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日本史についての雑文その296 河内王朝
390年に倭国でオキナガタラシヒメが没して息子のホムタが正式に大王として即位した頃は朝鮮半島においては高句麗との戦いを倭国の支援を受けた百済が有利に進めており、百済軍は平壌の南まで攻め込み高句麗は劣勢に追い込まれていました。
そうした中、391年に高句麗では広開土王が即位して、劣勢を跳ね返すべく拡大政策に転換します。これによって百済軍は敗戦を重ねて南へと押し戻されるようになってきました。それに対して倭国も朝鮮半島へのテコ入れを強めて、倭国軍を増派して百済への軍事指導を強め、百済の内政にも介入するようになっていきました。また、新羅への圧迫も強めて高句麗との連携を強く牽制するようになりました。

396年には高句麗軍は遂に漢江を越えて南進し、王都の漢城まで攻め込まれて百済は大敗を喫して高句麗に降伏してしまいますが、翌年にはすぐに倭国と結んで高句麗に対抗するようになり、新羅を攻撃したりします。ただ、それでも百済軍は劣勢を跳ね返すことが出来なかったので倭国軍が前面に出てくることになります。
399年には倭国軍が新羅領内に侵入し、新羅王が高句麗に救援要請をしたため、翌400年には高句麗は5万の大軍を新羅へ派遣して倭国軍と決戦を行い、敗れた倭国軍は加羅方面へ敗走し、高句麗軍はこれを朝鮮半島南端の任那まで追撃しました。
危うく朝鮮半島から追い出されそうになった倭国でしたが、404年には朝鮮半島南部において再び勢力を盛り返し、今度は逆に漢江を越えて平壌に向けて進撃するようになり、高句麗はなんとかこれを撃退して、407年には38度線のあたりで倭国と百済の連合軍を破りますが、結局このあたりで膠着状態に落ち着くことになります。どうやら半島北部の戦場では高句麗の騎馬軍に地の利があり、半島南部の戦場では倭国の水軍に地の利があるようでした。

この十数年に及ぶ朝鮮半島南部の戦乱の影響で、戦乱を避けて多くの韓人や華僑が日本列島へ移住してくるようになりました。この5世紀初頭の移住者が帰化人の流入の第一波のピークです。この後、帰化人の波には第二波、第三波がありますが、第二波のピークが5世紀終盤、第三波のピークが7世紀中盤で、これらは全て朝鮮半島における大規模な戦乱の起こった時期に重なっています。朝鮮半島における最初の大規模戦乱がこのホムタと広開土王の戦役であり、まさにその時期が日本列島への帰化人の第一波のピークと重なっているのです。
帰化人そのものは4世紀後半から既に存在していましたが、それらは商売の都合で移住した華僑や、倭国の要請で半島から派遣されたシナ系知識人などで、あくまでその影響は統治階級の中にのみとどまっていました。しかしこの5世紀初頭の大量の帰化人たちは一般的な生活者たちで、庶民レベルでの朝鮮半島の生活様式を持ち込み、それは倭国の人々の生活に大きな影響を与えたのでした。
しかし一般的生活者であったからといって彼らは難民としてバラバラに渡来したわけではなく、あくまで大王権力によって管理されて計画的に移住してきたのであり、一方的に保護してもらうという存在ではなく、それなりに職務を担わされて使役される立場であったのです。だから食い詰めた難民が逃げてきたというわけではなく、何らかの技能を持った有為の人材とその一族が計画的に移送されてきて王権の管理のもとで集住して大王に奉仕していたと解釈すべきでしょう。それらの代表格が記紀にホムタの時代に帰化したと記されている漢氏や秦氏などでしょう。
この5世紀初頭の帰化人の出身地は大部分が加羅地方であり、戦乱自体は百済や新羅にも及んでいたにも関わらず加羅からの帰化人が圧倒的に多いということは、加羅地方と倭国の関係が特に深いものであったからでしょう。それはもともと倭国からの移住者が最も多かったのが加羅地方であったから加羅の人々にとっては倭国は身近な存在であったということなのでしょう。そしてこのように加羅から倭国へ多くの人々が帰化して、倭国の大王のお膝元に多くの加羅出身者が暮らしてそれなりの世論を形成するという環境が、後に6世紀に加羅地方が新羅によって侵略された際に「任那復興論」が強く主張されるようになる背景となるのです。

この時期、帰化人によって導入された新しい技術は、窯業、鍛冶、馬事、土木灌漑などに関する新技術でした。窯業の新技術は緻密で堅牢な土器をもたらし液体の貯蔵を可能にし、また窯業の新技術によって竈の製作が可能になり、竈を用いた煮炊きという生活スタイルを日本列島に持ち込みました。また鍛冶の新技術は鉄の刃先のついた鍬や鋤、稲刈り鎌などの新型の鉄製農具をもたらしました。
そして、朝鮮半島で高句麗軍と戦った際にその強力ぶりを見せつけられた騎馬戦法を身につけないことには、朝鮮半島北部では高句麗軍には勝つことは出来ず、平壌を突破して楽浪郡を復興させることは不可能であるということを思い知らされ、帰化人を通して馬を輸入し、馬の育て方や馬術などについて学ぶことにし、この5世紀から日本列島で馬が飼われるようになったのです。日本書紀によればオオサザキ大王時代に新羅との戦で倭国軍が騎馬隊を運用して勝ったという記録があり、これは5世紀前半にあたるので、割と早期に実戦使用されたようです。
また、土木灌漑技術はこの時代には切実なニーズがありました。2世紀から始まった地球寒冷化の波は、この5世紀に入ると小氷期のレベルにまで差し掛かるようになり、気候不順の頻度は増して突発的な自然災害が多発し、大雨や洪水で河川が氾濫したり流路が変わったりすることが頻繁になりました。また、地球気温が低下すると海水面も低下し、今まで海面下であった土地が陸地になったのですが、それらの土地は極度の湿地帯で水害多発地帯であり、これを耕作地として使用するためには灌漑技術が不可欠でした。また、海水面が後退したことによって流通用の水路の断絶なども起こり、その回復のためには大規模土木事業も必要でした。
これらの新技術はその担い手である帰化人ともども、大王権力のもとに独占的に掌握され、海水面の低下によって河内湾が干潟と化しつつあり大規模土木灌漑事業のメッカとなりつつあった河内周辺に帰化人の集住地域が特に多く設けられるようになり、そこから大王の指示で各地の首長のもとへ帰化人が派遣されて技術指導にあたっていったのでした。
この頃、倭国の連合の範囲は西日本全域に加えて駿河、甲斐、信濃、上越より西の東日本地域にも及び、更に関東地方の各地にも倭国の王権と連合関係にある氏族共同体が勢力を有していました。これらの各地方の土着の首長階級同士には対立する利害関係から抗争をするもの同士もありましたが、大王権力は王権への服従を交換条件にして、外来文明を供与して地域の祭祀・政治・経済活動を委任する地方氏族を主体的に選択して地域における豪族同士の抗争を巧みに利用して、各地の首長と直接的な主従関係を築いて地方への支配権を強めていきました。これによって各地に筑紫氏、吉備氏、出雲氏、紀氏、上毛野氏などの有力地方豪族が育ってきて、倭国王権の連合政権を担う存在となっていくのです。
このようにして外来の新技術を独占的に管理分配することで大王は各地の首長に対する支配権を強めていったのですが、結局これは一時的なものに過ぎず、一旦各地に根付いた新技術は各地方で自律的に発展するのであり、大王側の優位は最初に新技術を下賜する初期だけのことであり、その後各地で自律的発展をするようになれば各地の豪族に対して大王権力の優位性は失われるのです。つまりこのような5世紀的な手法によっては大王はある程度は隔絶した地位となることは出来ますが、連合政権の盟主的な地位からの脱却は根本的に難しいのであり、根本的に隔絶した王権を志向する場合、何か別の手法が必要になってくるのです。それは6世紀の政治テーマとなってくるのです。

5世紀になって海水面の低下によって新たに陸地化して土木灌漑事業のために帰化人の集住地域となった河内は新たな王権の根拠地として発展するようになり、また、河内湾が使用困難になったために大和地方の外港的機能が河内湾沿岸からより海側の大坂湾沿岸に移るようになり、それに伴って倭国の海都が内陸部から河内平野や難波津に前進してくるようになりました。
こうして河内は5世紀初頭には重要拠点となり、奈良盆地北部の佐紀と並んで河内平野の古市や百舌鳥にも巨大な前方後円墳が作られるようにもなっていきました。411年にホムタが没した後、大王の後継でトラブルが起きた際に、宇治を拠点としたウジノワキイラツコと河内を拠点としたオオサザキとが一時期並立し、結局、河内のオオサザキが大王として即位してホムタを河内の地に巨大な前方後円墳を作って葬ったというのも、最終的には5世紀前半には王権の中心地は河内に移ったということを表しています。
そして朝鮮半島との交易が重視されて河内へ王権の中心地が移るにつれて、この河内平野と奈良盆地東南部の大和地方とを結ぶ中間点にあり、南海交易路の玄関口である紀伊水門への奈良盆地からの出口にあたる葛城地方に勢力を有していた葛城氏の勢力が増すようになり、大王家の外戚として勢威を振るうようになっていきました。
この5世紀の時代を一般に河内王朝の時代といいますが、常に河内に王都があったというわけでもありませんし、河内の土着の勢力が新たに王権を建てたわけでもありません。大和にあった王権が河内平野にも進出してきて河内を本拠地として活動した時期が多かった時代というほどの意味だと考えればいいでしょう。

こうして河内の難波宮でオオサザキ大王が政務を執る時代となったのですが、この時代は先代のホムタ大王の時代が朝鮮半島で積極政策をとった反動で民力休養に努めて内治の充実を図った時代であったといえます。
朝鮮半島においては結局は倭国は高句麗を打倒して楽浪郡を回復することは当面は無理であるという現実に突き当たり、朝鮮半島南部の交易拠点を固めることを重視する守勢戦略をとることになり、高句麗のほうでも413年に広開土王が夭折してしばらく動きが止まることとなり膠着状態に入ったこともあって、オオサザキの国内優先政策はスムーズに進んだようです。
実際オオサザキが大王位を継いだ当初は長年続いた戦のせいで倭国の民力は相当疲弊していたようで、そのあたりは日本書紀に「大王が高殿に登って望見したところ、炊事をする煙が見えなかった」というエピソードとして記されています。オオサザキはそれを民力の疲弊の表れと見てとって3年間の税の免除を行い民力の回復に努め、その間王室は倹約に努めたのです。そして3年経って民力は回復し、人民たちは大王に感謝し自ら進んで王宮の修築に馳せ参じたというお話が日本書紀に書いてあります。
この時オオサザキが言ったとされる言葉が「天が君を立てるのは百姓のためである。それで君たるものは百姓をもって本とする。こういうわけで古の聖王は1人が飢え寒さに凍えると反省して我が身を責めた。いま百姓が貧しければとりもなおさず朕が貧しい。百姓が富めばすなわち朕が富んでいる。百姓が富んで朕が貧しいというのは未だあったことはないのだ」というものであり、これをもってオオサザキは後世が規範とすべき善政の見本とされるようになったのです。
これは儒教の理想主義の教えの影響を受けた発言であり、父ホムタの導入した儒教を息子オオサザキが自分なりに解釈して身につけていたことを示しています。ただ、儒教の本家のシナ大陸ではこのような善政はあくまで理想世界の出来事であり、現実には百姓を酷使して贅沢を貪る為政者が普通であったのですが、日本列島においてはオオサザキ型の政治哲学が実際に目標とされて実践されていったのでした。
もちろん中には悪政を欲しいままにした為政者もおりましたが、シナや西洋などに比べれば日本の為政者は質素を基本としており、また人民に課される租税なども極端に過酷なものでもなかったのです。少なくともそのような政治がお題目や建前論ではなく、実際に現実的に目標とされたのであり、特にその傾向は天皇家において顕著であったのです。
後世の為政者がその質素倹約イデオロギーの見本として仰いだのがこのオオサザキのエピソードであったのであり、これだけ後世の為政者たちに現実的な影響を及ぼしているということは、このオオサザキのエピソードが理想を謳っただけの御伽噺なのではなく、あくまで実際に起こったことなのだということの証拠ではないかと思います。
いや、この炊煙の逸話そのものは創作の部分がかなり含まれているとしても、少なくともオオサザキが「天が君を立てるのは百姓のため」云々という信条を語り、その信条を実践するような政治を実際に行っていたことは事実ではないかと思うのです。実際、日本書紀ではこの炊煙のエピソード以降も税の徴収が復活した後の記事でも、その多くは治水や灌漑、土木作業に関するものが多く、民から集めた税は大王の贅沢に使われることはなく、ひたすら民政に還元されています。
このような考え方が天皇家の伝統的な「民草を慈しむ」という姿勢へと発展し、天皇と国民との長い年月にわたる絆を育んでいくことになるのです。その端緒となったのがオオサザキ大王のこの儒教の理想主義の実践にあったのですが、導入されたばかりの儒教の理想主義の教えからこのような境地へと一気に至ることが出来たのは、そもそも日本列島における王権というものが「君たるものは百姓をもって本とする」という言葉の通り、天命などという抽象的なものを根拠とするものではなく、伝統的土着的な地域共同体の中から生まれ育ってきたものであったからであり、オオサザキ以前からずっと「百姓のため」の政治を旨としてきた日本列島の王権の既存イデオロギーを、儒教の言説を借用して初めて言葉にして表現したのがオオサザキであったのかもしれません。

オオサザキは454年に没するまで大王として政務を執りますが、その治世はおおむね穏やかなものであったようです。この5世紀前半は王権国家文明の確立期に相当し、新しくスタートした王権国家文明の体制を磐石なものに整備するために、強力な推進力で次々に施策を打ち出して創業が行われる時代です。
この時代の推進者であるオオサザキをはじめとする勢力は、朝鮮半島の動乱などに象徴される前の時代の混乱を収めて新しい文明を安定させていくために帰化人などのもたらす新技術や儒教などの統治イデオロギー、そして漢字や倭製シナ語など、外来文明を有効活用して大王による各地や各勢力に対する支配力を高めて時代の主導権を握って時代を安定させていきます。そうして420年代ぐらいには新しい王権国家文明はその収穫を享受して本格的に定着していき、この時代の終盤の5世紀中頃には次の時代の成長に向けての準備段階に入ることが出来るようになるのです。
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