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日本史についての雑文その290 初代大王
3世紀初頭、シナ大陸では三国鼎立の状況が固まろうとし、朝鮮半島では公孫氏政権と邪馬台国との特約関係が進んでいた頃、日本列島の畿内、奈良盆地東南部の大和川東岸地域である纏向周辺一帯に巨大な都市が出現しました。
2世紀の終わり頃にはイワレヒコの子であるカンヌナカワミミの末裔である海人氏の勢力が奈良盆地全体に及ぶようになっていましたが、海人氏は瀬戸内海交易路において大きな力を有しており、また2世紀終わり頃の海人氏のワカヤマトネコヒコオオヒヒ王が奈良盆地北部に進出したのは木津川から琵琶湖を経由して日本海交易路にも進出しようとしたからであろうと思われます。

2世紀後半から地球気温は低下し始め、7世紀ぐらいに寒冷化のピークを迎えるまで徐々に下がり続けます。寒冷化が進むと地球上の液体成分も固体成分も収縮するのですが、液体のほうが固体よりも収縮も膨張もその度合いが大きく、寒冷化局面においては相対的に液体のほうが大きく収縮しますので海水の体積が減少し海水面が後退します。つまり陸地面積が増えることになり耕作可能地が増えて、その新しい土地を巡る争いが増えます。また海水面が後退することによって今まで水路であった場所が干上がって通行不可能になったり、灌漑用の水路が使用不能になるものが出てきたりして水利の争いも起きたりもします。
そもそも地球規模の小氷期における気候変動期においては洪水なども頻発して川の流れなども頻繁に変わるので各地で境界や水利の争いは起きますし、寒冷化による凶作の影響で各地で食料を巡る争いも起きます。
こうした混沌とした状況を収拾するためにはそうした様々な争いを調停する大きな権力が求められるようになり、それは武力はもちろん土木工事などの技術力をも伴ったものであることが要求され、そしてそうした大きな権力を維持するための求心力も求められるようになりました。
そうした中で、奈良盆地全域を勢力化に収めた海人氏勢力が瀬戸内海交易路や日本海交易路で得た富や技術力を駆使して、畿内や吉備や紀伊などの勢力と結んで勢力を伸張していくのが3世紀初頭の状況であるということになります。一方で北陸や山陰などの勢力は寒冷化の影響で徐々に力を弱めていき、次第に守勢に立つことになっていきます。

そうした海人氏勢力の元来の本拠地であったのが奈良盆地東南部で、ここは瀬戸内海交易路、日本海交易路、そして東海方面との交易路を結ぶ要衝の地であり、特に海人氏は元来から東国との交易をその勢力の源泉としてきていたので奈良盆地内でも東南部寄りの地がその本拠地として最適なのでした。しかし決して東国偏重に過ぎた地というわけではありませんでした。
この奈良盆地東南部において3世紀に海人氏が根拠地とするのは、ワカヤマトネコヒコオオヒヒの子であるミマキイリヒコが207年に王都とした磯城瑞籬宮、その子であるイクメイリヒコが241年に王都とした纏向珠城宮、その子であるオオタラシヒコが291年に王都とした纏向日代宮など、古事記に記された記録によれば、全て大和川東岸地域の纏向周辺一帯に含まれる地なのです。
この纏向の地は古代においては「大市」と呼ばれ、その名の由来は瀬戸内海交易路から難波津で外洋船から川船に乗り換えて河内湾から大和川を遡ってきた最も奥まった所にある港市であったことから来たものでしょう。そして大和川はその支流で奈良盆地北部から木津川を経由して琵琶湖に連結して日本海交易路にも繋がるのであり、3世紀になると瀬戸内海交易路と日本海交易路を通じて畿内に物流が集中し始め、例えば畿内の鉄器の量が北九州を凌駕していくようになりますから、これらの交易路の終着点の港市であった「大市」、纏向周辺は3世紀に入って賑わい始めたことと思われます。この纏向こそが初期の大和王権の王都ということになります。
この纏向周辺から出土する土器には、かなりの割合で他の地で作られた土器や、他の地の様式で作られた土器が含まれており、その範囲は南九州から南関東にまで及び、特に多いのが近畿各地と吉備、山陰、北陸、伊勢湾地方で、これらは初期の大和王権の交易範囲を反映していると思われ、特に出土する土器の様式の多い地に関しては、それらの地の在地勢力の出先機関がこの纏向の地に存在したのではないかとも言われています。つまり大和王権はこれらの地方勢力の連合政権であったということです。

3世紀になると第三次高地性集落が東海や北陸、中国地方の西部に多くなり、畿内の大和王権を震源として周辺との間に緊張関係が拡大していく様が見てとれます。207年に王位に就いたミマキイリヒコの時代には四道将軍というものが吉備、丹波、東海、北陸の各方面に派遣されており、そうした史実を反映したものが第三次高地性集落であるかとも考えられますが、これは征討軍のようなものではなく交易を求める通商使節団のようなものであったと思われます。ただ、それでも十分に通商上のトラブルや緊張関係を引き起こすものではあったのでしょう。第三次高地性集落はこのミマキイリヒコ時代から始まる3世紀いっぱいにおけるこうした大和王権と周辺地域との緊張関係の結果生じたものなのでしょう。
3世紀前半のミマキイリヒコ時代の実際の大和王権の版図はこうした交易圏の範囲よりもだいぶ狭いものであったろうと思われます。日本書紀においてはミマキイリヒコ時代に河内平野と京都盆地方面の敵と大和王権が戦って打ち破る描写が出てきますから、3世紀前半においては奈良盆地から河内平野や京都盆地に進出して勢力圏に加えていくという程度であったのでしょう。それでもそれ以前に比べれば飛躍的な勢力圏の拡張ということになり、これが3世紀後半の大きな発展の基礎となるのです。
また大和王権の武力や技術力を支えるための鉄器などは多くが北九州の西倭諸国との交易によって得られたもので、それらは大元は帯方郡を経由してシナ大陸から入ってきたもので、それを取り扱っていたのは華僑の商人たちであり、そうした物品が多く畿内に入ってくるに伴ってそれらを取り扱う華僑たちも畿内に入ってくるようになり、畿内にも幾らか居住し始めるようにもなりました。日本書紀においてミマキイリヒコ時代に来朝したとされている朝鮮半島からの渡来人の先駆けのような人達もそうした華僑であったのでしょう。そして、それに伴って華僑のネットワークに乗って彼らの信仰する道教や神仙思想も幾らか伝わってくるようにもなりました。

こうして膨れ上がっていった3世紀初頭の大和王権の王都の纏向ですが、そこにおける統治がスムーズであったのかというと決してそういうわけではなく、日本書紀においてミマキイリヒコは統治に行き詰まり悩める王として登場します。
それは疫病であったり、民の流民化や叛乱であるとされており、しばしば災害が起こったと日本書紀には記されており、小氷期の気候不順の影響や、拡大した連合の中で王権の権威がついて行かず叛乱が頻発したということなのでしょう。日本書紀におけるミマキイリヒコは災害を鎮めるために様々な土地の神をどのようにして祀るべきか苦慮する姿が描かれることが殆どです。これはミマキイリヒコにとってはあくまで膨れ上がった部族国家文明の行き詰まりを打破して建て直しを図るための試みなのであり、決して新文明を立ち上げようという意図をもったものではなかったのでしょうけれど、結果的にはこれが新しい王権国家文明の思想を形成していくことになるのです。
その最初のケースであり、典型的なケースとして記述されているのが三輪山のオオモノヌシという祟り神をどのように祀るべきかという騒動に関するエピソードであり、ここではオオモノヌシは王権の元来の守護神とは異質な神として登場します。一方、ここで王権の守護神として登場してくるのがアマテラスという太陽神です。
いや、この時点でそれがアマテラスという名であったのかどうか判然とはしませんが、とにかく海人氏の王家が海洋民一族として何らかの太陽神を守護神としていたのは間違いないようです。あるいはそれがアマテラスという名で、それが後に伊勢の猿田彦という太陽神と習合して、伊勢の太陽神もアマテラスという名で呼ばれるようになったのかもしれません。あるいは海人氏の守護神は全く別の名の太陽神で、それが伊勢で猿田彦と習合した後にアマテラスという名で呼ばれるようになったのかもしれませんし、もともと伊勢の猿田彦の別名がアマテラスであったのかもしれません。
とにかく王家の守護神である太陽神と纏向の地の土地神とを一緒に王宮で祀っているのが不都合ということで、それらを王宮から離して分けて祀ることにしたのですが、太陽神のほうはそれで問題は生じなかったのですが、土地神のほうが上手く祀れない状況が続き、それについてミマキイリヒコが困り果てているところにオオモノヌシという神が現れて祭祀の仕方についてアドバイスするというお話が日本書紀に描かれているのです。
そのオオモノヌシの言う適切な祭祀のやり方というのが土地神の縁の者に祭祀を執り行うように王権から命じるというものであり、まず手始めにオオモノヌシをそのようにして祀り、それからその他の様々な土地神もそのようにして祀っていくようになりました。
これは結局、大和王権によって間接的に各地の祭祀を管理していこうという体制であり、こうした方法をとることによって各地の勢力の連合政権となった大和王権の王家はひとまず求心力を回復したのでした。こういうことがミマキイリヒコの治世の前半において行われたのだと思われますが、こうした試行錯誤はあくまで3世紀早期における過渡的な処置であったといえるでしょう。

この3世紀の早期においてはまた同時進行的に王権の権威を高めるために新しい首長霊祭祀の思想や形態も固められていったと推測されます。それは部族国家文明の時代において吉備地方などで発展してきた大型の墳丘墓における祭祀に、原始国家文明時代に形成された祖霊や自然霊への祭祀のエッセンスを融合させた首長霊祭祀に、更に新たに華僑ネットワークによってもたらされた道教や神仙思想の要素を加えたものでした。それが前方後円墳における首長霊継承儀式の思想だったのです。
神仙思想においては円形は天を表し、方形は地を表すのであり、前方後円墳の前方部は地、つまり現世を象徴し、後円部は天、つまり幽界を象徴します。すなわち後円部には死者を埋葬し、前方部では現世的な儀式を行います。それが王の墓であるとするならば、後円部には亡くなった先王が葬られ、前方部では新王の即位式が行われるということになります。
ならば先王から新王への首長霊の継承儀式という最重要秘儀は何処で行われるのかというと、それはやはり先王の死体の安置される後円部ということになります。そして後円部で秘儀を終えて首長霊を継承した新王が秘儀空間から出てきて群臣の前にその姿を現して王権の継承の証を示す場が前方部のエプロンステージであり、そこがそのまま即位式の会場へと移行するのです。
こうした前方後円墳における首長霊継承儀式の形式の定まった初期においては儀式の核心はあくまで後円部における秘儀であり、後円部が主で前方部は従という関係性であったと思われます。3世紀前葉において纏向周辺に出現する初期型の全長100m.規模の前方後円墳は後円部が大きく前方部は小さく標高も低く単なる通路のような扱いになっています。それが次第に時代が下っていくにつれて前方部がどんどん巨大化していくのは、おそらく後円部における秘儀が形骸化して王宮内の大嘗宮に移され、これが後の大嘗祭に発展していくのであり、むしろ3世紀後半以降は前方部における即位式のセレモニーのほうが重視されていくようになっていったからでしょう。そして5世紀以降になると古墳は完全に単なる埋葬の場となり儀式は王宮内で行われるようになるのです。

この初期型の前方部の小さな前方後円墳は各地に分布しますが、この纏向にある6基が最も大きく古く、纏向地区が前方後円墳の起源の地だということを表しています。そしてこの初期型の前方後円墳を基にして前方部が発達して後円部と同じぐらいの大きさになったタイプの前方後円墳である箸墓古墳が纏向の地に現れるのは纏向の最盛期にあたる3世紀後半に入ってからのことで、その全長は280m.に達し、大和王権の権威が更に拡張しているのが見て取れます。
この箸墓古墳は日本書紀にも登場し、王家の出身でヤマトトトヒメという三輪山のオオモノヌシの妻となった女性の墓とされています。その逸話が事実であるかどうかはともかく、箸墓古墳の巨大さからその祭祀が非常に重要なものであったのは確かであろうし、その場所からして三輪山祭祀とも関係が深かった可能性も高いといえるでしょう。
しかし前方後円墳は首長霊祭祀を行う場であり、箸墓古墳は王家の古墳ですから王家の首長霊を祀る場で、それは王家の守護神であるアマテラスなどがその神として元来相応しいはずなのですが、そこに土地神で祟り神であるオオモノヌシが関わってくるというのも不可解なことです。
いや、そもそも三輪山信仰そのものに太陽神信仰の要素があり、それは元来のオオモノヌシの神格とは別に、後に太陽神が習合されたのであり、最初は土地神として祀られたオオモノヌシに王家の守護神である太陽神アマテラスを3世紀後半までに徐々に習合させていったのではないかと思われます。
このように、3世紀の前期に纏向において確立した首長霊祭祀の儀式の下に各地の土地神を組み込んでいこうという試みが3世紀後半になると展開されていくようになりますが、この三輪山のオオモノヌシのケースがその嚆矢にあたるのではないかと思います。
その手法としては大和王権の首長霊である太陽神を分霊して各地の土地神と習合させていき、それによって各地の土地神をも大和王権の首長霊の中に取り込んでいこうというもので、例えば箸墓古墳は元来の大和王権の首長霊にオオモノヌシをも取り込んだ拡大された首長霊を継承する場であったのではないかと思われます。そのような祭祀形態を実現するまでの準備としての分霊や習合などの試みは3世紀前半のミマキイリヒコの治世の後半において着々と進められたのではないでしょうか。
そのように各地の土地神をも首長霊に取り込んで継承していく場合、その継承の証として重要になってくるのが神器や神宝のようなレガリアの類で、そうしたものを大和王権の手に集中させようという試みもミマキイリヒコの治世の後半においては行われており、例えば日本書紀のミマキイリヒコの時代の終わりのほうの記述として出雲の神宝を大和王権が一旦奪取した後また出雲に返却したりしています。この出雲の神宝に関するエピソードは次のイクメイリヒコの時代に決着がつきますから、これはミマキイリヒコの時代の終わり頃の出来事なのでしょう。

このようなミマキイリヒコの治世は207年から241年の間であったのですが、この3世紀前半は王権国家文明の黎明期に相当し、また同時に部族国家文明の改革期にも相当し、まさに部族国家文明の建て直しの時代の陰で、外来の新しい神仙思想や古い原始国家時代の精霊祭祀などを受けて、試行錯誤の末に新しい首長霊祭祀の思想という王権国家文明の時代精神が生じてくる時代なのだといえます。
ミマキイリヒコの時代には大和王権の連合に加わる諸国はそれほど大きな広がりは見せていなかったとは思われ、大和、河内、山城に加えて紀伊半島や四国の南海道方面、東海や南関東の東海道方面、吉備や播磨の山陽道方面に交易拠点として散在している程度であったのあろうと思われ、大和王権独自の前方後円墳を使った首長霊継承儀礼もそれらの勢力範囲内に限定されたものであったとは思われますが、それでもこの首長霊思想が大和王権を成り立たせる根本思想であるとするならば、やはりミマキイリヒコこそが大和王権の初代大王なのだといえるでしょう。
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この記事に対するコメント

 やはり、縄文風の国土創成神話をもつ語部を擁したところが、初期の王権を確立したと思われます。弥生期には大和王朝とちがう王朝があったと考えることも出来ます。
 島根県安来市には記紀の国生みのはなしと出雲風土記の国引きの話が並立して残っているところでこのような得意な場所に初期の(出雲)王朝みたいなものが発生したとみると、考古学的な証拠などともある程度整合性がでてくるのではないかと考えております。

【2007/10/07 20:13】 URL | 都辨志呂 #a.Q/f0Hs [ 編集]



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