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日本史についての雑文その289 首長霊の継承
2世紀後半の地球寒冷化の開始に伴う気候不順、そしてそれに起因する184年の黄巾の乱の勃発以降、朝鮮半島の平壌付近にあった楽浪郡におけるシナ帝国との交易がストップして、後漢帝国との特約関係を後ろ盾にした「倭国王」の権威が失墜し、北九州の西倭諸国が混乱し、いわゆる魏志倭人伝に言うところの「倭国大乱」の状況となりました。
そこにシナ大陸の戦乱から逃れてきた道教系の秘密結社ネットワークを有した華僑たちによって朝鮮半島にシナ大陸と繋がった交易ネットワークが構築されるようになり、そのネットワークと繋がった邪馬台国の女王卑弥呼を盟主として西倭諸国はまとまるようになりました。

そうしてなんとか戦乱のシナから物産を運んで楽浪郡で日本列島の物産と交換するという交易が再開されるようになった時点で、その華僑ネットワークを支配下に収めるために遼陽から公孫氏政権が楽浪郡に進出してきて、204年に楽浪郡の南のソウル近辺に帯方郡を新設して日本列島との交易に乗り出しました。
おそらく西倭諸国連合の盟主たる邪馬台国の女王卑弥呼は公孫氏政権に接触して、朝鮮半島南部の交易路の安全保障を協力して行うことで「倭国王」の待遇を受けて交易上の特約関係を確保することになり、公孫氏とのそうした関係を後ろ盾にして西倭諸国連合の中で指導権を維持したものと思われます。
2世紀後半の混乱をそのようにして乗り切った西倭諸国は3世紀に入って邪馬台国を中心として帯方郡を通してのシナ大陸の公孫氏政権との交易を行うようになり、238年に公孫氏政権が魏に滅ぼされて以降は魏の東北軍閥であった司馬氏に接近し、その司馬氏が魏の実権を握り265年に魏を滅ぼして晋帝国を築いた後はそのまま晋王朝に接近して、引き続き帯方郡を舞台とした交易を盛んに行ったと思われます。
266年まではシナ側の記録によって邪馬台国が西倭諸国の盟主であり続けたようですが、その後はどうなったかは分かりません。あるいは盟主の座から滑り落ちたのかもしれませんし、そうではなくずっと邪馬台国がシナ側との窓口であったのかもしれません。ただ、とにかく3世紀いっぱいはこうした西倭諸国と晋との交易関係は維持されていたと思われ、西倭諸国を代表する「倭国王」は晋帝国を中心とした華夷秩序の中で朝鮮半島南部の交易路の安全保障に責任を負ってその地域の各県の韓族の邑君たちを指導する王侯の立場であったと思われます。
つまり、北九州の西倭諸国は2世紀後半の危機の時代を新たなシナ大陸の商業ネットワークや王権と結びつくことによって乗り切り、3世紀に入って更にシナ帝国を中心とした華夷秩序の中でのその地位を確固たるものへと完成させていったのだといえます。

これは紀元前108年の朝鮮四郡の設置以降、北九州の西倭諸国が試行錯誤してきたシナ帝国との付き合い方の1つの完成形であり、紀元前100年ぐらいから生じた「部族国家文明」が「起の部」、「承の部」の計300年を経て、2世紀末から3世紀初頭にかけて「転の部」に入って成熟し完成したのだといえます。
これはシナ帝国がほどよく弱体化したという前提条件付きではありますが、日本列島の国家の1つの在り方のパターンとして、シナ帝国の華夷秩序の外縁部でシナ帝国と友好的に適当に上手く付き合っていくという、そういう在り方があるのだということになります。但し、もちろん大前提としてシナ帝国による侵攻を抑止し得るだけの自主国防力を備えているということがありますが。
こういう方向性も1つの選択肢としてアリでしょう。これが日本という国家に働く「西向きのベクトル」の起源ということになりましょうか。別の言い方をすれば「外向きのベクトル」ともいえましょう。ただ、これとは正反対の「東向きのベクトル」「内向きのベクトル」というものももちろん存在するわけで、この両方向が揃って調和して初めて日本という国が誕生することになるのですが、その東向きのベクトルがハッキリした形をとって整備されてくるのも、この2世紀後半の危機を受けて3世紀に入ってからの時代、東倭諸国においてなのです。
そして、西倭諸国の2世紀後半の危機克服の方法があくまで紀元前100年以来の「部族国家文明」の歴史を受けて、それを完成させる方向性であったのと対照的に、東倭諸国における2世紀後半の危機の克服は、新たな「王権国家文明」を生み出す方向性のものであったのです。
王権国家文明とは、つまり各地の部族国家の連合政権としての大和王権の誕生によって生じた文明という意味合いですが、そういった連合体としてならば邪馬台国を盟主とした西倭諸国連合も同じような志向を持ったものでした。ただ、その王権の正統性の根拠が西倭諸国連合の場合は従来型のシナ帝国との特約関係であったのに対して、東倭諸国の連合体として生じた大和王権における王権の正統性の根拠はもっと内在的で自己完結しており、普遍的なものであったので、今までにないほど広範囲の連合体を形成することが可能になったのです。そういう意味でこれは新しい文明形態なのであり、この3世紀初めから、部族国家文明の「転の部」と同時に、王権国家文明の「起の部」も始まることになるのです。

2世紀後半の地球寒冷化開始に伴う混乱を克服して王権を安定させるため、王権の根拠として西倭諸国においてはシナ帝国との特約関係が強調されました。これは西倭地域における紀元前100年に部族国家文明の時代が始まって以来の定番の手法といっていいでしょう。
一方、地球規模の気候変動の影響は当然、瀬戸内以東の東倭地域にも及んだはずで、農作物の生産は打撃を受け、そうした危機を乗り切るために各地域共同体の中での更なる統合や、地域共同体の枠を超えた共同体間のより強い連携が求められるようになり、その求心力となるような新しい王権の在り方が求められるようになりました。
東倭地域においてはシナ帝国との交易関係は王権の根拠とはなっていませんでしたから、新たな王権の根拠をそこに求めることは出来ませんでした。東倭地域における王権の根拠は祭祀の場における権威の高さであり、その王権の広がりは、その王がいかに多くの共同体の祭祀を統合して執り行うことが出来るのかにかかっていました。もちろん共同体の統合のきっかけは地政学的な要素や経済的要素が大きかったのですが、決定的な戦争によって明確な上下関係を規定することの少なかった東倭地域の場合は特に、内部の小共同体を温存したまま大共同体やそれの更に集まった小国家の内部秩序を維持していくためには祭祀世界における擬似的な上下関係の秩序の構築は不可欠であったのです。
そうした統合された祭祀の擬似共同体の規模が大きくなればなるほど、共同体の裾野が広がり、共同体の裾野が広がればその分、ピラミッドの頂点は高くなっていき、祭祀の頂点に立つ王の権威はより高い次元へと押し上げられることになります。より高い次元の王権でなければ広い裾野まで拡がった共同体を維持することが出来なくなるのです。

そうした傾向は既に東倭地域において1世紀後半ぐらいから徐々に始まっており、以前は共同体の中での単なる祭祀担当者を兼ねているに過ぎなかった共同体のリーダーが、1世紀後半ぐらいから共同体の守護神の代行者たる王として振舞うようになっていき、それにつれて祭祀道具である銅鐸も巨大化していき、祭祀対象も単なる農耕神ではなく、共同体の祖霊や自然霊なども加えた複雑な神格が統合されたものになっていきました。そして特に山陽地方や山陰地方で大きな権力の象徴として作られるようになった墳丘墓も、単に巨大なだけなのではなく、そこで何らかの祭祀が行われる舞台装置として使用されていたようです。
こうした傾向の延長線上で2世紀後半の危機の時代において共同体の統合が進み、更に権威の大きな王権が求められるようになり、この時代において銅鐸を使った祭祀が終焉を迎え、そして代わりに3世紀初頭に古墳が出現するのです。
思うに銅鐸というものは神の霊力の依り代であり増幅装置のようなものであり、祭司である王が銅鐸を使って守護神の霊力を制御するようなイメージであったと思われます。つまり王と神はあくまで常に別個の存在であり、その間を介在するのが銅鐸であるというわけです。
その銅鐸が不要になるということは、王と神との関係性に変化が生じ、王と神とが更に近しい存在になったということです。要するに、王が共同体の守護神の霊力と一体化するようになったということで、それによって銅鐸という介在装置が不要になったのです。
王は確かに人間ではあるのですが、共同体の守護神の霊力が乗り移った存在であり、王自体が神の依り代となっているといえます。つまり王は生身の人間でありながら神の化身でもあり、普通の人間より一段レベルの上の半神の存在であるといえるでしょう。つまり祭司世界における究極の上位者であり、強大な王権の総覧者として相応しい存在であるともいえます。

おそらく最初は儀式のたびに王に神が憑依して、儀式が終わると神は王から脱魂して、そのたびに王は生身の人間と半神状態との間を行き来していたのでしょうけれど、2世紀後半の危機の時代に王が神意を体現して執り行う事業が多くなっていくにつれて、いつしか常に王に神が憑依している状態が継続するようになりました。
王は代替わりによって新たに王に推戴された際に共同体の守護神の憑依儀式を行い、そのあとは死ぬまで常に共同体の守護神の霊力を帯びた状態で生活し政治を行うことになったのです。そしてその王が死ぬと次の王が同じ守護神の霊力を受け継ぐのですから、つまり守護神の霊力は何処かの中空に漂っているものを引き寄せるというわけではなく、王から王へ代々、旧王の死と新王の即位という瞬間に継承されていくものだということになります。
この共同体の守護神というものは祖霊や農耕霊や自然霊をミックスした神霊であり、共同体の首長たる王が代々継承していく存在という意味で「首長霊」と呼ばれています。この首長霊を継承する儀式が行われるのが旧王の死によってだいたいはその血縁関係にある後継者の新王が即位する瞬間ということになり、それはつまり旧王の葬送の場であり、その埋葬地としての墳丘墓において王権と首長霊の霊力を象徴する何らかの神器(レガリア)の継承とそれにまつわる秘儀をもって首長霊継承の儀式が行われるようになったのです。
墳丘墓はもともとは単なる巨大な墓であり、被埋葬者の権力や権威を誇示するものであったと思われますが、2世紀後半に首長霊継承という思想が浸透してくるにつれて、王の墳丘墓は首長霊継承儀式のための神域という性格を帯びてくるようになり、これが3世紀になると古墳へと発展していくのです。

こうした首長霊継承儀式の原型はどうやら2世紀後半に吉備地方で生まれたようで、それが3世紀になって畿内の奈良盆地に導入されて大和王権の誕生につながることになります。奈良盆地においては海人氏のイワレヒコから数えて9代目の177年に家督を継いだワカヤマトネコヒコオオヒヒの時代にはその勢力は奈良盆地全域に及び、東海や関東、四国とも盛んに交易を行っていましたが、吉備地方とも交流は盛んであったと思われ、この時代に首長霊継承の思想やその儀式も導入されたと思われます。
そして207年にワカヤマトネコヒコオオヒヒの後を継いだミマキイリヒコの時代以降、奈良盆地において首長霊祭祀は急速に整備されていくようになり、同時に海人氏を中心として各地の地方勢力が連合していって大和王権が形成されるようになっていきます。これは、大和王権の大王が各地の上位の首長霊をも順次継承していくことによって、今までにない広範囲の地域における正当な上位統治権を得るようになっていき、連合王国としての大和王権が成立するようになっていったからです。つまり首長霊祭祀という思想が生じることによって大和王権による連合政権が誕生することになったのです。
こうして3世紀初頭ぐらいから新しい「王権国家文明」の「起の部」が始まることになったのです。それはまだ確固とした流れとなって時代を動かすには至らず、ここから「転の部」に入っていった「部族国家文明」の完成された大きな潮流の陰で、少しずつその首長霊祭祀の形態を整えて、その思想によって連合していく地域の範囲を少しずつ広げていき、「起の部」が終わり「承の部」が始まる4世紀半ばぐらいに大きな展開を迎えて、王権国家文明はその姿を歴史の舞台の中心に現すことになるのです。

さて、このような首長霊思想のような、王が神の化身であるとか、あるいは神の子孫であるとかいうような考え方というものは全く非現実的なフィクションであると思われる人も多いでしょう。まぁそれが事実であるかどうかについては、これは神という存在がそもそも大いなる謎なので、永遠の謎ということになるでしょう。
ただ、神の化身たる王が政治を行ったからといって、必ずしも良き政治が行われるという保証は無く、首長霊思想に則った政治が良き政治であるという考え方は明らかにフィクションの部類に属するということになるでしょう。
ただ、そういう意味では現代における民主主義思想に則った政治にしても、実際には選挙で民意を問うてみたところでマスコミ権力に扇動された衆愚政治にしかならないことは毎回証明されており、それが良き政治であるなどという考え方は明らかに壮大なフィクションなのであり、首長霊思想と五十歩百歩というところでしょう。
つまるところ、一定規模以上の大人数の共同体をまとめていくためには何らかのフィクションは不可欠ということなのでしょう。それが2世紀後半からの時代においては首長霊思想であったのであり、今日においては民主主義思想なのでしょう。ただ、共同体というものが歴史的な存在である以上、同じフィクションであるならば伝統に裏打ちされたフィクションのほうがより確実なのではないかとも思われ、現代の民主主義にはそういった裏打ちが欠けている分、脆弱性が見受けられ、それをカバーする伝統的価値観が求められていると思われます。
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この記事に対するコメント

ヤマト王権の誕生 弥生終末大変動と王権の出自 (籔田紘一郎)によると吉備はそれほど重要なヤマト王権形成の拠点とは考え難いと書いてあります。
 やはり出雲の鉄が大和の王権成立とかかわりが強く、吉備で鉄つくりが盛んになったのはその後と考えたほうが良いのではないかと思われます。

【2007/12/30 16:33】 URL | 浦安 #- [ 編集]


いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。

【2008/10/12 12:19】 URL | ねこまねき #- [ 編集]



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