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日本史についての雑文その305 遣隋使
朝鮮半島では550年代から高句麗・百済・新羅の三つ巴の戦いの様相となっており、6世紀後半にはこの三国ともにそれぞれシナの北朝と南朝の両方ともに朝貢するようになりました。この間、シナでは北朝の北周や北斉が華北で律令制を発展させて強大化するようになり、これと隣接する高句麗は次第に脅威を感じるようになってきました。高句麗は西からはシナ北朝の脅威を受け、南からは新羅や百済の攻撃を受けるようになったのです。
そこで高句麗は北朝に朝貢しながらその一方で華北の北のモンゴル高原に興ってきた突厥族と結んでシナ北朝を牽制するようになりました。突厥族とはトルコ族のことで、もともとはモンゴル高原の西のアルタイ山脈に居住していた遊牧民ですが、552年にモンゴル高原の柔然を撃破して突厥を建国し、その後、短期間で東は遼河から西はカスピ海までの広大な範囲を征服してユーラシア大陸北部に東西に広がる一大遊牧帝国を築きました。シナ北朝の北周も北斉もこの突厥帝国には頭が上がらず臣下の礼をとっていたので、高句麗はこの突厥帝国と結びつくことでシナ北朝を牽制したのです。
一方、高句麗は南の新羅や百済からの脅威に対処するために倭国と結ぶ道を模索することになりました。倭国は百済へは大きな影響力を有していましたし、新羅にとっては南方からの軍事的脅威でした。倭国と結ぶことで新羅や百済を牽制して南方からの脅威を軽減できると高句麗は考えたのです。
そこで高句麗は570年に倭国に使者を送り修好を求めましたが、倭国と高句麗はとにかく200年以上も敵対してきた間柄であり、高句麗と戦っている百済は倭国の大事な同盟国であったのですから、倭国としても簡単に高句麗と同盟するわけにもいかず、話はなかなか進みませんでした。

そうこうしているうちに581年に華北に隋帝国が建国され、589年に南朝の陳を滅ぼしてシナ統一を果たすと、かつてシナ帝国の属領であった朝鮮半島の回収を目論むようになりました。つまり再び朝鮮半島を支配下に置こうということです。かつてシナ帝国の朝鮮半島支配の拠点であった楽浪郡の故地を支配しているのは高句麗であり、隋の朝鮮半島支配の第一の障害となるのは高句麗でした。要するに、隋の次の征伐対象は高句麗というわけです。
その高句麗の盟友であった突厥は急激な成長の反動で広大な帝国内の統一が弱くなり、583年に東突厥と西突厥に分裂し、東突厥の王は「可汗(カガン)」という称号だったのですが、この可汗が他のトルコ族の族長たちに対して優位に立つために隋の文帝の支援を利用するようになり、文帝はこうした東突厥の可汗の弱みにつけ込んで上手に取り入り、東突厥との友好関係を維持して高句麗を孤立させて、じっくりと朝鮮半島攻略に取り掛かろうとしました。
そのように高句麗と隋の間が緊張して、高句麗の立場が苦しくなったのを見て、百済や新羅などは高句麗を倒す好機と見て隋に取り入り高句麗の無法を訴えて高句麗征伐を願い出る始末で、このままでは高句麗は隋と新羅・百済によって挟み撃ちに遭う危険性がありました。
高句麗としてはやはりここは是が非でも倭国と連携して、倭国に新羅や百済を牽制させてその間に東突厥をなんとか味方に引き入れて、最悪の場合は単独で隋と全力で戦うという戦略をとるしかなくなってきました。とにかく西と南から挟撃されることだけは避けねばいけませんでした。そのために何とかして倭国と結ぶしかないのです。

そこで594年に倭国で仏教興隆の詔が出されたことを聞きつけて、翌595年に高句麗は恵慈という仏僧を倭国へ送りました。倭国はこれを喜び態度を軟化させ、恵慈は摂政の厩戸王子の仏教の師となり、同時にその外交顧問のような役割を果たすようになりました。恵慈から最新の国際情勢についてレクチャーを受けた厩戸王子や蘇我馬子らは次第に高句麗と結ぶ方針に傾いていきました。
倭国としても朝鮮半島南部の支配者を自負している立場上、朝鮮半島に実質的な支配権を及ぼそうと考える隋帝国は脅威であり、その隋に対して高句麗憎しの余りとはいえ、半島への隋の軍事介入を促す新羅や百済の態度は倭国から見て大いに問題でした。百済は同盟国だからまだ良いとして、普段から倭国に反抗的な新羅が隋の影響力を半島南部に引き寄せようとすることは倭国にとっては面白いことではなく、少なくとも新羅を叩いて半島南部への隋の影響力を減退させるためだけでも高句麗と結ぶことは有意義に思えました。
考えてみれば4世紀頃は倭国はシナ帝国の復活を期待して、シナ帝国無しでの朝鮮半島の秩序構築を目指した高句麗と激しく争っていたわけですから、変われば変わるものです。それというのも長年の戦いの中でいつしか倭国もシナ帝国の復活を諦め、代わりに倭国を中心とした天下概念を持つようになり、それが定着して既に久しいからでした。今更シナ帝国にその縄張りを侵されたくないというのが本音でした。
そうした中、598年に隋と高句麗の初めての武力衝突が起こり、隋の第一次高句麗遠征を引き起こしました。この時は早期に講和が結ばれましたがその後も一触即発の状態が続くことになります。これを聞いた倭国の厩戸王子らは、かねてから聞いていた隋の脅威が現実化したことに少なからず衝撃を受けたと思われ、初めて隋を現実的な脅威として実感したと思われます。
すると厩戸王子らは隋についてもっと多くのことを知りたくなるわけですが、そこでおそらくは恵慈あたりに「ならば倭国が直接、隋に使者を送って接触してみればいいでしょう」という助言を貰い、それで600年の第一回の遣隋使の派遣へと繋がるのだと考えられます。他国を経由して得る情報よりも直接接して得る情報のほうが比較にならないほど倭国にとって有意義であるし、倭国が隋の脅威を肌で感じて危機に目覚めることは高句麗にとっても有益なことになると恵慈も考えたと思われます。倭国としても、シナ帝国との外交は官爵目当てで行うものという固定観念があったのですが、隋という新たな脅威の出現はそうした固定観念に捉われない外交の在り方に目を開かせたのです。それは長年慣れ親しんできた「シナ帝国の臣下としての外交」ではなく、「シナ帝国と対等の立場に立った外交」というものでした。

この600年の遣隋使が「隋書」にある「倭王は天を兄とし、日を弟としています」云々という使者の口上があったというものですが、これは隋の文帝の質問に答えて倭国の習俗を説明した部分です。この使者のそもそもの使命は何だったのかというと、「隋書」には特に官爵の要求なども無く、ほんの挨拶程度のものであったようです。
おそらく倭国側とすれば敵情視察のつもりであったのであり、使者も聞きかじって知っていたシナ世界で尊ばれているという「天」なるものを持ち出してせいぜい虚勢を張ったつもりであったのでしょうが、それがトンチンカンな返答になってしまい文帝に呆れられてしまいシナ帝国風の政治のやり方を勧められてしまう有様となったのでした。
そのような恥をかいただけでなく、倭国の使者は隋の首都の長安の見事な繁栄、壮麗かつ整然とした宮城、規則正しく立ち働く多数の官人たちや宮城を守護する衛兵の威厳などを見て圧倒されたことが容易に推測されます。おそらくは初めてかつ短期間の隋体験の間には、それらの現象面の繁栄を支えるのは均田制や府兵制、租庸調などの税制、そしてそれらを運用するための律令法など、これらを総合した律令制というシステムであるという本質を倭国の使者は見抜くことは出来なかったと思われます。ただ、実際に目に焼きついたのは、上記のような表面的に現れた成果の部分であり、その部分で対比して隋から遥かに立ち遅れた倭国の実態を思い知らされたのでした。
物質的な繁栄が絶対的価値であるとか、どちらが正しいとか優れているという話ではなく、せっかく官爵の要求もせず対等外交を志しているのに、これほど明らかに差をつけられていては、そもそも交渉相手の隋が倭国を対等な相手として遇する可能性が皆無であるというのが一番の大問題であったのです。

まず倭国としては対等外交を実現するために当面のこの大問題を解決しなければいけないのであって、倭国の使者はそれを深く認識して帰路につき、厩戸王子や蘇我馬子ら大和朝廷の中枢に報告を行ったのでした。また、隋には学ぶべき点が大いにあることと、同時に隋が想像していた以上に深刻な脅威であることも報告されました。
やはり百聞は一見に如かずというやつで、これで倭国の当面の方針が定まりました。まずは隋の脅威に備えつつ、隋との対等外交を実現するために倭国の表面上の体裁を整えていき、早期に体裁が整った後は再度隋へ遣使して外交関係を築き、その後は隋から政治制度などをじっくり学んでいくというものでした。
そして高句麗との関係については、隋の脅威に備える意味でも、また隋との対等外交を目指す交渉の際のカードとしても有効であると見なされ、高句麗との友好関係が結ばれることになりました。さすがに百済の手前もあるのでいきなり最初からあからさまな軍事同盟というわけにはいかなかったのですが、百済への説得と高句麗との間のとりなしは倭国が時間をかけて行うということになりました。
そして新羅に対しては倭国から軍事的圧力をかけて牽制し、高句麗が出来るだけ後顧の憂いなく隋と対峙できるようにすることになり、600年には早速、新羅征討の軍が出され、新羅は倭国に講和を願い出て、倭国は貢物を捧げることを新羅に約束させました。これなども貢物が目的なのではなく、新羅に圧力を加えて高句麗の南方の負担を減らすことが出来れば目的達成なわけです。
新羅への軍事的圧迫は更に継続され、602年にも厩戸王子の弟を司令官として新羅征討の軍を起こし、この時はこの弟宮の妻の死亡により征討軍は九州から渡海せず引き返しましたが、新羅への牽制には十分になりました。この時期、新羅は倭国以外にも百済や高句麗からも繰り返し攻撃を受けて疲弊していきました。

こうして高句麗との同盟の義理をひとまず果たしておいて、続いて倭国は隋との交渉のためにまずは表面上の遅れを取り戻す施策を矢継ぎ早に実行していきます。それは決して政治体制の根本的変革を志向したものではなく応急処置的に表面上の体裁を整えるというようなものでした。これは別に根本的変革を拒絶していたという意味ではありません。ただ、根本的変革には時間がかかるのであり、この時必要とされていたのは、とにかく早急に隋と国交を結ぶことであり、しかもそれは隋の臣としてではなく、対等外交でなければならないのであって、そのためにはまずは早急に隋の目から見て見劣りしないような外見の体裁を整えることが必要であったのです。そうしてこそ初めて隋と国交を開けるのであり、国交を開けばその後でじっくりと隋から先進制度を学んで根本的改革に着手すればいいのです。
だからまずはいわゆる「形から入る」というような施策が早急に行われることになりました。それも、さしあたり倭国の国内において用意できるような「ありあわせ」の要素を動員して「見よう見まね」で形を整えていくということになりました。そのための物品や情報、技術などは倭国国内だけではなく、百済や高句麗などから得るものもあったと思われます。

そうしてまずは603年に飛鳥の地に小墾田宮が造営され、カシキヤヒメ大王以下、大和朝廷の宮臣は皆そこに移り政務を執ることになりました。これは朝庭という広場の東西に左右対称の形で官人の働く政庁が並び、朝庭の北に大王の執務所があるというような、隋帝国の皇帝の宮城部分を模したような造りになっていました。
このようなシナ風の宮殿を作った理由は後の平城京や平安京のような国内統治の拠点としての大きな意味があったわけではなく、ましてや別に単なる異国趣味とか憧れや劣等感などといったものではなく、この場合の目的は明白でした。
それは、隋との国交交渉の際に隋からの使節団が倭国にやって来るのは明白であり、その時にその隋の使節団を迎える場所がこの朝庭なのです。シナ帝国の外交儀礼では皇帝は異国からの使節をこのような朝庭で迎えるというのが決まりであり、それと同じことをやってやろうという意思の現われなのです。つまり外交儀礼の形の面でまずは隋と対等な立場をアピールしようということなのです。
もちろん、目的はそれだけではなく、内政的にも、また将来を見据えた意味でも、それなりに深謀遠慮はあったとは思われますが、とにかく第一義的には外交的にまずは見せ掛けだけ整えようというハリボテのような策であったのです。まぁしかし、国内が荒れ果てていてもショーウインドウ的に首都だけを飾り立てたりするのは現在でも後進国ではよく行われていることではあります。

外交的に見せかけだけ整えるという意味で行われた施策としては、同じ603年に施行された冠位十二階があります。現在でも外交においては「カウンターパートナー」というものが重視されるのですが、要するに元首には元首、大臣には大臣、次官には次官というように、それぞれ対等な位の人間同士で交渉を行うというのが外交上の原則になっているのです。これは古代から変わらないのであって、外国と交渉する場合でも同格の位階を持った相手と交渉したり饗応したりしなければ非礼になるのです。しかしそのためには、相手国に官人の位階制度というものが無ければ、そもそも同格の相手を探す目安というものも無く困惑してしまいます。結局、位階制度も無いような国は野蛮人の国なのであって、まともな外交関係を結ぶ価値も無いということになります。
そこで隋との対等外交を目指す倭国としては、次に隋へ使節を派遣する際には使節の随員全員にしかるべき冠位を名乗らせなければいけないわけで、その後、隋からの答礼使節が倭国の視察のために訪れることが予想される以上、倭国の少なくとも小墾田宮で政務に携わる官人は冠位を持っていなければいけないのでした。そういうわけで冠位十二階の制度が早急に整えられたのであり、これも目的が非常に明確なのです。
もちろん冠位十二階にしても、その目的には内政的にも将来的にも別の意味も込められていたのでしょうけれど、例えばこの冠位は王族や蘇我氏一族には適用されないなど、国内における政治制度の根本的改革という意味では根本的に欠陥があり、その欠陥がその後も長期間改善されることも無かったという点からも、この冠位十二階という制度はあくまで第一義的にまずは早急に外国向けに体裁を整えることが目的であったと考えたほうが適切であろうと思います。

そして、見かけの立派な宮殿で、見栄えの良い官服や冠を被った官人が隋の使節を出迎えたとしても、その官人たちの振る舞いがその宮殿や衣装に見合った礼儀作法を備えていなければ、その外見の良さがいかにも急ごしらえ、ハリボテの田舎芝居であることは露呈してしまいます。
そうなってしまっては元も子も無いのであって、そこで厩戸王子らは604年には朝廷内における政務や儀礼の場での礼儀作法を従来から存在したものを大幅に改訂してシナ人使節の目から見て奇異に映らないように細かく定めました。何せ、倭国の作法といえば隋の文帝にも「日が昇ると政務をやめて休みます」と言い放つほどに、良く言えば牧歌的、悪く言えばいい加減なものであったので、それが絶対的に悪いというわけではないのですが、とにかく隋の使節が来ることを考えれば改めておく方が良いということになります。
そして、こうした規定や法律というものは、その制定目的や根本理念というものが明確にされ、その根本理念が伝統的な社会通念に照らして正当と認められ、更に諸規定や諸法律の個々の条文がその根本理念に照らして正当なものであると認められなければ、その細かな一つ一つの条文を遵守しようという精神は涵養されないのであって、そういう意味では現代の日本における法律にはまともに遵守するに値するような法律は少数派であるともいえるでしょう。
その制定目的や根本理念を示す役割を果たすのが法の中の法である「憲法」なのであって、現在の日本における現行憲法にはそうした根本理念を示そうという意図は明白ではありますが、その示された根本理念が伝統的社会通念に照らして正当であるとは到底認められないという点で「憲法」として落第なのであり、明治憲法の場合はその条文中で根本理念を示すことは出来ていないのですが、同時に発布された教育勅語というものが理念の提示という面では憲法を補完しており、その理念が伝統的社会通念に適っているという点で「憲法」としては及第であるといえるでしょう。
それはさておき、とにかく細かな規則を示す場合にはその制定目的やその根本理念を同時に示さなければいけないのであり、この604年の朝廷内の礼儀作法の規則というのがおそらく倭国における最初の細々とした規則の制定であったのであり、ならばこの時に同時に倭国で最初の「憲法」が示されるのは必然であったといえます。そういうわけで604年に日本最初の憲法である「十七条憲法」が示されたのです。
この十七条憲法は官人の従うべき根本的な規範や理念、心得を示したものであり、現在のいわゆる憲法とはだいぶ違ったものでありますが、それはこの十七条憲法と対になる諸規定がこの時代は官人向けの規定であったからであって、諸規定の根本法典としての憲法の原則には忠実なのであり、これはこれで立派な「憲法」なのです。
このような憲法をも示すことで、官人たちの礼儀作法は単に上から命令されて嫌々ながら上辺だけを取り繕うというものではなく、真にその目的や理念を理解して自ら進んで礼儀正しく振舞うというような「実」のあるものに脱皮するのです。礼儀作法の諸規定を実効性あるものとして、官人の根本的な意識改革を促す意味でも憲法の発布は必須であったといえます。

こうして宮殿を造り、冠位の制度を作り、朝廷内の諸規定を整え、官人に礼儀作法を教え、なんとか隋の使節を迎えられるだけの態勢が整った時点で、607年に小野妹子を大使とした二回目の遣隋使が隋の都の長安に派遣されたのです。この時の倭国から隋に宛てた国書が有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」から始まるもので、当然官爵の要求も無く、内容的には一応礼儀に適ったものではありましたが、倭国の意図が対等外交の実現にあることは明白でした。
しかし、倭国の意図がそうであったとしても、相手側の隋のほうがそれを好意的に受け取るとは限らないわけで、文帝は604年に亡くなっており、この時は二代目皇帝の煬帝の時代でしたが、この煬帝は漢の武帝のように非常に中華意識が強く積極政策を好む皇帝で、中華意識に基づいた華夷秩序の世界においては「天子」というものはこの世にたった一人シナ帝国の皇帝だけなのであり、そのたった一人の「天子」たる自分に向かって何処の馬の骨とも分からない蛮族の王が「天子」だと名乗って挨拶してくるなどとは、全く非礼で許せないことであったのです。そこで煬帝は激怒して「蛮夷の書、無礼なり。二度と取り次ぐな」と外務相に命じたとのことです。
これはまた酷い差別意識なのですが、シナ世界ではこれが常識なのであって、煬帝は確かに極端な部類ではあるのですが、おそらくもっと温厚な皇帝であったとしても、この国書は無礼なものであると見なしたことでしょう。それを差別的だの独善的だの非難するのは容易いのですが、現実にそういう差別的な意識を持った人を相手に交渉しなければいけないのですから仕方ないのです。
倭国の目的は隋と対等かつ円満な外交関係を築くことにあるのですから、ここで皇帝を激怒させて国交断絶に至るようでは目的達成はおぼつかないのであって、ここまでの7年間の苦労も水の泡なのです。だから不用意に「天子」という言葉を使って煬帝を怒らせたのは倭国側のミスなのであり、考えが至らない部分であったのだと言えます。この部分の認識が倭国側ではなかなか改まらず、この後も何度か隋や唐とトラブルを起こすことになりますが、何度か失敗していくうちに学習していくことになります。

このようなミスがあったにもかかわらず煬帝が倭国との交渉を打ち切らなかったのは、倭国と高句麗との同盟が有効に作用したからでした。この第二回遣隋使が送られた607年には高句麗が秘密裏に東突厥に同盟を持ちかけていたことが煬帝の知るところとなり、高句麗と隋の間の緊張が高まっており、倭国が高句麗寄りであることも隋では把握していたため、倭国を突き放して高句麗支援に回らせては厄介だと判断し、とりあえず交渉は継続することにしたのでした。
そこで煬帝は小野妹子に返書を与えて、隋の答礼使節を伴わせて倭国へ帰したのですが、妹子は帰り道の途中でこの大事な返書を紛失してしまいます。しかしこれはあまりに不自然であり、おそらくは隋の返書が倭国を臣下扱いするものであったので、それを厩戸王子らに見せることで事態が紛糾することを恐れて妹子が破棄してしまったのでしょう。
そして608年に倭国に戻ってきた妹子は朝廷に交渉内容を報告し、小墾田宮の朝庭では隋からの答礼使節を手厚くもてなす外交儀礼が行われ、倭国の文明度をしっかりアピールしました。しかし倭国の官人たちの8年間の努力に水を差すのもなんですが、いくら立派な宮殿で手厚いもてなしをしたり官人の礼儀作法を見せ付けたところで、シナ帝国の中華意識という抜きがたい差別意識がある限り、それぐらいのことをしたぐらいでは所詮は蛮族は蛮族なのであり、シナ皇帝の臣下にしかなれないのであり、対等外交など簡単には実現できないのです。
おそらく妹子は厩戸王子らにそれとなく「どうも天子という言葉を使うのはマズイようです」と報告したのでしょう。それで隋使を送って再び妹子が隋へ赴く第三回遣隋使の国書では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」となっており、なんとか「天子」という言葉を使わずに対等感を出そうと工夫しています。ちなみに「天皇」というのは「皇帝」の語源になったシナの古代の神の名前であり、おそらく厩戸王子や恵慈のような大和朝廷内の漢籍に詳しい者が探し出して国書に使ったのであろうと思われ、この時点で倭国において大王のことを日常的に「天皇」と呼称していたというわけではないのでしょう。
ただ、このような文面上の努力や体裁上の努力を行ったところで、おそらくは煬帝の不興は収まるということはなく、倭国に対しては不信感や侮蔑感は消えることはなかったと思われます。それでも図々しく何度も小野妹子などが隋へやって来ることを許しているのは、全て実は高句麗遠征を見越した外交戦略に過ぎなかったのでした。結局、外交というものは力と力のぶつかり合いなのであって、儀礼よりもパワーバランスに左右される要素が大きいのです。倭国がなし崩しに臣下の礼もとらないままに何度も遣隋使を派遣して、第三回以降は留学生も派遣して隋の先進文明を吸収していくことが出来たのも、実際は国書の文面や国内の体裁の整備などはあまり関係なく、高句麗との連携プレーが有効に機能したからであったのです。

結局、遣隋使は615年までの間に計5回に及び、隋の国家体制についての貴重な情報が倭国にもたらされることになりました。その間、612年にはとうとう煬帝は自ら113万もの大軍を率いて第二次高句麗遠征を開始しますが、高句麗がよく防戦し、隋軍は平壌に達することが出来ず退却することになりました。この時、百済は倭国の説得もあり隋軍に加わりませんでした。そして新羅は倭国と百済に牽制されて動けず、高句麗は後顧の憂いなく隋軍と戦うことが出来たのです。
思わぬ敗戦に焦った煬帝は翌613年にも第三次高句麗遠征を行いますがまたしても失敗し、更に614年にも第四次高句麗遠征の動員令を出しましたが、ここまで来るとさすがに隋の国力も疲弊し各地に反乱も起きるようになり兵も集まらず、高句麗遠征は断念せざるを得なくなりました。
そして616年に煬帝が江南地方に行幸に出かけている間にシナ全土で反乱が起き、617年には李淵という鮮卑人の将軍が挙兵し東突厥と同盟して長安を占領して煬帝の孫の代王を皇帝に擁立しました。江南にいた煬帝は翌618年に部下の反乱で殺され、それを聞いた李淵は代王を殺して自分が皇帝となり、隋帝国は滅びました。この隋の滅亡によって倭国や高句麗は朝鮮半島へのシナ帝国の侵略という危機をひとまず乗り切ったのですが、この隋を滅ぼした李淵という男が唐の高祖であり、こうして出現した唐帝国が倭国や高句麗にとって次なる脅威になっていくのです。
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