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日本史についての雑文その299 大和朝廷の成立
506年にオハツセノワカサザキ大王が跡継ぎの無いまま没した後、群臣は協議して越前の開拓を行っていた越前王で、ホムタの5世孫のオオドを後継として迎え入れることにして、オケ大王の娘であるタシラカ王女の婿として直系大王家に取り込みました。
オオドの越前勢力は大和の豪族勢力に比べて弱小であったので、あくまで主導権は大和側にあり、その大和勢力の中でも有力な外戚であった平群氏はオハツセノワカサザキが滅ぼしていたので、さしあたり大王家に迎え入れたオオドを大和の豪族達が結束して支えるという形になり、その筆頭としてオオド大王を補佐したのが大連の大伴金村でした。

このオオド大王の時代から王権国家文明は6世紀前半の改革期に入り、成長の頂点で行き詰った王権国家文明を再生させるための試行錯誤が繰り返される時代に入っていきます。まず手をつけるべきことは前の時代の5世紀末期に噴き出してきた諸々の問題点の収拾ですが、この時代に噴出していた問題点とは地方政治の乱れでした。

5世紀前半のオオサザキの時代以降、倭国の大王はその権力を倭国全域に及ぼすために加羅地方からの帰化人を一元的に管理し、彼らの持つ新産業や新技術などを地方の豪族に供与することを交換条件にして、彼ら地方豪族に大王への忠誠と奉仕を求めたのです。そうやって大王は各地の地方豪族と個人的な主従関係を築き、他より優れた経済力や軍事力を確保し、地方勢力の連合王国であった倭国の中で最高権力を維持したのでした。
この地方豪族との主従関係を数多く結ぶために、大王は各地の豪族同士の勢力争いに積極的に介入して、ある意味では各地の争いを煽って忠誠競争をさせて、より忠誠度の高い豪族のほうに加担して先進技術の供与を行い主従関係を結びました。各地の豪族としても、地元のライバル氏族の上にいくために大王との主従関係を求めるようになり、大王はそうした状況を利用して多くの地方豪族を従わせるようになりました。
しかし、先進技術の供与が行われてそれが各地方において定着していくようになると、もう実利面で地方豪族を繋ぎ止める強制力は少なくなり、残るのは大王と地方豪族の間の個人的かつ人格的な主従関係の繋がりだけでした。これがオオサザキやオオハツセノワカタケのようなカリスマ性のある大王の場合は実際に大王の傍に仕える地方豪族本人の忠誠は得ることが出来ましたが、このような大王個人の徳やカリスマに依拠する主従関係は脆いもので、5世紀末のシラカ以降の時代にはこうした主従関係は多くが弱体化して、大王の権力もそれにつれて弱体化し、更に王権の後ろ盾を無くした地方豪族の支配力も低下して、逆にもともと地方の勢力争いを助長していたせいもあって、地方の勢力争いも流動化して混乱をきたすようになっていきました。

506年に越前から婿入りして即位したオオド大王とそれを補佐する大伴金村らの群臣たちがまず取り組むべきであったのは、そうした混乱する地方の状況を収拾することでした。それは最初はとにかく個々の事例に対して個別に対応して対立する在地勢力同士を仲立ちしたり、地方の反乱があれば鎮圧したりしていったのでしょう。そして、そうした事例の最終盤の最も大きなものが527年の筑紫の磐井の反乱であったのでしょう。
ただ、そうした対症療法的な対処をしていっているうちに、次第に地方の混乱を未然に防ぐためにどのようにすれば良いのかについての根本的な新しい方法論も考えられるようにもなっていきました。それは、5世紀のカリスマ的君主の時代のように大王と地方豪族の個人的主従関係に依拠するのではなく、群臣の合議制の上に乗っかった大王の時代である6世紀に見合った地方支配の形として、より恒久的かつ普遍的な地方統治の制度をシステマチックに整備していこうという努力でした。そのための試行錯誤が510年代ぐらいから始まり、ちょうど527年の磐井の乱の収拾時にある種の解答に辿り着くことになるのです。
その試行錯誤とは、シナ帝国とは別個の独自の天下たる倭国に相応しい独自のシステムの模索であり、まず王権国家文明の創業の精神に立ち返ることからスタートしました。王権国家文明の創業の精神とは、その確立期、すなわち5世紀前半のオオサザキ時代の精神ということで、例の炊煙の故事の精神です。つまり目指すべきは「民草のための政治」ということで、まぁこの時代の場合は一般民衆のためというよりは、「百姓」というのが地方豪族と捉えて、真に地方豪族のためになる地方統治の自然な在り方が模索されたということになります。

その具体的な内容については、この6世紀の最初の四半世紀はまさに試行錯誤の時代ですから、新しい要素をどんどん取り入れて試していったとであろうと思われ、中には全く見当違いの失敗もあったことでしょう。そういう失敗などは記録には残っていませんが、失敗も成功もひっくるめて、それらの新しい要素には外来の刺激や新興階層の刺激などが多用されたのではないかと思われます。
その中で特に目立った倭国社会における新しい要素は、第二波の帰化人たちでした。5世紀初頭にピークを迎えた第一波の帰化人が広開土王の戦役の影響で加羅地方から移住してきた者が多かったのに対して、5世紀終盤にピークを迎えた第二波の帰化人たちは475年の百済の一時的滅亡に関わる半島南部の混乱の影響で生じたもので、主に百済からの亡命民によって構成されていました。
この第二波の帰化人たちは第一波に比べて人数も多く、倭国の王権はこの第二波の帰化人たちを計画的に移住させて、河内などに集住させていた第一波の帰化人たちの管理下に置くようにしました。そして彼らをその有する特殊技術別に分類して、錦織部、陶作部、鍛冶部、鞍作部、馬飼部などの朝廷所属の職業集団である「部(べ)」を設けたのです。
この新しい外来技術もまた、第一波の時と同じように、技術を有する帰化人を各地方に派遣して伝えていかなければいけないのですが、第一波の時のように大和王権の伸張のために地方豪族の忠誠の見返りに技術の供与を行うのではなく、この第二波の新技術については、大和朝廷による地方統治を円滑化するための仕組み作りに活用されることになりました。

まずは6世紀に入って、上記の朝廷直属の職業集団として編成されていた「部」を各地方に設置するようになりました。つまり先進技術を有した帰化人集団が各地方に計画的に移住させられていったということになります。そしてそれらの「部」を各地方においては地方豪族が管理することになります。各地方の「部」は本来は朝廷に所属する民なのですが、これを預けられた地方豪族は彼ら「部」を私有民のように扱うことを許され、その代わり、地方豪族たちは中央政府である朝廷に出仕して奉仕する「伴(とも)」という人員の供出を義務づけられ、その「伴」の供出に関する費用は地方豪族が各地の「部」を運用して得た財産から賄うよう定められました。
こうして「部」を通じて地方豪族が朝廷から利益を供与され、そして朝廷に奉仕するというギブアンドテイクのシステムが形成されていったのです。これは本質的には5世紀の大王と地方豪族の個人的主従関係と似ていますが、より制度化されており、大王のカリスマへの依存度が下がって、恒久的なシステムに近づいているといえます。

6世紀の序盤においてそうしたシステムが各地方で構築されていったのですが、そこに527年に筑紫国で磐井の乱という大規模な地方豪族の争乱が起きて、この争乱の後、争乱の首謀者であった磐井の息子が朝廷に土地を献上して赦しを乞い、朝廷がその土地を「官家(みやけ)」として、筑紫支配の拠点としたことから、この後、各地にこうした「官家」が設置されて朝廷による地方統治の拠点となっていきました。
そして、各地の「官家」を拠点として朝廷の代理人として地方の統治にあたる地方官として「国造(くにのみやつこ)」という役職が置かれるようになり、「国造」にはその地方で最も有力な豪族が任命されました。「みやつこ」とは「御奴」で、つまり大王の僕という意味でした。
国造はもともと在地の首長でしたから、地域の行政権や徴税権、軍事権、裁判権、祭祀権などの土着の権力をもともと保有していました。国造制というのはそういう在来地方権力を活用した地方統治システムなのだといえますし、そういうものでなければ全国的な統治形態が早急に成立することはなかったでしょう。
ただ、国造にもそれなりのメリットが無ければ誰もなろうという者もいないわけで、国造は各地方における大王の代理人ですから、大王の代わりに自分の支配地域内の地方豪族を支配し、それらの地方豪族による「部」を財源とした奉仕を大王の代わりに受けることが出来るようになったのです。そうした地方豪族の奉仕によって地方統治の拠点である「官家」は維持されることになったのです。これによって国造となった豪族は配下の勢力を拡大して強大化することが出来るようになりました。

もちろん中央の朝廷への豪族による奉仕が無くなったわけではなく、国造の配下となった地方豪族たちも直接に中央への奉仕人員の派遣も継続しましたが、各豪族ごとの割り当て人員は少なくなり、専門職ごとに少しずつ集められた各地方からの出仕人員「伴」を専門職ごとにまとめて管理する役職が中央で必要となり、この役職が「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれるようになりました。
この専門職別の「伴造」を、大和や河内を本拠地とする中央豪族の各氏族が、もともと各氏族が得意分野とする専門職別に分担し合うようになり、例えば大伴氏は一般職の伴を統括する伴造を担当世襲する氏族で、物部氏は軍事職の伴を統括する伴造を担当世襲する氏族となり、中臣氏は祭祀職の伴を統括する伴造を担当世襲する氏族となりました。そして、これらの氏族はそれらの専門職の職務を遂行するために、それぞれの専門職の「部」の所有を許され、独自の財源や権力基盤を有することになっていったのです。こうして、それまでの土豪的存在から一線を画した、中央豪族の血統集団であると同時に朝廷における職業集団である「氏(うじ)」が成立していったのです。
こうした大伴氏や物部氏のような専門職に特化して伴造を担当していたような「氏」は「連(むらじ)」という「姓(かばね)」、つまり称号で呼ばれるようになりました。「姓」には臣、連、君、造、直、首、史などの種別がありましたが、この中で「臣(おみ)」は「連」のように専門職に特化するのではなく、大王を政治的に補佐することを職務とする氏族集団に与えられた称号で、「臣」姓のついた氏族はもともと大王家と連合して大和王権を構成していたような各地の有力豪族であり、その中でも6世紀前半の大和朝廷において中枢部を構成したのは蘇我氏、和珥氏、巨勢氏、波多氏、阿倍氏などでした。これらの「臣」の姓をもった氏族も、独自の「伴」や「部」を有して、「連」姓氏族と共に強大化していくことになるのでした。

こうして、527年の磐井の乱を契機として、地方における「国造体制」、中央における「氏姓制度」という統治システムが固まっていき、6世紀中頃までにこれが発展定着していくことになります。534年にオオド大王が没し、越前から随行し大王を補佐していた長子のヒロクニオシタケカナヒ、次子のタケオヒロクニオシタテが相次いで大王位を継承しますが、これらは繋ぎ的な役割で、オオドの後継者の本命は、直系大王家のオケ大王の娘タシラカ王女とオオドとの間に生まれた王子であるヒロニワでした。ヒロニワこそが直系大王家の血を引く真の王位継承者であり、真の大王となるべき王子でした。
そのヒロニワが540年に即位した頃には、全国を地方豪族を国造に任命することで支配し、中央では臣や連の称号を持った有力豪族の「氏」の連合によって支えられる大和朝廷の形はほぼ定まり、更に新たな政治を目指すヒロニワ大王は老齢の大連であった大伴金村を退けて、新たに大臣に任命した蘇我稲目を外戚として重用するようになりました。ここから蘇我氏の勢力が強くなっていくのです。

この6世紀の二番目の四半世紀の時代は王権国家文明の改革期の後期にあたり、着々と王権国家文明の再生計画が実行されていく時代ということになります。伝統的土着的な統治システムを上手く活用しつつ、新しい階層や技術などのパワーも上手に活かし、今までにない新たな統治システムを作り上げていったといえます。
そうして550年頃には王権国家文明再生のための改革はひとまず成し遂げられることになりますが、この改革の結果出来上がったシステムが完全無欠ということはないのであって、これがまた新たな問題点を生じていくことになり、それによって王権国家文明は少しずつ変質していくことになるのです。
また、国造制度や中央豪族の強大化など、大和朝廷のシステムというものは、不完全なものではありますが中央集権への志向を持ったものであり、5世紀以前の統治システムとは一線を画したものであります。これは後の律令国家体制の雛形といえるものであり、この時代に試行錯誤の末に新たな律令国家文明の息吹が生まれてきたのだともいえます。ただそれはまだ漠然としたもので、あまり社会に大きな影響を及ぼすようなものではありません。
むしろ、新たな文明の息吹としては、王権国家文明の再生のための試行錯誤の中で、外来の新規の刺激を手当たり次第に当たっていったことによって新たに取り入れられたものの中に当面有望なものがあったのかもしれません。そういったものもこの時代は先覚者たちのごく狭いサークルにおいて保持され育てられていく段階であったといえるでしょう。
そういった新しい文明の要素が育ってきて次の時代に王権国家文明を変質させていくことになるのですが、差し当たり倭国のコンセプトを大きく変質させることになる幾つかの大きな変化は朝鮮半島からやって来ることになります。その変化は朝鮮半島においては6世紀初頭ぐらいから始まっていたのでした。
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