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日本史についての雑文その278 倭人共同体の成長
そして紀元前771年に周王室が西戎の攻撃を受けて王都を洛陽に移して以降は天子の権限は形骸化して、中原内の各地の諸侯がそれぞれ勝手に新たに農地を開拓して勢力範囲を拡大していくようになりました。特に紀元前700年ぐらいには地球気温がまた最低値のピークを迎えて小氷期となり、飢饉によって離散した氏族共同体から農民を吸収した諸侯はそれらの直轄民を使って辺境の開拓を進めていき、夷エリアと軋轢を起こしつつ、夷の王国や共同体との関係を濃密なものにしていったのでした。
こうして諸侯が相争う春秋時代が始まったわけですが、日本列島のある東夷エリアに接した地域の山東半島に勢力を有したのは斉であり、斉も東夷エリアに農耕地を拡大して、東夷の諸族と活発に交易したので、紀元前700年ぐらいには小氷期で自然の恵みが不足していた日本列島にも東夷エリアでこうして普及し始めた畑稲作農業が伝わり、西日本エリアではこの後、紀元前400年ぐらいまでにかけてゆっくりと狩猟採集生活の補助的要素として縄文末期農耕文明が定着していくことになりました。
この斉や、またその北方の諸侯であった燕などによる東方開発の影響は日本列島ではこのように限定的なものでしたが、陸続きの朝鮮半島には大きな影響を及ぼすようになり、朝鮮半島における氏族共同体も中原の商業都市ネットワークとの繋がりが深くなり、そこにまた北方からツングース系の北狄の諸族なども移住してきたりして、朝鮮半島における文化は日本列島における文化とは次第にだいぶ違ったものになっていきました。

一方、中原エリアでは諸侯同士の激しい争い合いが続き、その後、各諸侯の支配領域内で新興貴族階級である大夫同士の争いや大夫による下克上などが起きるようになっていき、氏族社会が混乱してくるようになり始め、そうこうしているうちに南蛮エリアの長江下流域に住むオーストロネシア族海洋民の新興勢力であった越や呉が紀元前500年ぐらいから急速に台頭し、北上して中原の覇権を争うようになり、紀元前473年には越が中原の覇権を一旦握って、山東半島まで勢力を伸ばしました。
この越人が朝鮮半島南西部を経由して日本列島の北九州地域へもやって来て住みつくようになり、紀元前400年頃に水田稲作を伝えたのであり、もともと畑稲作農業の下地のあった西日本エリアに水田稲作はゆっくり普及していき、だいたい紀元前250年ぐらいまでには西日本一帯に水田稲作が普及して、西日本においては狩猟採集を中心とした生活から農耕を中心とした生活、それも農村共同体の成員の緻密な共同作業を必要とする水田稲作の生活へとライフスタイルの大幅な変化が起きたのです。それは、日本列島の住民がシナ大陸の状況を見て、農村における氏族共同体を基礎とした国家形成への志向を持ち始めたことによるものでした。
この紀元前400年から紀元前250年ぐらいの西日本エリアというのは、水田稲作という新技術を加えて縄文末期農耕文明が完成していきつつ、国家形成への第一歩を踏み出していったという状況にあったと解釈していいと思います。
これはつまり、この紀元前400年から紀元前250年の時代というのが縄文末期農耕文明の「転の部」であり、なおかつ、原始国家文明の「起の部」でもあったということです。原始国家文明というのは、皇帝出現以前の古代シナ文明の刺激と影響を受けて、交易都市の機能を備えた小規模な部族国家が形成される以前の前国家的な基盤が整備されていく状態と考えればいいでしょう。
具体的にはこの紀元前400年から紀元前250年の時代は、縄文時代の集落が水田稲作の導入によってより共同作業を重視した形に変化していきつつ、縄文時代の精霊信仰のようなものから水田稲作に触れることによって穀霊や地霊のような農耕神祭祀の原型が生み出されていった時代であったということです。

また、紀元前400年以降に北九州に水田稲作を伝えた越人は、同時に鉄器や青銅器も伝えたと思われますが、日本における水田稲作においては農具としての鉄器はあまり必要とされず、むしろ開墾時の土木作業時に必要で、この時期はあまり多くの需要は無かったと思われます。また青銅器もシナでは祭祀用に使われていましたが、この時代の日本列島ではまだ祭祀が青銅器を必要とするほど成熟しておらず、また、鉄器も青銅器もシナでは武器としてのニーズが高かったのですが、この時代の日本列島ではまだ戦争がほとんど起きておらず、そういった方面の需要もまだあまり無く、鉄器も青銅器もそれほどは普及は進みませんでした。
こうして日本列島や朝鮮半島南部に水田稲作や金属器を伝えた越人も、紀元前334年には越王国が滅ぼされて四散し、幾らかは日本列島へも亡命してきて、倭人社会に同化していったと思われますが、おそらくそれよりも多くの亡命越人が朝鮮半島南部に逃れ、そこからまた朝鮮半島の住民を連れて日本列島へ渡ったり、逆に日本列島から朝鮮半島へ渡る人がいたり、東夷エリアでも騒がしい状況となってきました。

このような状況になった原因として、紀元前400年あたりをピークとして極めて厳しい寒冷期があり、この時にシナ大陸の中原における農村共同体が壊滅的打撃を受けて崩壊してしまい、それに伴い氏族共同体も解体し、新たに生まれた家族単位の独立小農民を取り込んだ諸侯が強大化して、氏族共同体のような中間組織を経由することなく直接に人民を支配する独裁権力と中央集権官僚制を手にした国王となり、戦争も氏族単位ではなく人民が直接に国王の兵士となって参戦することによって大規模化し、また、商業が発達して利権争いも激しくなり戦争も頻発するようになり、春秋時代から戦国時代へと移行したという事情があります。
こうして紀元前400年以降、戦国の群雄たちが激しく争い合う状況がシナ大陸で展開されるようになり、戦争の規模が春秋時代とは桁違いに大きくなり、民衆を巻き込んだ総力戦の様相を呈してきたために、戦争によって発生する難民も増え、そうしたシナ大陸からの難民や亡命民が朝鮮半島には多くやって来るようになり、ますます朝鮮半島の社会は変質していき、中原の影響を受けて共同体の統合も進んでいくようになりました。
このようなシナ大陸からの亡命民の波が日本列島にまで及んでくるようになったのは、戦国の群雄の中から西方の秦が強大化して他国を圧倒するようになり、紀元前293年にシナ全土を支配するための東征という名の侵略戦争を開始して以後のこととなります。この征服戦争によって征服地では大虐殺が起き、全ての氏族共同体は破壊され、秦王の直接支配を受けるようになりました。そのような惨状から逃れるために、東へ向けて進軍してくる秦軍から逃れるために他国の人民は更なる東のほうへ大挙して逃れていくようになったのです。

この秦による他国の征服によって紀元前221年にシナ大陸では秦帝国が成立しましたが、それはかつての殷や周のような氏族共同体を束ねる諸侯が天子を推戴するというような封建制度のシナではなく、絶対権力者である皇帝が全ての人民を直轄支配する皇帝専制体制のシナ帝国でした。この秦帝国がシナ統一後も周辺の夷地域を攻撃したり、帝国内では人民に過酷な労役を課したりしたので、引き続き東方へ逃げ出す人民は頻発しました。
そして紀元前206年に秦帝国が短命に終わり滅びると再び天下は乱れて漢と楚が争い、紀元前202年にシナ大陸の西部で漢帝国が一応成立しますが、シナ大陸の東部には皇帝専制体制に抵抗する諸国が残留して漢帝国と相争い、紀元前154年の呉楚七国の乱によって漢帝国の支配がこれら諸国にも及ぶようになり、ようやくシナ大陸は落ち着くようになったのです。
その間、戦乱のシナ大陸からは東方へ向けて継続的に亡命民が発生して朝鮮半島や日本列島へ逃れてきていました。最初はやはり朝鮮半島に多く逃れていき、半島北部には亡命シナ人が土着民を統治する朝鮮王国を作り、半島南部には古くから半島にいたシナ系の王族が土着民を統治する多数の都市国家の集合体である韓地域が作られ、そのうち特に西側はシナ亡命民が多く住むようになっていきました。
シナ大陸から逃れた亡命民のうち幾らかは日本列島の北九州エリアにもやって来るようになり、ちょうどその頃、紀元前250年ぐらいから久しぶりに地球気候が温暖化に向かい始め、水田稲作が普及していた西日本では農村の氏族共同体が成長し、新たに増えた耕作地を巡ってトラブルが頻発するようになり、特に土地が狭小であった北九州では戦争が起きて氏族共同体がピラミッド状に重層的に統合されていって紀元前100年ぐらいまでには小国家が作られるようになっていきましたが、この戦争や国家形成において、この時代にやって来たシナ系亡命民がそのノウハウを教えるなどの重要な役割を果たしました。

北九州地域において、このような重層的な共同体の統合がなされた理由は、シナ帝国によって追われてきた亡命民たちが皇帝専制体制のような一君万民制度ではなく氏族共同体を基礎とした社会構造を重視する価値観を奉じていたということもあります。
しかし、それ以上に、この時期、倭人社会における素朴な農耕神祭祀にシナ系亡命民のもたらした青銅器を使った儀礼的彩色と祖霊祭祀を加え、日本列島古来の自然霊祭祀の土地守護神的かつ多神教的、祟り神祭祀的な特性を合わせたハイブリッド宗教である神道の原型が形成されるようになったことによって、その影響で大きな共同体の中で小さな共同体が温存されて重層的に重なった複数の共同体の中で複数の神への祭祀が共有されたからなのです。そうして形成された大共同体や国家の指導者は祭政一致型の政治的・宗教的リーダーとなっていきました。
この紀元前250年から紀元前100年の時代は縄文末期農耕文明の「結の部」で、なおかつ、原始国家文明の「承の部」でもあるわけで、つまりは、祭政一致型の共同体の統合によって小国家の原始的形態が形成されていく過程で、縄文時代以来の伝統的な自然神信仰のエッセンスが新しい宗教である神道に吸収されていき、そうした神道的価値観によって水田稲作を基礎として氏族社会を基本単位とした国家形成が進み中間組織の強固な日本独自のスタイルの祭政一致型の重層的な共同体が形成されていったということになります。
こうした状況は紀元前250年以降の西日本において共通した状況だったのですが、土地が狭小でシナ系亡命民を抱えていた北九州エリアでは戦争を通してそうした共同体の統合がより急速に進み、共同体の重層性も特に高くなっていったのです。一方、瀬戸内以東の西日本エリアでは北九州のような上下関係の明確なピラミッド型ではなく比較的対等な連合形式ではありましたが、祭祀を通して共同体のゆるやかな統合が進められていきました。こうして日本列島の各地においては人的物的に損耗が少なく急速に共同体の統合が進むことになったのです。

紀元前250年ぐらいから太陽活動が活発になり、地球気温が上昇し始め、これが紀元後の100年ぐらいまで継続して、この間は年々、海水面は上昇し続けたのです。すると今まで陸地であった所が海になり、船の必要性が高くなり、海洋民の活動するテリトリーが拡大し続けました。
陸地が海になると陸地の民は困ります。残された土地を巡って争いも起きて、それによって共同体の統合再編が進んだとも言えますが、その争いにも船が必要となります。また湿地エリアが増えると水上交易も盛んになり、陸地が減ると産物も農村共同体において不足するので交易がますます必要になり、海上民の活動がますます活発になります。
このように紀元前250年以降は日本列島全域で共同体の統合再編において水上民や海洋民のイニシアチブが高まって、水上民や海洋民がダイナミックに移動して各地域を結びつけていった時代なのです。

九州地方は北西部の「火の国」エリアには東南アジア系倭人が居住し、南部の「日の国」エリアには南洋系倭人が居住していましたが、北西九州の「火の国」エリアに小国家を形成するようになった東南アジア系倭人国家の王達は支配領域内に市場を設けて、朝鮮半島南部の韓地域のシナ商人達と盛んに交易を行い、青銅器で出来た武器や祭器や装飾品などを得て、王国内の大小の氏族共同体の首長たちへの下賜品にしたりするようになり、やがてそれらの青銅器を自前で鋳直したりするようにもなりました。
このように青銅器が祭具として使用され始めたのがこの時代なのですが、北九州においては特に銅剣や銅矛が祭具として重要視される傾向が強かったのは、やはり戦争が頻発していたので戦勝祈願の意味も込めてのことでしょう。一方、戦争があまり起きなかった瀬戸内以東の地域では農耕祭儀に使う祭具として銅鐸が主流であったようです。
こうして北九州では銅剣や銅鏡、そして勾玉の三点セットが王権の象徴として定番になっていきましたが、この勾玉は翡翠製が珍重され、それは朝鮮半島のシナ商人ではなく日本列島内の出雲地方から得ることが多く、北九州地域と出雲地域の間で日本海航路での交易関係が生じるようになりました。

そこで出雲地方では意宇平野において勾玉を作る技術者集団として玉作氏が生まれ、また北九州を介して朝鮮半島から青銅器や鉄器を入手して、それらをも製作したりして、作った青銅器や鉄器を使って祭祀を行ったり土木工事をしたりする技術者集団として、玉作氏から派生して忌部氏も生じ、これらの技術者集団を駆使して東南アジア系倭人の出雲族は出雲地域において祭祀を通じて農村氏族共同体を統合していくようになり、更にこうした技術者集団を伴って西日本の他の地域へ移住し開拓に従事し、出雲と同様に祭祀を通じた共同体の統合を進めていく者も多かったようです。こうして出雲起源の開拓神であるオオアナムチを中心とした祭祀が生じ、広く行き渡るようになっていったのです。
また、勾玉の原材料である翡翠を得るために出雲族は日本海航路で北陸方面まで進出して上越地方に達し、上越と出雲を結ぶ交易路を開き、その経路上の北陸地方の諸地域や、更にそこから内陸部の信濃や甲斐、東海地方、関東地方、そして東北地方までにも移住して開拓し水田稲作の技術を伝えて、ゆっくりと農村共同体の形成から着手していく出雲族の者達もいたようです。

一方、南九州の「日の国」エリアにもともと居住していた南洋系倭人は東九州の国東半島周辺へも進出して「豊の国」エリアを形成し、瀬戸内海西部に進出して交易や開拓を行うようになっていきました。また、瀬戸内海東部にも九州方面とは別系統の四国や紀伊方面を起源とする南洋系倭人が進出していくようになりました。
こうして瀬戸内海方面へ進出した南洋系倭人の各部族は、丹波や近江を経て南下してきた東南アジア系倭人の出雲族と吉備、播磨、摂津、河内、山城、大和などで出会い共生していき、更に現地の氏族共同体とも統合して、各地において祭祀を統合していったより大きな共同体を形成していきました。また、紀伊や伊勢、尾張などでも同一の太陽神を祀る南洋系倭人部族と北方からやって来た出雲族は共生して共同体を統合していきました。そして、これらの各地の共同体の間でも地域を越えて交流や交易も行われるようになっていったのです。
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