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日本史についての雑文その302 崇仏論争
仏教が日本社会に与えた影響は数多くありますが、この6世紀半ばの仏教伝来は極めて政治的な動機の強いものであり、この仏教導入時の時点においては仏教導入派によって仏教に期待された役割は純粋に政治力学上の作用でありました。
ただ政治力学といっても、この当時の政治とは政務と祭祀が表裏一体となっての「まつりごと」であったのであり、仏教に期待されたのはこの祭祀の部分における力学上の変化を及ぼすことであったので、多分に宗教的側面はあったのですが、それは信仰というよりはやはり政治の世界の出来事であったと見るべきでしょう。

地方勢力の連合政体であった倭国の「まつりごと」の中央集権化を目指す改革勢力は6世紀前半において国造制度や氏姓制度などを整備して政務面での中央集権化を徐々に進めていったのですが、地方や中央の豪族の持つ独自の祭祀権という聖域には切り込めないでいました。
例えば地方豪族の統治する特定の地域や、中央豪族の管掌する特定の職分などに関する何らかの施策を大和朝廷が命じたとしても、その施策が上手くいくかどうかを決定するのは最終的には神の加護が得られるか否かにかかってくるのです。非科学的だと言われても仕方ないのであって、古代というのはそういう時代なのです。だから古代人は「人事を尽くして天命を待つ」などという悠長なことは言わないのであって、とりあえず人事を尽くした後はひたすら神を祀って施策の成功を祈るのです。いや、そうした祭祀も「人事」の重要な要素として含まれるのでした。
実際には人事を尽くした後で祈っているようでは遅いのであって、常にあらゆる政務が成功するように、普段から神への祭祀を丁寧に行うというのが重要な政治の一要素であったのです。だから政務が上手くいかなかった場合は神への祭祀が十分でなかったということであり、神への祭祀が足りないということは神が怒っているということであり、神が祟って災いをもたらしたということになります。

この神様のルールとして日本の場合「移動しない」という特性があり、それぞれの氏族共同体ごとに祖霊を祀り、その先祖伝来の土地でそれぞれの祖霊の子孫の氏族によって祀られなければならないという不文律がありました。このルールを破ると祭祀が不十分ということになり、本来は守護神であるはずの祖霊が祟り神となって災いをもたらすのです。ミマキイリヒコの昔から、日本列島では近代以前においては政治とはつまるところ、いかにして祟り神を鎮めるかをテーマとしていたのです。
日本の神は祖霊であり、祖霊の祭祀はその子孫たる各地の氏族たちによってのみ行われるということは、祭祀権は各氏族に分権されているということになり、神を祭祀して祟り神を出現させないことがあらゆる施策の成功の条件であるとするならば、あらゆる施策の可否を分けるのは各氏族単位の祭祀次第ということになります。つまり各豪族たちが大和朝廷の行う施策の命運を握っているということになります。
例えば大和朝廷の命じる施策をある豪族が気に入らなかった場合、その施策の成功を願う祭祀を疎かにしてしまい、それによって祟り神が発生して施策が失敗することもあり得るわけです。そういうけしからん豪族を討伐して滅ぼしてしまえば、その祖霊を祭祀する子孫がいなくなり、これもやはり祟り神が発生して天下の障りとなります。そういうわけですから最初から朝廷は各豪族に気を遣いよく意見を聞いてコンセンサスを得てから施策を講じていくことになります。
こうしたコンセンサス第一主義は確かに日本社会の美風でもあるのですが、これが度を超すと皆が好き勝手なことを言ってまとまらないということにもなります。特に地方政権の集合体であった倭国においてはある程度は中央政府が強権をもってまとめていかないと、いつまでもバラバラで揉め事が絶えない状態が続きます。そういう状態を改善するために6世紀前半には政治制度の改革を進めてきたのですが、中央政府が豪族勢力に強権を押し通そうという時にどうしても障壁となるのが、この豪族の持つ祭祀権という聖域であったのです。

その聖域を打ち破るために大和朝廷の改革勢力は外来の宗教である仏教に目をつけたのです。仏教、特に6世紀になってシナ南朝で国教となった大乗仏教においては、この世のあらゆる衆生を救済する善行を積むことが悟りへの道であるという思想が基本でしたから、シナ南朝においては国家が主体となってあらゆる衆生の幸福と安寧のために祈るという「国家鎮護」というスタイルが生まれていました。
これを日本流にアレンジして、悟りを開くという本来の仏教の在り方ではなく現世利益の祈願や死者の供養に主眼を置いたものを日本式の仏教とし、仏を「仏神」として新種の神の一種として扱い、仏神を祀って天下万民の安寧を祈願するというスタイルを作り出したのです。
特定の地域に住む特定の氏族がその祖霊を祀って祈願するのは、その特定の地域の特定の氏族の治める領域における安寧でありますから、氏族の祖霊である従来の日本の神の守備範囲はそれぞれの氏族の支配領域に限定されているということになります。ところが仏神の場合はあらゆる衆生を救済する存在ですから、その守備範囲は氏族共同体の区別を超越して無限定ということになります。
仏神に祈る場合は特定の氏族の安寧のために祈るわけではないのですから、特定の氏族の人間でなければ祭祀が出来ないということにはなりません。天下万民の安寧のために祈るわけですから、誰が誰のために祈ってもいいわけです。例えば蘇我氏の誰かが物部氏の誰かの幸せを仏神に祈願してもいいわけですし、大王家によって出雲国造のもとでの何らかの施策の成功を仏神に祈願してもいいわけです。
そしてもし大王と豪族の間で意見の食い違いがあって争いになり、豪族側を滅ぼしてしまったとしても、仏神は守備範囲が無限定なわけですから、大王が仏神を祭祀して滅びた豪族の霊を鎮魂してしまえば祟り神も発生しないということになります。これは画期的なことで、「仏神」というジョーカー的なオールマイティな新しい存在を設定することによって、子孫でない者でも霊を祀ることが出来るようになるのです。現在では日本のあちこちに血縁関係も無い人達によって鎮魂碑や慰霊碑などが建てられるのは当たり前のことになっていますが、これは仏教導入によって可能になったことなのです。
つまり、この「仏神を祭祀して血縁関係にこだわらず鎮魂を可能にする」というスタイルが定着すれば、大和朝廷は各豪族の持つ祭祀権を超越して各豪族の管掌する領域へ介入する回路を持つことになり、その統治の自由度を大幅に増やすことが出来るのです。

倭国に仏教が伝わったのは538年のことで、最初は百済からやって来た帰化人の氏族の間で細々と信仰されていたと思われます。この翌々年の540年にはヒロニワ大王が即位し、蘇我稲目を大臣に任命し、ここに蘇我氏が政界の中心に立つことになります。
蘇我氏は百済系の第二波帰化人と関係が深い豪族で、つまり第二波帰化人によって編成した「部」を活用した地方統治改革の推進派の急先鋒でもありました。6世紀に入ってから開始されたこの改革を更に進めるためにヒロニワ大王は蘇我氏を抜擢し、蘇我氏は大王家の外戚となり、大王家と一体化して中央集権化を進めようとしていました。
そういう蘇我氏でありましたから、帰化人の間で信仰されている異国の宗教である仏教についても早くから知識を得ていたでありましょう。そしてそれがシナや朝鮮半島で国教となっているという情報も得るようになり、次第に研究していくにつれて、それが中央集権化の政治改革に有益な存在となり得るということも分かっていったものと推測されます。ただ稲目が大臣になった頃は安羅国に「任那の官家」が設置されたばかりの頃で、大和朝廷としても任那復興に力を注いでいた頃なので、朝廷内の守旧派、すなわち加羅重視派がまだかなりの力を有しており、改革派で百済重視派であった稲目はあまり思い切った行動には出られなかったのであろうと思われます。
しかし550年ぐらいになってくると半島の動乱の影響で百済との結びつきが強化され、百済重視派が勢力を強くして、552年の百済王からの仏像や経典の贈呈および、仏教を朝廷として受け入れるか否かについてのヒロニワ大王よりの諮問へと至る一連の流れも、稲目の根回しによって実現したものでありましょう。この頃ちょうど「任那の官家」も消滅し、加羅重視派の勢力も失墜したので、これを好機と見て稲目は一気に仏教の国教化を目論んだのでありましょう。
しかしこれは少し性急に過ぎたようで、守旧派の猛反発を受けることになります。仏教を国家を挙げて受け入れるべきと主張する大臣の蘇我稲目に対して大連の物部尾輿や中臣鎌子らが「外国の神を礼拝すれば我が国古来の神の怒りを受けるでしょう」と反対したので、ヒロニワ大王は稲目に個人的に仏への礼拝を認めたのです。

そこで稲目は自宅を寺にして仏像を安置して仏道に励んだのですが、仏教の一気の国教化に失敗した稲目はおそらく帰化人氏族などを中心に大和朝廷内の官吏の中に崇仏派を徐々に増やしていく努力を続けていったのではないかと思います。大和朝廷を構成する官吏は「部」の出身者が多く、「部」はもともと帰化人によって編成されていましたから、大和朝廷の官吏には百済系や華僑系の帰化人が多かったと思われ、それらの帰化人は仏教にも馴染みがあり、蘇我氏とも繋がりが強かったからです。
仏教の国教化に失敗した最大の原因は、守旧派の抵抗もさることながら、大王の信任を得られなかったことです。大王は群臣の推戴を受けて王位に就きますから、群臣に崇仏派が多数派であれば大王も動かすことが出来ますし、次代の大王は蘇我氏の息のかかった仏教容認派の王子を即位させることも可能になります。
そこで稲目は少しずつ群臣の間に仏教を広めつつ、中央集権化の政治改革も進めていき、その改革派と崇仏派とをリンクさせていったのだと思います。そうした動きが順調に進んでいた中、569年に疫病が流行し多数の死者が出ました。物部尾輿らの守旧派はこれを「我が国古来の神の祟り」と見なして大王に廃仏を直訴して、ヒロニワ大王の許しを得て蘇我氏の寺を焼いて仏像を捨ててしまいました。この時、稲目は既に亡くなっていたそうなので、おそらくは稲目自身が疫病で亡くなったのでしょう。それゆえ「神の祟り」という言説が真実味を帯びたのであろうし、大王のお気に入りの稲目を失っていたがゆえに崇仏派はなすすべもなく弾圧を受ける羽目になったのでしょう。
守旧派のほうも半分は本気で「神の祟り」と思っていたのでしょうけれど、これを好機に崇仏派および改革派を叩いておこうという目論みもあったでしょう。守旧派といっても、要するに豪族の元来持っていた既得権を守っていこうという勢力であって、全くの悪の勢力というわけではありません。むしろ極端な中央集権化を阻んで社会の中間組織を守ろうとするこうした守旧派が日本史においては常に健在であったからこそ、日本社会のシナや朝鮮とは違った独自性が維持されてきたのだとも言えます。ただ、この6世紀後半という時代においては、あまりにも倭国内はバラバラではありましたし、またこの後の隋唐帝国という外圧に対抗するためにはある程度の中央集権化というものは歴史に求められていたのだともいえます。
とにかく疫病という天災のせいとはいえ、569年に崇仏派は思わぬ失態を演じてしまったわけで、しかも中心人物である蘇我稲目も失い、一時的に影響力を大きく減退させてしまいました。そういう中で572年にヒロニワ大王が没したものですから、その後継の大王には蘇我氏の血縁でもなく崇仏派でもないフトタマシキ大王が即位してしまいました。

この崇仏論争の起きた頃からヒロニワ大王の崩御ぐらいまでの期間、だいたい550年から575年ぐらいまでの期間は王権国家文明の変質期前期に相当しており、また同時に新規文明である律令国家文明の胎動期前期にも相当します。後に律令制国家という中央集権国家を作る文明の先駆的要素である政治改革や仏教などが少しずつ社会に裾野を広げていく時代であるといえます。ただそれはこの時代においてはまだ水面下の動きで、まだ時代を動かすパワーにはなり得ていないのです。それゆえその新文明の要素は既存の社会を少しずつ変質させつつ、基本的には既存の王権国家文明の成熟に作用して、王権国家文明はこの時代において最も安定し完成形に至ることになるのです。実際、ヒロニワ大王の治世は、大和王権が出来てからの歴史の中で最も安定し、大和朝廷の統治システムが完成形へ至った時代であるといえます。
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