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日本史についての雑文その295 倭国と高句麗
355年の「三韓征伐」以降、日本列島においてはオキナガタラシヒメによって大和王権の首長霊の組み換えという宗教改革が遂行され、それは土着の地域氏族共同体の連合であった「大和王権」から、それらを束ねる強大な王権を中心に据えた「倭国」への脱皮という政治改革も伴ったものでした。
この時代は部族国家文明の衰退期にあたり、王権国家文明の形成期にもあたりました。部族国家文明というのはシナ帝国との接触が親密になったことによって日本列島において生じた天子たるシナ皇帝が中心に君臨する華夷秩序の辺縁における氏族共同体の連合によって形成された文明形態であったのです。

ですから、4世紀前半にシナ帝国が崩壊した後、その影響が日本列島にも及んできた4世紀後半、中心の天子たるシナ皇帝を欠いた部族国家文明が衰退過程に入り、それに代わって倭人の氏族共同体の連合そのものにオリジナルの中心的存在を形成することを志向する王権国家文明が時代の主役として浮上してきて部族国家文明時代の産物である地域氏族共同体連合を束ねていくのは当然の流れだったといえるでしょう。
その倭人の氏族共同体の連合の中心的存在とは、大和王権の祭祀王であった大王だったのであり、それがこの4世紀後半には政治的にも強大化していき、5世紀初頭には「倭国の大王」となって東アジアの古代史の舞台に登場してくることになるのです。
その「倭国の大王」が政治的に強大化していく時代が4世紀後半であり、それを支えたのがオキナガタラシヒメの交易利権を絡めた宗教改革と、更にそれを支えた朝鮮半島における交易利権の確保であったのです。

しかし355年以降の当初は、倭国は朝鮮半島においてはシナ帝国時代の旧秩序の回復を目指していたのであり、むしろ4世紀後半において新しい秩序の創造に意欲的であったのは、倭国の敵であった高句麗のほうであったといえるでしょう。
高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼして占領した後は楽浪郡にいたシナ人商人たち、すなわち華僑たちを吸収してシナ文化を取り入れつつ、早くから高句麗を中心とした世界観を持つようになり、遼西や朝鮮半島への勢力拡大を図るようになりました。それは満州地方から朝鮮半島にかけての独自の秩序再編を目指すものであり、342年に前燕に敗れて朝鮮半島方面への進出がメインになってからは、明らかに朝鮮半島における独自の大帝国形成を志向するようになり、これは旧時代のシナ帝国的秩序からは完全に一線を画したものであったといえます。
どうして高句麗が早期にこのような考え方に至ったのかというと、それはおそらく前燕との抗争や交渉などを通じて、早くからシナ大陸の現状というものを肌をもって知ることが出来たからでしょう。つまり「早期のシナ帝国の復活などあり得ない」という感触を実感をもって得ていたのが高句麗をして独自の自国中心の世界観を形成させるようになった大きな要因であるといえるでしょう。
倭国も後にシナ大陸との交渉、いわゆる5世紀の「倭の五王」の外交といわれているものですが、そういうものを通してシナ大陸の状況を深く知るに及んで高句麗と同じ境地に至ることになるのですが、この4世紀後半においてはまだ倭国はシナ大陸との交渉が乏しいので、その実態を深くは理解しておらず、早期にシナ帝国が復活して旧来の華夷秩序を回復して旧来の交易の特約関係が回復されるというような幻想を抱いており、それを前提とした活動に終始していましたから、高句麗などは単なる山賊の類と見なしていたであろうと推測され、その本質は見えていなかったことでしょう。

高句麗は楽浪郡などの朝鮮半島の主要部分を押さえて日本列島との交易でシナ帝国に代わって主導権を握ろうとし、倭国はまずはそれを阻止して、今に復活するであろうシナ帝国との交易の窓口となる楽浪郡までの交易路の支配を回復しようとします。だから倭国と高句麗の方針は真っ向から対立することになり、対決は必至といえましょう。そして倭国がシナ帝国の復活、つまり華北から平壌までの陸上交易路を担当するシナ軍事力の復活を前提としたプランを持っているのに対して、高句麗はシナ帝国が復活しないことを前提としており、むしろシナ大陸の東北部においてそれに取って代わることを国家目標としている点においても、倭国と高句麗は真っ向から相反する立場に立っていたといえます。
つまり倭国と高句麗は朝鮮半島の争奪戦を演じることとなったのですが、高句麗は楽浪郡故地の平壌を拠点として更に朝鮮半島における交易路を更に南下しようとし、そうなると次に目指すべき地は帯方郡の故地である漢城となり、そこを押さえている百済が高句麗の当面の正面敵ということになります。
こうしてまず百済と高句麗の間で抗争が起きるようになりますが、百済を東方から牽制する朝鮮半島南東部の位置にあったのが新羅で、高句麗は半島東部を南下して新羅へ圧力を加えて、新羅を属国化して高句麗と新羅とで百済を挟撃しようとしました。
一方、倭国はまずは朝鮮半島南端部の加羅諸国に勢力を及ぼそうとしていましたから、その加羅諸国の北東にある新羅に親高句麗政権が出来るということは許容できず、そこで355年に倭国軍が電撃的に対馬海峡を渡って新羅を攻撃して王都を占領して、新羅王に倭国への服属を誓わせて高句麗と手を切らせるという事件が起きたのです。
これがオキナガタラシヒメによる「三韓征伐」として日本書紀に書かれている事件なのですが、実際にはオキナガタラシヒメが軍を率いていたわけでもなく、畿内の大和王権を中核とした倭国軍が初めて朝鮮半島へ出兵した画期的な事件ではありましたが、かなり突発的な事件であり、結局は新羅は倭国側についたわけではなく、すぐにまた高句麗側に寝返ってしまい、それをまた引き戻すために倭国が出兵し、新羅はそのたびに表向きは倭国に服従しながら、その裏では常に高句麗に通じているという状態が続きました。

倭国としても新羅により大きな圧力を継続的に加えるためにも、まずはその南方にある加羅諸国との同盟を強固なものにしていかなければいけないのであって、355年以降はまずは地道に加羅諸国を1つずつ調略していって、倭国の連合に加えていくことになりました。
まずは倭国と加羅諸国の間で友好関係が結ばれ交易が盛んになり、倭国と加羅諸国のそれぞれとの間で互いの交易都市に商人の駐在員を常駐させるようになりました。その多くは華僑であったのですが、加羅人や倭人も含まれていました。また新羅などの脅威から加羅諸国における交易路の安全を確保するために倭人の武将や兵士たちも朝鮮半島には送り込まれました。そういうわけで4世紀後半以降、多くの倭人が加羅諸国に住むようになったのであり、彼らが前方後円墳や翡翠製勾玉、土師器などの日本列島由来の遺物を後世に残すことになったのです。一方、加羅諸国から倭国のほうへ送られた駐在員たちが第一陣の帰化人となったのであり、彼らの多くは華僑でしたが、半島やシナ大陸由来の物産を日本列島にもたらしたのでした。
この時期に加羅諸国から倭国にもたらされた物産の代表的なものが鉄で、鉄器の加工は日本列島内で行われていましたが、鉄素材は良質の鉄鉱山のあった加羅地方に多くを依存していたようです。その鉄素材が鉄鋌と呼ばれる短冊型のもので、この大きさや形に一定の規格があることから、これはどうやら単なる鉄素材というだけではなく、商取引の場における一種の貨幣の代用品のようなものとして使われていたようです。
この鉄鋌が倭国に大量に運び込まれていたということは、倭国における商取引においても鉄鋌が貨幣のような役割で使われていたということであり、これは後世における宋銭や明銭のように外貨が基幹貨幣として流通していたような状態で、その外貨の輸入権や分配権を一手に握ったその時代時代の政権が経済的に大きな権力を握るようになったのと同じように、加羅諸国からの鉄鋌の輸入分配を独占的に管理した大和の大王権力が大きな権力を持つようになったのです。
この鉄利権こそがオキナガタラシヒメが目指した「朝鮮半島交易でもたらされる大きな富」そのものであったのであり、この大きな富を倭国にもたらす交易路を維持しているのは実質的にはオキナガタラシヒメの率いる大王権力であり、象徴的にはオキナガタラシヒメの奉ずる住吉神や八幡神のような航海神の霊力であったのですから、朝鮮半島との交易が盛んになり多くの倭国の人々がその恩恵を受けるようになればなるほど、オキナガタラシヒメの政治改革や宗教改革の正統性は増すという仕組みになっていたのです。

高句麗のほうでは、倭国が新羅に攻め込んだのと同じ355年に、既に臣従していた鮮卑系の前燕から征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王の称号を得ました。前燕は華北に乱立していた異民族王朝の1つで、この4世紀中頃にはその版図は華北の東半分に及んで最有力勢力となっており、前燕王はシナ皇帝を自称していました。高句麗はその自称シナ皇帝から楽浪郡の太守として公認されたわけで、しかも征東将軍ですからシナ世界の東の朝鮮半島方面の支配権も公認されたようなもので、これはシナ帝国に復活による特約関係の復活を目標とする倭国にとっては極めて不愉快な出来事であったといえるでしょう。
これによって、倭国は華北の異民族王朝はシナ皇帝を僭称するニセモノに過ぎないという見方をするようになりました。そのように見なさないことには、高句麗の朝鮮半島支配を認めることになってしまうからですが、実際そのような見方は見当外れというわけではなく、370年には前燕は新たに興ったチベット系の氐族の前秦によってあっけなく滅ぼされてしまい、高句麗は今度はその前秦に臣従して朝鮮半島における既得権を公認させることになりました。
とにかく高句麗は華北の異民族王朝を後ろ盾にして朝鮮半島を南下してきて百済と抗争を続け、新羅を属国化しました。百済は高句麗と新羅に挟撃されることを避けるために新羅とは和親に努め、なんとか新羅を懐柔しようとしましたが、新羅はまぁ今でいう北朝鮮の振り子外交とでも言いますか、高句麗と百済を両天秤にかけるような外交をしつつ、基本的には高句麗の軍事力を恐れて高句麗寄りの姿勢をとるというような感じでした。
倭国は加羅諸国との同盟関係を固めて新羅に圧力をかけるようになっていきましたが、新羅はこちらでも振り子外交を展開し、倭国と高句麗を両天秤にかけるようにしていました。それで業を煮やした倭国軍が何度か新羅を攻撃したりして小競り合いを繰り返していましたが、新羅は倭国に攻撃されれば倭国に臣従するポーズを示しますが、ほとぼりが醒めればすぐに裏切って高句麗側につくことを繰り返していました。
このような新羅の背信に手を焼いた者同士として、倭国と百済が加羅諸国の1つであった卓淳国の仲介によって同盟を結ぶようになりました。これによって朝鮮半島における倭国連合の範囲は半島南西部の百済領にまで広がるようになり、倭人の居住区は黄海沿岸にまで達するようになったのでした。

この倭国と百済の同盟の真価が試される時がやってきたのが369年のことで、高句麗軍が2万の大軍で百済に総攻撃をかけ、それに呼応して新羅も兵を挙げて百済を挟撃しようとし、加羅諸国の何国かも寝返って新羅につきました。この時、百済は倭国に支援を要請し、倭国と百済の連合軍は新羅を撃破し、加羅諸国を制圧しました。そして漢城の北でも倭国の支援を受けた百済軍は高句麗の本軍を打ち破り、その侵入を撃退したのです。この戦いによって倭国と百済の同盟は固いものとなり、倭国は加羅諸国の支配権を百済に承認されることになりました。この時の戦勝を記念して百済において七支刀が作られ、同盟の証として倭国に贈られることになりました。
そして、371年には今度は百済軍が高句麗領に攻め込み、平壌にまで侵攻し、この戦いで高句麗王が戦死し、これによって高句麗はしばらく国内の建て直しに没頭することになり、前秦から仏教を導入したり、儒教を基本に据えた政治改革を進めたりして文教政策を進めることになり、百済への攻勢は弱まりました。百済は漢江の北まで拠点を有するようになり、それらの地域を巡って百済と高句麗の間で小競り合いが継続することになりましたが決定的な戦いは行われず膠着状態となりました。
372年には百済が江南の亡命王朝である東晋に朝貢して鎮東将軍・領楽浪太守の称号を得ていますが、これは華北の異民族王朝の前秦と同盟する高句麗に対抗して、百済と倭国の連合は江南の東晋と同盟するという意思表示であったと見ていいでしょう。東晋こそはもともと倭王が天子たる中華として仰いでいた晋帝国の正統を継ぐ存在であり、倭国は華北の異民族王朝を正統とは認めていなかったのですから、この同盟の選択は当然といえるものでした。そしてこの東晋と百済の国交成立によって、百済を経由して倭国にも東晋からシナ大陸の文物などが伝えられるようになったようです。
王仁によって漢字と儒教が伝えられたとされるのは日本書紀ではホムタの時代とされており、ホムタは370年代の半ばくらいから政務を執るようになっていたと思われますので、おそらくこの王仁の故事は4世紀終盤の出来事だったのでしょう。ホムタが政治の表舞台に現れたこの頃には時代の変化はもう明らかになっており、朝鮮半島南部における倭国の交易圏もひとまず固まった状況となって一段落ついたところであったので、大陸や半島から鉄資源以外のプラスアルファの新知識やそれを伝える知識人なども入ってくるようになったのでしょう。そうした大陸からのヒトやモノの流れを掌握し倭国内での再分配を管理していた大王権力は、交易が盛んになればなるほど各地の首長に対して支配力を強大なものにしていき、ホムタが登場する頃にはその優位は決定的なものになったのだと思われます。

漢字については、華僑の絡んだ商取引の場では既に北九州では紀元前から共通の簡便な意思伝達手段として使用されていたと思われ、畿内においても3世紀には漢字は市場内で同様に使用されていたと思われます。ここで4世紀終盤に伝えられた漢字というのは、単なる市場内の簡便な符牒のようなものではなく、もっと学問的体系的な文法を伴った、漢字で文章を編んで文学的作品を表現したり、公的な記録を残したり公文書を作って行政の場で活用したりするような用法を伴ったものだったのでしょう。
儒教にしても単なる民間道徳として入ってきたわけではなく、統治階級の修めるべき学問として入ってきたのであり、それゆえ漢文的教養と不可分のものとして入ってきたのです。つまり漢字にしても儒教にしても、本場シナにおいてもそうであったように、統治階級の独占物として輸入されたのであり、統治の手段として使われるものであったのです。
それらを指南したのが朝鮮半島の百済や加羅から倭国に帰化してくるようになった華僑たちであり、倭国の統治階級の周囲にはブレーンとして華僑たちがつくようになり、帰化した華僑の諸氏族自体が統治階級の一角を担うようになっていきます。
こうして漢文が統治階級の共通のコミュニケーションツールとなっていくと、漢文は倭国の言語ではなくシナ語で読むようになっていますから、華僑も含めた様々な地方部族の集まった倭国の統治階級の間で円滑に意思の疎通を図るべき公用言語としてシナ語が使われるようになっていきました。但しシナ大陸で使われているシナ語そのままではなく、シナ語を簡略化して置き換え可能な倭国の言語「やまとことば」の語彙を混ぜた混合語で、言ってみればシナ語の倭国方言、倭製シナ語とでも言うべきものでした。語順や文法はだいたいシナ語のままですが、個々の漢字の読み方についてはかなり倭国独自の読み方をするような感じであったでしょう。ニュアンスとしては、大陸のシナ人がこの倭製シナ語を聞いても意味はほとんど通じないが、それでもなんとなく言いたいことは分かるという程度であったというところでしょうか。アメリカ人がドイツ語やフランス語を聞いた時のような感じに近いかもしれません。
おそらくそのような倭製シナ語が形成されていったのは5世紀いっぱいまでかかったと思われますが、その端緒がこの4世紀終盤の漢文の導入であったということです。このような倭製シナ語は今日では失われており、日本言語史においては無意味なものと思われがちですが、実際はこの「やまとことば」よりも語彙の豊富な倭製シナ語を「やまとことば」に翻訳し、「やまとことば」に足りない語彙の部分は新たな「やまとことば」の単語を造語することによって語彙を増やして、シナ語並みの豊富な語彙を有した日本列島独自の公用語である「日本語」が作られることになるのですから、倭製シナ語の日本言語史において果たした役割は非常に大きいといえるでしょう。また、この漢文文化が先行していたからこそ、日本語が「漢字」と「かな」を駆使した極めて奥行きの深い言語となることが可能になったのだともいえます。
この「日本語」形成作業がピンとこない人は、近代初期において欧米語の新しい語彙を和訳して、例えば「政治」や「経済」などのような日本語の語彙を新たに造語して増やしたり、欧米語をそのままカタカナ語にしたり、あるいは日本語的に活用して「ナイター」や「サボる」などのような和製欧米語を造語したりして近代日本語を形成した作業を思い起こせばイメージが掴み易いのではないでしょうか。
ちなみに、倭製シナ語がこのように統治階級間の実務的な公用語となっていった一方で、日本列島古来の「やまとことば」のほうは一般的な日常会話および祝詞などの祭祀の場での言語として使われていました。これらは文字を必要とせず口承で伝えられていました。日常会話はともかく祭祀言語が「やまとことば」であったのは、「やまとことば」にはその音自体に霊的なパワー、すなわち「言霊」が込められていると信じられていたからで、そういった言霊信仰から祭祀用の歌謡などの韻文は「やまとことば」で表現されるというパターンは維持され、そこから和歌が生まれてくるのです。

376年には前秦が華北を統一し、その勢いを駆って383年にはシナ統一を目指して江南の東晋に攻め込みますが、淝水の戦いで味方の裏切りによって大敗を喫し、これがきっかけで華北では前秦の支配体制が崩壊し、後涼・西秦・後秦・北魏・西燕・後燕などが相次いで独立して前秦は没落して394年には滅び、華北は再び群雄割拠の状況となりました。
一方、九死に一生を得た東晋は、後進地域であった江南の開拓がやっと実を結び始め、経済発展を遂げるようになっていき、前秦没落後の華北の混乱を利用して、中原奪回作戦を企図していくようになりますが、もともと建国時に皇帝一族の司馬氏がほとんど華北で殺害されていたため皇帝一族が弱体で、皇帝権力が弱く、その一方で晋時代から引き続き門閥貴族の勢力が強く政治が安定しませんでした。
高句麗は王権の後ろ盾となっていた前秦が崩壊したため、ますます内政を固めるようになっていき、対外的には守勢に立つようになっていき、朝鮮半島西部は現在の38度線あたりを境界として北が高句麗の勢力圏、南が倭国と百済の連合の勢力圏という小康状態となっていきました。そして半島東南部の新羅は倭国と高句麗に対して振り子外交を続けているという状況でした。
そうした中、倭国において390年にオキナガタラシヒメが没し、ホムタが大王として正式に即位しました。ホムタは更に朝鮮半島において積極的に攻勢に出ようとするようになり、その翌年に高句麗で即位した広開土王がそれに対応して拡大策をとるようになっていきます。こうして4世紀の後半は終わっていくのです。
この4世紀後半という時代は王権国家文明の形成期にあたり、朝鮮半島における交易利権およびそれに連動した大和王権そのものの危機の時代においてオキナガタラシヒメやホムタのような革新的な先駆者たちによって、半島利権という外来文明由来の力を利用して、社会体制の根本的変革が推し進められた時代であったといえます。この時代の後半になると先駆者たちと共に王権国家文明を築いていく新興勢力である帰化人などの新しい統治階級も形成されるようになっていって、この新しい文明が社会に定着してスタートを切ることになり、朝鮮半島の状況も少し落ち着いてひとまず危機を乗り切ることになるのです。
この時代に続く王権国家文明の確立期は、4世紀末から5世紀初頭にかけての朝鮮半島におけるホムタと広開土王の抗争の中から生じてくることになります。
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