KNブログ


プロフィール

KN

Author:KN
気紛れにエントリ更新してしまいました。これからはのんびり気紛れなペースで、書き上がり次第に更新していきます。

メールアドレスはこちら
jinkenbira@yahoo.co.jp 

未来のために生きながらも、引き続き



ブログランキング

人気blogランキングへ



FC2カウンター



最近の記事



カテゴリー



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


日本史についての雑文その301 仏教伝来
宗教というものは現代においては各自の心の拠り所のようなものになっていますが、古代においては世界認識の手段でした。昔の人は宗教を通して世界の成り立ちを把握し、宗教を通して世界への働きかけを行っていました。
人間にとって認識された世界とは「動きのある世界」でした。川は流れ、海は波を寄せ返し、風は草花をそよがせ、草木は生育し、動物は駆け回り、雲は流れ、太陽や月は昇り沈む、このようにあらゆる物に動きがある世界でした。動くということは、そこに何らかの意思や心、生命が存在しているからであると古代人は考えました。ここから汎神論、精霊信仰が起こるのです。

万物に精霊が宿っているというふうに世界を認識するのならば、その精霊たちと交信することによって世界に働きかけることが出来るということになります。しかし普通にのほほんとしていても精霊の声は聞こえないし、精霊に話しかけることも出来ません。そこで精霊と会話するテクニックが編み出されることになります。これが宗教の始まりです。
現代人から見れば「精霊との会話」なんてナンセンスに思えるのでしょうけれど、古代人にとっては大真面目な話で、人間が世界に働きかける革命的な最新技術であったのです。おそらくこの「精霊と人の会話」にも礼儀というか仁義のようなものがあり、人間が精霊の喜ぶようなことをして、その見返りに精霊が人間との会話に応じてその願いを聞き届けてくれたりするというギブアンドテイクの仕組みになっていたようです。
自然界の精霊の喜ぶようなこととは、お祈りを捧げたり供物を捧げたりということになり、そういった儀式を専門に行う司祭階級も生まれたりしたのですが、やはり精霊との会話の大前提としては基本的には自然を大切にするということになります。しかし人間が自然から距離を置いて独自の文明を発展させるようになると自然界の精霊との会話は困難になりました。
いや、もともと精霊との会話は実は普通にほぼ不可能なくらいに困難であったのですが、当時の人々は会話困難になった原因は人間が自然から離れたからであると考えたのです。特に農業は自然の改造、つまり自然破壊を宿命としていますから、農業の開始は精霊信仰の危機に直結していたのです。
しかし、この世のあらゆるものには精霊が宿っているのですから、農業にも農業の精霊というものが宿っているはずであり、そこで人々は農業に関連する精霊と特に重点的に交信することを試みるようになったのです。自然霊との交信が不調で自然の恵みを得られなかったとしても、とにかく農業さえ上手くいっていれば飢えることはないわけですから、農業の精霊、つまり地霊や穀霊と会話さえ出来ていれば、とりあえず良いわけです。自然からは離れても、逆に農業との繋がりは人々は緊密になったわけで、やはり身近な存在のほうが会話の成立は容易であるので、農業の普及に伴って自然霊の中でも特に農耕神や牧畜神への祭祀が発展するようになったのです。

ところが、人間は農業神に働きかけて作物を無事に作ってそれを食べていればそれだけで完璧な幸せを得るというわけではありません。農業神では疫病や災害による不幸を防ぐ力はありませんでしたし、文明が発展するにつれて戦争が生じるようになり、特に戦争の勝敗は人々の幸不幸を分かつ重要なポイントになりました。これについても農業神は担当外でした。
こういった疫病・災害・戦争などの災厄を防ぐためにはやはりあらゆる精霊に働きかけなければいけないのですが、その会話を成立させることが困難となっていました。そこで霊界において人間にとって最も身近な霊を霊界への窓口と見立てて、その霊に働きかけて間接的に自然界をコントロールしようという発想が生まれてきます。その人間にとって最も身近な霊とは、人間自身の霊でした。人間もまた自然界の一部である以上、人間にも精霊が宿っているはずであり、精霊同士であればコミュニケーションも容易であろうと思われるので、まず人間から人間霊に働きかけて、人間霊から自然霊に働きかけてもらうようにしたのです。しかし生きている人間の霊にはそうした霊的な仲立ちの働きは出来ないので、死んで魂だけの存在になって風の精や水の精のような姿無き存在になって初めて他の自然霊との会話が可能になると考えられました。ここから祖霊信仰が始まります。
また農業は共同作業が必須であったので、農業の普及によって人々は同族で集まって共同体を作るようになり、疫病や災害の被害を食い止めたり戦争を勝ち抜いたりする実質的な努力は共同体単位で行われるようになっていきました。現代人ならその現世的な努力を最大限にすることのみに腐心するのですが、古代人はそうではなく、人間の努力に加えて霊的な助力を必須としたのです。ですから、こうした共同体単位の努力に対して祖霊の加護を求めるようになり、現世の行いが共同体単位であることによって、それを加護する霊的存在のほうも、単なるバラバラの死者の霊による加護から次第に共同体単位の強大な祖霊による加護へと変わっていったのです。こうして氏族共同体単位でそれぞれの氏族の代表的祖霊を祀る祖霊信仰が生じました。そしてこれに農業神などが合体して首長霊信仰が生じたのです。
祖霊信仰にせよ首長霊信仰にせよ、氏族共同体単位のものであり、つまり神に働きかけて現世の幸福を実現していく単位は氏族単位であったということになります。人間と神の関係はギブアンドテイクの仁義ある関係でしたから、人々は氏族共同体を大切にして、氏族の祖霊に祈りや供物を捧げて、その見返りに祖霊は自然霊に働きかけて氏族に幸福をもたらし災厄を退けて、それで各氏族は平和に暮らしていくようになったのです。少なくとも氏族共同体の人々はそのように信じたのです。そしてそうした氏族共同体や氏神を大切にする作法から道徳や慣習というものが発達していきました。政治というものは「まつりごと」と言うように、古代においては、いやある意味では近代以前はその最重要の要素はこのように神と交信することであったのです。

だいたいこういう氏族共同体単位の祖霊信仰を行うというのが古代の世界のスタンダードで、そういった段階に到達した時期はそれぞれバラバラですが、だいたい農業共同体を形成するようになってから世界各地でこのような信仰形態や社会形態が生じていったのです。それはシナでもインドでも日本でも同じであったのです。
ところがそこに紀元前500年あたりにシナやインドで新しい動きが生じてきます。まずシナでは春秋時代の恒常的な戦乱の中で氏族共同体が次第に解体していきます。社会の道徳や秩序は氏族共同体ごとの祖霊信仰の中に保持されていましたので、氏族共同体の解体によって社会は無秩序かつ不道徳な状態になってしまいます。それを防いで社会の秩序を維持するために氏族共同体単位ではなく、もっと広い社会全体をカバーする信仰形態を創造して、そこに古来の道徳や慣習を復活させる試みが為されるようになったのです。
その試みをした人物が孔子で、この試みが儒教だったのです。儒教の眼目は親孝行などの伝統的な個人に課せられた道徳の再確認と徹底であったのですが、その根本にはもはや従来の氏族共同体の祖霊祭祀を置くのではなく、「天」という抽象的なこの世を主宰する唯一絶対神の存在を設定し、あらゆる人は伝統的な「徳」を積むことによって、氏族共同体を通さずに「天」と直接会話して「天」に働きかける資格を得るのであり、「天」はそのような「有徳」の人の願いを聞き届けて災厄を除いて平和や安寧をもたらしてくれるのです。このような「天」を唯一神とする信仰形態こそが氏族共同体が解体しつつある時代において道徳を保持していく上で必要なものであると孔子は考えたのです。
そして、この儒教の教えはこの後、戦国時代において氏族共同体の解体が進行していくにつれてシナ世界の人々の間で受け入れられていくようになり、戦国時代、秦の統一と滅亡、漢初期の動乱の時代を経て、紀元前2世紀の漢の武帝によるシナ帝国の確立の時代になって、シナ帝国の国教としての地位を得ることになります。
なぜ儒教がシナ帝国の国教となれたのかというと、氏族共同体を解体して皇帝が一元的にシナ全土を支配するシナ帝国にとっては、氏族共同体を超越して「天」という唯一神を信仰する儒教という信仰形態は都合が良かったからです。シナ世界全体を一つの巨大な共同体と見て、その共同体の神が「天」であり、その「天」に働きかける資格を有する唯一の人間がこの世で最高の有徳の人物である唯一の支配者「皇帝」であるとすればいいわけです。世界における最高の有徳者である皇帝は「天」を祀り「天」に働きかけて世界の安寧と発展を祈り、「天」は「皇帝」を地上の唯一の支配者に任命し、その願いを聞き届けて、これで世の中は丸く収まるというわけです。こうしてシナは儒教信仰の世界になりました。

一方、紀元前500年あたりの北インドにおいてはゴーダマ・シッダッタ(釈迦)という天才的宗教家が出現して、氏族共同体の神々に働きかけても世の中の苦しみは一向に無くならないという現実の理不尽を解決するために、人間自身が神々も超越した超自然的な存在になることを目指し、その方法論を発見しました。その方法論は誰にでも実践出来るような簡単なものではなく、また釈迦以外の者に適用可能な方法論であったのか疑問ではあるのですが、とにかく釈迦は彼なりの方法論を発見し、それを知己の修行者たちに伝授しようとしたのであり、ここから北インドにおいて仏教というものが始まったのです。
釈迦の仏教の考え方というのは、世の中の困ったことの解決は神様に働きかけて何とかしてもらうのではなく、自分が神様以上の究極的な存在で、全ての苦しみから解放された存在である「仏陀」になってしまえば自ずと解決してしまうというものでした。どんな人間でも氏族共同体の所属や身分の上下も関係なく、全ての人間には等しく「仏陀」になる道は開かれているのですが、その代わり、仏陀になるためには全ての欲を断って、現世のしがらみを全て捨てて出家して、極めて厳しい修行をこなして自己に対する執着を捨て去らなければいけません。
ハッキリ言って、釈迦の仏教では普通に現実社会で生きる在家信者は救いの道を閉ざされるということになります。それでは納得できない在家信者たちが紀元前後あたりに新たな「仏陀」に至る方法論を作り出したのです。それは、たとえ出家せずに俗世に生きていても、自分自身が仏陀になることよりも自他の区別を排して現世の苦の中である一切の衆生を救うための善行をしつつ生きて功徳を積んでいけば、そのようにして何度か輪廻の中で生まれ変わっていって遠い来世において仏陀になることが出来るというものでした。これが大乗仏教でした。これが中央アジアを経て1世紀にシナ帝国に伝わったのです。

この大乗仏教の教えによるならば、当面の今世、つまり現時点での人生の目標は衆生を救済するための善行を積むことということになります。その善行とは、もちろん現実的に他人の役に立つ行いも含まれるのですが、例えば他人の幸福のために祈ったりすることも立派な善行ということになります。ただ、いずれにしてもこの大乗仏教に特徴的なことは、氏族共同体や地域共同体などに縛られず、全くの赤の他人に対しても救済の手を差し伸べるということでした。つまり氏族共同体の解体したシナ社会においては仏教は受け入れられやすい存在ではあったのです。
ただ1世紀にシナに仏教が伝来した当初はシナ帝国は国教である儒教で平和に治まっており、人々は特に仏教を強く必要とはしていませんでした。ところが2世紀後半の後漢末期になって世の中が乱れるようになってくると儒教信仰が揺らぐことになりました。この世は皇帝が天に働きかけて安寧に治まっているはずであったのですが、どうも上手く治まらないということは、どうやら皇帝や天や儒教というものは当てにならないのではないかと人々は思うようになったのです。
そうした時代に仏教がシナの民衆の間で受け入れられていくようになりました。氏族共同体の祖霊は既に無く、「天」も当てにならないのなら、赤の他人同士でも人間同士で助け合っていくしかないのです。仏教はそれを善行として仏陀に至る道として奨励していたのです。ただ、この時代には仏教よりもむしろ、仏教をベースにしてシナ古来の老荘思想や土俗信仰を合わせて成立した道教のほうが民衆に広く受け入れられ、秘密結社化して後漢末期の大乱である黄巾の乱などを起こして弾圧されました。
このような世の乱れは、儒教の教えによれば地上の支配者の皇帝の徳が低下したからなのであり、「天」がまた新たな皇帝を任命して世の中が無事に治まるはずであったのですが、ところが続く三国時代には「天」が1人だけ任命するはずの皇帝が一度に3人立ち、儒教の教えの正統性がますます揺らぎました。そして4世紀に五胡十六国時代に入るとシナ皇帝は異民族に滅ぼされ、異民族の首長たちが勝手に皇帝を名乗って林立するようになりました。こうして儒教の教理は信頼されないようになり、代わりに乱世の中で民衆同士が相互扶助し合う仏教や道教がシナ世界で広まっていきました。

この4世紀頃までのシナ仏教というもの自体が、仏教を老荘思想によって解釈しようという「格義仏教」というもので、元来の仏教よりもむしろ道教に近いものであったのですが、4世紀後半ぐらいから仏教独自の解釈で経典を読む運動が起こり、経典や諸制度が整備され、5世紀にはインドから大量の経典が輸入されて漢訳されて、シナ仏教の独自の流れが始まりました。
こうしてシナ仏教は普遍宗教としての体裁を整えるようになり、439年に華北を統一した鮮卑族の北魏が漢化政策を進めるにあたって当初は道教に重きを置いたために仏教を弾圧しましたが、5世紀後半になると仏教が再興され、南北朝時代のシナにおいては、まず北朝の北魏において仏教は国教的な地位を獲得することになります。
仏教というものは基本的には個々の人間が仏陀となることを目標とするもので治世のための宗教ではないのですが、悟りを開くための修行の一環としてこの世のあらゆる衆生を救うために善行を積んだり仏に祈りを捧げたりすることが推奨されたので、北魏という大国の出現と相俟って国家規模でそうした善行や祈りを行うことによって為政者や国家そのものが仏陀の領域に近づいて、自動的に国家全体があらゆる苦痛や不幸から解放され安寧を達成できるという発想が生まれました。そのため北魏では仏教を国家の管轄下に置いて仏に衆生救済や国家安寧を祈る大仏や伽藍を大量に建造したり、皇帝や官僚たち自ら仏教の講教を行ったりしました。
一方、南朝のほうでは479年の宋の滅亡後に成立した斉は政情不安の連続の末に502年に滅び、代わりに梁が起こりました。梁では国情を安定させるため仏教を国教として推奨し、皇帝は深く仏教に帰依しました。こうしてシナでは6世紀になって南北朝ともに仏教は国家鎮護の宗教として定着したのでした。

この梁の仏教が6世紀前半に百済や新羅に伝来したのです。百済への仏教伝来は4世紀後半とされていますが、国教としての本格的な受容は梁の仏教国教化に倣ってのことですから6世紀前半ということになります。ちなみに高句麗へは五胡十六国時代の4世紀後半に北方ルートで独自に仏教は伝来していましたが、国教化はやはり北魏における仏教国教化以降のことでしょう。
この6世紀前半に朝鮮半島に伝わったシナ南朝の仏教が、ほぼ同時期に日本列島へも伝来していたようです。538年に百済から仏教が伝わったという記録があり、この頃からシナにおいては仏教という宗教を国教としているということは大和朝廷の為政者たちは認識していたのでしょう。
ただ、朝鮮半島もそうなのですが、この頃の日本列島においてはシナ大陸のように氏族共同体が解体しておらず、氏族共同体単位での祖霊信仰が健在であったので、人々の間で仏教という新しい宗教へのニーズというものが高まっておらず、大和朝廷の為政者たちもその導入にはあまり積極的ではなかったのでしょう。
ところが朝鮮半島において仏教は統一国家建設の理念として有効な役割を果たすことが判明したのです。つまり氏族共同体単位の祖霊信仰だけの状態では、祭祀を行ってその見返りに神からの守護を受けるという政治(まつりごと)の単位も氏族単位ということになり、そうなると政治体制も氏族共同体の連合体制のままということになります。
しかし国家形成が進んでくるようになると、氏族の垣根を超えて王権が統一的な施策を講ずる必要が出てくる局面も多くなってきます。古代においては政治と宗教は不可分の関係にあり、何らかの施策を講ずる場合はそれに関わる神霊への祭祀は必須であったのですが、祖霊信仰のルールに縛られている限り、王族が祭祀できるのは王族の祖霊のみであり、他の氏族にも関与する統一的な政策を実施する場合には、それに付随する祭祀に関しては各氏族に肩代わりしてやってもらうという形になります。しかしこれでは各氏族の顔色をいちいち伺わなければ統一的な政策を実施できないということになり、王権はその基盤は脆弱なものとなります。
そこで祖霊信仰のルールに縛られずに、この世の一切の衆生であれば、血縁や地縁に関係なく見ず知らずの相手にでも施しや祈り、そして慰霊も出来る便利なシステムとしての仏教というものに関するニーズが朝鮮半島や日本列島では生じたのです。それは一般民衆から生じたニーズではなく、王権による一元的統治を実現するために氏族共同体などの「私的社会」に束縛されずに「公共」への働きかけとその見返りとしての受益という、巨視的なギブアンドテイクの「まつりごと」のシステムを中央政府の為政者が求めたから生じたのであり、それゆえ朝鮮半島や日本列島においては仏教は純粋に国家鎮護宗教として受容され、一般信者というものは当初は存在せず、上層の為政者から順番に仏教を受容していくことになったのでした。
こうして6世紀前半における朝鮮半島、特に百済における仏教受容の王権一元的支配体制の形成への肯定的効果を見て、大和朝廷内における、王権を強化して地方を一元的に統治していこうとして制度の整備を進めていた改革派の勢力が百済とのパイプを使って、百済から国家鎮護宗教としての仏教のノウハウの伝授を求めたのです。そうして倭国に百済からそのシステムがもたらされたのが552年のことで、これが仏教公伝とされており、ここから倭国内部において仏教受容を巡る争いが起きるのです。

仏教伝来当初、日本においては庶民の大部分はまだ氏族共同体の中で完結した生活を送っていましたから、氏族共同体単位の祖霊信仰を着実に行っていれば安心して暮らせていたのです。仏教受容当初において仏教の教理を必要としたのは氏族共同体の垣根を超えた「公共」というものを意識しなければいけなかった為政者の一部だけであり、時代が下るにつれて徐々に氏族共同体の垣根を超えて活動する庶民も増えていくにつれて、そうした「公共」を意識する庶民も増えて次第に仏教が庶民にも受容されていくことになるのです。ただ、それはまだ先の話で、しかもその受容に関しては日本では氏族共同体が強固なまま残るので祖霊信仰たる神道との習合を伴ったものとなるのです。
シナでは既に私的な氏族共同体が解体していたので社会において受容された宗教は儒教にせよ道教にせよ仏教にせよ、社会の隅々までカバーする公共的システムであったのです。つまりシナにおいては仏教は既存の公共的システムであった儒教の信用が失墜したことによって、儒教の代用品として受容されたのです。そして結局はシナ帝国のシステムには儒教が一番合致しているので時代が下るとシナの為政者は儒教の教理に回帰し、庶民は道教や仏教を信仰するというようになっていったのです。
日本列島においては私的な氏族共同体のシステムとしての神道が健在であり、そしてそれしか存在しなかったので、一度5世紀にシナ帝国風に儒教を公共的システムとして導入しかけたのですが、それがどうも上手くいかず、しかもちょうどシナ大陸の南朝でも儒教は落ち目になり代わりに6世紀になって仏教が興隆してきたので、私的システムである神道の足りない公共的部分を補完する物として仏教を受容したのだといえます。
つまり、日本では儒教は当初から根付かず、仏教は神道の補完的システムとして受け入れられたので、最初から神仏習合に向かう可能性が高かったのだといえます。ただ、同じような条件で仏教を受容した朝鮮半島が新羅時代において日本とは違う道を歩んで、仏教は仏教として純化されて私的な氏族共同体は弱体化していって中央集権化が進み、シナ社会に類似していったという相違が生じたのは、これはひとえにシナ大陸に成立した大唐帝国と距離も近く地続きの新羅のほうが日本に比べて絶え間ないシナ大陸からの影響を受け続けたからなのでしょう。
スポンサーサイト
人気blogランキングへ 応援のクリック 宜しくお願い致します。

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。