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日本史についての雑文その283 漢委奴国王
その楽浪郡には相変わらず北九州の西倭諸国の通商使節が頻繁にやって来ており、漢書地理誌には紀元前20年代の描写として「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す」と記されています。
これは北九州の西倭地域に百余りの交易市場があるということです。シナ語における「国(コク)」というのは都市国家、つまり交易市場のことで、日本語における「国(くに)」は「郷」や「里」の意味で、一定の支配地を有した領域国家ですから、そのニュアンスの違いというものはあります。1つの国の中には複数の市場があったと思われ、楽浪郡へは市場ごとに通商使節がやって来ていたと推定されることから、実際にはこの頃の北九州における国の数は20?30ぐらいであったのではないかと思われます。

このように西倭諸国は楽浪郡とのシナ物品の取引によって栄えるようになり、紀元前後あたりには鉄器が完全に普及して青銅器は祭祀専用に使われるようになっていきました。言い換えると武器の鉄器化が完了したということで、この時点では西倭諸国は東倭諸国に比べて軍事的に優位にあったといえます。
こうした状況に対して東倭諸国も警戒感を強めて、瀬戸内海の防衛システムをますます万全なものにしていったのだと思われます。しかし、この緊張関係はシナ大陸の状況変化によって一旦変化を生じることになります。

漢帝国は紀元前87年の武帝の死後は衰えた国力を回復するためにしばらく内政の建て直しに専念するようになり、紀元前74年に即位した武帝の曾孫の9代皇帝の宣帝はシナ帝国の歴史上数少ない名君の一人で、税を減らして貧民を救済し国力を回復させました。
また、たびたび匈奴を攻撃して、西域を統治する機関として烏塁城に西域都護府を設置して西域諸国との交易を保護し、やがて匈奴は南北に分裂して南匈奴は漢に親和的になったので西域交易路は安全となり、漢帝国はシルクロードを通って遠くパルチアあたりとも交易を行い西域交易は栄えました。またこの時代は東方では楽浪郡に西倭の通商使節が通ってくるようにもなっており、この東西の交易の隆盛によって漢帝国は繁栄しました。
こうして漢帝国は安定し、紀元前49年に宣帝が没した後も平和な時代が続きました。この時期は太陽黒点周期のローマ最大期のピークの時期にあたり、地球気温も高かったので豊かな生産性も維持し人口も再び増え続け、もともとシナの人口は戦国時代あたりはだいたい2000万人あたりで推移していたのですが、西暦2年の統計では約6000万人にまで達しました。
しかし表面的な繁栄の陰で、シナ帝国の安定期の業病である政治腐敗は進行しました。宣帝の子の元帝は儒教に傾倒して非現実的な政策を連発し、また宦官の勢力が強まって政治を壟断し、この元帝以後は暗愚な皇帝が続き、外戚と宦官の勢力争いが慢性化しました。
この元帝の皇后が王氏といいまして、この王氏の一族が漢帝国の末期に外戚として権力を振るいました。この王皇后の甥が王莽で、漢帝国末期の政治の実権を握りましたが、この王莽は儒教原理主義者というべき人物で、儒教の神秘思想に基づいた政策を実施したりして大衆の支持を得ていました。おそらく表面上の綺麗事で対処可能などうでもいい分野で大衆受けのいいことばかりやっていたのでしょう。
この王莽が予言書などに凝っていたようで、どういうわけか自分に天命が下ったと思い込んで、西暦8年に漢帝国の帝位を乗っ取って「新」という新しい王朝を開いたのです。これは実質的には帝位の簒奪であったのですが、形式としては禅譲という形をとり、漢帝国の徳が無くなったので新たに天命の下った天下を治める徳のある人物である王莽に皇帝の位が譲られたという建前になったのです。こうして漢帝国は滅びました。

これはつまり易姓革命なのですが、易姓革命は武帝の時代に司馬遷が歴史を解釈する際に考え出した机上の理論であって、実際に歴史上でそれが演じられたのはこの王莽の事例が初めてでした。つまり王莽は机上の空論に過ぎなかった易姓革命を現実世界において初めて実現したということになります。まさに儒教原理主義者であったといえます。
こういう王莽の作った新帝国は周の時代の治世を理想としましたが、それは儒教の神秘思想によって創作された虚構の周代でしたから、そのようなものに基づいた非現実的な政策をたちまちにして破綻しました。
また王莽は極端な中華思想に基づいて周辺民族を蔑視して対外関係を悪化しました。シナ帝国においては新しい王朝が出来ると初期には外征をして皇帝の権威を高めようとする傾向がありますから、王莽の場合もまさにそれだったのですが、あまりに性急すぎて周辺民族の反発を招き、これを討伐しようとしましたが失敗し、せっかく漢と良好な関係であった南匈奴も新に背き西域諸国を侵略して、西域交易路が塞がれてしまい新の国内は困窮し混乱しました。
そうした新帝国に対して17年から各地で農民反乱が起きるようになり、シナ大陸は各地で内戦状態となり、そうした混乱の中で23年に王莽は反乱軍に殺され、新は滅びましたが、それ以降も内戦はなかなか収拾せず、途中、劉秀という武将が25年に後漢王朝を建てましたが内戦は続き、結局、37年に劉秀がシナを統一してやっと平和が戻りました。この劉秀が後漢の初代皇帝の光武帝です。

ちなみに、この劉秀は漢王朝の始祖の劉邦の子孫の劉一族ではありますが、その血統は傍系の傍系で、先祖代々の地方貴族の家柄であり、もともと漢帝国末期においても帝位などには全く縁も無く、中央政府にも何の関わりも無い平凡な立場に過ぎませんでした。彼自身がまさか皇帝になるなど思ってもみなかったはずです。
それに漢帝国は8年に王莽によって完全に滅ぼされており、その後、劉秀が皇帝を名乗るまで17年間も間が空いており、劉秀の即位に際して旧漢王朝は何ら関与していないことからも、この後漢帝国というのは実質的には漢帝国とは全く別個の独立した帝国であったと考えるべきでしょう。ただ、劉秀が漢帝国の復興を旗印として内戦を戦ったという事情もあり、政治制度などはほとんど漢帝国の時代のものをそのまま踏襲しました。
しかし劉秀の政治は全く儒教の腐臭を排した現実主義的なもので、20年に及ぶ内戦によって荒れ果てた国土と人民の回復に努めるようになりました。この内戦期間中にシナの人口は再び激減し、漢末期には6000万人いた人口が後漢初期には2000万人にまで減っていましたが、劉秀の治世以降、順調に回復していくことになりました。
このように劉秀はシナ帝国の歴史上、最高の名君の一人とされているくらい、シナ世界の復興に見事に成功したのですが、彼自身が地方貴族から成り上がって皇帝になり、その過程で農民反乱軍とも戦った経験から、地方の軍事力が育つことを恐れて、地方の軍備を廃止したため後に地方政治が乱れる原因となり、また貴族の勢力を恐れたために皇帝に権力を極度に集中させ、後に幼少の皇帝が続くようになって外戚や宦官に政治を壟断される原因も作りました。

さて、この8年の漢帝国滅亡から17年の内戦開始を経て37年の後漢によるシナの再統一までのシナ大陸の混乱期間、北九州の西倭諸国もまた混乱していました。シナ大陸が内戦状態であるためにシナの物資が楽浪郡へ入ってこなくなって交易が振るわなくなったからでした。また、王莽の対外政策の失敗によって高句麗との関係も悪化して、高句麗兵によって楽浪郡の治安もしばしば脅かされたため、なおさら交易が細っていきました。
西倭諸国は楽浪郡との交易への依存度が高かったので、これによって少ないシナ物品の奪い合いが起きて、西倭諸国同士の争いが頻発し、全体的に西倭諸国の力は低下していきました。
こうして西倭諸国による東倭の共同体に対する軍事的脅威は緩和して、東倭の瀬戸内海防衛網における緊張状態も回避されることになりました。しかし、この瀬戸内海防衛網における情報ネットワークは軍事用から民生に転用されて、流通に関する情報の遣り取りにも使われていたので、そのまま使用されて流通の円滑化に貢献することになりました。また、この半世紀ほどの間の西倭諸国との緊張関係が東倭の各共同体の危機感を高めて、東倭各地域における共同体の統合を促進することにもなりました。
そうした東倭地域の各共同体の統合は祭祀を通しての統合を進めていくものでしたが、その祭祀の権威付けのための青銅器は北九州の西倭諸国に豊富にあり、西倭と東倭の緊張関係が緩んだことがきっかけになって、北九州から瀬戸内海の流通路を通って西倭産の青銅器が東倭地域に幾らか流れてくるようになったのです。一種の雪解けムードのようなもので、それほど大規模な交易というわけではありませんでしたが、徐々に東倭に出回る金属器の量は増えていきました。また、その中には鉄器も徐々に含まれてくるようになり、1世紀半ばぐらいには東倭地域でも武器の鉄器化が進むようになります。

そして、瀬戸内海流通路の活発化はこの流通路を取り仕切る海上勢力の影響力を強め、特にその中心であった海人氏の指導力が強くなりました。この海人氏やそのシンパとなりつつあった諸氏族は、この緊張緩和と経済発展を機会にして、その指導的立場を維持するために更に森林資源や人口の豊富な地域との連携を図ろうとして、四国や東海方面の氏族との連携を図るようになっていきました。
17年に海人氏の当主を継いだミマツヒコカエシネは尾張国の有力氏族であった尾張氏の娘を妻としましたが、この縁戚関係も海人氏と尾張氏の同盟の証であり、この同盟は海人氏が東海地方の氏族との連携をとっていくための布石であったのです。こうして東海地方も次第に東倭の勢力圏に含まれるようになっていき、共同体の統合が進んでいくようになるのです。
また、海人氏に近い立場の紀伊半島を根拠地とした海洋民の氏族は更に東へ進出して関東南部から鹿島灘あたりまで進出して漁業を行い、そこで得た水産資源を現地の出雲系の共同体と交易したりするようにもなっていきました。このように東倭諸国の氏族が更に東方へ進出し始めるようになったのがこの紀元前後の状況でした。

このように東倭の諸勢力がひときわ成長しようとしている頃、37年にシナ大陸の戦乱はようやく収まり、後漢帝国によって統一が達成されました。これで楽浪郡におけるシナ帝国との交易が再開すると西倭諸国は歓迎しました。
ところが、漢帝国滅亡以降、長年にわたって続いた戦乱で人口が激減していたため、後漢帝国ではまず何より内政重視の政策をとり、辺境の郡に回す軍事力はありませんでした。また、前述のように後漢初代皇帝の劉秀が地方の軍事力を警戒して削減する意思もありましたから、辺境の郡である楽浪郡の郡兵はほとんどカットされ、西倭から楽浪郡まで行く朝鮮半島西部の内陸水路の安全保障に空白が生じることになったのです。
このような辺境の状況は朝鮮半島だけではなく、後漢初期に全ての辺境地域で生じたのですが、それに対しての劉秀の施策は、辺境の交易相手の蛮族の首長を王に封じて、交易路の安全保障を肩代わりさせ、その見返りにその蛮族の王に交易の代表権を与えて、その蛮族の王を通してしか他の蛮族の氏族との交易を行わないようにして、王に独占交渉権を与えたのです。高句麗などもこのようにして王に封ぜられるようになりました。
これが楽浪郡での交易においても適用され、西倭諸国の中から有力な国の王が選ばれてシナ帝国から「倭王」に封じられて、今までのように百国もの通商使節がバラバラに訪れるのではなく、その倭王の使節だけが西倭諸国を代表して楽浪郡に訪れて、他の諸国はその倭王の使節に随行していくか、あるいは倭王の使節を通して交渉や交易を委託するかということになります。また、そのように倭王の行う交易に参加するためには、他の西倭諸国は倭王の指揮する朝鮮半島西部の内陸水路の治安維持活動に兵や兵糧を供出したりしなければいけません。

もちろん実際に北九州に「倭国」といえるような統一大国が存在したわけではなく、「倭王」というのはシナ帝国側が交易の利便上で勝手につけた名称に過ぎないのですが、倭王はその特権を利用して他の諸国の交易の上前をはねることも可能なわけで、自然に軍事的にも指導的立場に立つことにもなるわけで、次第にシナ帝国との特約関係に寄りかかった倭王の勢力が他の諸国に比べて強くなってきます。
だから諸国は何とかして倭王の地位を得ようとしてシナ帝国の出先機関である楽浪郡当局に働きかけることになります。その場合、実際に西倭諸国内で指導的立場にあるということを示さなければいけませんが、こういう時、最も分かりやすいのは賄賂で、こういう許認可制の場合は古今東西同じで、より多くの貢物をした者が特権を付与されるのです。
そして、その貢物を他の国よりも多く調達するためには、結局、他の国よりも抜きん出た勢力を有するようになるしかないわけで、この「倭王」制度の出現によって、西倭諸国内での覇権争いは加速され、更に周辺部にも領域を広げていくようになったのです。
そうして57年には博多湾岸の東半分の領域において交易用の物資の運搬を通じて統合し発展した奴国が後漢から「漢委奴国王」という倭人の王の称号を賜ることになりますが、同時期には博多湾岸の西端から糸原半島にかけて対外的窓口として発展した伊都国も奴国と競合関係にあり、これらはそれぞれ元々存在していた小国家を統合していって傘下に加えて連合体を形成した部族的国家連合で、シナ帝国から下賜される「倭王」という称号を巡って争うライバル関係にあったと思われます。
このように、西暦50年ぐらいに北九州の西倭地域で大国ともいえる部族的国家連合が出現するという新たな事態を受けて、この後、西倭地域でも東倭地域でも新たな変化が生じるようになってくるのです。
漢の武帝が朝鮮四郡を設置して、その影響を受けて倭人がシナ帝国との交易を開始した紀元前100年ぐらいから、この紀元後50年あたりの北九州における部族的国家連合の成立までのこの約150年の期間は、原始国家文明の「転の部」であり、部族国家文明の「起の部」でもあります。つまり、シナ帝国の文明の刺激を受けて原始的な小国家が成熟しつつ統合されていって部族国家連合、すなわち大規模な氏族共同体が各地に生まれ始める段階なのだといえます。
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