KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その298 治天下大王
480年にオアサヅマワクゴノスクネ大王が没し、その後を息子のアナホ(倭王興)が継ぎましたが、その王位継承の際にも兄弟間で跡目争いが起きており、しかもそうやって即位したアナホ大王も482年には王族間の争いで暗殺され、大王暗殺後の混乱の中で外戚の葛城氏やその系列の他の王族を次々と滅ぼして大王の位を継いだのがアナホの弟のオオハツセノワカタケ(倭王武)でした。
そのオオハツセノワカタケ大王も即位後、大きな大王権力を振るうようになり、外戚の葛城氏を滅ぼした後は新たな外戚として平群氏を据え、その平群氏や他の王族や豪族を押さえつけるために各地の地方豪族から兵員を差し出させて大王の親衛隊とし、自身に権力を集中させて強権的かつ独裁的な権力を振るいました。そして播磨、丹波、吉備、伊勢などの大王家と拮抗した勢力を持っていた地方豪族などを討伐して力を削いでいったりもしました。こういったオオハツセノワカタケ大王は「有徳の大王」だと人々から称されていたと日本書紀には記されています。
5世紀の後半になってから大王の権力が大きくなるに伴って王位継承争いや地方での争いなどが目につくようになり、一時期平穏になっていたものの、この王権国家文明の修正期の末期になってきて、それらの傾向はまた顕著になってきたようです。そして血塗られた権力闘争を勝ち抜いて王位に就き、独裁権力を振るい臣下を圧迫する大王が「有徳」であると尊敬される状況です。これではまるで倭国がシナ帝国の政治状況と同じようになってきたようです。
それというのも当たり前の話で、オオサザキの時代、つまり王権国家文明の確立期に新しい文明の推進力として採用された外来価値観の主要な1つがシナ帝国由来の儒教であったのであり、儒教こそがシナ帝国の政治の根幹なのであり、儒教を文明の推進力とした王権国家文明はシナ帝国の文明に類似したものになっていくのは当然であったのです。
シナ帝国においてはだいたい初期皇帝の治世は比較的まともな政治が行われますが、やがて皇帝独裁体制の弊害が現れて、権力闘争が激しくなり政治は不安定化し、短命な皇帝や暗愚な皇帝が続いて帝国は衰退していくパターンが繰り返されますが、シナ帝国の指導原理である儒教を文明の推進力とした倭国の王権国家文明確立期の5世紀前半から5世紀後半の王権国家文明の修正期に入ると大王権力が強くなる一方で、そうした弊害が生じてくるようになり、5世紀末期の修正期末期、オオハツセノワカタケ時代になると繁栄の中で退廃が目立ってくるようになりました。
オオハツセノワカタケはシナ皇帝さながらの強大な権力を振るいながら、強圧的かつ酷薄な政治を行い臣下を圧迫しました。こういう君主がシナにおいては「有徳の君主」であるということになるのです。しかしこれは全く日本的ではなく、倭国はまるでシナ帝国になってしまったかのような状況であったといえます。

この後、オオハツセノワカタケ大王は494年に自分の死後の後継争いに心を痛めながら没し、後継争いの末に息子のシラカ王子が大王位を継ぎましたが短命に終わり、後継が無いので外戚の平群氏がオオハツセノワカタケの滅ぼした王族でイザホワケの子のイチベノオシワケの残した息子を擁立してヲケ大王、オケ大王の兄弟が相次いで王位を継ぎましたが、いずれも短命で実権を失い、オケ大王が502年に没するとその子のオハツセノワカサザキが若くして大王になりましたが、これが暗愚な大王で、専横の目立っていた外戚の平郡氏を滅ぼしましたが、暴虐な行いが目立ち政治は乱れ、結局、跡継ぎの男子の無いまま506年に亡くなってしまいました。こうして大王家の直系男子の血統は絶えてしまったのです。
こうして見てみると、まさに5世紀末の倭国はシナ帝国の衰退のパターンそのものの退廃の道を歩んでいったのだといえます。そうした「終わりの始まり」の時代がオオハツセノワカタケ大王の独裁の時代であったのだといえます。

しかしその一方で、このオオハツセノワカタケ大王の時代はシナ帝国を中心とした華夷秩序から離れて独自の天下意識の成立した時代でもあり、シナ世界から離れた倭国独自の世界観が生まれた時代でもあるのです。これもまた修正期末期の特有の現象であり、この王権国家文明の停滞に対応していくために、王権国家文明の中に取り込まれて消化吸収されていた部族国家文明の残滓のエッセンスが水面下で化学反応を起こしていき、王権国家文明を伝統的価値観に根ざしたものに変えていくのです。
消え去ろうとする部族国家文明の残滓のエッセンスとは何かというと、それは部族国家文明の成果が完成結実した全盛期の姿を参考にすれば見えてくるのであり、部族国家文明の全盛期はその「転の部」の末期、つまり爛熟期になりますから、オオタラシヒコ、ヤマトタケル、ワカタラシヒコあたりの時代にあたります。
このあたりの時代に由来するエッセンスとは、すなわち大和王権がシナ大陸や朝鮮半島の勢力と関わりなく全く自立して存在している状態であり、「自立した列島の王権」という伝統的価値観であろうと思われます。この伝統的価値観のエッセンスが、王権国家文明の外来価値観である儒教的な華夷秩序と化学反応を起こして新たに生み出された価値観が、倭国を中華として周辺に幾つかの辺境を配した独自の天下世界であり、この新しい「天下思想」という世界観から全く新しい別の文明、すなわち「律令国家文明」が生まれてくることになるのです。
もちろん、この「天下思想」には律令の要素は全く含まれておらず、それどころか全くまだ中身は空っぽの状態なのですが、この5世紀末に王権国家文明の外来価値観に部族国家文明のエッセンスを加えて生まれた「天下思想」が6世紀初頭に黎明期が始まる「律令国家文明」を生み出す羊水のような役割を果たすのです。それは、ちょうど、2世紀末に部族国家文明の外来価値観に原始国家文明のエッセンスを加えて生まれた「首長霊信仰」が3世紀初頭に黎明期を迎えた「王権国家文明」を生み出す羊水となったのと同様のことだったといえます。

このようなオオハツセノワカタケ時代に生み出された日本独自の天下世界の思想の重要性は、「日本」という国家の来歴を明らかにするための歴史書である「日本書紀」を7世紀末に編纂した人達には強く認識されていたようで、日本書紀はその文体などを検証してみた結果、どうやらこのオオハツセノワカタケ大王の治世の部分から書き始められたようです。つまり日本書紀編纂者にとっては「日本」というシナ帝国を中心とした華夷秩序とは別個の独自の世界観をもった国家の始原はオオハツセノワカタケの時代にあるのだという認識であったということになります。
言ってみれば日本書紀というのは6世紀に黎明期を迎えた律令国家文明の時代について書かれた歴史書ということになり、その内容は律令国家文明を生み出す羊水となった「天下思想」の生まれたオオハツセノワカタケ時代から書き出される予定であったということになります。
一方、「古事記」という書物は律令国家文明の生まれる以前の王権国家文明以前の時代について書かれた書物で、古事記の物語部分の内容はオオハツセノワカタケに関するエピソードで終わっています。日本書紀には結局、編纂方針の変更でオオハツセノワカタケより前の歴史も記載されることになりましたが、その追加部分の内容はほとんど「原・古事記」からの流用で、古事記と内容はほぼ重複しています。しかしオオハツセノワカタケの部分だけは日本書紀と古事記とで記事の重複はあまり無く、日本書紀のオオハツセノワカタケの部分は最初から古事記とは別にオリジナルの内容が意気込んで書かれたことが分かります。それは当初は日本書紀の冒頭を飾る重要な部分であったのでしょう。

まぁとにかく、7世紀の歴史書編纂者にとってはオオハツセノワカタケの時代というのが古代史の一大画期の時代という認識であったのは間違いないところでしょう。それはつまり、7世紀に成立した「日本国」、その文明である律令国家文明というものの起源を語る場合に避けては通れないキーポイントとなる時代ということだったのでしょう。
それは単に独自の天下思想の生まれた時代というだけではなく、儒教に代表されるシナ世界の価値観を是とするか非とするかという価値観の選択が大きく分かれ、その流れが変わっていった時代でもあるのです。日本書紀のオオハツセノワカタケの治世部分においては独裁的で強権的、神をも恐れぬオオハツセノワカタケ大王を「有徳の大王」と称える声が記載されていますが、同時にまた「大悪の大王」と謗る声も記載されています。シナ帝王的な君主の在り方を是とする声と非とする声が同時に存在した時代、そうした二面性がこの修正期末期である5世紀末の時代の特徴であったのでしょう。
そして、6世紀になって、シナ世界から離れた独自の天下思想がスタンダードになっていくにつれて、倭国の大王や権力機構の在り方も、その統治原理も、シナ帝国からの借り物のようなものではなく、倭国独自の形が模索されていくようになるのです。その暗中模索が、行き詰った王権国家文明を再生し完成させていく道に繋がるのであり、また同時に、新たな律令国家文明の新しい息吹を生み出して育てていく道にも繋がるのです。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。