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日本史についての雑文その297 倭の五王
391年から407年まで続いた朝鮮半島における広開土王との戦いの結果、倭国は朝鮮半島北部における高句麗の勢力を破ることの困難を認識することになり、当面は朝鮮半島南部の加羅・百済・新羅に対する影響力を保持しつつ、高句麗とも交易関係を結びつつ、大陸から文物を得るために百済を窓口として東晋との交易も進めました。
その東晋では門閥貴族の打倒や民衆反乱の鎮圧などで勢力を拡大した軍人の桓玄が国政の実権を握るようになり、403年に東晋の皇帝から帝位を簒奪して楚という国を建てましたが、翌404年に劉裕という軍人が桓玄打倒のクーデターを起こして挙兵し、桓玄を殺して東晋の皇帝を復位させて国政の実権を握りました。

この劉裕が410年から北伐を開始したのです。北伐とはシナ全土統一のために華北の異民族王朝を討伐するための戦いということであり、華北はこの頃は北魏、北燕、南燕、後秦、夏、西涼、西秦、南涼、北涼などが群雄割拠しており、そうした分裂状態に付け込んだ攻勢であったといえます。そして、まず劉裕は山東半島を支配していた南燕を攻めてこれを410年に滅ぼし、東晋は黄海を挟んで朝鮮半島のすぐ西にまで領土を拡大することになったのです。
さて高句麗は華北の政治勢力とは巧みに外交関係を結んでいたので、このように東晋が華北に勢力を伸ばしてきたことから、東晋にも使節を送って外交関係を結ぼうとしました。しかし東晋はかつてシナ全土を支配していた晋帝国の直系王朝で、朝鮮半島南部においては「倭」の朝貢を受けていたという伝統がありますから、高句麗に倭の動向について尋ねることになり、これに対して高句麗は倭国が高句麗の従属国であるかのように虚偽の報告を行い、413年には先だっての戦役で捕らえていた倭国の捕虜を外交使節に偽装して、高句麗と倭国が一緒に東晋に朝貢したという形にしました。

417年には劉裕は後秦も滅ぼして、洛陽や長安も東晋の領土に回復したのですが、劉裕の一連の北伐は実は東晋のための愛国的行動というわけではなく、自分の勢力拡大と人気取りのためのものであったのであり、418年には劉裕は東晋の皇帝を殺害し、代わりに擁立した傀儡皇帝から420年に皇位の禅譲を受けて、宋王朝を開き自ら皇帝に即位しました。
高句麗に偽使節まででっち上げられて歯噛みしていた倭国のオオサザキは、この宋の建国という機会をとらえて421年に今度は本物の倭国の使節を建国の祝賀がてら送ることにしました。勝手に倭国が高句麗の属国扱いにされたままでは堪らないわけですし、当面は朝鮮半島で積極的な軍事行動をとらない方針のオオサザキとしては、山東半島まで勢力を伸ばした新興の大国の宋を動かして高句麗を討ってもらうという狙いもありました。宋は倭国が正統と認めない華北の異民族王朝ではなく、晋帝国や東晋の後身といえる江南王朝でしたから、朝貢することに抵抗感もありませんでした。
この宋との外交関係は倭国にとっては交易を求めてのものではありませんでした。交易自体は既に4世紀後半から百済を通して江南由来のシナ大陸の文物は入ってきていたからです。別に倭国が宋に朝貢しなくても交易自体は百済経由で十分に行うことは出来ました。
では何故421年に倭国は宋に朝貢したのかですが、まずきっかけは413年の高句麗による偽倭国使節によって江南王朝にもたらされた誤った倭国情報の是正のためでしょう。ただ、それをきっかけとしつつ、更に倭国としてこの朝貢に込めた狙いは、宋に高句麗の非道を訴えて宋を動かして高句麗を討伐させ、それによって楽浪郡を復活させ、そこを舞台に宋と交易を行うことであり、つまりシナ帝国の旧秩序の復活の夢を宋に賭けたのです。

この421年の朝貢が宋の史書では倭王讃の朝貢として記されています。讃はオオサザキのことなのでしょう。この時オオサザキは倭国王の爵位を受けています。つまり倭国の統治権を宋王朝に公認されたということです。しかしオオサザキは実質的に倭国の支配者であったのでこのような爵位は倭国にとっては大して価値は無く、オオサザキはあくまで宋を動かして華北を制圧して高句麗を討たせることに外交努力を傾けました。
宋においては422年に初代皇帝の劉裕(武帝)が没し、短命に終わった二代皇帝を経て424年に文帝が即位し、宋は全盛時代を迎えることになり、この時代に倭国王のオオサザキも425年、430年とたびたび朝貢し宋に外交攻勢をかけることになります。しかし華北では425年以降、鮮卑系の北魏が勢力を増して華北統一を図るようになり、宋ともしばしば争うようになったのですが、431年に宋と北魏は和睦して平和共存を図るようになってしまいました。つまり宋は華北平定を諦めてしまったのです。あるいは、初代劉裕と同じように、もともとシナ統一などは本気で目指しておらず単なる人気取りのためにやっていたのかもしれません。
こうした状況を見て倭国王のオオサザキは失望したことでしょうけれど、ここで宋との外交においての目標を転換し、朝鮮半島南部における倭国の支配権を宋皇帝に公認させ、それを威光にして百済や新羅や加羅諸国に対する倭国の外交的立場を強化することに利用しようとするようになります。
それで438年に倭王珍が宋に遣使朝貢して、使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と自称し、その正式な任命を宋王朝に対して要求することになるのです。これは要するに、倭国における民政権と軍政権、そして朝鮮半島南部全域における軍政権の公認を求めたということになります。しかしこれに対する宋王朝の返答は、倭王珍を安東将軍と倭国王に任じるというものであり、将軍号は単に武官の官位の高低を表すものであり、あまり実質的には意味の無いもので、しかも任じられたのは珍の求めた「安東大将軍」という称号よりも1ランク下の「安東将軍」であり、珍の要求は十分に満たされてはいません。そして「倭国王」というのは倭国における民政権の掌握者という意味であり、珍の求めた軍政権に関する要求、特に朝鮮半島南部におけるものは全く無視されたのです。
しかしそれでも倭国側は執拗に上記の要求をし続けたようで、443年には倭王済が再び遣使朝貢して安東将軍と倭国王に任じられ、451年には倭王済がとうとう安東将軍と倭国王に加えて使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事に任じられたのです。
ちなみに、ここで倭国側の代表が「讃」からその弟の「珍」に変わり、更に「済」に変わっています。日本書紀の年代を二倍暦を修正したものではオオサザキ(讃)の治世は411年?454年で、この438年、443年、451年の時点ではまだオオサザキ(讃)が大王なのですが、倭国の大王は祭祀王がその本質の姿で終身職であったので、実際の政務や外交に関しては近親の王族が執り行うことも多かったと思われ、シナの史書にはそういった実務的な摂政が「王」という扱いで記載されることもあったのではないかと思われ、またシナの史書では異国の王族の続柄などについては結構いい加減な記述もあったであろうとも思われ、そういうことを踏まえて「珍」と「済」はそれぞれオオサザキの子であるイザホワケ、ミツハワケあたりではないかと思われます。

オオサザキは454年に没し、その没後に王権の継承を巡って内乱状態が生じ、それが収まった後、454年から457年にかけてイザホワケが大王を務め、イザホワケ没後は457年から459年にかけて弟のミツハワケが大王を務めましたが、459年にミツハワケが没した後に大王を継いだ弟のオアサヅマワクゴノスクネの治世の初期においても「氏姓の乱れ」があり「上下あい争う」状態にあり、その解決を図ったと日本書紀に記載されており、どうやらオオサザキの治世の末期からオアサヅマワクゴノスクネの治世の初期にかけて、440年代から460年代にかけて、5世紀前半の大王権力による地方首長同士の勢力争いへの介入が度を越して、王権内の派閥が地方豪族を巻き込んで混乱状態を生み出したようで、オアサヅマワクゴノスクネはその収拾に追われることになり、これ以降、大王権力による地方の争いの助長のような行為は控えられるようになり、オアサヅマワクゴノスクネの時代は480年まで続き、その間、平穏な時代が続くことになったのです。
この短期間の混乱状態を収拾した後の安定した5世紀後半の時代は、王権国家文明の修正期に相当し、穏健な方法での新文明の普及と安定が図られ、そしてその上での安定成長が達成される時代です。特にこのオアサヅマワクゴノスクネの治世に相当するこの時代の前半においては、第一波の帰化人のもたらした新技術や新知識、新しいイデオロギーなどが倭国の社会に浸透していくのですが、それはオオサザキのところで見たような部族国家文明時代以前からの文明のエッセンスを取り込んでいったからであり、オオサザキの言っていたような「民草のための政治」というイデオロギーが多くの人に共有されたのがこの時代であったのでしょう。ただそれはあくまで儒教的な体裁で受容されていたのだと思われます。
つまり、あくまでこの時代はシナ帝国中心の華夷秩序の辺境としての倭国の繁栄であったのであり、実質的にはシナ帝国など機能してはいないのですが、どうしてもまだ建前として旧秩序が消え去っていない時代なのであり、実質的に人々が求めているのが「民草のための政治」でありながらも、その体裁は儒教的な形式論の体裁をとらねばならない時代であったのです。それが広く受け入れられているのはその実質的な部分のおかげなのですが、どうしても体裁の部分が強調される時代であったのだといえるでしょう。
確かにそれで大王権力は広く受け入れられ、強大なものになっていったのですが、それは形式的なイデオロギー偏重で退廃し暴走する危険も抱えたものであったのであり、実際、この時代の後半において大王権力はやや退廃暴走して自壊していくことになるのです。そのようになるのも、倭国の実態と建前との乖離が大きくなっていったからであり、建前というのが空虚になりつつあったシナ帝国中心の華夷秩序という観念であったのです。このような退廃暴走というのがそもそもシナ特有のものであり、要するに倭国がシナ化しつつあった時代であるといえます。

この空虚な華夷秩序という観念のもとで大きな成果を上げていたのは外交面でも同様であり、451年の朝貢時にとうとう倭国は朝鮮半島南部における軍政権をも宋に認めさせることに成功したのです。しかしこれも実際に高句麗の南進を阻止して朝鮮半島南部を防衛しているのは倭国とその同盟軍の軍事力なのであり、宋によるお墨付きなど実質的にはほとんど効力のあるものではなかったのです。そうしたリアルな現場における認識と建前論との乖離は大きくなっていったのでした。
そしてまた、この宋によるお墨付き自体が実は内容空虚なもので、これはよく見れば百済における倭国の軍政権を認めないものとなっており、百済こそが高句麗による攻勢を防ぐ最重要拠点であり、ここに関する軍政権を欠いた官位など、倭国にとっては無意味なものでした。そういうわけでこのオアサヅマワクゴノスクネの時代にも宋への遣使朝貢は続けられ、百済における軍政権の付与をしつこく宋に求める交渉が繰り返されたと思われます。
460年にも倭国の遣使朝貢の記事が宋の史書にはあり、462年には倭国王の世子の興を安東将軍に任じるという記事があります。この「興」とはオアサヅマワクゴノスクネの子であるアナホのことでしょう。そして477年にも倭国王の遣使朝貢の記事があります。この間、結局倭国に対して百済における軍政権の付与は行われていません。宋にしてみれば百済もまた朝貢国なので、そこにおける軍政権を倭国王に与えるわけにはいかなかったのでしょう。

しかしこの間に朝鮮半島やシナ大陸の情勢は大きく変化しており、まず5世紀の後半になると新羅が高句麗からの自立を図るようになり、高句麗とも争うようになり、そのため百済と同盟するようになりました。倭国と新羅との関係は相変わらず険悪でしたが、倭国と百済との同盟は強固であったので、以前よりは倭国が新羅をコントロールしやすくなったといえます。
そして475年には高句麗が百済を攻めて首都の漢城を陥落させ、百済はここで一旦滅亡してしまいますが、倭国にとって百済は高句麗への防波堤としてもシナ大陸交易への窓口としても重要であったので、加羅諸国の西部地域までも編入させて再興を支援し、百済は南方の熊津を首都として倭国の助力で再興することになりました。これによって倭国の百済に対する影響力は上昇し、また百済はしばらく国力が低下することになったので、百済は倭国の衛星国のようになりました。
またシナ大陸では439年に北魏が華北を統一して、北魏が北朝、宋が南朝の南北朝時代に入り、450年に北魏は大軍を発して南征に乗り出し宋に攻め込み、宋は大敗して混乱を極め、北魏は結局引き返していったのですが、この後、宋は衰退の道を転がり落ちていくことになり、長江以北の領土をじわじわと北魏に侵食されていくようになります。そうして472年までには宋は山東半島の領土もすっかり北魏に奪われてしまい、朝鮮半島に関する実質的な影響力をほぼ失ってしまいました。

こうして倭国は実質的に朝鮮半島南部をその勢力下に収めるようになり、片や宋は実質的に朝鮮半島の状況に口を挟む資格を失っていたのですが、そうした現実と、倭国にあくまで百済の軍政権を認めない宋の建前論との間の乖離は大きくなっていき、それが478年の倭王武が宋へ出した上表文の中で苛立ちとなって現れることになるのです。
この倭王「武」とは、おそらくオアサヅマワクゴノスクネ大王の子であるオオハツセノワカタケのことであろうと思われ、この上表文の中で倭王武は自らを使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と自称し、その正式な任命を宋に求めています。つまり、あくまで百済における軍政権の公認を求め、その官位を得ることが出来れば今後も宋皇帝に忠節を尽くすことが出来ると述べており、これは言い換えると「希望の官位が得られなければもう忠節を尽くすことは出来なくなりますよ」というニュアンスであり、国交断絶の最後通告といってもいいものでした。
実際はこの頃の宋はもう滅亡寸前の混乱の渦中にあったので、この上表文がちゃんと吟味されたのか定かではありませんが、結局この倭王武の希望は容れられず百済の軍政権を除いた以前と同様の官位が下されただけでした。そしてその翌年の479年に宋は滅び江南の南朝の後継として斉が興りましたが、倭国は建国祝賀の使節も送らず、その後、シナ大陸へ朝貢することはありませんでした。
これは朝鮮半島における状況変化と倭国の影響力の増大、そしてシナ大陸の状況を理解することによって晋帝国時代のような旧秩序の回復は望めないという現実を認識したことによって、また、シナ大陸との交易や文物の流入ならば百済経由で南朝の文物が入ってくるルートは確保できているということからも、わざわざシナに朝貢して外交関係を築くことに意味を見出さなくなったからだといえるでしょう。
こうしてシナ帝国を中心とした華夷秩序という世界観からの脱却が図られるようになり、代わって倭国を中心として東の蝦夷、南の隼人、西北の朝鮮半島を辺境と見なす独自の「天下」概念が生まれてくることになるのです。
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