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日本史についての雑文その303 蘇我・物部の争い
572年のフトタマシキ大王即位後の時代というのは、こうした時代の後を承けた王権国家文明変質期後期の時代であり、この時代においては引き続き王権国家文明が成熟していきますが、新しい文明の要素が外来刺激と社会変化の増大を受けていよいよ自律的に動くようになり、社会の表面に現れるようになり、この時代の終盤には社会を動かす影響力を獲得するようになってきます。
外来刺激の増大というのはシナ大陸や朝鮮半島の情勢変化なのですが、それについては後で触れるとしまして、社会変化の増大という面は前の時代から引き続き継続されていた地方政治や中央政治の改革の流れと、粘り強く大和朝廷内で続けられた崇仏派の多数派工作でありましょう。外来刺激はそうした社会変化を後押しする作用を及ぼしたものと考えられます。
それらを粘り強く進めたのが稲目の息子の蘇我馬子でした。馬子は稲目の後を継いで大臣になりましたが、稲目の病没とそれに続く廃仏騒動、蘇我氏と血縁関係の無いフトタマシキ大王即位などで当初は苦しい立場にありました。しかし粘り強く政治改革と崇仏派の再編成を進めていき、とうとう584年に反撃を開始します。すなわち、584年に仏教を再興して、稲目が行っていたよりも更に大々的な法要を営むようになるのです。
ところが翌585年にまた疫病が流行し、馬子も罹患し、多くの死者が出ました。すると案の定、尾輿の子で守旧派の物部守屋らは「馬子が外国の神を礼拝したことを我が国古来の神が怒っているせいだ」と主張し、フトタマシキ大王もそれに同意して馬子に廃仏を命令して馬子の寺や仏像を焼きました。
ここまでは稲目の時の失敗と同じことの繰り返しのように見えますが、ここからが以前とは違った展開となるのです。廃仏を行っても疫病は収まらず、大王までも疫病に罹患してしまったのです。すると人々が「これは仏像を焼いた罪ではないか」と噂し始めたのです。これはおそらく既に馬子によって群臣の中に崇仏派の多数派工作が行われていたのであり、それらの崇仏派の人達がそうした世論を作ったのだと思われます。そういう点が稲目の時とは決定的に違っていたのです。
そこで馬子が自分の病気平癒のために仏を礼拝することの許可を願い出て、大王は噂話を聞いて仏に畏れを抱くようになっていたのでそれを許可し、馬子は寺を再建し再び仏像を拝むようになります。すると馬子の病気はなんとか治り、一方、大王のほうは結局、病が治らずに586年に亡くなってしまいました。つまり、仏を拝んだ馬子は助かり、仏教を弾圧した大王は亡くなったということになります。こうした決定的な実績と、群臣内の多数派工作によって仏教と馬子はその威信を回復したのです。

これにより馬子はその影響力を増大させ、亡くなったフトタマシキ大王の後継にはヒロニワ大王と蘇我稲目の娘の堅塩媛の間に生まれた王子であるトヨヒ大王が即位することになりました。つまり馬子から見れば甥にあたる王子が大王となったのです。このトヨヒ大王の息子が厩戸王子、つまり聖徳太子です。
このトヨヒ大王は蘇我氏系の王族ですからバリバリの崇仏派であり、馬子はこの大王の下で仏教の国教化を実現しようと思っていたのでしょう。しかしこの大王がすぐに病にかかってしまいます。するとトヨヒ大王は病気平癒のために仏への礼拝を希望し、仏教への帰依を表明したのです。それをきっかけに崇仏派の蘇我馬子らと廃仏派の物部守屋らとの対立が表面化し、その断絶は決定的なものとなり、守屋らはヒロニワ大王と小姉君という妃との間の子であるアナホベ王子を大王に擁立しようと動き出します。小姉君も蘇我稲目の娘で馬子の姉にあたるのですが、おそらくは腹違いの姉弟であったのあろうと思われ、馬子とは不仲であったので、その子のアナホベ王子も馬子とは疎遠であったので守屋に担がれたのでしょう。
587年にトヨヒ大王は仏教に帰依したまま没し、馬子はその後継としてハツセベ王子を擁立します。このハツセベ王子はヒロニワ大王と小姉君の間の子で、つまりアナホベ王子の同腹の弟にあたります。小姉君と馬子は不仲であったのでハツセベ王子と馬子の間も親密ということもなく、またハツセベ王子は崇仏派というわけでもなかったのですが、トヨヒ大王亡き今となっては、蘇我氏の血を引いたヒロニワ大王の王子たちはもうアナホベ王子とハツセベ王子しか残っておらず、守屋がアナホベ王子を推すならばその対抗上、馬子はハツセベ王子を推すしかなかったのだといえます。
こうして587年にハツセベ王子を推す蘇我馬子の軍勢と、アナホベ王子を推す物部守屋の軍勢とが河内を舞台に衝突することになり、蘇我軍が勝ってアナホベ王子や物部守屋を討ち取り物部氏を滅ぼしました。こうして排仏派は一掃されることになったのです。

日本書紀によればこの戦役に14歳であった厩戸王子が蘇我軍の一員として加わり、四天王に戦勝祈願をして戦ったので後に摂津国に四天王寺を建てたとされています。四天王は仏教の守護神とされている神です。実際は四天王寺は7世紀初頭の建立でこの戦役の後にすぐに建てられたわけではないのですが、7世紀末の日本書紀編纂時にはこのような逸話が信じられていたということは、厩戸王子の戦勝祈願や従軍が事実でなかったとしても、とにかく四天王寺がこの戦役に関係深い寺であったことは確かなのでしょう。四天王寺の建立の際に物部氏の私的財産の多くが寄進されていることから、四天王寺はこの戦役の勝利を記念して建てられた寺で、この戦役で滅ぼされた物部氏やアナホベ王子らの鎮魂を目的とした施設から発展したものではないかと思われます。
またこの戦役時に蘇我馬子も仏に戦勝祈願をしており、戦勝後に飛鳥寺を建てています。これは本当に戦役後にすぐに建てられたもので、日本における本格的な寺院の初めであります。この飛鳥寺でもおそらく滅ぼされた物部氏の鎮魂が行われたものと考えられます。
物部氏は滅ぼされてしまったわけで、従来の倭国の宗教観では子孫が絶えると祖霊祭祀を出来る人がいなくなるので祖霊が祟り神となって災厄をもたらすはずなのですが、物部氏が祟ったという話はありません。そしてこれ以降、このように後の祭祀のことを気にせずに一族を完全に滅ぼしてしまうようなことがしばしば行われるようになります。
馬子や厩戸王子は仏に戦勝祈願をしたわけで、言い換えると物部氏やアナホベ王子は仏に滅ぼされたということになります。仏はこの世の一切の衆生の救済を行うものですから、物部氏やアナホベ王子の魂を救済し鎮めることが出来るということになり、それゆえ仏教で鎮魂することによって物部氏らの祖霊の祟りは仏には作用せず中和され、一族が滅ぼされた物部氏の祟りが発生しなくなるのです。つまり、仏教で鎮魂することを前提とするならば、敵対勢力を根絶やしにするほどの思い切った処置も可能になるのです。
この物部氏の戦役はそういった思想を最初に実践し、そして実際に祟りが生じなかったという実績を示した最初のケースとなったのであり、これにより仏教は鎮魂法、慰霊法の新しいスタイルとして着実な地位を築くことになります。守旧派による反動攻勢は失敗し、むしろこのように改革派は倭国社会の伝統的な閉鎖的社会構造や意識形態を変革して時代を大きく動かし得る力を得ることになったのです。

こうして仏教という新たな鎮魂法が確立することになり、有力豪族は寺院を建てて、特にその中でも初期仏教においては供養塔を重要視するようになりました。つまり初期仏教においては供養、鎮魂が最も重視されていたということで、供養塔の基礎部分には前方後円墳の石室に入れられていたような副葬品が供えられることになり、高くそびえる塔はまるで前方後円墳の大きさがそうであったように、権力の大きさを示していたのでした。
更に、崇仏派が勝利して仏教鎮魂法を確立することによって地方政治における大和朝廷による介入の自由度は高くなり、地方豪族の勢力は弱められ大和朝廷への従属度が高くなっていきました。つまり首長権力が弱体化していったということで、それによって首長権力の下で使役されていた有力農民層がある程度自立するようになり、今までのように巨大な古墳が作られることはなくなり、代わりに横穴式石室を持った小型の家族墓によって構成される群集墳が主流になっていったのです。こうして6世紀末には巨大前方後円墳の時代は終焉を迎え、入れ替わりに高い供養塔を備えた寺院が有力豪族によって建立される時代が始まるのです。
また、この後7世紀初頭になって小墾田宮という左右対称の整然とした構造を持ったシナ風の本格的な宮が初めて作られることになりますが、こうした恒久的な宮殿を建てることが出来るようになったのも仏教による鎮魂の普及の効果です。つまりそれ以前は大王の死のたびに宮の位置を移動させてきたわけで、それゆえ恒久的使用を前提とした公共的施設ではなく、さしあたりの大王の私的な居館で政務を執るということになっていたのです。なぜ大王の死のたびに遷宮していたのかというと、大王の死によってその場所に死穢が発生するのでその場を隔離して祀らなければいけないからでした。しかし、新たに定着した仏教による鎮魂思想によって、仏教で慰霊することによって死穢さえも中和されるということになったので、大王が代替わりしても引き続き同じ場所で政務を執ることが可能になり、本格的かつ公共的な施設としての宮が造営されるようになったのです。
このように仏教は従来の神のルールに縛られない特別に強力な呪力があると見なされていたのであり、これは豪族たちの首長権力を超越した絶対的権力へと成長しようとしていた大王権力を祭祀面で補完する役割を期待されていたということを示しています。この仏教という補完的要素があったからこそ、後に律令国家における天皇制が成立したともいえます。そういう意味で、仏教が興隆した6世紀末は、とうとう律令国家文明がその姿を世に出現させて影響力を発揮し始めた時代だといえるでしょう。すなわち、律令国家文明の胎動期の終盤にあたるわけです。

さて物部氏を滅ぼした蘇我馬子は588年にハツセベ大王を即位させますが、この大王は馬子ともともと反りが合わず、仲が険悪になって馬子を討とうとしたので、馬子は593年に大王を暗殺してしまいました。これでヒロニワ大王の王子たちはみんな死んでしまったことになり、次の大王はその次の代から選ぶということになります。その中で最年長で最有力であったのはフトタマシキ大王の子であった彦人大兄王子でしたが、この王子は蘇我氏の血を引いておらず、しかも排仏派であったフトタマシキ大王の子ということで、馬子としては許容できない選択でした。
馬子の意中の大王候補は蘇我系王族であったトヨヒ大王の子であった厩戸王子でしたが、彦人大兄に比べてまだ若く政治実績も無く、そして何といってもハツセベ大王の死は公式には第三者による殺人事件でしたが、誰がどう見ても馬子が黒幕であるのは明白であり、馬子への群臣の視線は冷ややかであったので、馬子としてもこの時はあまり無理押しが可能な状況ではなかったのです。
そこで馬子は変則的な手段でこの苦境を乗り切ることにしたのです。つまりヒロニワ大王と堅塩媛の間に生まれた王女、つまりトヨヒ大王の妹であるカシキヤヒメを初の女性大王として推戴することにしたのです。カシキヤヒメならば蘇我系王族であり崇仏派であり、しかもヒロニワ大王の娘ですからヒロニワ大王の孫である彦人大兄王子よりも格上となります。しかもカシキヤヒメはただの王女ではなくフトタマシキ大王の正妃であったので、権威も十分に備わっていました。しかも彦人大兄から見れば義理の母にあたるわけです。彦人大兄の即位を阻むにはカシキヤヒメの即位しか選択肢は無かったといっていいでしょう。
そして馬子は更に、女性大王であるカシキヤヒメの補佐役として、その甥にあたる厩戸王子を摂政として付けて、大王の後継者としての太子としたのです。つまり、カシキヤヒメの治世の間に厩戸王子に政務の経験を積ませて、カシキヤヒメの後継者は厩戸王子であるという既成事実を作ってしまおうという計算です。そうして彦人大兄王子には決して王位を渡さないという作戦であったのです。そういうわけですから馬子は将来の大王候補として厩戸王子に自分の娘を嫁がせたわけです。
厩戸王子はこうして19歳にして摂政となったのですが、蘇我系王族のホープであり、バリバリの崇仏派でありました。何せ父親は仏教に帰依して亡くなったトヨヒ大王でした。カシキヤヒメ大王も崇仏派でしたから、即位の翌年594年には仏教興隆の詔が下されて、蘇我馬子と厩戸王子がタッグを組んで仏教の普及に励んでいくことになり、同時に大和朝廷の大王権力の強化と中央集権化の改革政治を進めていくことになるのです。そうして王権国家文明の変質期は終わっていき、続いて7世紀に入ってからは改革の速度は急速に高まっていきますが、それは外来の刺激がひときわ大きくなってきたからでした。外来の刺激とは、シナ大陸の状況の大変化に起因するものでした。
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