KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その281 西倭と東倭
紀元前82年の真番郡の廃止によって、真番郡に属していた県、つまり交易都市は全て楽浪郡によって統括されることとなりました。つまり対倭人貿易は楽浪郡で統括されることになったのです。
楽浪郡の本部は現在の平壌付近にあり、真番郡の本部のあった釜山から比べれば、北九州からは遠く離れてしまいました。郡の仕事は交易路の安全保障ですから、郡のカバーする範囲が広く薄くなり、しかもその本部が北へ移動してしまったのですから、どうしても朝鮮半島南部の治安維持は手薄になります。つまり商人は安心して商売が出来ないわけで、どうしても商いの場を楽浪郡の本部のある平壌の近くに据える者が多くなります。

そうなるとどうしても北九州まで足を伸ばしてくる朝鮮半島の華僑たちは減ってしまうわけで、シナ帝国と北九州との交易規模は縮小してしまいました。これはシナ帝国の辺境政策自体が後退しているのですから、その素直な反映であり当然の結果だといえるでしょう。
ところが、北九州の倭人小国家の王達はそれではおさまらないわけです。紀元前100年以降に急激に膨れ上がった約20年ほどのシナ帝国との交易によって彼らはすっかり贅沢に慣れきってしまっていたのです。贅沢といっても単なる衣食住だけではなく、シナ帝国との交易によってもたらされる青銅器や鉄器、玉という宝石類などの威信財が、北九州の倭人国家連合体の中の各共同体を束ねる王権維持のための儀式などに不可欠のものとなっていたのであり、シナ帝国との交易の縮小は北九州の倭人小国家そのものの存立を揺るがす一大事となっていたのです。
そういうわけで、紀元前82年以降は北九州の倭人国家の側が通商使節を仕立てて、船に乗って対馬海峡を越えて、朝鮮半島の内陸水路を通って楽浪郡へやって来るようになったのです。

朝鮮半島の南岸は極めて複雑なリアス式海岸と多島海を成しており、天然の良港であったので古来から多くの東南アジア系海洋民が住んでいたと思われます。ここが弁韓地方なのですが、その海岸地域の住民は北九州の東南アジア系倭人とほぼ同じルーツを持った人達であったと思われ、古くから対馬海峡を挟んで共通の交易圏を形成していたと思われます。倭人はここから内陸へ向けて進んでいくことになったのです。
博多から壱岐、対馬を経て朝鮮半島の玄関口は釜山港になります。釜山港の少し西には洛東江の河口があり、河口の西岸には金海の町があります。この金海が弁韓地方の中心地で、金海より西の朝鮮半島南岸が弁韓地方、金海から見て洛東江の東岸に位置する朝鮮半島南東端の僻地が辰韓地方です。その洛東江を北へ遡っていくと鳥嶺の峠の南に至り、そこで歩いて小白山脈を越えると馬韓地方に入り、忠州で漢江の流れに乗り北西へ向けて下っていくと江華島の東で黄海に注ぐのですが、その最下流部の北岸にはソウル(漢城)があり、その南岸には百済の最初の王都であった広州があります。
このように見てみると、弁韓というものの最初は朝鮮半島南岸の港湾および洛東江の流域に発生した諸都市であり、馬韓というものの最初は漢江の流域に発生した諸都市なのであるということが分かります。そして辰韓というのは弁韓の東の僻地で、当初は最も弱体であったのであろうと思われます。
漢江の下流域はもともと朝鮮王国の実効支配域の南端部であり、漢江の河口部が馬韓地方の北端で、このあたりからは楽浪郡のシナ皇帝直轄軍による安全保障も手厚くなりますが、江華島の北に注ぐ礼成江を遡って瑞興で滅悪山脈を越えて載寧江に乗り換え、載寧江を北へ下っていくと黄州で黄海に注ぐのですが、その直前に大同江と合流します。その大同江を少し北へ遡ると平壌に至ります。この平壌に楽浪郡の本部があったのです。
平壌から更に大同江を遡っていくと北東に進み、朝鮮半島北東部の山岳地帯に達しますが、ここから先には内陸水路では進めません。平壌より北は大陸の民の陸路の世界であり、海洋民である倭人にとっては進出困難な地となります。また、辰韓地方より北の朝鮮半島東部地方も険しい山岳地帯で、内陸水路で進出困難な地域でした。

つまり、倭人にとっては洛東江、漢江、大同江を繋ぐ朝鮮半島西部の内陸河川ルートが楽浪郡の本部へ至る内陸水路であったのであり、博多港から対馬海峡を越えて釜山港へ至れば、あとは内陸河川で平壌まではすんなり到達することが出来たということになります。
このルートを通って、紀元前82年以降、北九州の多くの倭人小国家の通商使節は楽浪郡の本部の平壌と北九州の間を往復して楽浪郡の華僑と交易してシナ帝国の物品を入手するようになったのです。もちろん楽浪郡の華僑の中には北九州の倭人国家に居住して商売する者もいたのであり、そうした冒険的華僑もこの通商使節に加わり、朝鮮半島西部の内陸河川ルートを行き来したことでしょう。
ただ、貴重な交易品を手にして朝鮮半島西部の内陸河川ルートを行き来するのは危険なことでもありました。真番郡が廃止されて、この内陸河川ルート全域を楽浪郡の郡兵だけで守らなければいけなくなり、その南部に行くほど防備は手薄になるから、野盗や山賊の類から通商使節を守りきれないからでした。
そうなると通商使節は自分の安全は自分で守らなければならないわけで、自ら武装することになります。武装した商船団ですから、見ようによっては海賊です。倭寇といってもいいでしょう。まぁこの時代は略奪などはしなかったでしょうけれど、襲われれば応戦して殺したり奪ったりはしたでしょう。
一応、そこは名目上は楽浪郡の支配地域なのですから、楽浪郡当局としては勝手に私兵で戦闘行為をやられても困るはずなのですが、しかしこの倭人たちの通商使節は日本列島の豊富な物産をもたらしてくれる有難い存在であり、しかも自分の身は自分で守ってくれるのですから、むしろ歓迎すべき相手でした。楽浪郡としても何としてでも最低限でもいいから日本列島との交易の利を上げなければ、真番郡に次いで今度は楽浪郡が廃止に追い込まれかねないのであり、多少のことは目を瞑って、むしろ倭人の通商使節の行動に便宜を図ってやるぐらいの対応であったのではないかと思います。
そういうわけで、この倭人の武装通商使節は釜山から平壌に至る朝鮮半島西部の内陸河川ルートの各地の要衝に根拠地も有するようになり、いっそう内陸河川ルートの防備を確実なものにしていったと思われます。もちろん単独ではなく、楽浪郡の郡兵と共同でではあったと思いますが。

こうして、紀元前82年の真番郡の廃止によって、北九州の倭人小国家群、すなわち西倭とシナ帝国の間の交易は縮小するどころか、むしろその結びつきは強固なものとなり、西倭諸国は朝鮮半島にまで勢力を有するようになり強大化するようになりました。
西倭諸国では楽浪郡から輸入された青銅製の剣や鏡が王権の象徴として重宝されるようになり、やがて青銅器やガラスに関しては北九州地域でも王権の管理下で自作もされるようになり、これに忌部氏によって作られた勾玉も合わせて、剣と鏡と勾玉の三点セットが王権の権威や宗教的権威の象徴として定着するようになり、この傾向は本州方面へも波及しました。ただ日本では銅鉱石を産出しませんでしたから、これらの剣や鏡の青銅器は全部、楽浪郡から輸入したものか、あるいはそれらを窯で溶解して鋳直したものでした。
また、楽浪郡からはシナ帝国産の良質の鋼で出来た鉄器も西倭諸国へ輸入されてくるようになり、多くは実用的な武器として使われるようになり、それに伴って青銅製の剣や矛は次第に祭祀にのみ限定して使われるようになっていきました。
こうして各国の王権が強くなっていくにつれて、その争いも熾烈になり、北九州の西倭諸国の小国家間の統合はますます進み、共同体間の上下の階層関係はますますピラミッド状に積み上がっていきました。つまり幾つもの小国家を包含した大国が生まれてくる段階に入ってきたのです。

これを見て危機感を募らせたのが瀬戸内海西部地域の経済圏を中心とした東倭の共同体群でした。もともと東倭の地域は北九州経済圏に付属していたもので、北九州経済圏から離れて単独でやっていくのはどうしても無理がありました。そういう基本的な脆弱性に加えて、北九州の西倭勢力がこのように強大化してくることによって、このままでは西倭勢力が侵攻してきて呑み込まれてしまうのではないかという危機感が大きくなっていったのです。
そこで東倭勢力はその経済圏を更に東、瀬戸内海東部まで拡大して、西倭に対抗できるだけの独立した経済圏への脱皮を図り、そして東の新天地に進出して新たな拠点を築いて瀬戸内海全体に防備システムを構築して西倭の侵攻に備えることにしたのです。
実際は、北九州の西倭諸国の関心は楽浪郡や朝鮮半島における交易の利権をいかに確保するかのほうに向いており、瀬戸内海方面にはあまり興味が無かったようだったので、そういう危機感は多分に杞憂ではあったのですが。
そもそも日本史を見渡してみると、九州地方の勢力が畿内方面に攻め上ったという例はほとんど見ることはありません。九州地方に強大な勢力が生じると、それは本州方面ではなく朝鮮半島やシナ大陸のほうへ向かう傾向が強いようで、例外的なものとしては源平合戦時の平家(一の谷で撃退される)や南北朝時代の足利尊氏(京都を攻略)とその子の足利直冬(京都手前で撃退される)がありますが、これらは全て九州土着の勢力ではなく、もともと畿内にあった勢力がいったん九州に追い落とされてから復帰しようとした例であり、真の意味での九州勢力の東進の例といえるのは、幕末の薩摩軍(といっても主力は長州軍だったわけですが)の例と、あとはこの時の東倭勢力、すなわちイワレヒコの東征ぐらいということになります。

瀬戸内海の西部に交易圏を築いていた東倭勢力の倭人や亡命華僑たちは、紀元前82年の真番郡廃止以降にかえって強大化した北九州の西倭諸国に対抗するために、瀬戸内海東部へ進出して交易圏を畿内地方にまで拡大しようとしました。
そのためには、まず瀬戸内海を東へ突っ切っていって畿内に到達しなければいけないのですが、そのためには水軍が必要です。瀬戸内海西部を制していた水軍の中心的存在はもともと九州東部の宇佐を根拠地としていた海人氏という南洋系海洋民の氏族で、その族長の子として紀元前100年に生まれたのがイワレヒコでした。
イワレヒコが生まれた頃に朝鮮半島のシナ帝国の勢力と北九州勢力との間に交易が始まり、倭人勢力が西倭と東倭に分裂し、海人氏を中心とした九州東部の南洋系倭人勢力は東倭に属して瀬戸内海西部の経済圏を形成するようになりました。
そして紀元前82年に真番郡が廃止された後、西倭の諸国が楽浪郡へ通商使節を送って着々と朝鮮半島へ進出して勢力を強めていきつつあった頃に、イワレヒコは海人氏の族長として、また東倭勢力の中心人物として、西倭勢力への対策に取り組むことになったのです。その結果、海人氏の水軍によって瀬戸内海東部に進出して瀬戸内海東端の大阪湾地域に新たな海人氏水軍の根拠地を作り、その内陸部に入植し、その新根拠地と旧根拠地の宇佐との間に瀬戸内海全域をカバーする巨大経済圏と一大海上防衛システムを作ろうということになり、まずは紀元前77年にイワレヒコは配下の水軍を率いて宇佐を出発して東へ向かいました。この時イワレヒコは23歳でした。
イワレヒコ率いる海人氏の水軍は途中で関門海峡や広島湾に寄港して態勢を整えて、瀬戸内海の中心部を押さえる最重要拠点である鞆の浦に進出し、ここを前線基地化して1年半ほど準備期間を費やしてから、紀元前75年に一気に大阪湾に突入したのでした。

水軍の根拠地を作るためには近隣に豊富な森林資源の供給地が無ければいけません。そうした木材供給地としては大阪湾の南に木の国があり、イワレヒコはまず大阪湾から内陸部の奈良盆地に進出してそこの多くの共同体を制圧して、その上で木の国の勢力と交渉して奈良盆地と木の国の一体となった経済圏を作ろうという構想であったのですが、大阪湾から難波津の北の海峡を通って河内湾に入り、まっすぐ東へ進んで上陸して生駒山を越えて奈良盆地北部へ進出しようとしたところで奈良盆地北部に勢力を有していた出雲系氏族と思われる長髄彦の軍勢の反撃を受けて撃退され、大阪湾に追い払われてしまいました。
大阪湾に逃れたイワレヒコは西から奈良盆地に侵攻するのは諦め、水軍で大阪湾を南下し紀伊水道を越えて和歌山湾までやって来て、そこで木の国の氏族共同体と交渉して、奈良盆地への侵攻への協力を取り付けようとしました。自分に協力してくれれば奈良盆地の富と一体化した経済圏を木の国にもたらして、木の国の共同体を潤わせてみせるというわけです。
和歌山湾での交渉は不調に終わったのでイワレヒコは更に船団を南へ進めて、紀伊半島の南岸を進んで熊野川河口部までやって来て鴨県主氏という南洋系倭人の氏族の協力を得て木の国の内陸水路を通って奈良盆地の南東部の畝傍山や天香具山方面へ侵攻し、そこで奈良盆地北部から攻めてきた長髄彦の軍勢を撃破して、その後ろ盾の南洋系氏族であった物部氏のニギハヤヒと講和を結んで、奈良盆地東南部の一角の橿原近辺の支配権を勝ち取ったのでした。これが紀元前74年のことになります。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。