンゴロイドが周囲に拡散するようになり、このうちスンダランドの北へ逃れてミクロネシアに住み着いた南洋系の旧モンゴロイドの複数の部族が波状的に黒潮に乗って台湾や南西諸島や日本列島の太平洋側にやって来るようになりました。
また、スンダランドの西へ逃れてインドシナやマレー、インドネシアに住み着いた東南アジア系の旧モンゴロイドの複数の種族も南シナ海や東シナ海に漕ぎ出してシナ沿岸部や台湾、南西諸島に拡散し、また対馬海流に乗って日本列島や朝鮮半島南部の日本海岸へ波状的にやって来るようになりました。これには、スンダランドではなく元々早期からシナ南部に住み着いていた旧モンゴロイドの中のいくらかの部族も混じっていたと思われます。

こうして新モンゴロイドが多く住む日本列島を中心としたこれらの地域に、旧モンゴロイドが海路で波状的にやって来るようになり、これらが混じり合い、だいたい紀元前4000年までには独自の縄文文化を共有した諸部族が形成されていきました。
それは豊かな森林と河川と海の恵みを背景とした狩猟採集文化であり、独自の交易網を張り巡らせたものでした。言語的には新モンゴロイドがツングース系のSOV型の文法を有して多数派であったので、その文法を基礎にして、そこにオーストロネシア系に近い旧モンゴロイドの言語から多くの語彙を加えたものになりましたが、これはそれぞれの地域に住む部族の細かな違いによって、かなり違ったものにもなっていきました。
例えば、2万年前に移住してきた新モンゴロイドに関しては、樺太や北海道、本州東部に住む部族と、本州西部、四国、九州、朝鮮半島、南西諸島、台湾に住む部族とでは微妙に違ったものがあり、人口も前者のほうが多く後者のほうが少なく、後者の地域のほうが縄文時代以降にやって来た新来の部族の影響力が大きくなる傾向がありました。
また、海を渡ってきた旧モンゴロイドに関しては、日本列島の南岸や東岸においては東南アジア系の部族はあまり見られず、逆に日本列島の西岸や北岸、朝鮮半島の南岸においては南洋系の部族はあまり見られませんでした。そして、旧モンゴロイドは全体的には東や北へ行くほど少なくなる傾向にありました。
また北海道や樺太に関しては、旧モンゴロイドはほとんどおらず、ヴュルム氷期終結後に北極海と繋がったベーリング海峡から親潮が流れてくるようになり、それに乗ってエスキモー系の新モンゴロイドがやって来て新モンゴロイドと混じり合うようになりました。また朝鮮半島の北部には旧モンゴロイドの影響はあまり及ばず、むしろ陸続きに常に新来のツングース系の新モンゴロイドの部族の流入を受けていました。逆に南西諸島や台湾には旧モンゴロイドの海洋性文化のほうの影響のほうが大きかったと思われます。
このように地域によって細かな差異はありましたが、この極東エリアは全体的には日本の縄文文化に近似した文化を共有する1つの文明圏を形作っていたと考えることが出来るのであり、この文明圏がシナ文明の「中原」に対置する「東夷」と呼ばれるエリアの中心となっていくのです。

ヴュルム氷期終結後の気候大変動によってユーラシア大陸においては動物が激減して、人々は狩猟を生業としていては生きていけなくなったために1万年前ぐらいにユーラシア大陸南部の湿潤地帯ではコーカソイドや旧モンゴロイドによって農耕が開始され、ユーラシア大陸北部の草原地帯ではコーカソイドや新モンゴロイドによって牧畜が開始されました。
この牧畜民の中から紀元前4000年ぐらいに西アジアの草原においてコーカソイドの部族によって遊牧という生活スタイルが生まれ、これが広まり、この移動性の強い遊牧民と農耕民との交易の場として西アジアにおいては都市というものが作られるようになり、都市文明が誕生しました。この都市が都市国家に発展し、都市国家内のトラブルの裁定人として王が生まれ、紀元前3000年ぐらいに最初の王朝が西アジアにおいて生まれました。
そして紀元前2000年ぐらいに西アジアの都市国家において馬車が発明され、移動性の上昇によって大帝国が築かれることになり、またユーラシア大陸で民族の大移動が起きて都市文明がインドやシナ方面にも広まっていくことになったのです。
西アジアの大帝国の膨張によって西アジアに居住していたコーカソイドの遊牧民であったアーリア族は東方へ移動してイランやインドや中央アジアへ進出し、中央アジアに居住していた新モンゴロイドの一派であるシナチベット族がそれに押し出されてチベットやヒマラヤ、雲南、ミャンマー、タイ、長江の中上流域方面に進出しました。また、黄河上流域にも進出しました。
このうち長江方面に進出したシナチベット族は、この地域で既に旧モンゴロイドのオーストロネシア族によって行われていた農耕を取り入れ、更にそれによって得た農作物を北方の遊牧民に売りつけようとして、河川交通によって北上して黄河中流域に進出しました。そしてそれに呼応して北方の草原地帯に居住していた新モンゴロイドのトルコ族、モンゴル族、ツングース族などが黄河中流域に向けて南下してきました。

こうして紀元前2000年ぐらいに黄河中流域で都市文明が生じました。これが黄河文明で、幾つもの都市国家とその周辺で都市の住人の食料を生産する農村の集合体である小王国が形成され、それらをまとめる商業都市連盟の盟主的存在として王朝が作られました。
最初の王朝を築いたのは長江中流域方面から来たシナチベット族の氏族で、この人達が「夏人」といわれ、この王朝は「夏王朝」といわれました。この黄河中流域の商業エリアは「中原」といわれて、この「中原」の異民族間の商取引のための公用語として夏人のシナチベット系のSVO型の言語が使われ、それを異民族間で通じやすくするために表意文字である漢字が発明され、それらの漢字のそれぞれの意味に対応する夏人の言葉の音をそれらの漢字の読み音としてあてていきました。
そして「中原」に居住するようになった諸部族は商取引ではその公用語を使いつつ、その公用語をベースにして自分たちの元々の言語の語彙を組み込んで、それらを独自に漢字に対応させた混合語を作り上げるようになりました。これがシナ語の各方言の起源で、このようにして中原に住んで漢字とシナ語の方言を使い、都市国家の構成員としての義務を果たして商取引に参加する人達が出身部族は問わず「中華の民」となったのです。

一方、この中原の周囲に居住して、都市国家の非構成員で、元来の部族の生活を送り、元来の部族の言語を喋り、漢字も使わないという人達は「中華」に対応して「夷」と呼ばれ、中原の住民たちはこの「夷」を中原を中心として東西南北に分類して「北狄」「西戎」「南蛮」「東夷」と分類しました。だいたい大まかに分類すれば、「北狄」は中原の北方エリアで遊牧生活や狩猟生活を送る人達で、主に新モンゴロイドのトルコ族、モンゴル族、ツングース族で構成されており、「西戎」は中原の西方エリアで遊牧生活を送る人達で、主に新モンゴロイドのシナチベット族とコーカソイドのアーリア族で構成されており、「南蛮」は中原の南方エリアで農耕生活を送る人達で、主に新モンゴロイドのシナチベット族と旧モンゴロイドのオーストロネシア族で構成されており、「東夷」は中原の東方エリアで狩猟生活や漁労生活を送る人達で、主に新モンゴロイドのツングース族と旧モンゴロイドのオーストロネシア族で構成されていました。こう見てみると、日本列島の人達が東夷に属することが分かります。
もちろんこれらの夷の種族は中で更に細かく様々な部族に分かれ、それが更に様々な氏族に分かれており、氏族単位で共同体を形成しており、更に複数の氏族共同体を束ねる王によって統率される王国も各部族の中で幾つも存在しました。また、そのような社会構成は異民族混交状態であった中原でも同様で、各部族の氏族共同体を束ねる王が王国を形成していたのですが、中原の場合は更に様々な部族や氏族の王の上に、中原の全ての王を束ねる天子が推戴されており、天子は世襲で王朝を運営し、全ての王は代々、諸侯となって天子を支えるという仕組みになっていました。

中原の周辺の夷の氏族共同体や王国の中には新たに中原のルールを受け入れて、中原の商業都市連盟に加わるものもあり、そうなると新たに中原の天子に使える氏族共同体や諸侯が増えて、中原の範囲が少しずつ広がっていくことになります。
こうした中原の最初の王朝が夏王朝であったわけですが、ヴュルム氷期終結以降ずっと温暖であった地球気候が変化して、紀元前1500年ぐらいから地球は小氷期が連続するようになり、北狄や西戎の諸族が多く中原に帰服するようになっていきました。そうした北狄の遊牧民出身の殷族の王であった子氏が新たに中原の諸侯によって天子に推戴され、夏王朝に取って代わって紀元前1400年ぐらいに殷王朝が創始されました。
この殷王朝を倒したのが北狄のモンゴル族の一派と思われる周族で、西戎のチベット族の姜族と同盟して中原に攻め込み、中原諸侯の支持を受けて紀元前1027年に周族の姫氏を天子とした周王朝を建てました。そして周王朝は中原の商業都市ネットワークを周辺の夷の領域に拡大していく方針を進め、特に東の東夷のエリアに進出していき、山東半島や遼東方面まで商業都市ネットワークを広げました。
この周の時代に初めて東夷エリアに住んでいたオーストロネシア族の海洋民やツングース族の狩猟民と中原の民が接触し、これらの種族の中からも中原のルールを受け入れて中原の商業都市連盟に加わるものも出てきました。中原のルールとはつまり、漢字とシナ語を公用語として受け入れ、農耕を行って租税を払い、商業都市における交易に参加するということです。
オーストロネシア族の海洋民というのは、朝鮮半島や日本列島に居住していた東南アジア系や南洋系の海洋民とルーツ的には同一種族であり、またこのオーストロネシア族自体も朝鮮半島や日本列島の海洋民と盛んに交流し、これらの地域間で行き来していましたから、この山東半島や遼東半島のオーストロネシア族やツングース族が周王朝の支配化に入ったということを通じて、初めて日本列島の民も中原というものの存在を知ったことと思われます。
また朝鮮半島はこうした東方に拡大した中原エリアと陸続きであったのでその影響を強く受けるようになり、だいたい紀元前1000年ぐらいには北部においては畑稲作の農耕を受け入れるようになり、それがゆっくりと南部へと普及していくようになりました。そして農村共同体が形成されるようになっていったのです。
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