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日本史についての雑文その286 邪馬台国
184年にシナ各地で勃発した太平道信者による黄巾の乱は最初は世直し運動のようなものでしたがすぐに暴徒化して「黄巾賊」と呼ばれるようになり収拾がつかなくなり、後漢帝国を牛耳っていた宦官勢力はそれに対して為すすべがありませんでした。そこで各地の地方豪族に命じて黄巾賊を討伐させたのですが、これによって地方豪族が各地で勢力を有することとなり群雄割拠の状態となり、しかも地方豪族たちは宦官勢力を恨んでいたため、189年に地方豪族の1人である袁紹によって宦官勢力は皆殺しにされ、これによって後漢の中央政府はその機能を停止して事実上滅びてしまいました。
その後は地方豪族同士が皇帝を傀儡にしようとして首都の洛陽を奪い合い、洛陽が廃墟と化すると今度は各地を根拠地化して領土を奪い合う長い内戦状態に入っていきました。そうした戦乱に加えて、この時代は地球全体が寒冷化に転じた時代であったので、農業生産力がガタ落ちして深刻な食糧不足に陥り、シナの人口が157年の5600万人から一気に10分の1以下の500万人弱に落ち込み、華北はほとんど無人状態に近くなり、この後シナの人口は唐時代まで回復しませんでした。
ここまで極端に人口が減ると各地の群雄たちも兵力にも事欠く有様となり、決定的な軍事力不足が内戦が長引いた原因でもあります。そうした中で勢力を伸ばした曹操、劉備、孫権は兵力不足を補うためにそれぞれ北方、西方、南方の異民族を自らの勢力範囲に移住させるようになり、従来の漢民族は激減していましたので異民族との混血によって純粋な漢民族という概念はほとんど意味をなさなくなっていきました。

さて、このような2世紀後半の後漢帝国の混乱によって楽浪郡も機能不全に陥り、楽浪郡との特約関係を拠り所として他の諸国より優位に立っていた「倭国王」の権威が失墜して北九州の西倭諸国では主導権争いが激化します。
こうした混乱の中でも結局、西倭諸国においてはシナ大陸の交易ネットワークとの繋がりが権力の重要な源泉であり続けたのであり、シナ帝国の皇帝の公的なネットワークが内戦で機能不全になった状況下では、非公式のネットワークでもとにかくシナ大陸に張り巡らされたネットワークとの繋がりを持った者が優位になったのでした。
黄巾の乱の鎮圧によって太平道の教団は壊滅しましたが、道教の信者は消え去ったわけではなく、むしろ乱世においてますます秘密結社のネットワークを広げて相互扶助を行っていました。そうした道教の信者は商人にも多く、戦乱を逃れて朝鮮半島や北九州にも多くの道教信者の華僑が逃れてくるようになり、楽浪郡の機能低下を受けて、朝鮮半島や北九州においてシナ大陸とも繋がった自律的な交易ネットワークを形成し始めました。
この道教秘密結社の交易ネットワークの安全保障を北九州の西倭諸国の連合が行うことになり、それによって引き続きシナ帝国の物産をなんとか確保することになったのです。ただ、これは宗教的な信頼関係に基づいた秘密結社ですから、単なる世俗的な利害関係のみでそうした特約関係は維持できません。そこで西倭諸国の連合の盟主として、彼ら華僑たちと同じ道教教団の秘密結社のメンバーで、しかも上級祭司の地位にあり、なおかつ西倭諸国の中の有力国家の女王でもあった「邪馬台国の卑弥呼」という女性が担ぎ上げられて、華僑ネットワークとの交渉窓口となったのです。こうした動きが2世紀末から3世紀初頭にかけて起きたのだと思われます。

「魏志倭人伝」によれば卑弥呼は「鬼道につかえてよく衆を惑わし、年はすでに長大なるも夫婿なき」と描写されています。この「鬼道」というのは日本においては精霊信仰のシャーマン的イメージで捉えられています。これは日本書紀の編纂者が「魏志倭人伝」の卑弥呼の記事を見て、シナの史書においてオキナガタラシヒメ(神功皇后)のことが触れられているのかと勘違いして、日本書紀の神功皇后紀の部分に脚注として「魏志倭人伝」を紹介したため、昔から卑弥呼のイメージに日本書紀に描かれたオキナガタラシヒメの巫女的なイメージを重ね合わせて見る傾向があって、神懸りになって信託を口走る卑弥呼のキャラクターイメージが出来上がったのです。実際は倭人伝には卑弥呼のそのような姿が描かれているわけではありません。
実際は古代シナにおいては「鬼道」というのは五斗米道、つまり広い意味では道教のことを指したのであり、確かに道教が鬼道と呼ばれるようになった由来は道教の起源の1つにシナ土俗の精霊信仰の要素があったからなので、「鬼道」と言って精霊信仰を意味するというのも確かに間違いではないのですが、「よく衆を惑わし」といわれる「鬼道」となると、やはり秘密結社的な教団を作って体制から距離を置いて民衆を集めて相互扶助的なコミュニティを作る道教のことを指すと見たほうが適切でしょう。
そうなると卑弥呼は道教教団の秘密結社の祭司ということになるのですが、「年はすでに長大なるも夫婿なき」とされていることから、やはり男神に仕える未婚の巫女というイメージもあります。おそらく卑弥呼はもともと邪馬台国の国神の祭祀を行う祭祀王のような立場であり、同時にシナ大陸と朝鮮半島と北九州にまたがる道教秘密結社の祭司の一員でもあったのでしょう。

その頃、シナ大陸では群雄が相争う状況が続いていましたが、その中で朝鮮半島の西の遼陽あたりを根拠地として勢力を伸ばしたのが公孫度という武将で、後漢朝の最後の皇帝となる献帝を奉じて華北で勢力を伸ばした曹操に従いましたが、シナ大陸西方で半独立的な勢力を維持し、204年に公孫度が没した後、その跡を継いだ息子の公孫康は朝鮮半島に進出し、同年に楽浪郡の南の現在のソウル付近に帯方郡を新設して、朝鮮半島南部に自律的に発展していた華僑ネットワークを回収して日本列島方面との交易の利を得ようとしました。
つまり、かつての後漢王朝と楽浪郡と倭国王の関係性が、公孫氏政権と帯方郡と北九州の西倭連合の盟主である卑弥呼との間にも生じたのです。公孫氏政権にとってもこの交易路を機能させている道教系秘密結社の華僑ネットワークの上に乗っかった卑弥呼を倭国王と同じレベルの扱いに遇しておくことは交易を円滑に行う上で有意義なことだったと思われます。

そうした公孫氏政権と卑弥呼の西倭諸国連合との関係が続いている間に、シナ大陸の華北では曹操が支配権を確立してシナ統一に乗り出しましたが、208年に赤壁の戦いで劉備と孫権の連合軍に大敗して兵力の多くを失い、その後、曹操は華北の経営と軍事力の回復を図るようになり、曹操、劉備、孫権の三大勢力の鼎立する状況となりました。
その後はこの三大勢力が相争う状況、いわゆる「三国志演義」に描かれたような状況が続きましたが、220年に曹操が死んで、その跡を継いだ息子の曹丕が献帝から禅譲を受けて皇帝となり「魏」を建国し文帝と称し、後漢帝国は名実ともに滅亡しました。それに対抗して翌221年に劉備が自ら漢朝の後継者を称して皇帝となり蜀地方に漢を建国しましたが、これは蜀漢ともいわれ、一般には「蜀」と呼ばれますが、劉備はその翌年に病没し、息子の劉禅が皇帝位を継いで諸葛亮が補佐しました。また、229年には江南地方では孫権が皇帝と称して「呉」を建国しました。こうして三国時代となり、この世に1人しか存在しないはずの皇帝が同時に3人存在するという史上初めての異常事態となったのです。
このように三国がそれぞれ決め手を欠いて鼎立するようになった原因は急激な人口減によって三国ともに生産力不足や兵力不足が深刻な状態であったからでした。その僅かな人口をフル活用して他国より優位に立つためにそれぞれの帝国の各方面軍には軍事面のみならず行政面での大幅な権限委譲が行われて、各地区の将軍たちは軍閥化していきました。
そして、この三国はシナ全土も一元支配できない弱体帝国であったために、その皇帝の権威は常に揺らいでおり、皇帝の権威が揺らいだ場合には外交でその失点を回復するというのがシナ帝国の常套手段であり、それはこの弱体の3つのシナ帝国でも繰り返され、それぞれの帝国の辺境の蛮族の朝貢が演出されたのでした。
そして、朝貢はそれぞれの帝国内の政治勢力同士の権力争いの道具としても使われるのが常であり、これら3つのシナ帝国の各方面の軍閥も競って自分の担当方面の異民族を朝貢に勧誘して、自らの権力拡大に利用しようとしたのです。

華北に存在した魏においては西北方面の軍閥は曹操の一族の曹真という将軍で、東南方面の軍閥は同じく曹操の一族の曹休という将軍で、そして南方面の軍閥は司馬懿という将軍でした。この中で朝貢に関しては曹真の活躍が目覚しく、次々と西域諸国の使節団の朝貢を実現させて魏皇帝の権威を大いに高め、同時に曹真自身の権力と名声も高まっていきました。
その曹真の功績の最大のものが文帝の跡を継いだ明帝の時代、229年にクシャン帝国からの朝貢を実現させたことでしょう。クシャン帝国は大月氏国ともいいまして、トルキスタン、アフガニスタン、パキスタン、北インドを支配する大帝国でした。もちろんこんな大帝国が本当に弱体の魏帝国に臣従しているはずはなく、クシャン帝国にしてみれば単なる交易相手への友好使節団のつもりだったのでしょうが、それが魏の国内向けには「西方のあれほどの大帝国までもが魏の皇帝に臣下の礼を示している」というふうに喧伝され、クシャン帝国の王には「親魏大月氏王」の称号が送られることになりました。これによって魏の皇帝権力の正統性はますます高まり、それを実現した曹真の名声もいっそう上がったのです。

この曹真はまた盛んに魏に侵攻してくる蜀の諸葛亮の軍を阻止していたのですが、この曹真が231年に病死し、そこにまた諸葛亮が攻め寄せてきたので魏の明帝はこの西北方面の防御を司馬懿に命じて、司馬懿は諸葛亮の侵攻をよく防ぎ、234年には諸葛亮が陣没して西方の戦線は休戦状態となりました。
これによって司馬懿は大いに功績を上げて南方面に加えて西北方面にも地盤を持つようになったのですが、この西北方面はもともと曹真の地盤で、曹真の死後は息子の曹爽がそのまま軍閥を引き継ぐはずだったのですが、難敵である諸葛亮の侵攻という非常事態に対処するために戦場での経験値の高い司馬懿が起用されたのです。
こうして西方が平和になったので魏の明帝は東方の公孫氏政権を討つことにしました。それはどうしてかというと、これ以前から公孫氏政権がたびたび呉を結んで魏を牽制していたからで、そういうややこしい芽は摘み取っておこうということでした。そこで司馬懿が公孫氏の討伐を命じられることになり、238年に公孫氏政権は滅び、帯方郡も魏の支配下に入ることとなり、東北アジア方面も司馬懿の地盤となりました。

この238年の公孫氏政権の消滅を受けて、帯方郡を通して公孫氏政権と交易上の特約関係にあった北九州の西倭諸国連合の盟主であった邪馬台国の女王の卑弥呼は、おそらく晩年に達していたであろうと思われますが、新たに帯方郡の支配者となった魏王朝に宛ててさっそく使者を送り、交易および特約関係の継続を願い出たのです。
この帯方郡も含む東北アジア方面は実質的には司馬懿の軍閥政権下にありましたから、この卑弥呼の申し出を取り次いだのも司馬懿ということになります。司馬懿としてみればここでこれを自らの功績とするために、特約関係の継続を保証する代わりに、魏の都の洛陽への朝貢を卑弥呼に促したのです。こうして238年に邪馬台国から魏への最初の朝貢が行われたのです。
司馬懿の軍閥はこの時点で元来の南方方面に加えて諸葛亮との戦いを通して地盤を築いた西北方面、そして公孫氏を滅ぼして新たに地盤に加えた東北方面を支配しており、魏における第一の実力者となっていました。この頃239年にちょうど明帝が没し、8歳の斉王が新皇帝となりましたが司馬懿がその後見となりましたが、同格扱いで新皇帝の後見となったのが曹真の息子の曹爽でした。
つまり魏の政治は司馬懿と曹爽によって執り行われることになったのです。実力では司馬懿が優っていましたが、家柄では皇帝一族であった曹爽のほうが上でした。この後、司馬懿と曹爽の熾烈な権力闘争が繰り広げられ、その間も邪馬台国は司馬懿を通じて魏王朝と盛んに外交活動を行っています。
結局249年に司馬懿がクーデターを起こして曹爽一派を皆殺しにして魏の実権を握り、その後251年に高齢の司馬懿が死んだ後、息子の司馬師や司馬昭が跡を継ぎ、265年に司馬昭が死んだ後、それを継いだ息子の司馬炎が魏の皇帝を廃して自ら皇帝となり晋王朝を開き、既に263年に蜀を併合していた上に280年に呉を滅ぼしてシナを統一したのです。
卑弥呼は247年に死んで、卑弥呼の一族の13歳の少女の台与が女王に立てられたといいますから、卑弥呼の一族は秘密結社の系譜に繋がる一族だったのでしょう。また、司馬軍閥との特約関係が権力の源泉であったのも確かなようで、司馬昭が魏の実権を握った時代にもたびたび邪馬台国の女王の台与は朝貢したようで、265年に晋王朝が成立した翌年にも使者を送って祝意を伝えています。

これらの記録が280年から290年あたりに晋帝国の編纂官の陳寿によって書かれた「三国志」において描かれているのですが、266年以降の邪馬台国の消息については「三国志」でも触れられておらず、この後、413年の倭王讃の朝貢まで約150年間、シナの史書から日本列島に関する記録は消えることになります。
これは倭人の側に問題があるわけではなく、300年の八王の乱以降、北方異民族の侵入もあってシナ大陸が大混乱に陥りシナ帝国そのものが実質的に消滅してしまい、しかも313年に楽浪郡も帯方郡も滅びてしまい朝鮮半島も大混乱に陥ったために、倭人の側でシナ帝国と交渉を持とうにも持てない状況が続いただけのことで、それがやっと落ち着き始めたのが413年ぐらいだったということなのです。しかし、晋帝国成立の翌年の266年以後、陳寿が「三国志」を書き上げる290年ぐらいまでの間の記録に、それまで頻繁に登場していた邪馬台国がパッタリと登場しなくなるというのはやはり不自然なものを感じます。
おそらく邪馬台国は266年以降も存在し、晋帝国と帯方郡を通して交易を続けていたのでしょうけれど、もう朝貢を積極的に勧誘されることは無かったのでしょう。それはその必要性が無くなったということで、何故その必要性が無くなったのかというと、司馬氏が魏を乗っ取って晋帝国を創始したからです。つまり、邪馬台国の朝貢は東北方面の軍閥であった司馬氏の権威を高めるために利用されていたのであり、司馬氏が皇帝にまで登り詰めたために利用価値が無くなったので、もう邪馬台国に朝貢を積極的に促すことがなくなったのです。
いや、それでも普通は皇帝の権威を高めるために行われるのが朝貢ですから、司馬氏が皇帝になった後でも邪馬台国の朝貢を促してもよさそうなものですが、皇帝になるまでは散々利用しておいて、皇帝になった途端に態度を急変させるというのは、何か疚しいことがあるからです。それはそもそも邪馬台国の朝貢そのものに粉飾があったからであり、皇帝になるまではその粉飾が必要だったのですが、皇帝になった後は下手に朝貢を継続してその粉飾が露見することによって逆に皇帝の権威が傷つくことを恐れたのでしょう。
では、どのような粉飾が行われていたのかというと、それは邪馬台国の大きさについてであろうと思われます。
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この記事に対するコメント

投馬=出雲国

邪馬台国=大和国
卑弥呼=媛命=ヤマトトトヒモモソ媛命
台与=トヨ=豊鍬入姫命

狗奴国=許乃国
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
拘右智卑狗=河内彦

【2008/10/19 08:31】 URL | まる #DLhE2T5I [ 編集]



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