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日本史についての雑文その304 律令制の成立
2世紀末に始まる後漢末期の大動乱と地球寒冷化の開始の結果、シナ世界の人口は約10分の1に激減し、華北はほぼ無人地帯となってしまいました。後漢滅亡後にその華北を治めたのが魏でしたが、魏は国力の乏しい状態で呉や蜀と競合していかねばならず、その解決のために北方異民族を領内に大量移住させて労働力や兵力としました。その魏から王権を簒奪した司馬氏が3世紀中頃に晋を建国し、晋がシナ全土を統一しましたが、すぐに4世紀初頭に華北で北方異民族の各部族が蜂起して晋は滅び、晋王朝は江南に亡命して、華北は五胡と呼ばれる匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の各部族の諸勢力が相争う戦乱の場となりました。ここから五胡十六国時代となります。
この五胡十六国時代はあまりにも諸部族諸勢力の興亡が激しく、異民族同士の憎悪も激しかったため破壊や殲滅も徹底的に行われ、そのうえこの時代は更に地球寒冷化が進んでいったため緯度の高い華北地方は飢饉にも見舞われ、極端な人口減少などが各所で見られました。そうして各所に無人地帯などが突然出現することなどもよくありました。
そこで各所で各部族勢力による農民の強制的な移住政策がとられ、戦利品として捕らえられた農民が無人地帯に強制連行されて移住させられて、その農民たちに権力者から土地を人数分で均等に分けて給付して耕作させて、農民は一定の租を納付させられるようになりました。
この五胡十六国時代の華北はあまりに混沌としていたので、倭国としても外交関係を結ぼうという意思は無く、疎遠な関係で情報もほとんど得ていなかったようです。実際、付き合うほどの価値も無く、倭国にとって有益な情報もほとんど無かったでしょう。ただただ匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の各部族の諸勢力が互いに争い合い奪い合い、その中で各部族の農民が半奴隷状態であちこちに強制移住させられて農地を給付されて働かされていたという状態であったのです。

こうした戦乱の華北を439年に統一したのが鮮卑族の北魏だったのですが、つまりこの北魏の領内には北魏王朝に臣従するようになった匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の諸部族が豪族という形で各地に分かれて勢力を保っており、それらの豪族は土地を給付して働かせている私有民をそれぞれ所有していたということになります。初期の北魏はこうしたそれぞれ文化も言語も違う諸豪族の勢力を武力で束ねた連合国家に過ぎず、華北内での戦乱は収まったものの社会構造は五胡十六国時代と本質的には変わりないものでした。
北魏の皇帝はもともと独立して存在していた各部族を屈服させて配下にしていって、それらの諸部族の支持を得て皇帝にまで登りつめたわけですから、皇帝といっても絶対権力者ではなく各部族の発言力はかなり大きいものでした。こういう点、大和王朝の大王と似たようなものであったといえます。
つまり北方遊牧民の集まった国家が華北に生まれたというだけのことで、これは漢帝国のようなシナ帝国とは別種の存在であったといえます。シナ帝国は4世紀初頭に滅び去っていましたし、そもそも古来のシナ人もシナ文化といえるものも3世紀前半にはほぼ消滅しており、華北は主に北方遊牧民の生息する地となって久しいのでした。
そういった北魏の現状に不満を持ったのが他ならぬ北魏の皇帝で、471年に即位した6代皇帝の孝文帝は各部族の豪族の勢力を抑えて中央集権化を図り皇帝権力を強化することを望むようになります。そのためにまずは豪族の勢力の基盤となっている私有地や私有民を奪って豪族を弱体化して、それらの土地や人民を皇帝が独占することを望みました。
そのために孝文帝は既に消え去って久しいシナ文化に目をつけました。シナ文化においては儒教において理想とされた社会制度は周の時代の「王土王民」「一君万民」、すなわち「土地と人民は王の支配に属し、王の前に万民は平等である」という理念を具体化した井田制というものでした。ただこれは、実際にそんな制度が周代に実施されていたというわけではなく、あくまで漢代の儒学者が理想の制度として創作したものであったのですが、とにかくシナ文化においてはそれが理想とされていたのは事実なのです。
孝文帝は遊牧民国家であった北魏にシナ文化を導入する方針を示し、「王土王民」「一君万民」の理想の実現を図ろうとします。なぜ孝文帝が華北では既に滅び去ったシナ文化をわざわざ導入しようとしたのかというと、決してシナ文化に憧れたとか染まったというようなことではなく、単に豪族勢力を弱体化させ中央集権化を図るのに好都合であったからに他なりません。

孝文帝の漢化政策として、まず北魏の首都を北方にあった平城から洛陽に移し、配下の豪族たちに遊牧民の服装や言語の使用を禁じて、シナ服の着用とシナ語の使用を強制しました。更に遊牧民豪族にシナ風の姓を名乗らせ、シナ人の有力者を配下の貴族に加え、遊牧民の豪族たちにシナ人貴族との結婚を推奨して混血化を図ったのです。
遷都は遊牧民部族の本拠地から離れた地に首都を移すことで部族社会を弱体化させるためであったし、シナ文化の強制も混血化も、遊牧民の部族社会を解体してシナ文化への親和性を高めるためでした。配下の遊牧民豪族は部族がバラバラで言葉も通じなかったので、部族連合国家である北魏の朝廷内における共通語としてはシナ語が便利であったという事情もあります。なぜ便利なのかというと、当時の東アジアで唯一の文字が漢字であり、漢字を音読するにはシナ語が一番便利だったからです。
シナ語といっても旧来のシナ語とは違い、遊牧民の訛りが相当に入ったシナ語で、同じ漢字を音読する場合でも旧来のシナ語とはかなり違った発音になりました。これがいわゆる漢字の「唐音」というやつで、旧来のシナ語のほうの発音を「漢音」といいます。他にも江南訛りの「呉音」などもありますが、とにかくこの5世紀末に北方遊牧民が漢字を導入して共通語として新しいシナ語を作ったのです。倭国でもこの頃は倭製シナ語を公用語として使っていましたから、まぁ似たようなものです。
またシナ語であれば北魏の豪族を構成する五胡の部族のどの部族にとっても母国語でないので共通語として公平であり、統一国家形成には適していたともいえます。同時期に仏教の国教化を進めたのも、これと同じで異国の宗教であれば諸部族をまとめる国教として相応しいという意味もあったのでしょう。また仏教の場合は部族ごとの祭祀権を超越した性格を持っていたので中央集権制との相性が良かったというのは大和朝廷の仏教受容の場合と同様ではあります。

このようにして新しいシナ人が作り出されていったのですが、孝文帝はこのようにして北魏の遊牧民の豪族たちにシナ文化を馴染ませつつ、「王土王民」「一君万民」という理想の実現をスローガンにして、豪族たちから土地や人民を取り上げて皇帝の直轄とし、土地を均等に分けて人民に貸与して耕作させ定額の租税を納めさせ、土地を取り上げた豪族たちは官僚として皇帝に仕えさせ俸禄を与えるようにしたのです。こういう点、仏教を国教としながらも国家理念としては漢の武帝以来の儒教的なシナ帝国の国家思想を引き継いで利用しているといえます。
人民は定められた年齢になると国家から貸与されていた土地を返還せねばならず、これによって私有地の世襲が制限されるので、豪族が多くの土地を囲い込むことが出来なくなり、皇帝への権力の集中が容易になったのです。これが均田制で、完全に私有財産が否定されたわけではありませんでしたが、豪族が弱体化し、部族社会を解体し、皇帝への権力集中を進めるには十分に効果を発揮しました。
もともと五胡十六国時代の戦乱の中で人民は権力者に強制的に移住させられたり土地を与えられて耕作をさせられたりすることには慣れており、そうしたスタイルは定着していたといえます。その権力者が豪族から皇帝に替わったというだけのことで、人民にとってはそれほど違和感は無かったのだといえます。言うなれば均田制とは、戦乱の中から生まれてきた非常時の制度なのだといえます。
ただ、この均田制を全国規模で実施するためには全国の人民の数や分布を正確に把握していなければなりません。そのためには戸籍が不可欠ということになりますが、戸籍を作成して均田制を実施していくためには緻密な地方行政組織とそれを支える官僚機構や交通制度などが必要となりました。そしてそれらを運用していくための体系的な法令が必要となり、晋時代に施行されていた律令が再活用されることとなったのです。
律というのはシナ古来の法家思想に基づいた刑法典のようなもので、令というのは元来は律の補完的なものであったのですが、北魏において均田制を実施していくための行政組織の整備が進むにつれて、その規定はどんどん増えていき、それが令に盛り込まれていったので、次第に行政法としての令のほうが重要性を増していきました。
孝文帝は599年に死去しましたが、6世紀になってからも北魏においては均田制の実施に伴って更に律令が整備されていき、行政組織や官僚機構が肥大化し発展していくようになりました。これが律令制の誕生と発展です。律令制とはその基礎を均田制に置いているので、基本的に乱世から生まれてきた体制であるといえるでしょう。そして、律令制は強力な中央集権国家を作って人民の生産力や戦闘力などを国家に効率よく集中させることが出来るシステムであったので、この律令制を効率よく運用し発展させた国家が乱世の中で勝ち抜くことが出来るという特性もありました。言い換えると、律令制は乱世の中で発展していく非常時のシステムであるのです。

そして6世紀という時代はまさに華北は乱世の時代であったのです。まず6世紀になると地球寒冷化がとうとうピークに達し小氷期のレベルに達しました。これが中世極小期といわれる時期なのですが、この極小期は比較的寒冷化の度合いが低く、日本列島などにはそれほど大きな影響は与えなかったのですが、もともと寒冷な華北においては農作物などへの被害をもたらしたものと思われます。そうした中でより効率よく土地や労働力を活用していくために律令制は発展していったのです。
また華北よりも更に北方のモンゴル高原にも寒冷化の影響は強く作用し、その地に住んでいた柔然という部族が飢えて南下して北魏とよくトラブルを起こすようになったので、北魏は北方地域に六鎮という専門的戦闘集団の遊牧民軍団を置いて警備にあてるようにしていたのですが、均田制や漢化政策によって部族社会が解体されていくようになると六鎮の地位が低下していき、これに不満を持った六鎮が523年に反乱を起こし北魏は大混乱に陥り、534年に東西に分裂して東魏と西魏に分かれ相争うようになりました。こうした争いの中でも律令制は更に整備発展していったのです。
北魏が東魏と西魏に分かれた時に六鎮の有力な軍団が東魏に集中したため危機感を持った西魏では国家防衛の兵力を補うために戸籍を民籍と兵籍に分けて、民籍の農民からは租税を徴収し、兵籍の農民には租税を免除する代わりに自前で武器を持たせて兵役に就かせるという兵農一致の制度を導入しました。これが律令制の中で均田制と対をなす兵制となる府兵制の始まりでした。これは一種の徴兵制で、これによって国家財政の負担を増やすことなく巨大兵力を動かすことが可能になったのです。
これによって西魏は東魏と対抗していくことが可能になり、西魏は557年に北周に変わり、三省六部の官制を整備して、税制も租庸調の制度が始められました。租は貸与された耕作地ごとに納める穀物でいわゆる年貢にあたり、庸は労役義務の代納物として納める物納で、調は単なる物納でした。
573年にこの北周の皇帝の外戚となったのが鮮卑族出身の楊堅という男で、北周の実権を握るようになります。そして577年に北周は東魏から変わった北斉を滅ぼして華北を統一しますが、581年に楊堅が北周を乗っ取って皇帝となり、隋を建国しました。これが隋の文帝です。そして589年に隋は南朝の梁から557年に禅譲を受けて建国されていた弱小国家の陳を滅ぼし、遂に鮮卑系の遊牧民王朝によってシナ再統一が成し遂げられたのです。

隋を建国した文帝は581年の即位後すぐに開皇律令を制定し、これは非常に整備された体系を有しており、律令の完成形といわれています。また官制も極めて整備され、三省六部や御史台を置き、官僚の登用試験として科挙を始めました。科挙というのは筆記試験によって官僚を選抜する制度ですが、要するに儒教の経典をよく理解している者は有徳な人間で、そういう有徳な人間を為政者にしたほうが良い政治が行われるだろうという理念のもとに生まれた制度なのですが、本音の部分では官僚の選任権を豪族から取り上げて皇帝が独占したいという狙いがあったのです。但し、隋唐時代においては官僚の上級職は貴族層が手放さなかったので科挙制度は骨抜きとなり、後の時代のようにその威力を発揮はしませんでした。
また文帝は仏教を国教として重きを置きました。そして民籍と兵籍の区別を無くして府兵制を一般民戸に適用して、全ての成人男子が衛士や防人の兵役の対象となりました。この新しい兵制によって隋は南朝の陳を滅ぼす際には50万もの軍勢を繰り出すことが出来るようになったのです。ここにおいて律令制は完成し、この隋の律令制は基本的にそのまま次の唐帝国に引き継がれることになります。こうして強大な兵営国家であり中央集権の律令制国家である隋帝国が戦乱の中から出現し、華夷秩序を国家理念としたシナ帝国が復活したのです。

倭国はもともとシナ大陸の南朝に朝貢しており、5世紀終盤に朝貢をやめてからも百済を経由して南朝の文物や情報は仕入れていたのですが、伝統的に華北の遊牧民王朝については興味が薄く、北朝のほうとは交流も無く、6世紀になってからの北魏における律令制の誕生と発展という新しい展開について当初は把握出来ていませんでした。
ただ570年には倭国の同盟国であった百済が南朝だけではなく北朝にも朝貢するようになり冊封を受けて官爵を授かったりするようになりましたから、この頃から百済経由で情報を仕入れて、大和朝廷の中枢部は華北の状況はある程度は把握するようになっていたのではないかと思います。おそらくは律令制の詳細までは把握していなかったでしょうが、581年に隋という強大な中央集権国家が華北を統一支配するようになったという情勢把握はしていたと思われます。百済は隋建国時の581年にはすぐさま隋に朝貢して冊封を受けていますから、同盟国の倭国もそうした情勢は把握していたでしょう。
百済は南朝にも朝貢していましたから、北朝の隋が遠からず南朝の陳を呑み込むであろうことも予想していたでしょう。いや、そもそも570年の段階で北朝のほうが優勢であると見てとって北朝への朝貢を開始したのでしょう。そういったシナ大陸の情勢は同盟国の倭国の百済重視派にも伝えられ、百済重視派の中心であった蘇我氏は倭国も中央集権化を急ぐべきであるという認識を強め、それが584年の仏教の再興から587年の蘇我・物部の争いまでの一連の流れにつながっていったのだと思われます。

そして589年には隋によってシナ統一がなされるのですが、それでもまだ倭国は隋へ使者を送ろうとはしませんでした。朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の各国は盛んに隋に朝貢していたので、これはやはり倭国はあえて隋を無視していたと考えたほうがいいでしょう。
なぜ倭国は隋へ朝貢をしなかったのかというと、シナ帝国に朝貢をすれば冊封を受けることになり、官爵を授かることになりますが、かつて5世紀後半にオオハツセノワカタケが宋とトラブルを起こした時のように、倭国の大王の望む官爵は得られないと予想できたからでした。
倭国の独自の天下観では、倭国の大王は日本列島と朝鮮半島南部を支配しているということになっており、もしシナ帝国から官爵を授かる場合には、これらの地域全域の軍政権と民政権を総覧する官爵でなければ、逆に大王の面子が丸潰れになってしまうのであり、そんな官爵ならば貰わないほうがマシ、というのが倭国の5世紀以来の基本的な考え方でした。
実際、百済や新羅は倭国に人質や貢物を送ったりしており、逆に倭国から百済や新羅に人質や貢物を送ったりはしていないのであり、確かにこれら両国は倭国に従属的ではあったと思われます。おそらく百済や新羅にしてみればこれらは外交の一環であったのでしょうけれど、倭国から見ればこれらの国は属国であったのでしょう。
しかしそういう倭国の主観はシナ大陸の国家には理解されないのであり、シナ帝国にとっては世界の中心はあくまでシナ帝国であり、シナ帝国と周辺国との間の従属関係だけが存在するのであって、周辺国同士の従属関係などは考慮外であるのです。百済や新羅が既に隋に朝貢して官爵を受けている以上、倭国が今さら朝貢したところで得られる官爵からは百済や新羅の地域における軍政権も民政権も含まれるはずはないのです。そんな官爵を貰っても倭国の大王の面子が傷つくだけであり、かえって大王の国内の求心力が低下する恐れすらありました。だから朝貢などする意味は無く、交易を求めるならば従来通り、百済経由で隋からの文物を仕入れればいいだけのことだというのが倭国のスタンスであったのです。そのようにして隋を無視して朝貢もせず官爵も受けない限り、倭国の大王は実質的に日本列島と朝鮮半島南部の支配者として君臨できるというのが倭国の基本姿勢というわけです。
こうした倭国の外交姿勢に変化が生じるようになったのは、593年にカシキヤヒメ大王の下で摂政の厩戸王子と大臣の蘇我馬子が執政を行う体制がスタートして以降のことで、その変化は朝鮮半島における情勢変化に起因するものでした。
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