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日本史についての雑文その294 宗教改革
355年に東国重視派のカゴサカ王やオシクマ王を排除したオキナガタラシヒメですが、タラシナカツヒコ亡き後の大和王権の大王位を実質的に継ぐことになります。日本書紀ではオキナガタラシヒメは摂政であったという扱いになっていますが、摂政というものは幼君など統治能力の不足した君主を補佐する役目であり、オキナガタラシヒメの場合、390年に彼女が没した後に息子のホムタが即位していますから彼女の存命中の45年間も大王位は空位ということになり、これは通常の摂政とは違うといえます。
後世の「天皇」とは違い、この時代の「大王」というのは即位にあたって幾らか制約された約束事というのがあって、まず群臣の推戴というものを必要とし、そして首長霊継承の儀式を必要としたのです。しかもこの首長霊継承の儀式がまだこの時代においてはそれほど形骸化しておらず、それなりに厳密なものを要求されていたのです。それはつまり王権の首長霊というものは唯一のものであり、それは群臣の推戴を受けた唯一人の資格を有した人間にのみ継承され、その人間が死ぬまで首長霊はその人間の中に留まるというものでした。
タラシナカツヒコが亡くなった時は、その死は秘密にされていましたから、群臣による新王の推戴も首長霊継承儀式もありませんでした。カゴサカ王らを排除した翌年に正式に河内において古墳を作ってタラシナカツヒコの葬儀を行いましたが、この時点で息子のホムタはまだ赤ん坊でしたから、群臣たちもホムタを推戴するというわけにもいかず、仮に推戴されたとしてもホムタには首長霊継承儀式が行えませんから、大王の位を継ぐことは出来ませんでした。
そこで亡き大王の妻であり新大王となるべきホムタの母であるオキナガタラシヒメがひとまず群臣の推戴を受けて首長霊継承儀式も行い、首長霊をその体に繫ぎとめておいて、それからホムタが成長後に群臣の推戴を受けてオキナガタラシヒメから首長霊を譲り受けるということになったのでしょう。しかしこの時代の通念では首長霊はその宿主が死ぬまではその宿主の体内に留まり続けるわけですから、一旦こうしてオキナガタラシヒメの体内に首長霊を宿してしまった以上は、彼女が死ぬまでは首長霊継承儀式は行うことは出来ず、その間はホムタは即位することが出来ないということになるのです。
後世になって「天皇」という概念が成立して「譲位」が自由に出来るようになった以降はこのような約束事にこだわる必要性はほとんど無くなりますが、この時代はそういう約束事にこだわる時代であったのです。
オキナガタラシヒメが当時としては長命であったためにホムタの正式な即位が390年までずれ込み、45年間もの空位期間が生じてしまったのですが、この期間の後半部はおそらく実質的にはホムタが治世を担当していたのでしょう。なぜオキナガタラシヒメが首長霊の「つなぎ役」に徹して正式に大王を名乗らなかったのかというと、この時代は大王の位は「父から子へ」という継承が通念としてあり、王族であり王妃であり王母であったとはいえ、彼女はそうした継承の流れからは外れた人間であったので遠慮があったのであり、あくまで大王位が父タラシナカツヒコから息子ホムタに引き継がれる間の繋ぎとして振舞ったということなのでしょう。

ただ、この継承が当時としてはかなり変則的であったことは確かで、しかも根本的に最初のタラシナカツヒコの没後に1年以上も葬儀も行わず首長霊を放置していたという事情もあり、首長霊の継承が正確に行われたかどうか疑問が残ることにもなりました。大したことはないように思われるかもしれませんが、何せこのようなことは初めてのことであったので、当時の人々は動揺したことでしょう。
つまりタラシナカツヒコからオキナガタラシヒメ、オキナガタラシヒメからホムタへの首長霊継承には疑問符がつくということになり、オキナガタラシヒメやホムタの統治の正統性は磐石のものとはいえない状況で、むしろ脆弱であったといえます。
そういうことについてはオキナガタラシヒメも自覚的であったので、首長霊継承において足りない分を補填していこうという努力を治世中に継続的に行っていったのだと思われます。それは具体的にどういうことを行ったのかというと、首長霊に新たな神霊を追加していって強化していったのです。それもオキナガタラシヒメやホムタの正統性を強化するような方向性で戦略的に神霊の追加を行っていったのです。
オキナガタラシヒメの政治的功績といえば朝鮮半島に出兵して大陸との交易利権の足がかりをつけたことですが、その功績を強調し、今後の交易路の隆盛を当て込んで、この新たな交易路に関連する航海守護神たちを大和王権の首長霊に追加していき、それらの神霊をオキナガタラシヒメやホムタ自身が一体化したり継承したりしていきました。

こういうことが可能であったのは、オキナガタラシヒメがある種の特殊能力の持ち主であったからで、それは大和王権における首長霊祭祀の創始者であるミマキイリヒコと同じく、神霊とコミュニケーションをとる能力があったのです。いや、本当にそんな超能力の持ち主であったのかどうかはともかくとして、ミマキイリヒコにせよオキナガタラシヒメにせよ、少なくとも周囲にはそのような能力の持ち主であると認識されていたということのほうが重要で、オキナガタラシヒメが何らかの神霊と会話して新たに大和王権の守護神となる旨の神の意思を明らかにしたり、オキナガタラシヒメやホムタを正統として認めるという神意を伝えたとした場合、周囲の人々はそれに納得しがちになるのです。
まぁ単なる何処の馬の骨とも知れないような霊能力者がそのようなことを言ったとしても、それがどれほど真実であったとしても、人々は相手にもしなかったでしょう。しかしオキナガタラシヒメはれっきとした王族であり、亡き大王の妃であり、次代の大王の生母でもあり、実際に国政を執行している摂政でもあるのです。そういう身分の人物が神秘的な霊能力者でもあり、国家の守護神の祭祀に関する事項について託宣を下しているのですから、十分な説得力があったと考えていいでしょう。

まずオキナガタラシヒメが首長霊に付け加えたのは朝鮮半島南端の任那(金海)と北九州の宗像との間を結ぶ航路の守護神であった宗像三女神でした。この航路は西倭諸国の交易路の玄関口であった博多湾をスルーしているのがポイントで、朝鮮半島との交易において西倭諸国から大和王権が主導権を奪おうというオキナガタラシヒメの意志が込められていたのでした。
任那から宗像へ伸びてきた航路は、宗像から少し東へいくと関門海峡に至ります。関門海峡を越えて瀬戸内海に出て東進すれば大阪湾まで至り、そこから河内湾を経て大和川に入れば大和王権の本拠地に至ります。この関門海峡の下関に住吉神社があり、大阪湾には住吉大社があります。つまり瀬戸内海航路の守護神は住吉神なのですが、これはもともと博多湾で信仰されていた航海神であったものをオキナガタラシヒメが下関と大坂に分霊して瀬戸内海の航路の守護神としてのであり、そして同時に大和王権の首長霊にも付け加えたのです。
これは本来は博多の航海神であった神が瀬戸内海の航海神になったということになりますが、これと交換のような形で、瀬戸内海航路の特に西側の航路の守護神として古来から信仰されていた八幡神を分霊して博多の航海神としました。そしてこの八幡神も大和王権の首長霊に付け加え、このようにして大和王権と北九州の西倭諸国との間の祭祀の一体化を図っていったのです。

この八幡神がオキナガタラシヒメやホムタにとっては特に重要であったのであり、ホムタと八幡神は同一視されています。つまりホムタが八幡神という首長霊と一体化したのであり、八幡神という首長霊を継承したのだといえます。この八幡神という航海神はもともとは大王家の遠い先祖にあたるイワレヒコの一族が九州の宇佐で祀っていた神で、イワレヒコの子のカンヌナカワミミの代において大和の海人氏は九州の海人氏一族とは縁を切ったので宇佐の八幡神祭祀も大和の海人氏やその後身の大和王権では忘れられていたのですが、それをオキナガタラシヒメが大王家の古い祖霊として「再発見」したのです。
大和王権の首長霊の継承が不完全であったオキナガタラシヒメやホムタにとって、ミマキイリヒコよりも更に古い「真の始祖王」であるイワレヒコが祖霊として祀っていた「真の祖霊」を発見して、しかもホムタがその神霊を継承して一体化したことによって、ホムタはタラシナカツヒコはおろか初代大王のミマキイリヒコでさえも凌駕した霊的境地に達したことになり、首長霊継承の不完全さを払拭する効果があったのでした。
そういう狙いのもとに、八幡神という大王家の「祖霊」は「再発見」されたのであり、それが大和王権の首長霊に加えられ、王子であるホムタと一体化したのでした。つまり、イワレヒコにせよ八幡神にせよ、その重要性は4世紀後半にオキナガタラシヒメによって再発見されたのであって、それ以前は忘れられた存在であったのです。こうした霊的な処理を施すことが出来たのも、オキナガタラシヒメが人知を超えた霊的能力を保持していたからであり、少なくともそのような能力者であると周囲が信じていたからなのです。

オキナガタラシヒメは自らの王権の正統性がミマキイリヒコ以降の既存の大和王権の枠組みの中では弱体なものであるということを強く意識していたのでした。彼女の生家の息長氏は王族であるとはいってもミマキイリヒコの父のワカヤマトネコヒコオオヒヒの王子の子孫なのであり、息長氏の正統性を強調するためにも、王権の枠組みをミマキイリヒコ以前にまで遡って拡大させる必要があったのでした。そういう意味でもイワレヒコは重視されたのであり、既存の王権の枠組みを超越した究極の正統性をオキナガタラシヒメは手に入れて、ことあるごとにそれを錦の御旗としたのであろうと思われます。
そうしたことの表れの1つとして、オキナガタラシヒメは政務の場所を、ワカタラシヒコやタラシナカツヒコ時代には奈良盆地から外へ移動していたのですが、再び奈良盆地の東南部に戻し、しかも「真の初代」であるイワレヒコが都を置いたと伝えられる磐余の地に置いたのです。また、オキナガタラシヒメの没後に大王となったホムタはイワレヒコが即位したと伝えられる橿原の地を本拠地としました。これらはイワレヒコという伝説的な始祖王の権威を強調して自らの正統性の確保のために活用したということなのでしょう。

また、オキナガタラシヒメは他に、日本海航路の守護神である気比大神も大和王権の首長霊に付け加えて、これもまたホムタに継承させて、ホムタと一体化させています。日本海航路も朝鮮半島との交易路の重要なパーツであり、そこを押さえる守護神がホムタと一体化することで大和王権の首長霊に加わることによって、王権の首長霊が更にグレードアップすると同時に、日本海方面や北陸方面への統治の正統性をホムタや大王家が得ることにもなったのです。
このように、オキナガタラシヒメは従来の大和王権の首長霊に、対馬海峡航路、瀬戸内海航路、日本海航路などの守護神を合体させるという一種の宗教改革を行ったのであり、これによって大和王権の首長霊は従来の東倭地域の連合政権における土俗的な性格に加えて、西倭地域や日本海地域、そして朝鮮半島からシナ大陸まで繋がる大きな交易圏における交易神の性格を加えられることとなり、王権に大きな富をもたらす神となったのでした。そしてその交易による富こそが王権の正統性となっていったのです。
そしてその富を実際にもたらすのは朝鮮半島との交易路であり、それを開いたのはオキナガタラシヒメなのであり、維持しているのも摂政たるオキナガタラシヒメなのです。つまりこの宗教改革を経ることによって、王権の正統性と朝鮮半島交易は切り離せない関係となり、そしてそれはオキナガタラシヒメやその子ホムタとも不可分の関係となり、彼女たちの権威をますます高めていくのでした。
そうした宗教改革を355年以降の4世紀後半、特にその前半に、磐余の地においてオキナガタラシヒメは推し進めていったのであり、そうした果敢な宗教改革者というのが彼女の実像ではなかったかと思われます。
そしてその宗教改革と表裏一体で推し進められていったのが、実際に朝鮮半島との交易の実益を挙げていくために、南下を図る高句麗と対決して朝鮮半島における交易路を開いていくという作業でした。朝鮮半島におけるこの事業の進捗の具合が、磐余におけるオキナガタラシヒメの宗教改革の進捗に大きな影響を与えることになるのです。
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