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日本史についての雑文その280 倭人勢力の分裂
しかし、そういった北九州の状況に危機感や不満を抱いたグループも存在しました。それがもともと紀元前108年以前から北九州の小国家内にいた亡命シナ人、つまり華僑を中心としたグループでした。
まず第一に、この新しい形の倭人国家とシナ帝国との交易は倭人の王と真番郡との間の管理貿易であり、かつて華僑たちが倭人王の代理人として保有していた自由な裁量というものが大きく削られて、特に朝鮮半島における商取引においては真番郡を通してシナ皇帝によってかなりの搾取を受けることになった点が不満でした。

また、もともと倭人の王の権力を背景にしてかなり独占的に交易の利を得ていた華僑たちであったのですが、真番郡と倭人王との取引においては新たに参入してくる華僑たちが多く交易権を巡る競争が激しくなり、特に真番郡の当局に食い込んだ新来の華僑たちが優遇され、倭人の王達も彼らのシナ大陸と直結した交易ルートの魅力にほだされて、ついつい新来の華僑との取引を優先しようとする傾向があり、そういう点も旧来の華僑たちには不満でした。

ならば旧来の華僑たちも真番郡に取り入ったりシナ帝国の流通路を開拓していけば良いということになるのですが、それが出来ないということが、彼らのもっと根源的な不満や危機感に深く関係してくる部分なのです。
彼らはもともと、氏族社会を破壊して皇帝が全てを支配するシナ帝国の皇帝専制体制に反対する考え方の持ち主であったので、そもそもシナ帝国やその出先機関である真番郡などに関わることを嫌悪していたと思われます。いや、単に嫌悪していたというよりも、強い警戒心を抱いていたことでしょう。
彼ら自身の多くがもともとシナ帝国によって氏族共同体を壊されて故郷を追われた一族の出身であったであろうし、また交易においてシナ大陸や朝鮮半島にも出向いて直接シナ帝国の実態というものを見聞していたであろうし、滅ぼされた朝鮮王国の関係者とも接触して情報を得ていたでしょう。
そうして彼らが得た結論としては、シナ帝国の本質は「全てを奪い尽くす」凶暴な侵略性にあり、最初は友好国として交易関係にあっても、必ず次には服属を求めてきて、服属させれば次には直轄支配を望んでくるのであり、目先の交易の利得に釣られて安易にシナ帝国と付き合うことは非常にリスキーなことだということです。
なんといっても対馬海峡を挟んで目と鼻の先にある真番郡にはシナ皇帝直属の大軍が駐屯しているのであり、武帝が暴走して朝鮮半島に続いて北九州も直轄地として支配しようとして大軍を差し向ける可能性も無いとはいえないのです。実際は海が障壁となって大軍を日本列島に送ることは困難であったのですが、この紀元前1世紀の北九州を制圧する程度ならば不可能ではなかったとも思われ、実際の歴史がそのようにならなかったのは様々な要素が絡み合った結果であり、このまま何ら対策を打たなかったならば、こうした危惧が現実化していた可能性はゼロではないでしょう。
また、シナ帝国は自国の人民や財産などを切り売りして外国資本を引き入れて、その商税で皇帝だけが潤うという、非常に歪な形態の経済体制を持っており、このような国家の負債が天文学的に膨れ上がる悪しきシナ帝国の経済体制に深く関与することは非常に危険なのであって、その歪みがピークに達した時にシナ帝国が崩壊すればその混乱を受けて倭人国家も一緒に没落する危険もあるのでした。

こういうわけで彼ら亡命華僑たちは北九州の倭人小国家の王達にシナ帝国との交易の危険性を説いたと思われますが、それが聞き届けられることは無かったのでしょう。シナ帝国との交易は倭人小国家間の生存競争に直結する問題となっていたので、そこから脱落するわけにはいかなかったからです。それでもなおシナ帝国との交易に反対する亡命華僑は倭人小国家における交易事業から疎外されるようになりました。
そうした頑固な反漢派の亡命華僑は、そういう事態に至って、いっそ新天地を目指すようになりました。北九州以外の地に移って、シナ帝国とは関与しない新たな経済圏を立ち上げようと考えるようになったのです。それは北九州よりもシナ帝国から離れた地でなければなりませんから、北九州よりも更に東の本州方面ということになります。
それで亡命華僑たち、およびそれに共鳴する倭人たちの集団は紀元前100年以降は瀬戸内以東の西日本一帯に拡散していくことになりました。瀬戸内以東の銅鐸文化圏では紀元前100年ぐらいから銅鐸が巨大化し始め、もともとあった農耕神や開拓神への祭祀に祖霊祭祀の要素が加わって、その祭祀形態が共同体の事業を円滑に行うための政治性を帯びてくるようになり、また紀元前100年以降は瀬戸内以東では各所で急速に共同体の統合が進み、それらはだいたいは祭祀の統合を通じて進められたのですが、しばしば戦争も伴うようになったようで、これらの要素はシナ文化に起因するものが多く、紀元前100年以前は亡命華僑が多く存在していた北九州地域のみに特化して見られた現象であったことから、亡命華僑たちがこの時期以降、瀬戸内以東に拡散していったことが推測されるのです。
そして彼らの思惑通り、紀元前100年以降、瀬戸内海の流通路が整備されていき、この時期の瀬戸内海流通路では北九州経済圏で流通していたシナ物品はほとんど出回らず、もっぱら瀬戸内海以東の諸勢力間の物品や情報の遣り取りが行われ、シナ帝国とは関与しない新しい経済圏が瀬戸内以東に生まれて、この経済圏は亡命華僑の反漢思想を反映して北九州の倭人国家群とは緊張関係にあり、その緊張関係が瀬戸内以東の共同体の統合を促す作用も果たしたとも考えられます。
そしてこの瀬戸内海流通路を構築するのに不可欠であったのが瀬戸内海の海上勢力との連携であり、亡命華僑たちの勢力は九州東部を根拠地としていた南洋系倭人の海洋勢力の協力を取り付けたのだと思われます。九州東部の南洋系倭人の共同体は、北九州の倭人国家群と競合して真番郡を通したシナ帝国との交易に食い込む余地はもはやありませんでしたし、むしろシナ大陸との交易で富強化した北九州勢力の周辺への拡大によって真っ先に圧迫される立場でありましたから、亡命華僑たちの説く新経済圏構想のほうに魅力を感じたのでしょう。
この九州東部の南洋系倭人の海上勢力の活動領域は瀬戸内海西部であり、この流通路に接した九州東部、山陽地方西部、四国北西部の諸地域に亡命華僑や南洋系倭人が入植していって交易拠点を作ったり現地民と共に農村共同体を統合していったりしました。また、亡命華僑たちは瀬戸内海東部の吉備地方や播磨地方、畿内地方や、山陰の出雲や丹波地方にも移住していって新経済圏の拡張を図ったりもしたと思われます。

こうして紀元前100年あたりに日本列島西部の倭人の勢力圏は東西に分裂することになりました。こういう現象はシナ帝国の周縁部では普遍的に見られる現象でした。シナ帝国が拡張してきて周辺の異民族の居住地域とシナ帝国の直轄地が接した際に、その異民族やそこに亡命していた華僑たちがシナ帝国に親和的なグループとシナ帝国と距離を置くグループとに分裂して、後者がシナ帝国から離れたより辺境のエリアに後退してそこを開拓し共同体を発展させるという現象で、例えば漢帝国の9代の宣帝時代に西域都護の設置を契機に匈奴が後漢に親和的な南匈奴と後漢に敵対的な北匈奴に分裂したというような現象です。
匈奴の場合は、後に南匈奴の領域は後漢と鮮卑に吸収され、北匈奴は鮮卑などに追われて西へ移動してフン族となり、後にヨーロッパでゲルマン民族の大移動を引き起こすことになるのですが、よくあるパターンとしては、シナ帝国に親和的なグループは華夷秩序の中で友好国となりシナ帝国と盛んに交易をした後、最終的にはシナ帝国に吸収され、シナ帝国に敵対的で華夷秩序から背を向けていた遠隔地グループにシナ帝国が境を接することになり、そこでまたシナ帝国に親和的なグループと敵対的グループに分裂し、敵対的グループが更に遠隔地へ入植し開発していって、シナ帝国の周辺世界は更に拡大していくことになるのです。そしてやがて後にはそこもシナ帝国によって回収され、そうしたことを繰り返してシナ帝国はその領域を拡大していくのです。
全ての周縁地域でこのようなパターンが繰り返されたわけではありません。現に北匈奴の故地などはシナ帝国に回収されることはありませんでしたが、これは北方異民族が強勢であったからで、例えば華南地方などはこのようにしてシナ化されていったのです。
日本列島の場合は結果的にはシナ帝国に吸収されることは無かったのですが、紀元前108年の朝鮮四郡設置を受けて、シナ帝国の周辺異民族の普遍的現象として日本列島西部の倭人勢力の分裂が起きて、シナ帝国に親和的な北九州を中心とした「西倭」と、シナ帝国から距離を置いた瀬戸内海西部地域の「東倭」とに分かれたのです。

紀元前108年に設置された朝鮮四郡、特に半島南端に設置された真番郡は日本列島の倭人勢力との交易の窓口とするために設けられたものでした。シナ帝国の直轄地に設けられる郡は全て現地採算制で、中央からの補助金というものはありません。朝鮮半島は豊かな土地ではなかったので、そのような地に4つも郡が設置されるということは、更に遠隔地との交易利権を見込んでのことです。特に最僻地の真番郡はほぼ日本列島の倭人勢力との交易による税収のみで維持されるような郡でした。
おそらくは朝鮮王国を滅ぼした際に現地調査をして、シナ帝国が倭人との交易に乗り出した場合の税収を試算して、真番郡の維持が可能であると判断して設置を決裁したのでしょう。ところがその倭人勢力が「西倭」と「東倭」に分裂してしまい、シナ帝国との交易に応じたのが「西倭」だけだったので、当初想定していた倭人勢力の市場規模に比べてかなり少ない市場しか得ることが出来なかったのです。つまり交易規模は予定より少ないわけで、税収も予定より少なく、年数を重ねるごとに真番郡は採算がとれなくなってきて、とうとう紀元前82年には大赤字の末、廃止されてしまいました。設置後わずか26年の命でした。
ただ漢帝国が武帝のもとでの拡張政策を維持していれば、みすみす真番郡を廃止させることはなく、日本列島へ外征して西倭も東倭も屈服させていたかもしれません。しかし真番郡廃止の5年前の紀元前87年には武帝は死去しており、その存命中も治世末期には極端な対外拡張政策による匈奴や西域へのたびたびの外征で人口が激減し、治世初期に比べて人口は半分になったといいますから、辺境に出兵してまで僻地の採算のとれない郡を維持することなど出来ない状態になっていました。
そういう時に紀元前87年に武帝が死去したのを契機に漢帝国では辺境政策を転換し、採算のとれない辺境の郡を統廃合して、当面は内政の建て直しを図ることにしたのです。そういう大きな流れの中で、紀元前82年に真番郡も廃止されたというわけです。

ちなみに、この紀元前82年に廃止された朝鮮半島の郡は真番郡だけではなく、朝鮮半島東北部の臨屯郡も同じように廃止されています。これは対倭人貿易の不振が原因というわけではなく、朝鮮半島の北に広がる満州平原のツングース系の諸部族との交易も予想以上に不振であったからなのでしょう。つまり、満州平原のツングース族、つまり扶余族も倭人勢力と同じようにシナ帝国に親和的なグループと敵対的なグループに分裂したのです。
そしてその敵対的なグループの中でも有力なものが高句麗族であり、高句麗族の交易妨害のせいで紀元前82年に臨屯郡は大赤字で廃止され、更に武帝没後の漢帝国の辺境における消極政策に付け込んで高句麗族は勢力を拡大し、廃止された臨屯郡の機能を肩代わりするようになった朝鮮半島東部の玄菟郡にも蚕食し、そのため紀元前75年には玄菟郡のうち高句麗に奪われず残った南東部の地が楽浪郡に編入されることとなり、玄菟郡は遼寧省に移転されて事実上廃止されることとなり、朝鮮半島全体の県は楽浪郡によって統括されることとなったのです。
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