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日本史についての雑文その288 倭人伝の国々
さて、では邪馬台国は何処にあったのかについて考えてみます。そもそも238年に魏が公孫氏政権から帯方郡を奪取した際に間髪入れずに邪馬台国から帯方郡の魏の役人へ使者が送られていることから考えて、もともと238年以前から公孫氏と邪馬台国との間で帯方郡を通して交易関係が存在したことは間違いないと見ていいでしょう。
そして邪馬台国の北にある伊都国に外交関係を統括する役所があったとされており、当時の倭国連合にとっての主要な外交や交易の相手は帯方郡であったと思われることから、帯方郡の役人は少なくとも伊都国までは頻繁にやって来ていたと思われ、上記のように実際には朝鮮半島の地理についても正確に把握していたように、伊都国までの地理は正確に把握していたのではないかと思われます。

実際、その後も何度か魏の使者は倭国連合へやって来ており、後には邪馬台国へもやって来ているようなので、地理感覚が出鱈目であればそんな何度も同じ地へ来訪することは出来ないはずであるし、もし当初は出鱈目であったとしても、何度も来ているうちに修正されるはずです。
つまり、帯方郡の役人は倭国連合の地理についてはそれなりに正確なデータを有していたと思われます。魏志倭人伝では不弥国より先は日数表示になっていますから、帯方郡の役人は少なくとも238年の時点ではそこから先へは足を踏み入れておらず、実測はしていないと思われ、倭人からの伝聞情報となっていますが、質問された倭人もそんなに出鱈目な日数を答えるとも思われず、これも元々はかなり正確な数値だったのではないかと思います。
しかし、そうでありながら、現代に残る魏志倭人伝のデータは出鱈目であり、それは238年の邪馬台国の朝貢にあたって帯方郡の役人によってかなり正確なデータが示されたのを、司馬懿がデータを誇大に改竄したからです。この改竄の動機は倭国連合をクシャン帝国よりも大きく遠く見せるためであったので、改竄するのは距離や面積、人口などということになります。方角や風俗、政治制度などは特に改竄する必要はありません。嘘をつく時は真実の中に混ぜるのが鉄則であり、不要な嘘はつかないものです。

では距離はどれくらい誇張されたのかですが、先ほどの帯方郡から狗邪韓国までの距離が実際の距離の約10倍となっていたことに着目してみますと、人間というものは案外単純なもので、数値を誇張する場合は桁を1つ足す、つまり単純に10倍することが多いのではないかとも考えられます。
すると、狗邪韓国から対馬国までは魏志倭人伝では海路で1000余里、つまり450km.余りということになっていますから、その10分の1は45km.余りとなります。そして実際には朝鮮半島南端から対馬島までは約50km.であり、ほぼ合致します。また倭人伝では対馬国から一支国までも海路で南に1000余里となっていますが、これも実際には対馬島のほぼ南50km.の位置に壱岐島があります。そして倭人伝では一支国から海路で1000余里で末盧国となっていますが、壱岐島の北端から東松浦半島の先端までだいたい40km.で、少し誤差はありますがだいたいは近似値と思われます。このあたりは全部意識的に「1000余里」という数値に揃えてあるのかもしれません。
そして末盧国から伊都国までは陸路で東南へ500里となっていますが、これはつまり225km.ということで、その10分の1は22.5km.となります。東松浦半島の先端から糸原半島の付け根の糸原平野のあたりまでの距離は20km.余りというところで、方角的にはほぼ東にありますから少し魏志倭人伝の記述とは違いますが、最初は東南に向かうので間違いというわけでもありません。
次に伊都国から奴国までは東南へ100里となっています。100里は45km.であり、その10分の1は4.5km.です。奴国は現在の博多湾の東半分辺りにあったと思われますが、伊都国は博多湾の西半分にまで達していたようですから、博多湾の中央部が伊都国の東端に相当し、博多市街のやや南部が奴国の西端に相当するとすれば、それは東南へ5km.ほどの距離になり、魏志倭人伝の記述と近いといえます。また奴国から東へ100里で不弥(フミ)国とありますが、博多の東5km.ほどには宇美(ウミ)町があり、これが不弥国に相当するのかもしれません。

この不弥国から先は里数表示ではなく日数表示となっており、不弥国から南へ水行20日で投馬国、投馬国から南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国となっています。帯方郡から邪馬台国までは12000余里という前提になっており、魏志倭人伝に記述された帯方郡から不弥国までの里数を合計すると10700余里となりますから、不弥国から邪馬台国までは1300余里、つまり1500?2000里ぐらいということになります。これをkm.に換算すると、およそ700?900km.ということになります。
この場合の「水行」というのは「海を渡る」と表現されていないことから、おそらく内陸河川ルートあるいは海岸線ルートのことのようで、不弥国から邪馬台国までは河川航行で1ヶ月、そして陸路を歩いて1ヶ月の合計2ヶ月かかるということになり、その距離が700?900km.ということは1日あたり11?15km.を進むということになり、古代において荷物も抱えての移動としては現実的な数値といえるでしょう。
しかし、そもそもこの「帯方郡から邪馬台国までが12000余里」という大前提が出鱈目で、その出鱈目にリアリティを与えるために「不弥国から南へ水行20日で投馬国、投馬国から南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国」という長大な日数が用意されているのです。だいたい不弥国、つまり宇美町から700km.も南へ進めば太平洋上に出てしまいます。
ここで大胆に、この日数表示も10倍されたものだと仮定すると、不弥国から投馬国までは河川ルートで南に2日の距離ということになり、この速度を1日あたり15km.とすれば2日で30km.進むことになり、宇美町から南へ宝満川と筑後川で下っていくと、当時は有明海の海岸線はだいぶ東へ後退していたから、有明海に出て海岸線を少し南へ行けば八女市の西に出ます。ここがだいたい宇美から30km.のあたりになります。この八女市には妻(つま)という古い地名があり、これが投馬(とぅま)と音が似ているので、投馬国に相当するのかもしれません。
すると投馬国から南へ水行10日と陸行1ヶ月で着くという邪馬台国は、八女から有明海の海岸線を1日かけて南下して、そこから陸路で南へ3日歩いた地ということになり、これも1日あたり15km.進むとすると八女の南60km.ほどの地点ということになり、そのあたりに相当する地点には、阿蘇山の南西麓に山都(やまと)町という地があります。これが邪馬台国(やまとこく)ではないかと思われます。

阿蘇山といえば世界有数のカルデラ火山で、活発な火山活動ゆえに古代から信仰の対象となってきました。西北九州の古名である「火の国」も阿蘇山がその由来となっていると思われます。そうした阿蘇山の麓に邪馬台国があり、そこに女王である卑弥呼がいたとなれば、卑弥呼は実は「火巫女」であり、火の神に仕える巫女の系譜に繋がる女王であったのではないでしょうか。そうした火の祭司女王が華僑ネットワークの道教秘密結社にも入信し、その元来の家系の高さゆえに秘密結社においても高位の位階に上ることになったのではないでしょうか。
また、この山都町は九州山地の北側に位置し、九州山地を挟んで南側には人吉盆地があり、ここは熊襲の根拠地として知られた場所でした。邪馬台国はその南にあった狗奴国とは不仲で戦争状態にあったとされていますが、その狗奴国は熊襲の国で、この人吉盆地にあったのではないかとも思えます。
また魏志倭人伝によれば、邪馬台国は朝鮮半島の国々とも使者を交換していたといいますが、これは従来の北九州の倭国王と同じように、帯方郡や楽浪郡までの朝鮮半島内部の交易路の安全保障の責任も負っていたということなのでしょう。後漢時代末期から三国時代にかけての人口が激減したシナ国家には朝鮮半島の交易路を単独で守りきることは出来なかったと思われるので、邪馬台国も各県の韓族の邑君たちと連携して交易路の安全を図っていたのでしょう。

更に魏志倭人伝には、「女王国の東、海を渡ること1000余里にしてまた国あり。皆倭種なり。また侏儒国ありてその南にあり。人の身の丈3、4尺、女王国を去ること4000余里。また裸国、黒歯国ありてまたその東南にあり、航行すること1年にして至るべし」とあり、この女王国、つまり邪馬台国の東にある国は1000余里、つまり450km.余りの海を渡った位置にあるのですが、これを10分の1にすれば45km.余りの海を越えるということになり、邪馬台国の東端を阿蘇山と仮定すれば、そこから東へ向かうと豊後水道を越えて宇和島へ至りますが、この豊後水道の幅が約50km.なのです。そうなると、邪馬台国の東にあるという国は宇和島あたりに相当するのではないでしょうか。
そして邪馬台国の南4000余里にあるという侏儒国とは、4000余里が1800km.余りですから、その10分の1は180km.余りで、山都町から180km.南というと大隈半島南部あたりということになります。そして邪馬台国の東南にあって1年間航行して到着するという裸国、黒歯国というのは、これも10分の1だとすれば1ヶ月余りで着く場所ということになり、これは小笠原諸島南部あたりということになるでしょうか。
あるいは、これらの邪馬台国よりも南の国に関しては、別にわざわざ距離の縮尺を10倍にする必要性も無いことから、ここに関しては誇張や粉飾は無くそのままの数値を使用するとしたなら、邪馬台国の東450km.の海を越えた国とは紀伊半島あたりということになり、畿内の大和王権のことを指すのかもしれません。また邪馬台国から1800km.南の侏儒国はフィリピンあたり、邪馬台国の東南を航行すること1年の裸国や黒歯国はミクロネシアやポリネシアあたりになるのかもしれません。

つまり私は一種の邪馬台国九州説をとっているわけですが、そもそもシナ帝国と交流を持っていたのは北九州地方の勢力であったのですから、ここでもその流れで邪馬台国が九州にあったと考えるほうが自然なのです。ただ、魏志倭人伝が倭人国家連合や邪馬台国をやたらと巨大なものに誇張しているために狭い九州ではその誇張されたイメージに合わず、それで畿内説というものが生じたのです。しかし魏志倭人伝の記述自体が当時のシナ世界における一般的地理感覚からも乖離した誇大なものなのですから、それにいちいち振り回される必要は無いのです。
だいたい畿内説の根拠となっているものは考古学的成果によるものが殆どで、奈良盆地東南部の纏向遺跡が邪馬台国であったとする説なのですが、確かに同時代において纏向において大きな倭人勢力が生まれて成長していたのは事実ですが、だからといってそれが魏志倭人伝に言う邪馬台国であるとは限らないのです。
帯方郡の役人は別に探検家でも冒険家でもありませんから、普段から交易の付き合いのある邪馬台国率いる倭人国家連合に出向いて報告書を書いただけのことで、普段から交易の付き合いの無い倭人国家に関しては、たとえそれがどんな大きな国であったとしても興味の対象外であったはずです。だから「纏向にこんな大きな国があったのに帯方郡の役人がそれに言及しないのはおかしい。だから邪馬台国は纏向だ」という言い分は成立しません。邪馬台国率いる北九州の西倭連合と大和王権率いる畿内の東倭連合が同時存在していてもおかしくはないのです。
そして邪馬台国畿内説の根拠とされている三角縁神獣鏡も、これは魏から送られたとされる100枚だけではなく発見されているものだけでも既に全部で400枚以上が出土されており帯方郡で普通に作られていたものと思われ、しかも全国に散らばっており、確かに畿内での出土が多いが、この頃の日本列島内の諸地域間では盛んに交易が行われていたであろうと思われ、また各地域の諸氏族の間で地域の壁を越えた複雑なモザイク状の友好関係や主従関係もあったと思われ、北九州に入った神獣鏡が畿内の氏族の所有になったとしてもそんなに不自然でもないでしょう。畿内での出土が多いのは単に畿内が当時において最大の人口を有した最大の消費地であったということを示しているに過ぎません。
北九州に神獣鏡が少ないというのも、後に北九州勢力が畿内勢力に呑み込まれた際に召し上げられた可能性もあるし、当時は銅資源は貴重でリサイクルが盛んであっただろうから、不要になった古い王権の象徴たる神獣鏡は鋳直されて別の鏡や他の青銅器にされたのかもしれません。

そもそも魏志倭人伝に記された倭人の習俗というものがかなり南方系の要素が強く、南九州の熊襲などに近いことからも、畿内説よりも九州説のほうがリアリティがあるといえるでしょう。日本書紀などに書いてある畿内の習俗と邪馬台国との間には共通点はほとんど無く、また邪馬台国の政治制度が大和王権に影響を与えた形跡もほとんどありません。こうした点を無視する論の前提は日本書紀を偽書としてシナの史書のみを正当な史料として扱おうとする姿勢となりますが、これはあまりにも偏った態度というべきでしょう。
日本書紀の編纂者が邪馬台国が大和王権の前身であることを隠そうとして畿内の習俗に関する記事を捏造したということもないでしょう。それならば神功皇后紀のところで魏志倭人伝に触れる必要など無いわけで、実際、他の「漢書」や「後漢書」における倭国の記述については触れずに魏志倭人伝にだけ触れているのは、純粋に日本書紀編纂者の興味を引いたからであり、つまり編纂者は本当にオキナガタラシヒメと卑弥呼を同一人物だと空想したということで、つまりは邪馬台国について予備知識が無かったということを意味します。つまり大和王権の後身である大和朝廷の人間は8世紀時点で邪馬台国のことを本当に知らなかったのです。こう考えると、やはり邪馬台国は畿内から遠く離れた北九州にあったと考えるほうが自然でしょう。
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