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日本史についての雑文その285 大乗仏教
後漢帝国は4代皇帝の和帝以後は外戚や宦官に政治を壟断されるようになり賄賂が横行して政治腐敗を極めるようになりますが、それでもこの時代はまだ基本的に太陽黒点のローマ最大期で地球温暖化時代で豊かな生産性を維持していた時代であったので、それなりに社会は発展し続け、人口も後漢初期には王莽の乱などの影響で2000万人ぐらいまで減っていたのが、11代皇帝の桓帝の時代の157年の統計では5600万人にまで回復しました。
しかし先述の2世紀初頭の安帝時代の異常気象は地球温暖化のピークであるローマ最大期の終焉を告げるものであり、このあたりから気温は再び下がり始めます。その影響はまず北方や西方の寒冷地から始まり、食料不足に陥った羗族や鮮卑族、高句麗族がたびたび南下して後漢領を襲って略奪などを行うようになりました。
初代光武帝以来の方針により、地方の軍事力は抑制されていたのですが、こうした事態を受けて後漢朝は郡をいくつも束ねる州の軍事権と民政権を統括する牧という役職を置いて周辺異民族や地方反乱に対処させ、これは地方の自立勢力となっていきます。
また、この頃も宦官や外戚による政治腐敗は進み、賄賂政治が横行しましたが、その賄賂の出所は結局は民衆に重税を課して搾り取ったもので、当然のごとく民衆の不満は募って各地で反乱が起きるようにもなり社会不安は増幅していました。こうした事態を鑑みて政治腐敗を正そうとした地方豪族勢力もいたのですが、宦官勢力はこれを弾圧して追放しました。
こうした中、ピークに達した人口の多くが各地方の都市部に流れ込み貧民化して生活不安から太平道や五斗米道といった新興宗教系の秘密結社に入信するようになり、このうち太平道が過激化して184年に全国で一斉に「黄巾の乱」といわれる反乱を起こしたのです。

この太平道や五斗米道というのは道教系の新興宗教を奉じた秘密結社だったのですが、道教はシナに戦国時代からある老荘思想が仏教の刺激を受けて後漢時代末期に発展成立したものです。
仏教のシナへの伝来は漢時代末期であるとも後漢時代初期であるとも言われていますが、いずれにしても初期においては上流階級の異国趣味にしか過ぎなかったようです。しかし後漢時代の後期になって社会不安が醸成されてくるにつれて民衆の支持を得るようになり、各地に教団が作られるようになっていったようです。なぜ仏教が社会不安にかられたシナ民衆の支持を得るようになったのかについては、仏教の歴史を辿ってみるとよく分かります。

仏教は紀元前5世紀頃にインド北部で釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が唱えた教えで、人間が仏になるための道を説いたものです。仏とは仏陀のことで、真理に目覚めた人のことで、神や預言者の類ではなく修行によって誰でも到達できる境地であるとされています。釈迦自身が修行によって仏陀となったのであり、その経験も基にして釈迦が仏陀になる方法を他の人間に伝えようとしたのが仏教の始まりということになります。
そう考えてみると仏教というのは一風変わった宗教といえます。それまでの宗教というものは超越的な存在である神と人との間の付き合い方について教えるもので、人間が超越的な存在になろうとするような宗教は存在しなかったからです。いや、閉じられた修行者によるサークル内で通用する神秘思想としてならば、そういうものは太古から世界中に存在していましたが、一般人とは無関係なものでした。
初期の仏教もそういうものであったようで、釈迦の教えた通りの修行マニュアルをこなす出家者集団の集まりで、彼らによって釈迦の生前の言葉は口誦されて伝えられました。こんな感じですから当初はそんな大きな教団ではなかったのですが、次第に出家者以外にも釈迦の教えを支持する人々が現れてきました。
それは釈迦の教えが一般の人々の生きていく上での根本的な悩みや苦しみである病や老いや死の一種の克服法を示す非常に斬新なものであったからです。つまり、釈迦によれば、生きていく上での避けられない苦しみである病や老いや死というものが生じる原因は形あるもの全てに備わる自我に執着する煩悩から来るものであり、そういった執着から脱することによって苦の束縛から解放されて輪廻の苦の連鎖から脱して涅槃に入り仏陀となるということになります。
そういった執着を脱するために厳しい戒律を守って修行に励むべきだというのが釈迦の仏教であったのですが、そうした修行三昧の暮らしを送る出家者になれなくても、こうした釈迦の考え方に共鳴する一般の人々も出家者集団の周りに集まるようになってきて在家信者の集団も形成されるようになってきました。

そうして釈迦の死後100年ほど経った頃に、出家者尊重的な上座部と在家信者に肯定的な大衆部とに教団は分裂し、その後、更に細かく多くの部派に分裂していきました。この上座部の流れが出家を重視する現在の東南アジアにおいて広く信仰される南伝仏教となりましたが、紀元前2世紀の部派仏教の時代に上座部から派生して大きな勢力となったのが説一切有部でした。
この説一切有部は釈迦の教えを忠実に解釈しようと努め、極端な出家中心主義をとり、煩瑣にして膨大な理論体系を整え、一般人には近寄り難いものとなり、その上、仏陀となるための修行のレベルを極めて高いものに設定したために一般修行者は決して仏陀の境地には達しないと断定することになりました。
これに反発して紀元前後に生じたのが大乗仏教です。大乗仏教は自身が仏陀になることを優先する考え方自体が一種の執着なのではないかと論難し、仏となるためには我執を払い自他の区別を無くして、まず苦の中にある他の全ての生き物たちを救おうという心を起こしてそれを実践することが大事であり、そういった善行を積んでいきつつ輪廻の中で生まれ変わっていけば、遠い来世において仏陀となることが出来ると唱えたのです。この考え方であれば出家せずに俗世にまみれて暮らす在家信者でも来世において仏陀となる道が開けるということになります。
この善行というのは一般的な意味での善行も含まれますが、例えば寺を建てたり経典を書き写したりするような仏教的な意味での善行も含まれ、それらの善行を行うことによって来世の成仏が約束されると同時に、現世での相応の利益も得られるというのが大乗仏教の一般的な考え方でした。
これは元来の釈迦の教えとは異質の思想であったのですが、確かにこれはこれで筋が通っており、善行を積むだけで修行無しで仏陀となるという考え方にいささか無理もありますが、かといって善行もせずに自己の成仏のみに執着して修行のみで仏陀になるというのも矛盾したことではあります。
そう考えると南伝仏教と大乗仏教のどちらが正しいという断定も出来ず、南伝仏教にも修行偏重の行き過ぎた宗派もあったであろうし、大乗仏教にも善行偏重の行き過ぎた宗派もあったであろうということになり、結局、私などには善行もしつつ修行も行うのが仏を目指す道としては一番であるという風にも思えますが、これはいかにも日本人的な中庸好みの考え方で、実際は仏陀になろうなどという途轍もない難事に挑む場合にはかなり極端な方法が必要なのかもしれません。
ただ、この大乗仏教運動が無ければ善行の重要性が強調されることも無かったという点を考えれば、釈迦の教えとは違っていても、やはりこれは仏教の歴史において画期的なことであったとは言えます。また、このような考え方が発生したことによって仏教は在家に多数の信者を獲得していくことになるのです。

また、この大乗仏教の理論が成立する前提条件として、仏陀となった釈迦自身がその前世において苦の中に生きる全ての衆生を救おうと難行をしていたという伝説が用いられ、自分たちもそうした行いを見習うべきであるとしたのです。
さて、そうなると大乗仏教の教理に基づくと、この世に生きとし生ける者は全て、遠い来世においては仏陀となる可能性を秘めたものとなり、過去のあらゆる人間も仏陀となり得たということになり、そうなると仏陀とは紀元前5世紀の釈迦だけではなく、過去において何人もの仏陀が存在したということにもなり、また未来においても何人もの仏陀が現れる予定となります。
そうなると仏陀になる道を説いた教え、すなわち仏教の経典というのは別に釈迦の書いたものや、釈迦の言葉を弟子が書き残したものでなくてもいいということになり、過去の別の仏陀が書いたものであると称したものや、また仏陀は時空すら超越する存在であるので未来の仏陀の説いた教えが現在において現れるということもあり得るともされ、またこの現実世界とは異質な空間において仏陀が存在しているとも考えられ、更にはそうした時空超越的な解釈が発展して、この思想運動そのものが究極的な仏陀の自己表現なのではないかという考え方も成立するようになり、このように釈迦とは無関係に非常にバリエーションに富んだ宗派が出現可能になったのです。

このような様々なバリエーションを生み出すことになるのはもう少し後のことになりますが、とにかくこのような大乗仏教が主にインドから北方に伝わり、アフガニスタンから中央アジアの西域諸国を経由して、1世紀に後漢帝国に伝わったのです。そして2世紀後半になって社会不安が増していく中で、この大乗仏教の「全ての衆生に善行を施す」という相互扶助精神が受け入れられ、仏教に入信する一般の貧しい人々が増えて教団を結成するようになったのです。
いや、正確には信者が増えたというよりも、仏教教団の善行を積むという側面での相互扶助活動に惹きつけられた貧しい人々が集まってきて入信するようになったということです。シナ世界においてはかつては氏族共同体が社会保障装置であったのですが、シナ帝国によって氏族共同体は解体され、特に都市部では貧民たちはバラバラの個として頼りとするものの無い生活を送っていました。そういった人々の心の支えとなるべき宗教も、シナ帝国の国教であった儒教はこの時代は完全に体制護持の教えとなってしまっており、こうした庶民の心や生活を救うことは出来なくなっていました。そういう隙間に仏教が受け入れられる素地があったのであり、仏教教団は相互扶助的な秘密結社として都市部の貧民たちに受け入れられていったのです。

ただ、仏教はやはり所詮は異国の宗教であり、この時代はまだとっつきにくい部分もありました。より広い層に支持されるためにはシナ世界土着の宗教と習合する必要があったのですが、そこで仏教と結びついたのがシナ世界の顕教たる儒教ではなく、その陰でシナの人々の精神に潜んでいた老荘思想のほうでした。
老荘思想においては「道」という全ての存在を規定する原理であり全てを生み出した母なる存在が最重要視され、人為を廃して自然にあることによって「道」に通じるとする思想ですが、仏教の「自我を含めてこの世の全ては実は実体は無いと悟ることによって苦しみから解放される」とする「空」の理論と通じるものがあり、また、この「道」が仏教の言う「涅槃」と重なるものがあり、世俗から一歩引いた生き方も共通したものがあり、老荘思想と仏教は結びつきやすい傾向があったのです。
こうして、シナ世界土着の民俗宗教の上に老荘思想と仏教が結びついて生まれたのが道教で、教義としては宇宙の根源的な真理である「道」と一体化するための修行を行い仙人となることを目指す宗教であり、確かに老荘思想と仏教を合体させたような教えとなっていますが、この場合の仏教は大乗仏教であるので、出家者に相応する修行者以外の在家信者たる一般信者に関しては、その「修行」には広義において「衆生済度」、つまり「苦の中にある生き物を救う善行」も含まれるのであって、道教教団においてはこの衆生済度に基づいた相互扶助精神とその実践が組織的に行われることになりました。
こうして2世紀後半の社会不安の増幅した時代において、シナの伝統的思想に異国由来の相互扶助思想をミックスさせた道教の教団として太平道や五斗米道の教団がシナ全土で爆発的に信者を獲得して膨れ上がり秘密結社化してネットワークを作り上げ、民衆たちの社会保障装置として機能するようになったのですが、いくら民衆を救済しても後漢末期の腐敗した政治体制によって民衆の苦しみが減ることはなく、言わば「焼け石に水」状態であったので、特に太平道教団においては根本的な民衆救済のためには世直しが必要であるという認識に至り、反乱軍を組織してシナ各地で蜂起するに至ったのです。これが184年に勃発した「黄巾の乱」です。
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この記事に対するコメント

大乗仏教がインド発であるということはあるのでしょうか。仏像発生との関係はどのようなのでしょうか。大乗仏教は仏像との関係が切り離せないようなので。大日如来が中心にいて釈迦如来はその他大勢の中にいるように見えるのですが。

【2009/03/21 11:26】 URL | 石山みずか #1Tmake9s [ 編集]



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