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日本史についての雑文その292 シナ帝国の滅亡
ここでシナ大陸のほうに目を転じてみますと、280年に呉を滅ぼしてシナ世界を再統一した晋帝国がいきなり衰退し始めるという現象が起きています。
184年に勃発した黄巾の乱以降、後漢末の混乱でシナの人口は激減し5600万人から一気に500万人弱にまで落ち込み、そうした中で成立した魏・呉・蜀の三勢力は兵力不足を解消するために周辺異民族を自領に大量に移住させて兵力として活用しました。

それでもこれら三国の弱体は否めず、それゆえに互いに決め手を欠いて三国鼎立の状況が続くことになったのですが、これらの中で最も国家として制度がしっかりしていたのは魏で、曹操やその子の曹丕は後漢朝に仕えた官僚を政府主導かつ能力重視で吸収するために九品官人法という官吏登用法を定めて官僚を人物本位で9段階に評価した上で登用するようにしました。このようにして能力重視の政治が行われたので魏は三国中で最も優位に立つようになっていったのです。
曹丕が没して後、249年以降は魏の実権は司馬氏の手に移りましたが、司馬懿やその子の司馬師や司馬昭によってこのような能力主義の官人登用法は維持され、263年には蜀を滅ぼし、264年には司馬昭の命令で初めて律令の編纂が開始されました。こうした中で265年に司馬昭が没しその子の司馬炎が魏を簒奪して乗っ取り、晋朝を創業したのです。律令は268年に完成し、これがこの後のシナ世界の法律のスタンダードとなり、隋唐の律令につながっていくのです。
このように晋帝国というものは魏の安定した政治制度をそのまま引き継いで成立したのであり、建国時において既に創業の勢いというものが無く、例えば九品官人法などは晋の建国後は形骸化し始め、地方の有力な家柄の者が賄賂を使って実質的に官位を世襲するように変質し始め、貴族層が形成されるようになりました。この貴族制度もこの後の混乱期において主に南朝で継承されて、唐の貴族政治へと繋がっていきます。
しかし、魏の時代においてはこのような賄賂の横行などは広く起きてはいなかったのに晋の時代になってからこのようになるということは、曹氏や司馬昭以前の司馬氏の政治に比べて司馬炎の政治が弛緩していたからでしょう。それでも呉という敵が存在したうちはまだ緊張感というものがあり、なんとかまともな政治を行っていたのですが、280年に呉を滅ぼしてシナ世界を統一した後は司馬炎は政治を顧みなくなり後宮に1万人の美女を集めて女色にふけるようになり、王朝初期の基盤整備が疎かにされることになりました。

このような政治停滞の中、290年に司馬炎が没してその子の司馬衷が恵帝として跡を継ぎましたが暗愚な人物で政治を放り出し、実権は皇后が握りました。この皇后の専権に反対する司馬倫という皇族が300年にクーデターを起こして皇后を殺害して翌年には恵帝を廃して自ら皇帝となり、これがきっかけとなって皇族同士が争いあう内乱、「八王の乱」が勃発して306年まで続き、その間国内は混乱し荒廃することとなりました。
華北には後漢時代から匈奴族が多く移住するようになっていましたが、三国時代にはシナ人の人口激減の影響で魏の曹操によって北方異民族の大規模な移住が進められ、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌などの部族が居住するようになっていました。これらの晋国内の北方異民族が八王の乱において傭兵として活用されたためその軍事力が強大化し、八王の乱の最中の304年に、華北に居住していた匈奴族の首長であった劉淵が晋帝国の国内の混乱に乗じて晋からの独立を宣言し、他の部族も相次いで独立を宣言し、各部族の本隊も一気に華北へ南下していき、華北は異民族王朝の乱立する様相となり、ここに130年以上にも及ぶ戦乱の時代となる五胡十六国時代の幕が開けたのです。
こうした大混乱の中、311年には晋の首都の洛陽は匈奴族によって陥落し、皇帝は捕らえられて313年には処刑されます。その後、晋の残党が長安に立て篭もって匈奴族に抵抗しますが316年には長安も陥落して皇族も皆殺しとなり晋帝国は滅亡し、ただ一人逃げ延びた皇族の司馬睿は江南に逃れて317年に建康を都として東晋を建国することになりました。
華北から華中にかけては北方異民族が大挙して押し寄せて互いに攻伐し合う戦乱の舞台となり、華北や華中に住んでいたシナ人は多くが戦乱を逃れて江南の東晋の勢力圏に逃れていき、もともとシナ人の人口が激減していた上にそのように大部分が逃げ出してしまった華北や華中では残ったシナ人も北方異民族に蹂躙されて混血し、また元来はシナ人のほとんど住んでいなかった江南の地へ移住したシナ人たちも南方異民族のオーストロネシア系などと混血し、ここに純粋なシナ人というものは消滅してしまいました。ちなみにこの時押し出されたオーストロネシア系部族の一部が台湾に渡り独自の部族文化を形成することとなり、更に東南アジアや太平洋に拡散していくことになります。
いや、しかし「純粋なシナ人の消滅」といっても、もともとシナ人というものは東西南北の異民族が中原に集まって交易都市を運営していく組合員として団結したのが起源ですから、「純粋なシナ人」というもの自体がそもそも架空の概念なのですが、それでも紀元前221年の秦による統一以降、500年以上もの間に培われてきた「シナ人」というアイデンティティーが存在はしていたのですが、それもこの大規模な民族移動と混血によって崩壊し、この晋の滅亡以前の「シナ人」とこれ以降の「シナ人」という概念は、その実態は全く違う異民族であるといえるでしょう。
つまり、この4世紀初頭においてシナ大陸の歴史には大きな断絶が生じたのであり、ここでシナ人、つまりいわゆる漢民族というものが大きく変質することとなり、秦の統一以来続いていた「第一次シナ帝国」といえるものがここで一旦滅亡して、シナ大陸は6世紀末に鮮卑族の隋によって再統一されるまでの長い分裂の時代に入ることになったのです。
このシナ帝国の滅亡が朝鮮半島情勢に大きな影響を与えることとなり、それがひいては日本列島の諸勢力にも影響を及ぼすことになるのです。

3世紀末の晋帝国における政治停滞は朝鮮半島における楽浪郡や帯方郡の機能低下も招き、シナの物産の流入量が減少し、帯方郡で華僑と交易を行う邪馬台国などの西倭諸国連合が輸入するシナ物産も減少しました。
そうなると鉄器などのシナの物産の需要が高い東倭の大和王権連合は、それまでのように西倭諸国連合を経由して輸入している状態では供給不足で需要過多となってしまい、それを解消するために日本海交易路への参加を模索したり、北九州や朝鮮半島に圧力を加えるためにオオタラシヒコが中国地方西部や東九州や南九州に進出したりするようになったのです。
日本書紀によればオオタラシヒコは3世紀末に国東半島や日向灘方面へ進出していっていますが、これらなどは北九州の西倭諸国を経由せずに朝鮮半島から直接に関門海峡を越えて九州東岸を南下して四国南岸を回って紀伊水門に至る南海交易路の開発も視野に入れたものであったと思われ、これに連動してこの時代から紀伊水門の重要性が高まり、大和王権の重要拠点ともなっていきました。
だいたいオオタラシヒコが各地に大和王権の連合を拡大して、各地の豪族と縁戚関係を結んでいったために、各地の勢力間で交易利権を巡って競合関係が生じるようにもなっていきました。例えば吉備や播磨の勢力を後ろ盾として瀬戸内海交易路を重視する勢力、近江や但馬の勢力を後ろ盾として日本海交易路を重視しようとする勢力、紀伊や阿波の勢力を後ろ盾として南海交易路を重視しようとする勢力、美濃や尾張の勢力を後ろ盾として東国との交易を重視しようとする勢力など、大和王権の連合内で様々な派閥が生じるようになっていったのです。

しかしなんといっても決定的な影響が生じたのは300年の八王の乱によって晋帝国の中央政府が機能を停止し、その後、華北が戦乱の巷となって晋帝国が実質的に消滅し、ついには316年に名実ともに晋帝国が滅び、第一次シナ帝国という大きな文明が消滅したという出来事でした。
シナ大陸における内乱の勃発によって、朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡の安全保障を担当していた郡兵がシナ大陸に振り向けられることとなり、しかも戦乱の長期化、そして晋帝国の滅亡などの事情もあり、その郡兵たちは朝鮮半島には二度と戻ってくることはなかったのでありました。
また、晋帝国の没落によって、晋との特約関係を権力の源泉としていた邪馬台国はあっという間に権威を失墜させて没落していき、西倭諸国連合はその核を失って混乱状態となり、弱体化していきました。これによって朝鮮半島の交易路の安全を保障していた晋帝国と西倭諸国連合という二大勢力が没落して、かくして朝鮮半島は安全保障の空白地帯となってしまったのでした。
そうした状態の朝鮮半島に向かって、北方から高句麗族が侵入してきました。もともと高句麗は楽浪郡の北の交易路をしばしば荒らしていたのですが、八王の乱に乗じて五胡(匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)が華北へ向けて一斉に南下し始めると、五胡の居住地の東方の満州平原に居住していた高句麗もそうした動きに連動して一気に楽浪郡に向かって南下し始めたのです。
以前であれば高句麗の侵入があれば撃退していた楽浪郡の郡兵はもはや弱体化しており、とうとう313年に楽浪郡は高句麗に攻め滅ぼされて占領されてしまいました。楽浪郡が無くなってその南方の帯方郡だけで存立が可能であるはずもなく、ほぼ同時に帯方郡も自然消滅し韓族の首長たちによって占領されました。こうして紀元前108年から続いていたシナ帝国による朝鮮半島支配の400余年の歴史は終焉を迎えたのです。
これによって今まで朝鮮半島南部の交易路の安全保障を担当する見返りにシナ帝国との特約関係を結び、その特約関係のもとで交易を優先的に行っていた西倭諸国はそうした特権を喪失し、高句麗族や背いた韓族が幅をきかすようになった楽浪郡や帯方郡の故地での交易で苦境に立たされることになったのです。
かといって西倭諸国はもともとシナ帝国と共同で朝鮮半島南部交易路の治安維持をしていたのですから、シナ帝国が消滅してしまった状態で独力で治安を回復できるほどの実力はありませんでした。シナ帝国公認の倭国王の務めとしてなんとか秩序を回復しようとして朝鮮半島南部の辰韓・弁韓・馬韓の諸国の邑君たちを従わせようと働きかけ続けましたが、韓族の邑君たちはかつてのようには協力的ではなくなり、北方の楽浪郡の故地を押さえる高句麗の顔色を伺う始末で、西倭諸国連合と韓族との間で散発的な小競り合いが続き、その背後に高句麗の陰がちらつくという状況でした。

このようにして300年以降、北九州の西倭諸国は交易が振るわなくなり弱体化していき、その東にある東倭諸国連合であった大和王権は西倭諸国から入ってこなくなった交易品の穴埋めをするために活発な活動を展開するようになっていきました。その中で4世紀初頭に頭角を現してきたのがオオタラシヒコ大王の王子であったヤマトタケルです。
大和王権としては当時の最重要戦略物資であった鉄器を確保するために西倭諸国に盛んに働きかけましたがどうにも埒があかないので西倭諸国に軍事的に圧力を加えることにしました。そのための兵力は南九州で調達することにして、南九州の熊襲地域への支配を強めようとしましたが、それを嫌った熊襲の現地勢力が反抗したので、オオタラシヒコは後継者であるヤマトタケルを派遣してそれを鎮めさせることにしました。
ここで大規模戦闘を展開して大和側にも熊襲側にも大きな兵力の損耗があっては元も子もないのであって、そこでヤマトタケルは計略を巡らせて熊襲の反乱軍の首領を暗殺し、あとは交渉でうまく反乱を鎮めて、兵力の損耗を最低限に抑えました。ヤマトタケルは播磨の豪族の娘がオオタラシヒコとの間に産んだ王子で、もともと瀬戸内海交易路の利権を握っていた勢力の代表であったのですが、この南九州遠征で南海交易路の利権も押さえることになりました。
こうして大和王権は南九州の兵力でもって北九州の西倭諸国を圧迫して鉄器を引き出そうとしましたが、別に西倭諸国は鉄器を出し惜しんでいるわけではなく、朝鮮半島の政情が不安定で安定的な鉄器供給が出来なくなっているのですから、西倭に圧力を加えても仕方ないのです。
やはり朝鮮半島を安定化させるだけの軍事力というものが必要になってくるのですが、それは西日本を主体とした大和王権の軍事力ではまだまだ不足していました。古代における軍事力の最重要要素は兵員の数だったのであり、それを支えるのは豊富な人口であったのですが、古代の日本列島は西日本が人口が少なく、東日本が人口が多かったので、多くの人口を得て軍事力を上昇させるためには東国進出は避けて通れない道でした。
そこで結局、4世紀初頭の大和王権の出した差し当たりの結論は、連合の領域を東国へ拡大して強大な軍事力を得て、また更に東国交易を盛んにして豊富な富を得ておくということでした。その方針に従って先頭に立ったのがヤマトタケルで、東国の交易路の終着点である常磐沖の漁場で東日本の土着民である蝦夷とのトラブルが生じたことを受けて、その調停のために東北地方まで赴き、交渉の結果、交易路を更に北上させて三陸沖まで進出させ、大和王権の東国における利権を大きなものとして、その東国交易路の利権も押さえたのです。
こうして押しも押されぬ大和王権の後継者となったヤマトタケルでしたが、東北からの帰途において更に東国の人口豊富な未知の地域であった信濃や越の探索も行い、現地の蝦夷の勢力とも交渉を持ち、これらの地域への進出の基礎を作り、これによってますますその名声と実力を確固たるものとしたのでした。
このままヤマトタケルが尾張を拠点として東国経営の任にあたり、その成果を十分に上げてから父オオタラシヒコの後を継いで大王となるはずだったのですが、この一大英雄であったヤマトタケルは無理が祟ったのか、あっけなく病気で死んでしまったのです。ヤマトタケルが押さえていた膨大な利権を受け継ぐべき彼の子はまだ幼少で、彼の父の大王オオタラシヒコは既に老いていましたので、ヤマトタケルの子が成長するまで誰かが繋ぎで大王を務めなければなりません。そこでヤマトタケルの異母弟のワカタラシヒコがオオタラシヒコの後継者となりました。

オオタラシヒコが没してワカタラシヒコが大王の位を継いだのが321年のことで、このワカタラシヒコの治世において、亡き兄ヤマトタケルが基礎を築いた東国経営が大きく発展し始めていくのです。ワカタラシヒコの母親は美濃の豪族の娘であり、もともとワカタラシヒコ自身が東国交易路に大きな利権を持った勢力の代表でした。いや、数多くのオオタラシヒコの王子の中からワカタラシヒコがヤマトタケル亡き後の後継者に選ばれた理由は、大和王権の東国重視政策と彼の背後の勢力の利害とが一致する部分があったからなのでしょう。
ワカタラシヒコは大王になると大王の居館を纏向から近江の坂本付近に移動させて、東国重視姿勢を鮮明にしました。また坂本からは琵琶湖を経由して日本海交易路へのアクセスも容易で、日本海交易路や北陸地方への進出も睨んだ措置であったと想われます。
また王権の象徴たる前方後円墳も纏向周辺から奈良盆地北端部の佐紀に作られるようになり、この佐紀に勢力を有していたのが南山城を根拠地としていた大王家の一族の息長氏で、この息長氏が近江における大和王権の北方進出の中心的存在であったのであり、但馬に勢力を有して日本海交易路の利権を押さえていた天日槍の末裔の華僑系氏族と縁戚関係を結ぶようになっていました。このワカタラシヒコの時代に息長氏と華僑系氏族の間に生まれた娘がオキナガタラシヒメで、ワカタラシヒコの下で後継者として養育されていたヤマトタケルの息子がタラシナカツヒコでした。この2人が夫婦となって次の時代を切り開き、その子であるホムタが次代の主役となるのです。

ワカタラシヒコの治世は321年から351年まで続きましたが、この時代には駿河、甲斐、信濃、飛騨などに大和王権は勢力を広げ、これらの地域で大和王権連合に加わる地方勢力も増えました。これらの地域が大部分が大和王権に加わるようになるのは4世紀末ぐらいのことですが、その基礎はワカタラシヒコ時代に築かれました。また、このように大和王権の勢力範囲が拡大してきたことを受けて、ワカタラシヒコは中央と地方の間で効率的に意思の遣り取りをするために初期的な地方行政制度を整備するようになりました。
このように、この4世紀前半の時代というのは、旧来のシナ帝国の影響を受けた部族国家文明の求心力が低下していく一方で新たな王権国家文明が社会に深く関与してその影響力を増しつつ成長していく時代であり、まさに王権国家文明の草創期にあたるのだといえます。その前半がオオタラシヒコの時代であり、後半がワカタラシヒコの時代なのです。
特に後半のワカタラシヒコの時代には表面的には部族国家文明は最高の繁栄を示しますが、しかし実際は部族国家文明の求心力は失われようとしており、混乱が生じてくるようになります。それは部族国家文明を支えていた朝鮮半島における交易路の混沌とした状態が臨界点に達してくることによってもたらされます。そうした状況を打開するために4世紀半ばに王権国家文明の理念を更に政治的に前面に出そうという動きが起きて、更にそれに対する反動攻勢や混乱状態、そしてそこから新興勢力が現れて新たな文明の時代を切り開いていくことになるのです。そこから王権国家文明の形成期が始まるのです。
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