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日本史についての雑文その279 真番郡との交易
日本列島においてこのように氏族共同体を積み重ねた中間組織の強い国家形成への道がスタートを切った頃、シナ大陸ではそれと全く逆方向の皇帝専制体制がいよいよ完成しようとしていました。紀元前141年に即位した漢帝国の7代皇帝の武帝は儒教を国教として皇帝の世界支配の正当性を手にして、諸国王の権力基盤を解体してシナ全土に中央集権制を敷いたのです。
こうして完成したシナ帝国を維持していくためには皇帝が支配領域を拡大することで有徳性を示しつつ外国交易を拡大していくことが必要で、そのためには帝国の直轄地を辺境に広げつつ、さらに遠方の夷との交易を拡大し、夷の支配者を交易の利益で釣って皇帝への友好の挨拶のために使者を帝都に送らせて、それを帝国の臣民には夷の臣従の礼であるとアピールするという「朝貢」という外交スタイルが生まれました。
このためシナ帝国は積極外交政策をとって、物産の豊かな夷の住む土地を目指して版図を拡大していき、その目的地に至る通り道の土地を直轄地として収奪対象地とし、物産豊かな土地は戦争で屈服させて服属国とするか、あるいは交渉して皇帝との独占的交易契約を結ぶ友好国とするかのどちらかを目指すこととなります。そして、更に遠方に豊かな土地が見つかれば皇帝はその土地との交易利権を独占しようとして進出していくことになり、その途中にある服属国や友好国もシナ帝国に滅ぼされて直轄地に編入され、このような繰り返しによって際限なくシナ帝国は膨張していくのです。この直轄地、服属国、友好国、その外の蛮地という同心円が拡大しているのがシナ帝国に勢いがある時代で、シナ帝国の勢いが衰えるとこの同心円は小さくなっていくのです。

そして武帝の時代はまさに完全なるシナ帝国が生まれた時代で、外征の勢いのある時代であったのであり、まず北方のモンゴル系の匈奴帝国を撃退して西域のトルコ系遊牧民の諸国と交易関係を築き、また南方のオーストロネシア系の南越王国や東越王国を滅ぼして直轄地とし、雲南省東部にあった滇王国を討ち、これを服属国としました。
そして武帝は東方への侵略も開始して、紀元前108年に朝鮮王国を滅ぼして朝鮮半島を直轄地として、楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の4つの郡を置いて郡県制を敷きました。
楽浪郡の本部は今の平壌付近に置かれ、朝鮮半島の北西部を管轄しました。臨屯郡は白頭山を中心とした半島北東部で日本海にまで至るエリアを管轄しました。玄菟郡は日本海に面した半島東部を縦長に南北に伸びたエリアを管轄しました。そして真番郡は半島南西部を管轄し、その本部は今の釜山付近にあったと考えられます。
このように朝鮮半島はシナ皇帝の直轄地に含まれ、朝鮮半島に存在していた多数の都市国家は全て、漢帝国の上記の4つの郡の中にある県として再編成されて、漢帝国の中央政府から派遣された県令の管理下に入りました。朝鮮半島の南端にまで郡を設置したということは武帝が朝鮮半島の先にある日本列島との交易を望んでいたということであり、朝鮮半島と対馬海峡を挟んで向かい合う北九州の倭人国家は初めて国境を接することとなったシナ帝国への対応を迫られることとなったのです。

こうして朝鮮半島は漢帝国の直轄地となってしまったわけですが、朝鮮半島の土着の民衆にとってはそれほど生活に大きな違いが生じたわけではありません。紀元前108年以前は租税を朝鮮王国の王に納めていたのが、紀元前108年以降はシナ帝国の皇帝に納めるようになったという違いがあるだけで、当初はむしろ、以前よりも多くのシナ人の商人、つまり華僑がシナ本土からやって来て交易が盛んになり、その華僑たちの生活を賄うための農作物などの消費量も増えて現地土着民も潤いました。
しかしそれは経済規模が膨れ上がったことによる増益であり、その膨れ上がった分、しっかり租税は徴収され、しかもそれが以前のように朝鮮半島の土着の王に一旦入った税収が土着の氏族共同体に下賜されて現地の民衆に還元されるということはなく、朝鮮四郡の太守を通じて全て漢帝国の都にいる皇帝のもとへ送られてしまうようになったので、経済規模が大きくなってもそれが朝鮮半島の土着の民族資本の成長には生かされなかったのです。
また、交易を円滑に行うためには交易路の安全を確保するための軍事力が必要で、そして軍事力は政治権力に繋がるのでした。紀元前108年以前の朝鮮半島では交易路の安全を確保したのは土着の朝鮮王国の軍事力であったのですが、紀元前108年以降は漢帝国によって設置された4つの郡の太守の率いるシナ皇帝直属の軍隊によって交易路の安全が確保されるようになりました。これは土着の軍事力の成長が必要とされない状況であり、言い換えれば土着の政治権力の成長が阻害されている状況でもありました。
それでも結果的に安全が確保されて交易が盛んになっているのであればいいじゃないかという意見もあるかもしれません。まるで現代の何処かの島国のような言い様ですが、しかしこれはあくまでシナ帝国の覇権の下での繁栄であり、もしシナ大陸内部の状況変化によってシナ帝国のプレゼンスが後退してしまえば、そこには土着の脆弱な軍事力や政治権力しか残らないわけで、しかもその裏づけとなる土着の氏族共同体の民族資本すら全く未成熟な状態で据え置かれているので、容易に外敵の侵入を許してしまうことになるのです。
つまり、朝鮮半島は漢帝国にとっては日本列島との交易をスムーズに行うために必要なインフラだけは綺麗に整備されて、一見見栄えはいいものとなりつつ、その内実はスカスカな、単なる物資の通り道であり、交易利権の収奪地でしかなかったのだといえます。
朝鮮半島はこうした状態をこの紀元前108年以降、約400年間続けることになるのですが、その南の海上にあった日本列島はそれとは違った歴史を歩むことになります。

朝鮮半島の南端の釜山付近に本部を据えたであろうと思われる漢帝国の辺境の郡であった真番郡と対馬海峡を挟んで向かい合う北九州地域には、この紀元前108年の時点では既に東南アジア系倭人の氏族共同体を内部にピラミッド状に組み込んだ小国家が多く形成されており、それらの小国家同士が主導権を争って競合している状態でした。
また、これらの北九州の倭人の小国家は朝鮮半島南部の韓地方の華僑と交易してシナ大陸の物産を得ていました。こうした交易の利権を巡ってもこれらの小国家同士は競争関係にありました。また、北九州の小国家は日本海航路で出雲とも交易を行っており、また、東九州の南洋系倭人勢力を介して瀬戸内海西部の諸地域とも交易をしていました。
特に朝鮮半島南部との交易において重要な役目を果たしていたのが、これら倭人小国家に亡命してきていたシナ人、つまり華僑なのですが、彼らはもともとシナ大陸に住んでいた有力な氏族であったと思われますが、戦乱の続くシナからシナ帝国の中央集権体制を嫌って逃れてきた者達であり、シナ帝国の収奪的な体質をよく知る者達でした。
彼らはシナ大陸では皇帝権力によって圧迫され失われていった自らの氏族共同体を、シナ帝国から遠く離れた北九州の地の倭人の共同体の中で復活させて、同じく朝鮮半島に亡命した同様の華僑たちと連携して、倭人の王に戦争の際の助言役や交易業をもって仕えることで生計を立てて新天地で一族の再生を遂げていたのです。倭人の王達にとっても彼らは重宝な存在でした。

ところが、そこに紀元前108年にシナ帝国がその版図を朝鮮半島南端まで延ばしてきたのです。これは言い換えると目と鼻の先にシナ帝国の商業ネットワークに直結した交易ルートが出現したということであり、既に朝鮮半島との交易によって利得を得ていた北九州の各地の小国家や共同体の首長たちにとっては、この事態は非常に魅力的なものに映ったと思われます。
北九州の小国家の王たちの権力や権威、そして財政的基盤には、朝鮮半島との交易によって得られるシナ大陸の物品によってその多くが支えられており、彼ら自身が既に朝鮮半島との交易関係無しにはその地位を保持できないほど、朝鮮半島とは運命共同体になっていたのです。
その朝鮮半島がシナ帝国の交易ネットワークに直結したということは、今までとは桁違いに大量のシナの物品が出回るということであり、積極的にその争奪戦に参入して多くの交易ルートを押さえておかねば、ライバル関係にある他の小国家に出し抜かれてしまう恐れがあり、それは北九州地域における自らの王国の地位の低下を意味しますから、倭人の小国家の王達にとってはシナ帝国との交易は否も応もなく参入せざるを得ないものでした。こうして紀元前100年ぐらいには北九州の倭人国家は真番郡との交易を開始するようになったと思われます。

漢に征服される前の朝鮮半島、特に三韓地方の辰韓や弁韓には多くのシナ系亡命民、すなわち華僑がもともと住んでおり交易を営んでいました。この辰韓や弁韓の華僑たちが朝鮮半島が漢の直轄地になってからも漢帝国から派遣された県令の管理下で商売を続け、倭人国家の王たちが呼び寄せたシナの商船に便乗して定期的に北九州の港にもやって来て倭人と交易をするようになっていったのです。
こうして北九州の倭人国家に真番郡からやって来た華僑たちと取引するための交易都市が形成されるようになっていきました。この都市の市場での公用語は華僑達の使っていた朝鮮訛りのシナ語でした。華僑は倭人の言葉が分かりませんでしたし、そもそも倭人の言葉では取引上で必要な語彙の全てはカバー出来ませんでしたから、シナ語を使うのが一番良かったのです。シナ語を使っているわけですからもちろん市場内では漢字も使われていました。
この華僑たちのほとんどは商売の本拠地は真番郡の中にある県の市場の中に置き、北九州には品物の出張売買のために訪れていました。シナ人の商人というものは、つつましやかな倭人とは違い非常に貪欲で贅沢で、食べ物なんかも倭人の五倍ぐらいは食べたようで、つまりそれだけたくさんの食料品を買ってくれるわけです。だから倭人の商人にとっては有難いお客なわけで、とにかくシナ商人にたくさんやって来てほしいと思うようになり、盛んにシナ商人に来航するよう誘いました。シナ商人にとっても食料品の豊富な北九州は魅力的で、こうして北九州の倭人国家の交易都市では華僑と倭人との間で盛んに取引が行われるようになっていきました。
そうこうしているうちに、華僑の中には倭人国家の交易都市に住み着いて店を構えるような者も出てきました。倭人都市の市場監察官は倭人の首長や王でしたから、彼らが華僑の商売に商税をかけて、その上がりを得て市場を運営していたのです。華僑にしてみても、本拠地を真番郡の県城の中に構えていれば漢帝国の県令に商税を納めなければならないわけで、どっちにしても商税は納めなければいけないわけで、自分の商売に都合のいい場所に本拠地を構えればいいというわけです。もちろん、その逆もあったわけで、倭人商人の中には真番郡の役人の世話で真番郡の県城の中の市場に出向いて取引をしたり、中にはそこに住み着いて店を構える者もいました。

こうして北九州の倭人の諸国家は真番郡を通してシナ帝国の商業ネットワークと繋がることになったのですが、これは朝鮮半島のような直轄地ではなく、あくまで友好国として優遇された扱いであり、倭人側に儲けの大きい取引であったようです。
そして北九州における商取引において発生する税は倭人の王に納められるのであり、それは小国家内の下位の共同体へと少しずつ還元されていくのであり、また当然のことながら北九州の民衆の納める租も倭人小国家内のピラミッド型の共同体構造の最下位の共同体に納められ、それが少しずつ上位の共同体や王国中枢部への上納されていくのであり、朝鮮半島のようにシナ皇帝に搾取されるようなことはなく、倭人の民族資本は成長していったのです。
そうして富強になった倭人の小国家は自らの交易圏の安全確保のための軍事力を自前で充実させて、交易上のトラブルに自力で対処しました。つまり倭人小国家同士で更に激しく争い合ったりするようになり、これによって更に小国家の統合が進んでいったり周辺に勢力を広げていったりして、倭人国家の政治権力も成長していきました。
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