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日本史についての雑文その287 魏志倭人伝
邪馬台国が最初に魏に朝貢したのは238年で、朝貢使節は翌239年に魏の都の洛陽に到着し、邪馬台国の女王の卑弥呼には「親魏倭王」の称号が与えられました。このプロデュースをしたのが司馬懿で、司馬懿はこの当時、魏王朝随一の実力者となったばかりで、共に新皇帝の後見人となった曹爽との権力闘争が始まったばかりの時期でした。
司馬懿のライバルの曹爽自身には大した功績があったわけではなく、曹爽の権力基盤は亡き父の曹真の名声に拠るものが大きかったのです。その曹真の功績の中で司馬懿には無い際立ったものは西域諸国の朝貢に関する功績でした。特に西方の巨大帝国であったクシャン帝国を朝貢させた功績は魏朝の歴史の中でも燦然と輝いていました。

この曹真の息子の曹爽よりも上をいくためには、司馬懿も朝貢に関して曹真の功績に匹敵する功績を上げなければいけません。しかし実際問題、クシャン帝国の朝貢以上の功績など考えられなかったわけで、そこで司馬懿は交易の特約関係の継続を願い出てきた北九州の邪馬台国に朝貢を持ちかけ、その邪馬台国の規模をクシャン帝国に匹敵する大帝国であるかのように粉飾することにしたのです。

魏志倭人伝に記されている邪馬台国に至る行程を見ると、帯方郡から狗邪韓国までが7000余里で、狗邪韓国から海路で1000余里で対馬国、対馬国から海路で南へ1000余里で一支国、一支国から海路で1000余里で末盧国、末盧国から陸路で東南へ500里で伊都国、伊都国から東南へ100里で奴国、奴国から東へ100里で不弥国、不弥国から南へ水行20日で投馬国、投馬国から南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国で、帯方郡から邪馬台国までは合計で12000余里となっています。
古代シナにおける1里は約450m.ですから、それで計算し直すと、帯方郡から狗邪韓国までが3150km.余り、狗邪韓国から海路で450km.余りで対馬国、対馬国から海路で南へ450km.余りで一支国、一支国から海路で450km.余りで末盧国、末盧国から陸路で東南へ225km.で伊都国、伊都国から東南へ45km.で奴国、奴国から東へ45km.で不弥国、不弥国から南へ水行20日で投馬国、投馬国から南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国で、帯方郡から邪馬台国までは合計で5400km.余りということになります。
これを実際の地図に当てはめてみると邪馬台国はグァム島あたりということになりますが、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の人口は総戸数で7万余戸となっており、当時は魏の首都の洛陽でも10万戸以下であったと思われるので、太平洋上の離島に7万戸というのはあり得ません。
そもそも魏志倭人伝における行程を見ても、これは大陸の奥地にどんどん進んでいくイメージであり、最終的に邪馬台国に至るのに陸行1ヶ月というものがある以上、太平洋上の離島であるはずがなく、地理的にはこれは日本列島の何処かでなければいけません。

おそらくこの行程表を作ったのは帯方郡の役人であったのでしょうけれど、不弥国までは里数で距離を表示しているのに、不弥国から先は日数表示になっているところから考えて、帯方郡の役人は不弥国までしか実際には行っていないと思われます。魏志倭人伝の記述によれば倭国連合の統括および外交は伊都国で行われており、外交使節である帯方郡の役人は伊都国付近まで行けば用は足りたのでしょう。
それで不弥国より先は倭人からだいたいどれくらいで投馬国や邪馬台国に着くのか聞いたのであり、倭人はおそらく里数で距離を測ることが出来なかったので日数で答えたのでしょう。しかし、そうなると不可解なことは、それならば何故、帯方郡から邪馬台国までの距離が12000余里であるなどと断定できるのかです。
おそらく帯方郡から邪馬台国までの距離は最初から12000余里であることは政治的な理由で決定していたのでしょう。当時の一般的認識としては洛陽から楽浪郡までは5000里とされていましたが、これは現在から見てもほぼ正確な数値です。帯方郡は楽浪郡のやや南にありましたから、帯方郡から邪馬台国までの距離が12000余里であるとするなら、洛陽から邪馬台国までは17000余里ということになります。
ところで洛陽からクシャン帝国の都までの距離は当時は16370里と報告されており、これはやや誇大に報告されてはいますが、遠方の馴染みの薄い国のことですから、まぁだいたい誤差の許容範囲というところでしょう。とにかく当時の常識としては洛陽からクシャン帝国の都までは16370里であったのです。すると、帯方郡の報告によると、いや238年当時の帯方郡の報告には司馬懿の意向が反映されないはずがないので、司馬懿の報告によれば、洛陽から倭国連合の都である邪馬台国までは17000余里で、洛陽からクシャン帝国までの距離よりやや遠いことになるのです。
また、クシャン帝国の人口は10万戸と報告されていましたが、魏志倭人伝にある倭国連合の総戸数は15万余戸であり、これもクシャン帝国よりもやや多いということになります。つまり魏志倭人伝によれば、邪馬台国を盟主とする倭国連合は洛陽から見てクシャン帝国よりも更に遠方にあり更に大きな帝国であったということになります。それだけの遠方の大帝国の朝貢は曹真のクシャン帝国の朝貢の時以上に魏の皇帝の権威を高めることであり、それを実現した司馬懿は外交においても曹真以上の大きな功績を上げたことになります。そういうわけで、238年の邪馬台国の朝貢に対して魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王」という称号を与えて厚く遇したのであり、これは229年にクシャン帝国の王に与えられた「親魏大月氏王」という称号と同格のものでした。
魏志倭人伝における倭人国家に関する情報のネタ元は238年の邪馬台国の最初の朝貢時に魏の皇帝に提出された報告書であろうと思われ、その報告書を決裁して洛陽まで取り次いだのは東北方面の軍閥であった司馬懿であったと思われます。つまり司馬懿は倭国連合に関する情報を如何様にでも操作できる立場にあったのです。
そして実際には帯方郡から12000余里の場所は太平洋上で、そこには邪馬台国など存在し得ない以上、この12000里という数字は洛陽からの距離がクシャン帝国の都より少し遠くなるように最初から政治的に決定されていた数字で、何ら現実を反映した数値ではないのです。また、倭国連合の合計15万戸の人口というのも、クシャン帝国の総戸数より多くするためにでっち上げられた数字であり、現実を反映したものではないのでしょう。おそらく邪馬台国までの距離を過大なものにしてしまったために倭国連合が非常に広大なものになってしまい、それに見合った人口を記入したのだと思われます。

だいたい、倭人伝にある対馬国というのはまず間違いなく対馬島のことであろうと思われ、その対馬島から海路で南にある一支国というのはまず間違いなく壱岐島であろうと思われ、壱岐島から海を渡って到着する末盧国とは、その先は陸路になっていることから考えて、まず間違いなく北九州の松浦半島あたりであろうと思われます。
となると対馬島と海を隔てて向かい合い狗邪韓国というのは帯方郡のあるソウルから海岸沿いを南へ進んでから東に進んで辿りつく場所と書かれており、言い換えると帯方郡と陸続きということであり、これはどう考えても朝鮮半島南東端の釜山や金海あたりということになります。
ところが倭人伝ではその帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000余里、つまり3150km.余りとしており、現実にはソウルから金海まではそんな途轍もない距離は無いわけで、実際には直線距離でその10分の1程度の300km.余りというところでしょう。しかし、日本列島の場合はともかくとして、朝鮮半島は紀元前108年以来ずっとシナ帝国の直轄地であったわけですから、そのようないい加減な地理認識で果たして統治が可能なのであろうかという疑問が沸いてきます。

魏志倭人伝の著者の陳寿はもともと蜀の人で、蜀が滅びた後、浪々の身であったのを司馬昭や司馬炎に仕えた重臣の張華という人物に見出されて晋朝の編纂官に任命されて280年から290年ぐらいにかけて「三国志」を書いたのです。ところが、この陳寿の親分の張華は282年から287年にかけて東北方面の辺境司令官を務めており、朝鮮半島についても非常に詳しく、「北京から馬韓(朝鮮半島南西端)まで4000余里」という極めて正確な数値の報告書を洛陽に送っています。つまり、陳寿に非常に近しい人間である張華は朝鮮半島の実際の地理を把握していたのです。
しかしそれとほぼ同時期において陳寿は「三国志」の中の魏志倭人伝において、ソウルから金海までを7000余里という過大な数値を書き込んでおり、また同じく魏志韓伝においても朝鮮半島南部の韓族の住地の一辺を4000里(1800km.)という出鱈目に大きな数値にしています。これも魏志倭人伝において帯方郡から邪馬台国までを12000余里としたことに辻褄を合わせるためであったのでしょう。
もちろん陳寿は朝鮮半島がそのように巨大なものではないことは知っていたはずで、もちろん実際に朝鮮半島の統治に関与していた楽浪郡や帯方郡の役人も張華も司馬懿も、みんなそれは知っていました。
陳寿を弁護するわけではないですが、彼がそのような過大な数値をデッチ上げたわけではないのでしょう。おそらく最初に過大な数値の報告書が書かれたのは238年のことで、それを書かせたのは司馬懿であったのでしょう。その過大な報告書を基に邪馬台国は東方の大帝国とされ、その朝貢を斡旋した司馬懿は大きな功績を立てて、その後司馬懿はクーデターを起こして魏の実権を握り、司馬氏は代々、その後も邪馬台国との繋がりを誇示し政治的に利用しつつ勢力を磐石なものにしていき、とうとう265年に魏を滅ぼして皇帝となり晋王朝を開き、それと同時に司馬氏が邪馬台国の名を政治的に利用することはパッタリと無くなります。もう用済みというわけです。
その後は朝鮮半島で実際に統治に携わる実務官僚の張華のような人間は平気で司馬懿の過大な報告書とは矛盾した現実的な地理認識を示すようになります。しかし張華の子分の陳寿はそうはいきません。彼は晋王朝に仕える史書の編纂官であり、王朝の始祖である司馬懿が嘘の報告書を捏造していたなどということを後世に書き残すわけにはいかないのです。だから親分の張華の同時代の報告書と矛盾していようがなんであろうが、大親分である晋皇帝の先祖の作った出鱈目な報告書の内容をそのまま自らの史書に書き写すより他に選択肢は無かったのでした。
こうして魏志倭人伝には238年の司馬懿による邪馬台国に関する誇大に粉飾した報告書の内容がそのまま書き写されることになり、後世の私達はそれを読んで「邪馬台国は何処にあったのか」などと想像力を膨らませることになったわけです。
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