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日本史についての雑文その293 三韓征伐
西暦300年以前の朝鮮半島の状況というものを概観しますと、まず平壌付近に楽浪郡があり、ここが晋帝国の朝鮮半島支配の中枢となります。晋帝国が朝鮮半島を支配している理由は更なる遠方との交易の通路として意味があるからなのであり、楽浪郡は交易路の安全確保のために郡兵を運営するための機関であり、楽浪郡の管轄下に朝鮮半島の各地には多くの県城がありました。
その楽浪郡からは北方と南方に交易路が伸びており、北方には満州平原があり、南方には帯方郡、そして三韓地域、そしてその南に日本列島がありました。

帯方郡は楽浪郡の更なる南方の出先機関のようなもので、このようなものが設けられているということは、つまり南方の交易のほうが重要視されていたということで、実際、楽浪郡は日本列島との交易を主任務としていたといっていいでしょう。
この交易路を守るのが楽浪郡や帯方郡の太守の配下の郡兵であり、交易市場の管理を行って交易税の徴収を行うのが楽浪郡や帯方郡の管轄下の各県の県令やその配下の官僚であったのですが、後漢時代以降は太守や県令だけではこれらの職務を果たすことが出来ないようになっており、交易路の安全は郡の太守とその交易相手の蛮族の王との共同責任で守るようになっており、朝鮮半島内の交易市場の管理は県令と現地土着民の首長である邑君との共同管理となっていました。
つまり、楽浪郡から北へ伸びる交易路の安全保障は楽浪郡の太守と高句麗王が共同して担っていたのであり、楽浪郡から南へ伸びる交易路の安全保障は帯方郡の太守と倭国王が共同で担っていたのです。つまり高句麗王や倭国王は郡の太守と同格の扱いであったわけで、太守は県令を支配下に置いていましたから、高句麗王や倭国王は韓族の邑君たちを配下として扱っていたということになります。
そして、伝統的に高句麗王は一応は王号を賜ってはいますが、交易路の安全を担うどころか交易路を荒らしたりすることがしばしばであり、シナ帝国側から見れば、まぁ問題児であったわけです。逆に倭国王のほうはそうした問題はほとんど起こさず、非常に優等生的な王であったわけです。これはつまり、倭国王のほうが高句麗王よりもだいぶ優遇されていたからなのでしょう。その理由は、シナ帝国にとって倭国との交易のほうが重要であったからなのでしょう。
このように倭国王と高句麗王とでは扱いにだいぶ差があったのであり、それは倭国王も意識はしており、倭国王は高句麗王を下に見ていたのであろうと思われます。つまりシナ帝国を中心とした秩序の中においては、朝鮮半島における秩序を守る責任があるのは第一に楽浪郡・帯方郡の太守であり、次いで倭国王、次いで高句麗王で、その下に県令や韓族の邑君たちが存在するというような序列意識が、西倭諸国の人々の意識としては存在していたのです。

そういう状況が300年の八王の乱以降は一変します。八王の乱、そして続く五胡の侵入によって晋帝国は大混乱に陥り、楽浪郡と帯方郡の郡兵は大部分がシナ大陸へ引き上げていって二度と戻ってきませんでした。そしてそのような軍事力の空白を突いて313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼしてその故地を占領し、同時に帯方郡も滅びて韓族の邑君たちが占領したのです。
高句麗は楽浪郡にいた華僑たちを吸収して、彼らを積極的に登用してシナ文化を吸収して制度的、文化的に発展を遂げていきました。高句麗は以前のような北方の蛮族ではなく、シナ人の国家のような洗練された王国を志向するようになったのです。これは要するに、楽浪郡の故地において高句麗が楽浪郡の役割を引き継いで朝鮮半島や日本列島との交易を管理して、その利権を握って強大化していこうという意思を持っていたということです。
これは西倭諸国から見れば非現実的なことに見えたでしょう。それまでにも何度かシナ帝国が混乱して朝鮮半島が手薄になることはあっても、それは一時的なことで、すぐにシナ帝国は戻ってきたのであり、今回もそのようになって元の秩序に戻るであろうと思っていたのです。ところが実際は今回はそのようにはならず晋帝国は316年に滅びてしまい、その後も華北は戦乱に明け暮れ、未開拓の南へ逃れた亡命王朝の東晋は弱体化し、朝鮮半島に進出してくるシナ大陸の勢力は現れませんでした。
そういう意味では、結果的にはむしろ消え去った秩序の幻想を追って現実的でなかったのは西倭諸国のほうであり、高句麗のほうがシナ帝国の滅亡という現実に上手く対応していたのだといえます。ただシナ大陸がこの後、あれほど長く戦乱に明け暮れるとは、後世に生きる私達はよく分かっていますが、当時の人がそれを正確に予想することは困難でしたでしょうから、西倭諸国が4世紀においてあくまで旧秩序の回復を図ったとしても、それはそれほど奇異なことではなかったでしょう。また同時に、4世紀において高句麗が新秩序の確立を図ったのも奇異なことではなく、それぞれに大義もあれば名分もあったといえましょう。

高句麗は313年に楽浪郡を押さえた後は西方の遼東半島方面へ進出していきました。こうした事実を見ても、またこの時期の首都が吉林省の丸都であったことからも、本来は高句麗は朝鮮半島国家ではなく、あくまで満州平原を根拠地とした北方民族国家なのだといえます。それはともかく、高句麗が楽浪郡より南には下りてこなかったので帯方郡より南方は安全保障の空白地帯のままとなりました。元来、このエリアは帯方郡の郡兵と西倭諸国の兵とで治安維持をしていたのですが、帯方郡の郡兵はいなくなり、半島情勢の激変を受けて混乱状態となった西倭諸国も弱体化して、このエリアの安全保障の担い手が空位となったのです。
そこでこのエリアにおいては散在する県城、つまり都市国家を治める韓族の邑君たちが連合して安全保障を担うことになったのです。半島南西部の馬韓地域の安全保障を担ったのが伯斉国を中心とした部族国家連合で、この勢力が更に北の帯方郡の故地も押さえ、漢城、つまり現在のソウルあたりを本拠地としました。半島南東部の辰韓地域の安全保障を担うようになったのが斯蘆国を中心とした部族国家連合で、鶏林、つまり現在の慶州あたりを本拠地としました。半島南部の弁韓地域の安全保障を担うようになったのは金官加羅国を中心とした部族国家連合で、任那、つまり現在の金海あたりを本拠地としました。

日本列島から楽浪郡、そしてシナ大陸へ繋がる交易路を回復するためには、まず対馬海峡を越えて加羅連合の本拠地である任那を押さえて、そこから加羅連合の諸国と斯蘆連合の諸国との間を流れる洛東江を安全に通行できるようにして、洛東江から漢江に乗り換える忠州を押さえ、伯斉連合の諸国の間を流れる漢江を安全に通行できるようにして、漢江最下流の中心地である漢城を押さえて帯方郡の機能を回復させなければなりません。ここまでのことを行うためには加羅連合、斯蘆連合、伯斉連合の諸国家との連携が必須であり、西倭諸国も元々これらの諸国とは晋時代から、倭国王が王候でこれら諸国の首長がその配下の邑君という関係性で接点がありましたから、交易路の安全確保のための協力を呼びかけて、それは当初はそれなりに上手くいっていたと思われます。
ただ問題は漢城以北の交易路であり、礼成江、載寧江、大同江を通って平壌の楽浪郡の故地に至る交易路の安全を確保しなければいけないのですが、これらの地域は高句麗が押さえており、高句麗はなかなか西倭諸国の言うことを聞かないので、交易路の安全確保は確実とはいきませんでした。
もし西倭諸国が漢城から平壌までの交易路の安全確保を確実なものにしようとすれば、軍兵を起こして高句麗を屈服させる必要があるのですが、更に問題なのは、もしそうやって平壌までの交易路を開いたとしても、その平壌からシナ大陸までの交易路は内陸河川ではなく陸路であり、陸路における安全保障においては高句麗の騎馬戦術が最強であり、日本列島にはそもそも馬すら生息していませんでしたから、西倭諸国は平壌以北では高句麗には太刀打ちできないのでした。しかしそこを切り開いていかなければシナ大陸から日本列島へ至る交易路は全面開通しないわけです。
そのような根本的な問題点は抱えていたのですが、4世紀前半においてはそれでもなんとか韓族の諸国と連携して漢城までの交易路の安全は確保して、更に漢城から平壌までの交易路についても高句麗との駆け引きを繰り返してなんとか通行している状態を保っていたのです。

高句麗はそうして平壌で西倭諸国と交易しながら遼東半島方面への進出を図っていたのですが、342年に遼西において鮮卑族が作っていた国家である前燕に敗北し、翌343年には首都の丸都を陥され、前燕に臣従することになりました。こうして西への進出を断念することになった高句麗は朝鮮半島を南へ進出して西倭諸国との交易路を押さえて利権を得ようとしてきたのです。
こうした高句麗の南進の脅威に最も激しく晒されるようになったのは漢城を中心とした伯斉連合の諸国で、次いで脅威を受けたのが鶏林を中心とした斯蘆連合の諸国でした。これらの諸国は高句麗の脅威に対抗するためにより強い王権の下にまとまる道を選び、伯斉連合は百済という王国を形成するようになり、斯蘆連合は新羅という王国を形成するようになっていきました。
しかし新羅は弱体であったので徐々に高句麗に圧迫されて、350年頃にはとうとう高句麗の属国となってしまいました。そうなると西倭諸国にとっては由々しき事態で、漢城までの交易路が朝鮮半島南端の洛東江流域の地点から安全確保が困難な状況となるのです。こうした緊急事態に対して西倭諸国は何らかの強硬措置に訴えてでも事態打開を図らなければいけなくなったのです。

その頃、西倭諸国のあった北九州の更に東方の畿内を根拠地としていた大和王権では大王ワカタラシヒコが没して、351年にタラシナカツヒコが大王の位を継いでいました。タラシナカツヒコはワカタラシヒコの子ではなく、ワカタラシヒコの異母兄で早生したヤマトタケルの子で、本来の大和王権の大王の正統はヤマトタケルの血統だったのですが、ヤマトタケルが死んだ時にまだタラシナカツヒコが幼かったために叔父であるワカタラシヒコが繋ぎで大王を務めていたのです。
ワカタラシヒコは東国に利権を有していた家門が後ろ盾となっていたのですが、タラシナカツヒコは父ヤマトタケルの持っていた瀬戸内海交易路、南海交易路、東国交易路の全ての利権を引き継いでいました。大和王権の大王位は終身制でしたから、おそらくはワカタラシヒコの晩年にはタラシナカツヒコが実質的に政務を見ていたのだと思われ、その時期に既に妃がいてオオナカツヒメといい、カゴサカ王とオシクマ王という王子もいましたが、このオオナカツヒメは東国の利権に繋がる家系の出であったようで、この時期はタラシナカツヒコの政治は東向きであったと思われます。

しかし先王が没してタラシナカツヒコが正式に大王に即位し、オキナガタラシヒメを正妻に迎えた後、大和王権の政策は東向きと西向きとで真っ二つに分かれます。オキナガタラシヒメは王族の1つである息長氏の娘で、母親は朝鮮半島からやって来た但馬の華僑系の帰化人氏族の出身で、オキナガタラシヒメはこの母方の氏族を通じて日本海交易路や朝鮮半島に何らかのコネクションを持っていたと思われます。
このオキナガタラシヒメが越の国や出雲、北九州の西倭諸国などの日本海交易路を通じて朝鮮半島とも交易をしている諸勢力と連携して、大和王権の西方進出を促そうと活動を始めたのです。最初からオキナガタラシヒメが積極的に朝鮮半島への出兵まで考えていたかどうかは分かりませんが、西倭諸国などの日本海勢力の動きを支援することで、それらの日本海側の諸勢力に対して優位に立ち、それら地域への支配権を強めていこうという考えはあったでしょう。
西倭諸国のほうは朝鮮半島の切迫した情勢を打開するために、シナ帝国が無くなった今となっては西倭諸国だけの力では力不足であるのは明白で、何らかの後ろ盾が必要であり、そのためには東国における成長が著しく大国となった大和王権の連合を後ろ盾にするしかなく、いやむしろ、西倭諸国などの日本海勢力も大和王権の連合に参加して、内側から大和王権を動かして、西倭と東倭の連合した「大倭国」を形成して、「大倭国」の軍勢で朝鮮半島に攻め入って一気に漢城までの交易路の安全を確保して、その勢いで更に高句麗を撃破して平壌までの交易路、更にその北方の交易路まで進んでいこうという大計画を立てたのでありましょう。
オキナガタラシヒメはそこまで大それた計画は考えていなかったでしょうけれど、とにかく西倭諸国の朝鮮半島への介入を支援するための兵力調達のために九州まで進出していって、その方針に反対する現地の熊襲勢力などを平定するように軍勢を起こすように夫である大王タラシナカツヒコに働きかけ、オオナカツヒメやその子カゴサカ王やオシクマ王などの東国重視グループはそうしたオキナガタラシヒメ一派の方針に時期尚早であるとして反対したのでした。実際、東国諸国の大和王権への参加はまだまだ始まったばかりで、これからますます東国開発を重視しなければいけない時期にどうしてそんな無謀なことをするのかという想いはあったでしょう。

しかし結局、オキナガタラシヒメ一派が押し切って、352年にタラシナカツヒコは本拠地の紀伊水門を出発して瀬戸内海を通って下関まで進出し、オキナガタラシヒメも敦賀を出発して日本海回りで下関までやって来て合流し、そこで各地からの軍勢を集めることになったのです。
そして355年にはタラシナカツヒコは軍勢を揃えて筑紫に入りました。この時、オキナガタラシヒメはタラシナカツヒコの子を妊娠していましたが、西倭諸国との交渉窓口がオキナガタラシヒメとその腹心の武内宿禰であったので筑紫まで来ていました。この時におそらく西倭諸国のほうから、いっそこの軍勢で海を渡って朝鮮半島に攻め込もうという提案がなされ、オキナガタラシヒメらがそれに乗ったのでしょう。
しかし大王であるタラシナカツヒコはそれには消極的で、熊襲を平定することのみを主張しました。ここでタラシナカツヒコがオキナガタラシヒメと武内宿禰と3人だけで居る場で不可解な死を遂げることになり、そのまま大王の死は伏せられたまま、なし崩しに朝鮮半島への出兵が決まります。政治的理由による暗殺の可能性は否定できないでしょう。
この後、東倭と西倭の連合軍は熊襲を平定してから朝鮮半島へ渡りますが、臨月も迫ったオキナガタラシヒメは出産のために本拠地の紀伊水門へ戻り、この後の戦いは武内宿禰や西倭の諸将が指揮したのでありましょう。

日本書紀ではオキナガタラシヒメが全軍を率いて朝鮮半島へ渡り新羅を攻略したと書かれていますが、これは作り話ではないかと思います。
何故なら、この時オキナガタラシヒメは朝鮮への出発前に臨月を迎えて、出産を遅らせるために腹に石を括り付けて朝鮮へ渡り、新羅を討ち、3ヶ月後に北九州へ帰りホムタを産んだと日本書紀には記されているのですが、こんなことが現実に起こるはずがなく、また日本書紀の記述を追ってみると妊娠が発覚してから出産まで15ヶ月かかっており、これもあまりに非現実的です。
こんなあり得ない話をでっち上げてまでオキナガタラシヒメが朝鮮に渡ったということにしたいということは、裏を返せば彼女は実際には朝鮮へは渡っていなかったということになります。
いや、ここでも二倍暦が使われていると考えれば、妊娠発覚から出産までは7?8ヶ月ということになり、それほど不自然ではなくなるのですが、それなら何のために腹に石を括り付けるなどというような描写が必要になるのか不明です。やはりオキナガタラシヒメは朝鮮へは渡っておらず、ホムタは日本で産んだと考えるほうが自然だといえるでしょう。

何故そう思うのかというと、日本書紀における三韓征伐の描写があまりにも空想的だからです。倭国の船が対馬を出るとあらゆる神々の助力で大波が起こって船はそれに乗って一気に新羅の国の奥まで進み、恐れをなした新羅王がすぐに降伏して土下座して命乞いしたというのですから、これは完全に御伽噺です。
これは日本書紀編纂者の意図的な創作であろうと思われます。何故そういう創作をしたのかというと、日本と新羅の上下関係を強調するためであったのでしょう。そもそも日本書紀編纂のきっかけとなったのは倭国水軍が唐と新羅の連合軍に大敗北を喫した白村江の戦いの結果、倭国は朝鮮半島から締め出されて日本列島において「日本国」として再出発することになったことでした。
そういう時代背景がありますから、当時の日本書紀編纂者達には新羅に対する強い対抗意識があり、「今回はたまたま負けたが、本来は新羅など我々よりも格下の存在なのだ」という意識が強烈であったのです。確かに実際、この355年に倭国と新羅の関係が始まった頃は新羅は倭国よりは弱い存在ではあり、倭国の軍が新羅を攻めて屈服させているのは事実です。
そこで日本書紀編纂者はこの355年の倭国と新羅の関係史の原点ともいえる事件を極端に脚色して、殊更に倭国を神々しく描き、殊更に新羅を惨めに卑屈に描くことにしたのです。そしてそこに欠かせない登場人物として設定されたのがオキナガタラシヒメであったのです。オキナガタラシヒメは日本書紀編纂者が「魏志倭人伝」の「倭の女王」と間違えるほどに、古代日本においては「倭の女王」の代表格として認識されていた人物で、西倭諸国や朝鮮半島も含めた「大倭国」の王権の始祖ともいえる人物で、古代においては「倭国」を象徴する存在でありました。
この倭国の象徴たるオキナガタラシヒメが自ら、圧倒的な力で新羅を屈服させ、そのオキナガタラシヒメの足元に土下座して平伏して命乞いする惨めな新羅王の描写というのは、日本書紀においては欠かすことの出来ないシーンであったはずです。だからなんとしてでもオキナガタラシヒメが朝鮮半島まで出陣したということにしなければいけなかったのですが、ここで大きな問題が生じました。
それはオキナガタラシヒメがホムタを産んだ時期と倭国軍が新羅へ攻め入った時期が重なるということでした。実際はオキナガタラシヒメは日本で産んでいるわけなので問題はないのですが、日本書紀の記述としてはこれは困ります。産み月を後にずらしてしまうと、父親のタラシナカツヒコが死んでしまっていますから、今度はホムタがタラシナカツヒコの種でないということになってしまいます。それも困るので、戦場に臨むにあたって石を腹に括り付けて意図的に出産を遅らせたというような不自然な描写となったのです。それ以外に産み月の遅れを合理的(?)に説明できる方法は無いのです。

そこまでしてオキナガタラシヒメの足元に平伏す新羅王というシーンを日本書紀に挿入したかったというわけなのですが、そのために組み込まれた様々な虚飾の衣を剥いでいくと、こういうことになります。
355年に大王タラシナカツヒコを失った倭国連合軍が熊襲平定の戦いを始める前にオキナガタラシヒメは出産のために戦線を離脱して本拠地の紀伊水門へ向かい、倭国連合軍は武内宿禰やその他の諸将らに率いられてまず熊襲の反乱軍を討って、それから全軍で対馬海峡を渡って任那に上陸し、そこで加羅連合の諸国の兵を合わせて、倭・加羅連合軍が洛東江方面から攻め入り、新羅は屈服して高句麗とは手を切って倭国と同盟を結ぶように強要され、その証に人質を取られることになったのです。これが西倭と東倭が合同して「倭国」を形成した最初であり、加羅諸国、そして新羅が倭国連合に参加するようになったきっかけであったのです。これがいわゆる「三韓征伐」と言われている355年に起きた事件の真相に近いのではないでしょうか。
その頃、オキナガタラシヒメは紀伊でタラシナカツヒコの子であるホムタを出産し、とりあえず漢城までの交易路の安全を回復した倭国軍はこの時はそれ以上深追いすることはなく引き返し、すぐに難波方面へ向かいました。大王の不審な死や、独断的な朝鮮への出兵、そしてオキナガタラシヒメの王子の出産などの情勢を受けて、大和王権内の東国重視グループの不満が高まり、カゴサカ王やオシクマ王を旗印にして東国の兵を挙げて反乱を起こしたからです。
この時、東国の兵はカゴサカ王やオシクマ王のほうにつき、西倭諸国や出雲なども含む西国の兵はオキナガタラシヒメの側につきました。これらを東軍と西軍と呼ぶならば、東軍は遊軍を播磨まで進出させて西軍を明石海峡で迎え撃とうとしましたが、西軍は迂回して鳴門海峡を渡り六甲山地に強固な防御線を築いて東軍の遊軍を釘付けにしてから紀伊に入りオキナガタラシヒメと合流し、そこから武内宿禰が東軍の本拠地の宇治を攻めて打ち破り勝敗は決しました。
こうして西軍が勝利したことによって事態が安定するということはなく、ここからしばらく混乱状態が続くことになります。また朝鮮半島の交易路の安定もまだ端緒についたばかりであり、ここから高句麗との戦いが始まるのです。こうした混沌とした状態の中、新しい精神的理念や政治的理念を持ったオキナガタラシヒメやホムタを代表とするような新興勢力が事態の打開を図っていこうとする時代、王権国家文明の形成期が始まるのです。
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