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日本史についての雑文その300 任那日本府
5世紀の終盤に倭国が南朝の宋への朝貢を取りやめてシナ冊封体制から脱した頃、朝鮮半島の情勢は変動していきつつありました。長らく高句麗に従属していた新羅は5世紀半ばから高句麗の支配から脱して百済と同盟するようになり、百済・新羅の同盟が高句麗に対抗するような構図となりました。また、倭国は加羅諸国との強固な同盟をもって朝鮮半島に足場を築き、百済と同盟し高句麗と対抗し、そして新羅ともしばしば争っていました。
ところが5世紀の後半になると加羅諸国の連合内で勢力図の変化があり、金官国(任那)を中心とした加羅南部諸国がそれまでは加羅の中心的存在で倭国と緊密な関係を持っていたのですが、その加羅南部諸国が衰退し、代わって倭国とは距離を置く大伽耶国を中心とした諸国の連合が台頭してきたのです。これによって倭国と加羅諸国との同盟に陰りが見えてくるようになりました。
一方、高句麗は百済と新羅の同盟に対抗して攻勢に出て、475年に百済の首都の漢城を陥落させて百済を一旦滅亡させました。これによって高句麗は朝鮮半島の大部分を制して最大版図を誇る全盛期を迎えます。百済は南方の熊津に遷都して国家を再興しますが、この際に倭国の多大な支援を得たために倭国の保護国のような状態になり、その後、倭国との関係が極めて緊密なものになっていきました。

475年以降、漢城陥落の戦乱によって百済から倭国への帰化人が増加し、日本列島への第二波の帰化人を形成しますが、これ以降は倭国は百済の安全保障を肩代わりして、百済は倭国の求めに応じてシナ大陸からの文物を仕入れて倭国へその新知識およびそれに関連する知識人や技術者などを送るという関係性を築くようになります。
こうして倭国内に百済発の帰化人が増え、また百済国内にも軍事外交関係での倭国人の駐在員が増えていくようになり、それらの関係者も倭国内に増えて、6世紀に入って、これらの人々が集まって倭国内に百済重視派というべきグループが形成されるようになりました。
一方、5世紀初頭の加羅発の第一波帰化人の受入れ以降、倭国内にはもともと加羅からの帰化人や加羅駐在の倭人勢力とその関係者などから構成される加羅重視派というべきグループが存在しており、6世紀に入ってから新たに生じた百済重視派はこの既存の加羅重視派と競合していくことになるのです。
百済重視派は第二波帰化人関連の勢力を中核としていますから、5世紀末に王権直属の職業集団として発生した「部」を拠点としており、この「部」が6世紀に入って各地方に広がっていくにつれて百済重視派の勢力も拡大していくことになりました。この「部」が6世紀に大和朝廷を形成していく改革の基本単位となっていくのですから、それと密接な繋がりのある百済重視派は言わば改革勢力と重なるということになります。それに対して5世紀以前の旧制度の上に乗っかった加羅重視派のほうは守旧勢力と繋がりが深いということになります。
つまり、外交面における百済重視派と加羅重視派の競合は、そのまま内政面における大和朝廷内の改革勢力と守旧勢力の競合と重なるのであり、6世紀初頭においては互いの勢力は拮抗していましたが、加羅において倭国と緊密な関係であった金官国が衰退したという事情もあり、倭国内における改革が進捗していくという状況もあり、だいたい磐井の乱のあった527年あたりを境に、百済重視派=改革勢力のほうが優勢になっていくという趨勢なのでした。

6世紀に入って朝鮮半島のほうでは百済が熊津遷都後、徐々に復興していき南方に進出するようになり、514年ぐらいには加羅諸国のうち西端地域を支配下に収めるようになりました。加羅諸国の軍政権を掌握していたのは倭国でしたが、倭国内の百済重視派によってこの事態は容認され、百済は南方に領土を拡大して対馬海峡沿いの領土を有することになりました。
一方、新羅は6世紀に入ってから内政改革を断行して国力を高め、加羅諸国の北部地域に進出していくようになりました。加羅北部地域の諸国は南進してきた百済と領土争いをするようになり、それに際して倭国も百済側を支援したために加羅北部諸国は倭国から離れて新羅を頼るようになり、次第に新羅が加羅北部地域を影響下に置くようになり、倭国内の加羅重視派はこうした状況に警戒感を強めました。
こうした状況下で529年に新羅が加羅諸国南部の金官国、つまり任那に侵攻しました。これは倭国内の加羅重視派にとっては看過できない事態であり、倭国にとってのこの伝統的な半島進出の拠点の失陥は百済重視派も含む倭国内のあらゆる政治勢力にとって受け入れ難いことであるという点では一致していたので、金官国の西隣にある安羅国の救援要請を受けて倭国の大和朝廷は近江毛野という豪族に軍勢をつけて「任那復興」を命じて派遣しましたが、対馬海峡を渡れずにぐずぐずしているうちに532年に金官国の国王は新羅に降伏して、任那は完全に新羅に併呑されてしまったのです。
この時、近江毛野に対する大和朝廷の指示は終始煮え切らないものであり、非常に謎めいていますが、これはつまり、大和朝廷内が百済重視派と加羅重視派に分かれて一枚岩でないために近江毛野の軍勢に対する指示が一貫せず二転三転する羽目になったのだと思われます。百済は安羅国への影響力を強めようとしており、安羅国は百済の侵攻を排除したいと思っていました。安羅国としては任那救援という名目で倭国の軍勢を自国に駐留させて百済への抑止力としようという思惑もあったのでしょう。そうした安羅国の思惑を察して倭国内の百済重視派が百済を刺激することを嫌って毛野の軍勢の渡海を阻んだのではないかと思われます。それゆえに毛野の軍勢は対馬海峡を渡ることはなく、結局は任那を見殺しにするようなことになったのでしょう。

しかし、軍勢は送らなかったとしても任那の失陥をそのまま受け入れることは倭国としても不可能であり、532年以降、大和朝廷の加羅重視派の大きな後押しで「任那復興」をスローガンにして安羅国に設置されたのが、いわゆる「任那日本府」なのです。
この「任那日本府」という名称は日本書紀にのみ出てくるものであり、「日本」という国号は7世紀末に採用されるもので、この6世紀半ばには倭国の設置した機関が「日本府」と呼ばれることはないと思われるので、元来は「任那倭府」とでも呼ばれていたのでしょう。それを日本書紀編纂者が「倭」の字を嫌って「日本府」と書き換えたのでしょう。
倭国という国名は他称であったので、大和朝廷の人間がこの機関を「任那倭府」などと呼んでいたとは思えず、「任那日本府」が登場するのが朝鮮半島関連の記事であることからも、この部分の出典は日本書紀編纂の際に原史料となった百済の歴史書であったと思われ、つまり「任那倭府」というのは百済側から見た呼称であったということになります。
百済の歴史書の内容をそのまま引用して日本書紀に書き込んだところ、その中にこの任那復興を目的として大和朝廷が安羅国に設置した機関が「任那倭府」という百済側の呼称のまま掲載され、それを日本書紀編纂者が「倭府」を「日本府」に書き換えて「任那日本府」という呼称が生まれたのであろうと思います。
では6世紀半ばの当時において、大和朝廷はこの機関をどのような名称で呼んでいたのかというと、おそらく「任那の官家」ないしは「海北の官家」とでも呼んでいたのでしょう。「官家(みやけ)」というのは527年の磐井の乱の鎮圧以降に倭国の各地に設置されるようになった地方統治の拠点となる機関であり、地方豪族の首長格の親分である国造やその他の中小地方豪族の協力のもとで運営され、大和にある中央政府たる朝廷からの政令や布告を伝達する「宰(みこともち)」という使者を定期的に迎えて地方統治を行っていました。「任那日本府」もその実態はこうした「官家」の1つであったのではないかと思うのです。

つまり、もともと加羅諸国南部地域で倭国の有していた利権に関与して生計を立てたり俸禄を得ていた倭人や加羅人の豪族や官僚を大和朝廷の肝煎りで安羅国に召集して、大和朝廷から派遣された「宰」を名目上のトップに据えて、隣国であった任那を復興させてゆくゆくはその統治の拠点とするべき「官家」の雛形として設けられたものであろうと思われるのです。
ただ、倭国各地の「官家」がそうであったように、実質的に「官家」を運営して地方統治を行っていくのは有力な地方豪族であったので、この「任那の官家」についても本来は任那、つまり金官国の地方豪族や王族の協力が必要なのですが、それらは新羅の勢力下に入ってしまっており、そこでこの「任那の官家」は倭国の影響力の強い半島の地域、安羅や百済などの地方勢力の協力を必要としたのです。
しかし、これらの本来は「任那の官家」を支えなければいけない諸勢力の思惑がバラバラであったのです。百済の本音は「任那復興」という建前のもとでの安羅国への影響力の増大であり、安羅国はそれを避けるために新羅に接近しました。倭国における「任那の官家」設置の動きは加羅重視派の主導によるものでしたが、この加羅重視派としては百済重視派およびその背後の百済を敵対視していたために百済による安羅併呑は避けなければならず、そのために安羅の新羅接近を容認するようになりました。
このような有様ですから、「任那日本府」、すなわち「任那の官家」の構成員の中にも親新羅派がはびこることとなり、これに対して百済が繰り返し抗議するなど、「任那の官家」の内部の不協和音が目立つようになっていきました。540年代の前半には倭国や百済を中心にして「任那復興」を謳って活発な外交活動が表面上は展開されましたが、その拠点となるべき「任那の官家」がこのような状況では、実のある成果は上がらなかったのは当然であるといえます。
ただ、たとえ表面的な建前として諸勢力に利用されるだけであったにせよ、「任那復興」という倭国内部の事情から発したスローガンが百済や加羅諸国などにこうして一致して支持されていた、少なくとも異議を差し挟むこととして認識されていなかったということは、朝鮮半島南部地域において倭国を中心としたヘゲモニーが存在していたということの証であるといえるでしょう。

さて、こうして倭国内の加羅重視派の牙城ともいえる「任那の官家」が機能不全に陥っている間に、朝鮮半島の情勢は大きく変化していきます。545年に高句麗で王族同士の争いから大きな内乱に発展し、これを見て百済が高句麗に対して攻勢に出て475年に奪われた漢城の奪還を図って北進を開始します。
そして551年には百済は高句麗から漢城および漢江北側の土地一帯を奪還しますが、ここで新羅が百済との同盟を破棄して膨張策をとり、552年にはこの百済が高句麗から奪還した土地を横取りして占領してしまい、ここから朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三つ巴の戦いの様相を呈していくのです。
こうして百済が激しい戦争に乗り出していくにつれて、同盟国である倭国へ軍事援助を求めることが頻繁になり、倭国はその見返りにシナ大陸からの先進文物を百済経由で入手するよう求めてくるようになります。552年には百済から仏教が公伝されるのはこうした動きの一環であるし、554年には百済経由で倭国に医博士、易博士、暦博士や卜書、暦本、薬物などが送られています。
このように半島の動乱によって550年以降、倭国と百済の同盟関係は強化され、大和朝廷においては百済重視派=改革派の勢力が増すようになります。相対的に大和朝廷内の加羅重視派=守旧派の影響力は低下し、非主流派に転落するようになっていき、「任那の官家」は加羅重視派の牙城でしたから、倭国の本国政府とその出先機関である「任那の官家」との間に溝が生じてくるようになりました。倭国の本国政府が百済重視派によって牛耳られるようになると、百済の侵略を阻止しようとする安羅国やそのシンパの多い「任那の官家」では百済に対抗して新羅へ通じる動きが強くなったのです。
そのような状況の中、554年に百済は新羅の領内に攻め込んで逆に国王が討ち取られるという大敗北を喫し、勢いに乗った新羅は加羅地方で攻勢に出て安羅国を併呑してしまいました。もともと安羅国では新羅に通じる勢力が強かったため、あっけなく新羅に呑み込まれてしまったのでしょう。この時に「任那の官家」、いわゆる「任那日本府」も新羅に吸収されて消滅したのだと思われます。

この後、新羅は562年に大伽耶連盟を併呑して、残る加羅諸国は全て新羅の領土となり加羅は消滅します。倭国はそれでも加羅利権を諦めきれず、新羅に圧力を加えて7世紀半ばぐらいまで任那地方からの倭国への朝貢という形式だけは継続させることになりますが、これは倭国国内の加羅重視派の残党への政治的配慮の域を出るものではありませんでした。
倭国の国内においては「任那の官家」の消滅以後は加羅重視派は力を失い、百済重視派が主流派となって、百済からの外来の新しい文物や技術の力を活用して倭国の社会を変化させて成熟させていくことになるのです。すなわち、ここから王権国家文明の変質期の前期に入っていくことになるのです。
そうした百済重視派=改革派の急先鋒であったのが蘇我氏であり、加羅利権を失い影響力の低下した守旧派の代表格であったのが物部氏や中臣氏であったのであり、改革派が倭国社会変革のために活用した百済より入手した外来文物の代表格といえるものが仏教であったのです。
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