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日本史についての雑文その282 瀬戸内海防御網
紀元前74年に奈良盆地東南部の一角、橿原のあたりの支配権を得たイワレヒコでしたが、日本書紀にはその後の統治に関しての記述はありません。実際、統治というほどのものは無かったのでしょう。
何故なら、イワレヒコはそもそも奈良盆地の奥地の一角を耕すためにはるばる九州から大船団を仕立てて東進してきたわけではないからです。イワレヒコの目的は瀬戸内海交易路の確立と、その上での瀬戸内海防衛網の構築でした。だからあくまでイワレヒコは海で活動を続けたのだと思われます。

瀬戸内海全体の交易路を機能させるためには瀬戸内海東端にある広大な奈良盆地に住む多くの消費人口による巨大市場を瀬戸内海交易路と直結させる必要があり、また、瀬戸内海東端に船舶の原材料となる木材の一大供給地が無ければいけません。それらと海上勢力であるイワレヒコの海人氏が結合することによって瀬戸内海交易路が機能するのです。
橿原のイワレヒコの支配地は奈良盆地全体に対する海上勢力の代理店機能を持っていたのであり、それが奈良盆地西部ではなく南東部にあったということは、瀬戸内海交易路と木の国と奈良盆地の三角貿易における紀ノ川に直結した奈良盆地の代理店として機能していたということになります。
つまり奈良盆地は単なる消費地ではなく、農作物はもとより、その膨大な労働力と木の国の森林資源を活用した金属器や土器などの生産地となったのであり、その物品は奈良盆地東南部のイワレヒコの領地に集められてから更に南方の紀ノ川に浮かべたイワレヒコの交易船に乗せられ、和歌山湾から瀬戸内海交易路に乗って、瀬戸内海沿岸の各地に運ばれていったのであり、その運搬用の船舶もまた、木の国の森林資源によって作られたものであったのです。
こうして奈良盆地と木の国に拠点を築くことによって、イワレヒコは瀬戸内海交易路の建設で主導的役割を果たすことになったのですが、イワレヒコ自身は主に海上にいて、言うなれば水軍大将のようにして交易路に目配りしていたと思われます。その根拠地は一箇所に固定されていたのではなく、瀬戸内海の要所の何箇所か、例えば宇佐、広島湾、鞆の浦、淡路、難波津、和歌山湾などを常に移動していたのでしょう。

そこで木の国や奈良盆地でイワレヒコの代理人として動く協力者が必要になってくるのですが、木の国においてその役割を果たしたのが紀氏で、奈良盆地においてはイワレヒコの妻となったタタラ姫の実家である出雲系の氏族がその役目を果たすことになりました。元々この氏族は出雲系の技術者集団で、忌部氏などとも関係が深かったと思われ、木の国の森林資源を使って奈良盆地を手工業地域にしようとしたイワレヒコにとっては恰好のパートナーであったので縁戚関係を結ぶことにしたのでしょう。
古代においては婿入り婚が主流で、男は妻の実家の財産や能力を活用することが出来ましたから、タタラ姫と結婚することでイワレヒコは奈良盆地での出雲系技術者集団のバックアップを得ることが出来るようになったわけです。
イワレヒコはもともと九州方面にも妻がいたようで、おそらくはまさに船乗りが港ごとに女を作るような感じで瀬戸内海の各地に妻がおり、それぞれの地域でその実家氏族集団のバックアップを受けていたのでしょう。奈良盆地においてはそれがタタラ姫とその実家氏族であったのであり、奈良盆地での領地経営と代理店業務は、不在のイワレヒコに代わって実質的にはこの氏族が執り行っていたのでしょう。
奈良盆地にはこのイワレヒコ勢力の他に、大伴氏や中臣氏、葛城氏、賀茂氏、平郡氏、物部氏、蘇我氏など、多数の氏族が共同体を形成していたのですが、これらはもともとはイワレヒコの海人氏やタタラ姫の実家氏族の配下でもなんでもなく、独立した勢力を有していたと思われます。ただ、大伴氏や中臣氏は、タタラ姫の実家氏族と関係の深い忌部氏らの出雲系技術者氏族と共に、比較的早期からイワレヒコ勢力に親和的であったのだと推測されます。

さて、紀元前74年に奈良盆地東南部に支配地を得たイワレヒコは、その後、タタラ姫の実家と関係を結んだりして奈良盆地の足固めをして、また紀氏などの木の国勢力とも関係を深めて、奈良盆地と木の国の統一経済圏を立ち上げて機能させるのに10年ぐらいは要したのではないかと思われます。
その間、イワレヒコは瀬戸内海沿岸の東倭諸地域を行き来して交易路の整備に努め、奈良盆地と木の国の経済圏が機能し始めた後はそれを瀬戸内海交易路に直結させて、次は木の国の森林資源を原材料として瀬戸内海に強大な水軍と防衛システムの構築に取り掛かることになりました。これはもちろん強大化しつつある北九州の西倭諸国の脅威に対抗するためです。
もし北九州から畿内方面へ向けて西倭諸国が侵攻してくるとしたら、イワレヒコがそうしたように瀬戸内海を兵船を仕立てて進んでくるはずです。その動きをいち早く察知して海上で迎撃するためには、強力な水軍を常備しておくのは当然として、その適切な運用のためには正確な情報が何より必要です。そこで瀬戸内海の西端から東端までその南北両岸の海岸線近くの高台に見張り台を備えた集落を等間隔に設けて、西倭の船団の侵攻を察知したらすぐさま狼煙リレーで瀬戸内海全域に警報を発令するシステムを構想したのです。この警報システムと水軍とを連携させれば備えは万全というわけです。
イワレヒコはこうした構想を立てて、その実現のための資材としての木の国の森林資源と奈良盆地の出雲族の技術力、そして水軍の中核として自らの海人氏水軍を提示して、瀬戸内海沿岸の東倭地域の吉備や播磨、讃岐などの共同体の首長たちに共闘を呼びかけたのだと思われます。
もともと瀬戸内海交易において主導的役割を果たしていたイワレヒコですから、各地の共同体の首長の多くもその提案に乗り、順次、瀬戸内海の防衛システムは構築されていくようになりました。こうして作られたのが、紀元前1世紀中頃から瀬戸内海沿岸部の高台に作られるようになったといわれる第一次高地性集落というものです。
高地性集落というのは古代における一種の防御用や避難用の山城のようなものなのですが、この紀元前1世紀中頃に出現した第一次の高地性集落の場合は、非常に簡易的なもので、応急的な見張り台や狼煙台に臨時の避難所の機能を付属したような程度のもので、とにかく差し迫った危機に対応して急いで作られたという感じのもので、しかもほとんどが瀬戸内海の動向を監視するような位置に建てられているのです。

このようにして紀元前1世紀半ばにして瀬戸内海における交易路と防衛システムを作り上げたイワレヒコは東倭における一代の海の英雄として名を高め、東倭の瀬戸内海経済圏における海人氏の名声と権威は揺るぎないものとなりました。
ところが、そのイワレヒコが紀元前36年に64歳で没すると海人氏は跡目争いを起こすことになりました。イワレヒコ自身は海の王として瀬戸内海全域に勢力を張っていたのであり、むしろ元来の本拠地である宇佐のある九州東部に比重を置いていたようです。そこでイワレヒコが没すると、その九州の妻が生んだ長子で九州東部を統治していたタギシミミがイワレヒコの瀬戸内海全域の利権を全て相続したようです。
つまりタギシミミの後ろ盾となっていたのは母親の実家の九州の南洋系倭人の氏族で、全体的に見てタギシミミは九州東南部の勢力のバックアップを受けていたと見ていいでしょう。
日本書紀によれば、そのタギシミミがイワレヒコの没後、父親のイワレヒコの奈良の妻であったタタラ姫、つまりタギシミミから見れば義母にあたる女性を妻としているのです。タギシミミもタタラ姫もこの時点で結構な年齢であったので、これは実際の男女関係がどうのこうのというよりも、要するにタギシミミが奈良盆地や木の国の経済圏における利権もイワレヒコから引き継ぎ、タタラ姫の実家の氏族に対する支配権もそのまま得ようとしたのだと解釈すればいいでしょう。
ところがタタラ姫にはイワレヒコとの間に男子が2人おり、そのうち末子のカンヌナカワミミが義兄のタギシミミと対立することになります。古代においては婿入り婚が通常で、子供は母親の実家で養育されるものとなっていましたから、このカンヌナカワミミはタタラ姫の実家の大和の出雲族のもとで育ったことになります。つまり本来はこのカンヌナカワミミが、たとえタギシミミを盟主として仰いだとしても、奈良盆地の利権に関しては相続するのが筋のはずなのですが、それをタギシミミが直接支配しょうとしたために出雲族の不満が溜まって、大和の出雲族はカンヌナカワミミを押し立てて、こうした争いになったのです。

そして結局、カンヌナカワミミがタギシミミを殺して、奈良盆地のタタラ姫の実家氏族を中心とした出雲系氏族は九州方面の勢力とは縁を切ることになったのです。おそらくはこの時、木の国の勢力もカンヌナカワミミに味方したのではないかと思われます。そうでなければカンヌナカワミミのほうが勝つということもなかったと思われますから。
こうして、奈良盆地南東部の橿原付近はカンヌナカワミミとその母の実家である出雲系氏族が名実ともに治めることになったのですが、カンヌナカワミミはあくまでイワレヒコの息子であるという点を強調し、イワレヒコの海人氏の後継者であることを主張しました。それだけイワレヒコの名が瀬戸内海地域では確固たる権威となっていたからであり、そのように強調することで味方を増やして、九州勢力の報復を抑止して瀬戸内海東部地域での自らの地位を保持する狙いがあったと思われます。
結局そういうことが効を奏したのか、九州勢力による報復は無く、瀬戸内海の交易路も防衛システムも、奈良と九州の海人氏の不仲はありつつもそれなりにそのまま機能し続けたのでした。交易路も防衛システムも、既に多くの東倭勢力の氏族の共通財産となっており、海人氏の内輪揉め程度で壊れるようなものではなくなっていたのです。
こうして奈良盆地東南部の橿原近辺はイワレヒコの末子であるカンヌナカワミミが統治することになったのですが、これは実質的には出雲系氏族の共同体であり、ここでは出雲系の神への祭祀のほうが主に行われ、本来の九州の海人氏の祖神である八幡神の祭祀は行われませんでした。
イワレヒコは実際には奈良盆地では統治を行っていませんでしたから、畿内共同体としてのこの奈良盆地東南部の地の初代の統治者はカンヌナカワミミということになるのですが、伝説的英雄であるイワレヒコを初代ということにして、その後継者であるということでカンヌナカワミミの血筋の権威付けを行うということになったのです。つまり、カンヌナカワミミの母系の血筋よりも父系の血筋のほうが重視されることになり、これが天皇家の父系重視の伝統の源があるのではないかと思われます。古代においては伝説的英雄であるイワレヒコの血筋を濃く受け継ぐということに価値が置かれたのです。
この奈良の海人氏は木の国の勢力の協力を引き続き得て、奈良盆地や瀬戸内海東部地域にはそれなりの影響力を及ぼしつつ、西倭勢力や九州海人氏の勢力に対抗していくために、更に東国へと交易圏を広げていくようになるのです。
この頃の東国は、紀元前100年以降の西国における目まぐるしい展開の刺激を受けて、主に出雲系氏族を中心として共同体の統合が開始されるようになり、各地で地方勢力が成長し始めていました。考古学的に見ても、紀元前100年ごろから東日本にも環濠集落や村落内部の階級構造が出来てきます。
そうした東国の地方勢力との交易によって富を蓄えることと、人口豊富な東国と連携することによって西倭や瀬戸内海勢力と対抗していこうとしたのです。まずはその手始めに木の国の奥地やその東の伊勢地方へ交易路を伸ばしていきつつ近隣の共同体との統合を進めていき、奈良盆地内の他氏族との連携を深めていくことになりました。
実際、考古学的にも、紀元前1世紀中頃ぐらいから畿内でも祭祀による共同体の統合が進み、小国家といえるようなものが出来てくるようになったというのが主な考え方です。

このカンヌナカワミミの子孫が後に大和王権の大王家となるのですが、後にその大和王権の好敵手となる高句麗王国が同じ頃、紀元前37年に遠く満州平原南部にて成立したとされています。初期の高句麗は西倭のようにシナ帝国の友好国となって交易の利を得ようともせず、東倭のようにシナ帝国に背を向けて独自の経済圏を作ろうともしませんでした。
西倭にしても東倭にしても、彼ら自体が豊かな物産の地に住んでいるために、それをシナ帝国に提供して代価を得ることも出来たし、その逆にそれを自らの経済圏で循環させて独自の経済圏を成立させることも出来たのです。しかし高句麗の成立した満州平原は日本列島のように豊かな土地ではなかったので、自己完結することも出来ず、かといってシナ帝国が友好国として遇してくれるほどの豊かさも無かったので、属国や属領として取り込まれず、王国を存続させていくためには、むしろ王国の南方にある遼寧半島に移転した玄菟郡や朝鮮半島北西部の楽浪郡の地の土着の民や華僑たちとシナ帝国の当局を介さずに直接取引をするということになりました。
これはシナ帝国側から見れば密貿易ということになり、取締り対象でした。そこで玄菟郡や楽浪郡の郡兵と高句麗の武装商人たちとが衝突したりして、武帝没後の漢帝国は辺境の防衛を手薄にしていましたから、しばしば高句麗のほうが勝って玄菟郡や楽浪郡の交易都市を略奪して去っていったりもして、漢帝国もいささか高句麗を持て余して、高句麗に王号を授けたりして懐柔に努めたりしていました。
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