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日本史についての雑文その284 「倭国王」の出現
後漢時代の初期、1世紀中頃に楽浪郡において西倭諸国の代表者は「王」に封ぜられて北九州から朝鮮半島西部を通って平壌に至る交易路の安全保障を肩代わりさせられることとなりました。これは言うなれば郡県制における郡の太守の役割を代わりに務めるということであり、漢帝国初期の郡国制の時期の朝鮮王国の国王の役割と同じことでした。
漢時代の初期には漢の版図は朝鮮半島の西であったので、その東の交易路の安全保障を朝鮮王国が担当したのですが、この後漢時代初期にはその朝鮮王国の故地である朝鮮半島北西部には後漢の直轄地である楽浪郡がありましたから、その南の交易路の安全保障は、南方にある交易相手国であった西倭諸国の担当ということになったのです。

これは安全保障を肩代わりさせる見返りに交易上の優遇もするわけですから、それだけ西倭諸国というものが後漢にとっては重要な交易相手であったということになります。そうであるからこそ「王」の称号を与えて優遇したのです。なお、楽浪郡の北方でこれと同格の扱いを受けて「王」に封ぜられたのが高句麗でした。
一方、同じ頃に朝鮮半島南部において土着の共同体の首長たちの各地の代表者は「邑君」という称号を楽浪郡から授けられていました。これは市場の監察人のようなもので、言うなれば郡県制における県の県令の役割の代わりを務めるということになりましょう。つまり、朝鮮半島南部に点在する県、つまり都市国家内の市場で商いをしたりその周辺で農業をする土着民や華僑たちから着実に租税を徴収する役割なのだといえます。
郡県制においては郡の下に複数の県が属するという制度になっており、郡の太守が責任を負う安全保障の傘の下で県令たちは徴税活動を行い、太守は大きな行政権も持っており、県令は太守の命令に従って動いていたのであり、太守はシナ皇帝に直属していたのでした。
そのような太守の役割を肩代わりした倭人の「王」と、県令の役割を肩代わりした韓人の「邑君」との間には、太守と県令の間の上下関係がそのまま持ち込まれ、倭王はシナ帝国の秩序の下で楽浪郡と協力して朝鮮半島南部の交易路の安全保障に責任を負い、韓人の邑君たちは楽浪郡と倭王の指揮の下にその交易路上の市場の運営に励んだのでした。倭王と韓人首長との間のそういった関係性はこの後漢時代初期の楽浪郡の施策に起源を有するのです。

このように西倭諸国の中で後漢帝国と交易上の特約関係を持つ大国が現れてきたことを受けて、伝統的にシナ帝国を忌避する傾向の強い東倭諸国は警戒感を強めることになり、西倭に対抗して東倭でも共同体の統合を早めて大国、つまり部族的国家連合を形成しなければいけないと考えるようになりました。
そうした考え方が生じたのは1世紀前半ぐらいから西倭諸国との交易が始まり、西倭的な国家観や西倭の物品が東倭方面にも入ってくるようになっていたからでした。特に1世紀後半以降は西倭経由で大陸産の鉄器が多く東倭にも入ってくるようになり、さらに輸入した鉄素材を叩いて鍛え直したり、砂鉄から粗悪な鉄を独自に製錬したりするようにもなり、これが農具や工具、武器として急速に普及するようになり、共同体の統合が一気に進むようになりました。
それは時には戦争も伴ったものでしたが、同時期に西倭地域で起きていた熾烈な国家間の闘争に比べれば、東倭地域では戦争はあまり多くなく、やはり祭祀を通じて連合していくというのが基本であったようです。

むしろ鉄製の武器は東倭の共同体間の戦争に使われるよりも後漢と深く結びついて強大化した西倭の侵攻への備えに回されたようです。紀元前1世紀においては東倭はひたすら西倭との接触を嫌い、西に向かっては一種の鎖国的政策をとっていたのですが、この1世紀に至って発想を転換し、西倭に対抗するためにはむしろ西倭と交易して西倭の武器を仕入れてそれでもって武装していくことや、西倭諸国を見習って大国を作っていくということも必要であるという、やや柔軟な姿勢を見せるようになったのです。
ただ、そうはいっても東倭諸国にとっては西倭諸国が最大の仮想敵国であることには変わりないのであって、適当に交易はしつつも決して気は許さず防御態勢は固めていきました。その防御態勢も紀元前1世紀のような応急的なものではなく、より長期的視野に立った恒久的なものになっていきました。これはつまり、以前のような一触即発的なものではなく、西倭諸国と敵対しつつも共存していくという姿勢で、一種の冷戦状態といってもいいでしょう。それだけ東倭のほうも実力をつけてきて、東倭地域全体が合わされば西倭ともなんとかがっぷり四つに組めるだけの自信がついてきたことの表れでもあるのでしょう。

具体的には、この1世紀後半以降に作られる高地性集落は、以前の見張り台に毛の生えたようなものではなく、もっと大規模化して永続的に多くの人が居住できるような、本当の意味での「高地性集落」といえるものに変わったのです。これは、西倭との睨み合いが長期的なものになり、そしていざ開戦すればその戦いは大規模なものになるという覚悟に基づくものであったでしょう。
そしてその第二次高地性集落は第一次高地性集落とは違い、瀬戸内海沿岸地域だけに限らず、畿内各地や山陰、東海、北陸などにも分散していたのです。これは、この1世紀後半以降の第二次高地性集落が北九州の西倭諸国の侵攻に備えたものばかりではなく、共同体の統合を急速に進めつつあった東倭地域内での緊張関係に備えたものも含まれていたといえます。
ちょうどこの1世紀中頃に瀬戸内や山陰において銅鐸の大量埋納が発生していますが、銅鐸は元来は農耕祭祀において吊るして打楽器のようなものとして使われていた祭具なのですが、この頃から急速に巨大化して本来の用途では使われなくなり、共同体を守護するための神の依り代として使われるようになったようで、大量埋納は共同体の敵に対する何らかの結界や呪禁であったようです。
このような銅鐸の用途の変化も、西倭に対する警戒感や東倭地域での共同体間での競合関係の激化などを表しているのでしょう。そして東倭地域に共同体を加護する信仰が生まれたということであり、この神の依り代である銅鐸を祀る祭祀を執り行う共同体の首長は次第に神の代行者としての相貌を帯び始めるのでした。

こうして瀬戸内海以東の東倭地域でも共同体の統合が急速に進み、共同体が重層的に積み重なって支配者の中でも序列が生じて、より大きな権力を持った小国家の王が生まれてくるようになると、そうした王の権威を象徴するものとして吉備や出雲、丹波地域では巨大な墓、すなわち墳丘墓が出現してくるようになりました。
西倭諸国においては有力者の墓には豪華な副葬品が入れられ、副葬品の豪華さが権威の象徴であるとされていたようですが、おそらく東倭においてはまだシナ大陸の物産が不足しており、副葬品の競争を繰り広げることが出来なかったのではないかと思われます。また、そもそも東倭では反シナ帝国の考え方が基本であり、実用品としては仕方なく使っていたものの、王権の象徴としてシナ帝国の物品を使うことには抵抗感があったではないかとも思えます。
どうも古代の人は生前と死後を一連のものと見て、死をその重大な節目と見ていたのであり、葬送儀礼を非常に重要視していたようなので、王権の権威を象徴するものはどうしても墓絡みでなければいけなかったようで、それで副葬品を豪華に出来ないとなれば、墓そのものを豪華にするしかないわけで、つまりどんどん墓が巨大なものになっていくことになったのです。
これは決して無意味なことではなく、副葬品がその王権の武力や宗教指導力の象徴たる器具であったのと同じように、巨大な墓を作れるということはそれだけの土木技術力を持っているということであり、それがその国の生産力にも直結する要素であり、生産力は武力にも繋がるのでした。更にもっとストレートに、巨大な墓を作るためには膨大な人足が必要なのであり、それだけの人数を動員できるだけの指導力があるということであり、そもそも多くの人口を抱えているということの表れとなります。近代兵器の無い古代においては武力とは兵員の数が最も重要な要素であり、膨大な人口を抱えていて動員力があるということは巨大な武力を持っているということを意味しており、巨大な墓はそのまま巨大な武力の象徴ともなるのでした。
この頃は大和など畿内方面ではまだ墳丘墓は見られず、ひたすら銅鐸を巨大化させることで王権を誇示する傾向にあったようですが、この墳丘墓が後に大和に伝わり巨大古墳に発展するのです。
また、この頃は東日本でも各地で共同体の統合が進み、有力な地方勢力が成立してくるようになりましたが、東海地方や関東南東部の一部、そして出雲と越の交流以外では東倭勢力とはあまり接触していなかったようです。

このように東倭においても国家形成が急速に進むようになった1世紀後半、西倭においては奴国や伊都国を代表とした諸国が楽浪郡を通じて後漢帝国との交易を盛んに行っていました。
その後漢帝国では57年に初代の劉秀、すなわち光武帝が死に、その後、明帝、章帝と安定した治世が続きましたが、88年に9歳で即位した和帝の時代から幼君が続いて外戚や宦官に政治が壟断されて混乱していくことになります。
この和帝の皇后が皇后で、105年に和帝が没した後、幼君の殤帝、次いで同じく幼君の安帝を立てて政治の実権を握りました。ところがこの頃は後漢は災難続きで異常気象で大雨が続いて収穫が激減し、西域諸国がことごとく背いて西域都護が廃止され、北方では鮮卑が興って後漢領を侵し、南匈奴は北匈奴に備える後漢の友軍として後漢領内に住んでいたのですが、その南匈奴まで鮮卑に呼応して背き、さらに西方では羗族が背き、東北方面では高句麗が強大化して楽浪郡で略奪を働いたりしました。
このように国内がトラブル続きの時は外交問題を利用して危機を乗り切るというのはシナ帝国の常套手段で、こういうところは今も昔も変わっていません。朝貢というのはそういう外交上の得点稼ぎのために存在していたシステムであり、暗いニュースばかりのところに、突然、遠方の異国の支配者やその使者がシナ帝国の都まではるばるやって来て、皇帝に対して臣下の礼をとるわけです。そうして不人気であった皇帝も一気にその権威を取り戻すというわけです。これはより遠方で、より未知の蛮族であるほど、その効果は大きくなります。
この朝貢というものはもともとは皇帝の権威を高めるためのシステムだったのですが、皇帝が実権を失い宦官や外戚が様々な政治勢力に分かれて党争を繰り広げるようになると、それぞれの政治勢力が自分たちの勢力を維持したり高めたりするために朝貢を利用するようになります。また、蛮族に対する窓口であった各地の郡の官吏もそうした中央の政治勢力に取り入るために交易相手の蛮族に盛んに朝貢に来るように勧誘し、中央に対して蛮族の朝貢を売り込むようになりました。

つまり、「後漢書」の東夷伝にある、107年に倭国王の帥升が後漢王朝に朝貢して生口(奴隷)160人を献上したという事実も、実際は失点続きの皇后の政治勢力の人気回復を図るために演出されたもので、プロデュースは全て楽浪郡が行い、資金はシナ帝国の政府持ちで、実際は「倭国」などという蛮族の大国があるわけではなく、おそらくは奴国か伊都国の王に朝貢用にもっともらしく「倭国王」という称号を与えたのであり、もちろん「倭国王」自身が洛陽まで出向いたわけでもなく適当な者を使者に立てたのであり、献上された奴隷160人だって楽浪郡が何処からか用意したものであったのでしょう。
そのような茶番に付き合う倭王のメリットは、おそらくその引き換えに与えられる更なる交易上の優遇措置であったのでしょうけど、楽浪郡の官吏にしてみれば、倭王を利で釣って実現した朝貢で皇后政権に取り入って得られるメリットのほうが大きかったのでしょう。
このように、実際に北九州に「倭国」という国があったわけではないのですが、おそらくこの2世紀初頭の頃には北九州の西倭地域も更に領域を西や南に拡大して、奴国や伊都国も連合を組んで代表者を一本化して楽浪郡と交渉するようにまで統合が進んできていたのであろうとも思われます。そういう拡大された部族国家連合としての「倭国」というまとまりや、その代表者としての「倭国王」ならば存在したといってもいいでしょう。

この後、2世紀前半はこの西倭地域の部族国家連合である「倭国」は安定期に入り、順調に楽浪郡と交易を続けることになりました。そして、その東方では東倭の諸地域や東日本地方で小国家が更に統合を進めて、西倭地域と同じように各地で部族国家連合を作るようになっていきます。
それは例えば吉備や播磨を中心とした山陽地域、出雲を中心とした山陰地域、丹波を中心とした北近畿地域、大和を中心とした近畿地域、伊勢や尾張、三河、遠江の東海地域、越の国を中心とした北陸地域、信濃地域、関東地域、東北地域などにおける動きであり、こうして出来た西倭地域を含む各地の部族国家連合、つまり大規模の氏族共同体においては、その規模が大規模になるにつれて、その指導者には強い指導力とカリスマ性が求められるようになり、その裏づけとなる正統性が徐々に必要となっていったのです。
部族国家連合の順調な発展の陰で、そうした潜在的な欲求は強まっていき、旧来の銅鐸などを用いた農耕神や祖霊への祭祀だけでは連合の求心力としては不足感が生じてきて、それ以上の連合の拡大には対応が難しくなりつつありました。
これはシナ世界の殷や周の時代の氏族共同体と同じような状態で、シナにおいては氏族共同体の連合をまとめる天子が存在したのですが、結局、この天子や氏族の長の求心力が不足していたためにシナにおいては氏族共同体は解体していき、皇帝の治める中央集権国家が生まれることになったのです。
日本列島においてこの二の舞とならないようにするためには、各地の氏族共同体の王の求心力を高める新たな発想の転換が必要となります。そうした発想の転換を経ることによって、更なる統合や連合へのステップに至ることも可能になっていくのですが、その発想の転換が迫られるには2世紀後半の激動というきっかけが必要でした。
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