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日本史についての雑文その291 大和王権の伸張
241年に大和王権の初代大王であったミマキイリヒコが没して、おそらく纏向にある前方後円墳において首長霊の継承儀式が行われて新たに大王として即位したのが次男のイクメイリヒコでした。長男のトヨキイリヒコは関東方面の開拓のために移住していっていました。おそらく冒険を好む商人的性格であったのでしょう。
そうしたトヨキイリヒコのような多くの人材が3世紀の後半には各地で盛んに交易を行い、大和王権の王都である纏向へ物資や人材を送り、纏向は最盛期を迎えることになり、この時代に纏向最大の箸墓古墳も作られています。そうした大和王権の勢力の拡大に対応して王都纏向においては大王のイクメイリヒコを中心に首長霊祭祀の様式が更に整備されて完成されていきました。

日本書紀におけるイクメイリヒコの治世の記事は、その初期において王家の一族であるサホヒコの謀反の鎮圧があり、それ以降は畿内は平穏となり大和王権はその連合を周辺地域に徐々に拡大していくことになります。それは箸墓古墳を模倣した前方後円墳が各地に広がっていく様を見れば一目瞭然なのですが、日本書紀においてはイクメイリヒコの治世はひたすら祭祀や儀礼、神宝に関する逸話ばかり記述されています。
それはつまり、この時代における大和王権の勢力拡張というのが大王の明確な領土拡張欲による拡大政策の賜物なのではなく、大王イクメイリヒコは先代から引き継いだ首長霊祭祀の形式をより洗練されたものに完成させていき、大和王権の連合に加わった諸国において広範な支持を得ることの出来るものへと発展させていくことに腐心したのであり、その結果として、自然に大和王権の連合に加わる諸国の範囲が更に拡大したのです。
そういうわけですからイクメイリヒコの事跡には祭祀をはじめとした内政関連のものばかりがあり、外征に関する記録が無いのです。確かに周辺地域においては武力の発動を伴ったトラブルは生じたと思われますが、それらは大王の意思によるものではなく、現地の交易や開拓を行っていた出先機関の裁量で処理される程度のものだったのでしょう。こうした自然浸透的な勢力拡張の傾向は初代のミマキイリヒコ時代からこのイクメイリヒコ時代まで共通した特徴であり、大和王権の勢力拡張の基本的傾向でもありました。

イクメイリヒコの時代のコンセプトを示すエピソードが日本書紀に記されています。それは「一書に曰く」として述べられている話で、奈良盆地の土地神と思われる大倭大神がイクメイリヒコに向けて神託を下して言うには「先代のミマキイリヒコは神祇を祭祀したがおおざっぱで枝葉にとどまり根源を探ることがなかった。それゆえ短命であった。お前が先代の至らぬところを悔いて慎み祀るなら寿命は伸び天下泰平であろう」ということであり、この後イクメイリヒコは291年まで50年間の治世を全うし、その間大きな災厄も無かったようで、そしてこのエピソードがわざわざ日本書紀に採録されているところを見ると、イクメイリヒコという大王は先代大王の創始した首長霊祭祀を更に根源的なところまで真摯に突き詰め発展させようと努め続けたのであろうと思われます。
このイクメイリヒコの時代の最重要事件といえば伊勢神宮の創建ということになります。伊勢においてはもともと猿田彦という海の太陽神が祭祀されていたのですが、大王家の首長霊であった太陽神アマテラスと習合し、更にその首長霊の継承の証となるレガリアとして八咫鏡が用いられるようになり、現在に至る伊勢神宮の基本的な祭祀形態がこのイクメイリヒコ時代に出来上がりました。
これは元来は大王家の首長霊たる太陽神を分霊して各地の土地神に合祀して、各地の土地神を大王家の首長霊に取り込んでいって各地における祭祀の正統性を大王家に集中させようという運動の一環として行われたもので、それが伊勢の場合は土地神が大王家の首長霊と同じ太陽神であったことと、伊勢の地が東国への入り口にあたっていた点と、鏡を使った祭祀が非常に洗練されたものとなった等の事情によって、伊勢の太陽神こそが大王家の首長霊そのものであるかのような位置づけになったのでした。
これにより、大王家の首長霊たる太陽神と土地神とを合祀していた各地の神社が「元伊勢」と後世において呼ばれるようになったのです。そういう意味では伊勢神宮自体が「元伊勢」の1つということにもなりますが、そうした「元伊勢」は大和、丹波、紀伊、吉備、伊賀、近江、美濃、尾張、伊勢などに多数存在し、これらの各地に大王家の首長霊を合祀する運動が展開されたのもイクメイリヒコの時代のことでした。

これらの地域がイクメイリヒコ時代の大和王権の連合の範囲に重なるのでしょう。例えば丹波については、イクメイリヒコの正妻のサホヒメは兄サホヒコの反乱時に共に死んだので新たに正妻を迎えることになりましたが、それは初めて丹波の豪族の娘を迎えることになりました。これは丹波の勢力がこの時代に大和王権の連合に参加したということを示しています。
その丹波の北部にある但馬の神宝をイクメイリヒコのもとへ献上させようとして結局諦めたという話も日本書紀に採録されていますが、各地のレガリアを纏向の王都に集めて首長霊継承の正統権を大和王権において集中管理しようという試みの一環といえるでしょう。伊勢神宮の八咫鏡にしても大王家の首長霊と同一視されたとはいえ本来は伊勢の首長霊のレガリアであり、その本体は伊勢にありレプリカが大王の王宮に献上されたといわれていますから、各地のレガリアも実際は中央へ献上されたものはレプリカでよかった場合もあるのかもしれません。
ただ、この時の但馬の神宝の場合は本体の献上を求めて失敗したようで、イクメイリヒコの時代にはまだ但馬の全域が大和王権の勢力下に加わったわけではなかったようです。この時に神宝の献上を拒んだ但馬の豪族が新羅王の子で日本列島に帰化したという天日槍の子孫の一族で、実際は朝鮮半島にいた華僑が日本に帰化した一族であったのでしょう。この帰化人氏族がイクメイリヒコ時代においてはまだ大和王権に対していくらか距離を置いていたということになります。後にこの一族が王族と縁戚を結んで、そこにオキナガタラシヒメが生まれることになるのですが、それはまた後の話です。
イクメイリヒコの治世の晩年にあたりますが、この天日槍一族のタジマモリという但馬の豪族に命じて「常世の国」へ渡航させて四季いつもある香菓を求めさせたという話も日本書紀には採録されており、おそらくこれは朝鮮半島のことで、イクメイリヒコ時代において既に大和王権においても朝鮮半島の華僑たちとの交易に興味が持たれており、但馬へ進出しようとしていたのも日本海交易路に参加するためであったのであろうと推測できます。ただ日本書紀の記述を見る限り、イクメイリヒコの時代にはまだその目論見は上手くいっておらず、朝鮮半島からの物産は相変わらず北九州の西倭諸国を経由して入手するのがメインであったようです。
3世紀後半のイクメイリヒコ時代になると北九州の西倭諸国、つまり邪馬台国を中心とした連合にも前方後円墳の造営の習慣が及ぶようになっています。これは大和王権との交流が増大したということを示しており、瀬戸内海交易路を通じた西倭と東倭の交易量も飛躍的に増大し、3世紀後半になると畿内における鉄器の量は北九州における量を凌駕するようになります。3世紀末から4世紀初頭以降は北九州勢力は弱体化していきますが、これは大陸の状況変化によるもので、東倭との間に争いがあったというわけではないようです。

神宝の献上といえばイクメイリヒコの時代には、先代のミマキイリヒコ時代には失敗していた出雲の神宝を献上させることには成功しています。この神宝の中に草薙剣が含まれていたと思われ、これが伊勢神宮に保管されて次代のオオタラシヒコの次代にはヤマトタケルの手に渡ることになります。
また出雲関連でいえばイクメイリヒコの時代には出雲大社の創建が行われたという伝承もあり、出雲の土地神であるオオアナムチが大和王権の大王家に祟ったのでそれを鎮めるための創建とされ、これはミマキイリヒコ時代の三輪山のオオモノヌシの時と同じパターンであり、つまり出雲の土地神を大和王権の首長霊に合祀していく作業として出雲大社の創建が行われたということで、これらのことから考えて、イクメイリヒコの時代に出雲の勢力も大和王権の連合に参加するようになったということなのでしょう。
この出雲方面への進出も、おそらくは但馬の場合と同じく日本海交易路への参加が大和王権側の念頭にはあったものと思われます。ただ、この出雲の場合も神宝の献上はあったものの、完全に大和王権の支配下に入ったというわけではなく、但馬と同様に大和王権に属さない勢力も根強く、この時代はまだ日本海交易路は大和王権の自由にはなっていない状況であったようです。

また日本書紀に記されたイクメイリヒコ時代の出来事としては、古墳における葬送儀礼の整備に関する記事が目につきます。それはノミノスクネという出雲出身の男に命じて初めて埴輪を製作させたという逸話です。
これが実話であるというのは疑わしいことですが、この3世紀中頃において各地の土器製作集団を古墳造営も含めた総合的な技術者集団に編成し直したということはあったようで、その中に埴輪の製作も含まれていたのでしょう。こうした動きの結果、箸墓古墳のような定型化前方後円墳が作られるようになり、前方後円墳の祭祀が定着することによって銅鐸などの青銅器を使った祭祀は役割を終えて終焉を迎えるようになったのです。そうした動きが最初は畿内で起きて、3世紀後半のイクメイリヒコの治世において地方へも浸透していき大和王権の勢力が拡大していったのです。
その範囲は近畿地方の大部分に加えて、西は吉備や出雲のラインまでの中国地方や四国地方、東は美濃、尾張、三河、遠江まではイクメイリヒコの治世の間に大和王権連合に加わる地方勢力が多くなっていったようで、更に西は北九州まで、東は南関東の鹿島灘沿岸地域までは大和王権と盛んに交易を行って巨大な経済圏を形成するまでになっていったのです。そうした大和王権の文化の影響を受けた地域で前方後円墳が普及し青銅器祭祀が終了していくようになったのが3世紀後半ということになります。

このイクメイリヒコの時代、特にその大和王権の勢力が伸張していく250年以降の時代というのが王権国家文明の胎動期に相当し、この時代において首長霊祭祀という新しい時代精神は社会に裾野を広げていき、それによって既存の部族国家文明は300年サイクルの中で最も安定し成熟し、この時代の中頃には部族国家文明は頂点を迎えて完成されることになるのです。
そうして291年にイクメイリヒコが没してその子であるオオタラシヒコが大王の位を継いだ時には大和王権を中心とした連合勢力は日本列島中心部において無視出来ないほどの大勢力を形成するようになっていました。そうなると周辺諸国にとって大和王権は脅威の存在ともなってくるわけで、より警戒的になり、また新しい大王ワカタラシヒコは自信を深めるようにもなり、より積極的にもなり、高まった連合の国力をもって反抗する周辺諸国に武力を行使して服属させていこうともするようになっていきました。
そうした動きの具体的な表れが、日本書紀におけるオオタラシヒコの治世の初期に位置づけられている熊襲征伐の記事でしょう。この時は大王のオオタラシヒコ自らが甲冑を纏って前線に立って軍兵を率いて、中国地方西部や南九州における大和王権に敵対する勢力を討伐して、その後、九州一円に巡幸を行っています。
このように大王自らが軍事作戦を遂行するというのは先代や先々代においては見られなかったことで、大和王権が祭祀の統合を通して静かな浸透を続ける存在から、武力行使も伴った「目に見える権力」へと脱皮したことを表しています。そしてこの3世紀末のオオタラシヒコの姿は後に478年に倭王武の上表文に描かれた「昔よりわが祖禰、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、身を寧んずる遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すこと六十六国、渡って海北を平らぐこと九十五国」という大和王権の隆盛の礎を築いた先祖たちの姿と重なってくるのです。
こうした九州方面の例に示されているようなオオタラシヒコの積極性とそれに対する周辺諸国の反発も、胎動期の末期に特有の、新文明の社会への影響力の表面化に対して旧文明による新文明への警戒感が高まり新旧文明間の相克が開始されて結局は新文明が旧文明を凌駕していくという現象の典型例といえるでしょう。
オオタラシヒコはこうして南九州の諸勢力を服属させて大和王権の連合に参加させ、それら諸勢力の祭祀する首長霊を継承することとしたのですが、彼の場合は服属させた土地の豪族の娘をいちいち側室として、オオタラシヒコとその側室たちとの間に王子や王女をたくさん作り、そのようにして土着氏族の元にオオタラシヒコ自身の血を受けた王子や王女を置いて、その王子や王女たちにそれぞれの土地神の首長霊を継承させたようです。そのような大王の分身としての王子や王女は南九州だけではなく大和王権の勢力範囲の全域に及んだようで、全部で70人以上に及んだと日本書紀には記されています。このような一種の懐柔策によってオオタラシヒコは膨れ上がった大和王権の連合をまとめていったのです。このような地方の統治手法は基本的にこの後も踏襲されていったものと思われます。

そしてこうした新文明の胎動期の末期に特徴的なこととして、外来の情勢変化による刺激が表面化してくるということがあります。この外来の刺激が新文明の急速な成長を促すことになっていくのですが、その外来刺激の生じる元となる情勢変化がこの時期に生じてくるのです。この3世紀末の王権国家文明の胎動期末期における外来の情勢変化とは、具体的にはシナ大陸における晋帝国の自壊の進行でした。それが4世紀に第一次シナ帝国の崩壊に繋がり、日本列島の諸勢力の運命にも大きな影響を及ぼすことになるのです。
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この記事に対するコメント

 このような政治力学が発生する以前に出雲に王権が確立していたと見るのは、たとえば出雲風土記の意宇郡安来郷の語部の長とみられる人物の逸話からも推定できそうな気がします。
 いずれにしても邪馬台国の前に、出雲が何たるかの解明のほうが日本人にとって重要だと思われます。 

【2007/08/26 03:12】 URL | 原文ダイブ #- [ 編集]


 そういえば、旧暦の10月を神無月といいますが、
出雲では全国から神々があつまるので、神在月に
なっているといいます。この理由の一つに、諸神の
母神であるイザナミの法事を行うということが考えられています。安来にはイザナミの御神陵があるので、「神々の首都」とは面白い表現ですね。
 じつは、島根県観光動態調査というところを検索して、島根県の各地域の1年間の観光客数の推移を見てみますと、他の地域はお盆に観光客数が増えるのに、毎年、安来だけは神無月にピークをむかえているのです。なんかきになりますよね。
 あと「雲太、和二、京三」ってことばの別解釈に
首都の変遷順を示しているという説があるのも見逃せないですね。

【2007/08/30 21:08】 URL | スサオノ #- [ 編集]


いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。

【2008/10/31 23:11】 URL | 大和島根 #- [ 編集]


このコメントは管理者の承認待ちです

【2013/01/01 22:04】 | # [ 編集]



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