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日本史についての雑文その306 聖徳太子
この隋との外交が展開された時期に倭国の国政の舵取りをしていたのが厩戸王子や蘇我馬子でした。593年に19歳で摂政となった厩戸王子は、21歳にして仏教の師であり外交顧問である恵慈と出会い、26歳の時に最初の遣隋使を派遣し、その後、44歳の時に隋が滅びるまで対隋外交と内政改革を指導しました。その4年後、622年に48歳にして厩戸王子は亡くなりますが、次代の大王候補として期待されていた厩戸王子が即位しなかったのは、単に「つなぎの女王」であったはずの叔母のカシキヤヒメ大王が予想外に長生きして、太子であった厩戸王子のほうが先に死んでしまったからでしょう。この頃は譲位の慣習は無く、大王は終身職であったので、先代大王が死なない限り、太子が即位することは出来なかったのです。
この厩戸王子が後に「聖徳太子」と呼ばれて神聖視されていくことになり、8世紀には「聖徳太子信仰」といえるようなものが成立します。聖徳太子にまつわる「馬小屋の前で生まれた」だの「10人の話を同時に聞いた」だの「馬に乗って富士山に登った」だのというような神秘的な伝説はだいたいこの時期に成立したものと思われます。また蘇我・物部の戦いの時に四天王に戦勝祈願して四天王寺を建てたという伝説をはじめとした、多数の寺院の縁起にまつわる聖徳太子伝説もこの頃に作られたものでしょう。

なぜ厩戸王子が「聖徳太子」として神格化されていったのかというと、まず8世紀になって仏教が国教化して広まっていくにつれて、初期仏教の保護者である厩戸王子が聖人視されるようになったという事情が考えられます。また8世紀に本格化した中央集権化やシナの文化や制度の導入の先駆者として敬われたとも考えられます。しかし初期仏教の保護者や中央集権化の先駆者というのなら蘇我馬子もまた熱心な保護者や先駆者であったのですが、645年の大化の改新以降は蘇我氏は悪玉として扱われることになったので、蘇我馬子よりも殊更に厩戸王子のほうが祭り上げられるようになったのでしょう。
また645年以降の蘇我氏悪玉史観の影響という点で言えば、蘇我氏を悪役として描くために相対的に、大化の改新の前に蘇我氏に滅ぼされた山背大兄王の上宮王家が善玉として扱われるようになり、その上宮王家の祖で山背大兄王の父である厩戸王子が神格化されるようになったとも考えられます。
そのように後に付け加えられた神秘的な伝説部分を取り除いた厩戸王子の実像は、それでもそうした伝説が広く受け入れられる程度には民衆や官人たちにとっては良好で身近なイメージのものではあったのでしょう。優れた政治家であり、また熱心な仏教の保護者であり、信者であり、研究者であったのでしょう。しかしただそれだけではなく、その上に加えて、神格化されるに足る要素があったのだと思われます。
ただ後世に名高い彼の施策の多くは、例えば冠位十二階のように、その治世の割と初期の対隋外交の下準備のための国内体制の体裁作りのためのものが多く、それほど本質的問題に切り込んだものではなく、後の律令国家建設時のような抜本的な改革とは意味合いの違うものと考えるべきでしょう。また、対シナ外交にしても、対等外交という方向性を決定したという点では画期的でしたが、その目標とする対等外交は厩戸王子の時代には未完に終わっており、単に隋の自滅によって結論が先延ばしになっただけのことでした。
ならば一体、厩戸王子にはどのような神格化されるような要素があったのか疑問になってきます。しかし歴史上において神格化された人物は必ずしもその生前に偉大なことを成し遂げた人物ばかりとも限らないわけで、例えば釈迦やイエスのように後世の人々の指針となるようなものを遺した人物が神格化されることはよくあります。厩戸王子にもそのようなものがあるかと探してみると、「十七条憲法」に行き当たります。

十七条憲法というのは607年の第二回遣隋使派遣の前に倭国の官人にシナ帝国にも通用するような礼儀作法を徹底させておくために604年に諸規定を示した際に、その裏づけとなるような理念や根本的な規範をまとめたものとして発表されたものでした。そういう意味ではその目的は小墾田宮や冠位十二階と同じように、隋の使者に見せるための倭国の体裁を整えておくためのものであり、一時しのぎの表面的施策の1つであったということになります。
ただ、宮殿や衣服や冠などとは違って、礼儀作法の裏づけとなる理念や規範意識というものは倭国の官人たちの心に真に浸透していなければ効果は発揮しないのであって、真に浸透させるためには表面的ではなく本質的に倭国の官人に受け入れられるような形にしておかなければいけないのです。そういう意味で、この十七条憲法というものは自然に本質的部分に切り込んだ施策とならざるを得なかったのです。
どのような形にすれば倭国の官人たちに真に深く受け入れられるような理念となるのかというと、それはやはり倭国の人々の元来の価値観に沿った形で理念を提示することでしょう。逆に外来の価値観をそのまま押し付けても、倭国の人々にはリアリティをもって受け止めることが出来ず、上滑りするだけのことでしょう。賢い人ほど新しい外来の価値観を知るとついそのまま使ってしまいたくなるものですが、それは真の賢人の振る舞いではないでしょう。やはり自国の実情に合わせて取捨選択して自国の人に受け入れやすいように工夫するのが真に優れた政治家の振る舞いではないでしょうか。そういう意味で厩戸王子は優れた政治家であったのだといえます。

十七条憲法は厩戸王子の作とされていますが、その目的は官人が職務を遂行する際に守るべき規範を示すことであり、その十七個の規範とは例えば皆で力を合わせることや、仏教を敬うこと、大王の命令は謹んで受けること、序列を守ること、訴訟を公平に行うこと、善を行い悪を糺すこと、適材適所で任にあたるべきこと、朝出勤して夕方に退出すること、信用を得るよう職務を行うこと、短気や怒りに流されないこと、賞罰を明確にすること、百姓から搾取しないこと、知らない仲であっても職務においては仲良く務めること、嫉妬しないこと、私事よりも公事を優先させること、農繁期には民を酷使しないこと、議論して物事を決めること、などになっています。
これらの規範を守るべき理由を儒教の経典からの文言を引用して儒教的な脈絡で説明しているのですが、それらの言説はいわば手段であり、儒教価値観そのものを述べようとしているわけではないのです。儒教の教えの本質はこのような規範を守ることにあるのではなく、これら十七の規範の中には儒教の価値観とは異質なものも含まれています。この十七条憲法の目的はあくまでこの十七の規範を徹底させることであり、儒教的言説はその説明のための道具として使われているに過ぎません。
ではこの十七の規範はどのような基準で決定されたものなのかというと、まず第一の基準として、厩戸王子をはじめとした大和朝廷の立場で官人に徹底させなければいけないと実感されていたものがこれらの規範であったということがあるでしょう。つまり、これら十七の規範が現実にはなかなか守られていなかったから、あえて規範として示さなければいけなかったということなのでしょう。

ただ、もちろんそれもあるでしょうが、それでもこの十七の規範に絞ってあえて明文化してあるということは、特にこの十七の規範の中には倭国の官人、倭国の人間としての理想とすべき価値観が含まれているということなのでしょう。倭国人であれば、これらの規範を示されれば、守るべき規範として腑に落ちる部分があったということなのでしょう。
ただ、その倭国人の規範意識はこれ以前は明確な言葉で表現されておらず、何となくの皮膚感覚としてのみ存在したのだと思われます。だから実際の政治とそれらの価値観が明確に結びつくことがなく、規範意識を欠いた政治や官人の行動になりがちであったのだと思われます。
そうした倭国の独自の皮膚感覚的な価値観を理路整然とした理屈でもって規範を守るべき理由も示して明文化することによって、倭国の政治や官人の行動に規範意識の縛りをかけようというのが厩戸王子の狙いであったのです。そしてこの時代においてそのような明文化作業を行う際に最も有用であったのが儒教の言説であったのです。いやこの時代の倭人の言葉の語彙ではそのような論理構成を表現することは不可能で、漢文で表現することになるのですが、漢文において規範意識を表現する言説として定型化し慣例化していたのは儒教の経典からの引用という形式であったのです。
ただ儒教の経典においても述べられている言説は膨大多岐なものがあるわけで、それらの中からこの倭国の十七の規範を論理づけるのに最適な言説のみを選び出して組み合わせて使ったのは厩戸王子のセンスなのであって、彼によってこそ、この時代の倭国の人間の価値観や規範意識は初めて論理的な言説として明文化され得たのだといえます。
十七条憲法において儒教的言説を駆使しつつ示されている価値観は結局のところ、争い事や我執を排して謙虚な心で公平に円満に人間関係を築き、互いに慈悲の心をもって議論をしていけば成し遂げられないことはない、というもので、これはシナ世界における儒教的価値観というよりも、倭国の古来からのいわゆる「和の心」というものに基づいた価値観であったのです。つまり、こうした倭国の「和の心」をシナの儒教の語彙を駆使して初めて政治的規範の言説として表現した人物が厩戸王子であったのです。そういう意味で、まさに優秀な政治家であったといえるでしょう。

そして、例えばこの十七の規範の中に「大王の命令は謹んで受けること」や「朝出勤して夕方に退出すること」などのような極めて初歩的な規範まで含まれているのを見ても分かるように、この十七条憲法の作られた時代の倭国の官人のレベルがかなり素朴なレベルであったため、この十七条憲法は官人向けに作られた規範であるにもかかわらず、一般民衆の組織においても適用可能は規範たり得たのです。
倭国の一般民衆の組織はこれ以前には、自分たちの元来持っていた価値観をこのような分かりやすい言葉で明文化した規範というものを持ち得なかったため、何時しかこの十七条憲法を彼らのそれぞれの集団や組織の守るべき規範として使用するようになったのではないでしょうか。もちろん条文の細かな部分についてはそれぞれの集団でそれぞれの時代において微妙にニュアンスを変えたりしたのかもしれませんし、厩戸王子の時代にすぐにそのような使われ方をしたというのではなく、おそらくは早くとも7世紀後半以降のことであろうとは思いますが、倭国、そして日本国の一般民衆にとってこの「十七条憲法」というものは実は身近な存在だったのではないでしょうか。
例えば鎌倉時代に御成敗式目というものが出来ますが、これも日本社会独自の土着的な規範を明文化したものなのですが、これが全部で五十一カ条あり、十七条憲法の十七カ条のちょうど3倍の数なのです。つまり御成敗式目は十七条憲法を意識して、「新たな十七条憲法たらん」として纏められたものであり、ということは鎌倉時代初期ぐらいまでは日本の民衆の中では一般的規範の元祖のような存在として十七条憲法は通用していたということになります。
まぁ鎌倉時代まで実際に使われていたかどうかはともかく、日本における組織の規範や政治理念の最も基本的な存在として「十七条憲法」が一般民衆レベルにまで浸透していた可能性は高いといえるでしょう。そうであるからこそ、その根本聖典ともいえる「十七条憲法」の起草者として「聖徳太子」という人物は日本の一般民衆にとっては最も身近な聖人として知られていたのだといえます。8世紀の「聖徳太子信仰」が広まる時期というのは、十七条憲法が最も広く浸透していった時期と一致しているのではないでしょうか。

このように厩戸王子が「聖徳太子」として民衆の間で神格化されていった大きな理由の1つとしては、民衆の間で使われた根本規範となった「十七条憲法」の伝説的起草者として信仰の対象となったからというものが考えられるのですが、「聖徳太子信仰」発祥の理由としては他にも非常に日本的な理由もあるのではないかと思います。
それは他の日本において死後に神格化され数々の伝説に彩られることになった歴史上の人物に共通する類型に起因するもので、その類型とは「非業の死を遂げている」ということです。例えば平将門がそうであるし、源義経もそうであるし、楠木正成もそうであります。現代に近い時代でも西郷隆盛もそうであります。厩戸王子に近い時代では菅原道真もその類型であるし、死した長屋王に関する怪異が囁かれていた時代というのはまさに聖徳太子信仰が成立しつつあった時代でありました。
つまり、日本人という民族は、この世に想いを遺して非業の死を遂げた人物の霊を慰めるために殊更にその人物を神格化して信仰の対象として祭り上げる習性を持った民族であるということになります。本来、このような祭り上げはその人物の子孫が行うべきとされていたのが神道的考え方であったのですが、厩戸王子らが仏教という新宗教を広めたことによって子孫以外の第三者でもそうした祭り上げを行うことが可能になり、こうした「御霊信仰」といえるものが広範に行われるようになったのです。そして、その「御霊信仰」の適用第一号が皮肉なことに厩戸王子その人であったのではないかと思うのです。
それはつまり「厩戸王子も非業の死を遂げている」ということになりますが、正確に言えば非業の死を遂げているのは厩戸王子ではなくその子で蘇我氏に滅ぼされた山背大兄王で、この時に厩戸王子の一族である上宮王家は滅び去っていますから、厩戸王子の一族は「非業の滅亡を遂げた一族」ということになり、その一族の長であった厩戸王子が御霊信仰の対象となり神格化されるのも道理は通ります。
ただ、それだけではなく、厩戸王子自身が「非業の死」とまではいかないにしても、相当に残念な想いを遺して死んでいったのではないかと思うのです。つまり厩戸王子の晩年は政治的には必ずしも順風満帆ではなく、むしろ壁に当たるようなことが多く不遇であったのではないかと推測されるのです。

「聖徳太子」というのは厩戸王子の諡号で、つまり死後に贈られた呼び名なのですが、諡号で「徳」の字が使われた天皇が皆「この世に想いを遺すような不幸な死に方」をしているという共通項もあり、そうであるからこそ、「徳」という良い意味の字を贈って慰霊しようとしているのであり、厩戸王子もその仲間に加わっているということは、つまり厩戸王子もまたこの世に想いを遺すような死に方をしたということになります。
また厩戸王子は自分の死を予告していたともいわれ、また日本書紀における厩戸王子の死に関する記事も非常に暗鬱とした描写となっており、不吉なムードが漂っています。何か政治的な暗殺や自殺、憤死を疑わせるものもあります。
暗殺は無いにしても、厩戸王子の晩年が政治的に不遇であった可能性は十分にあります。日本書紀などでは607年の第二回遣隋使派遣以降の厩戸王子の事跡はあまりよく分かりません。ただ622年の厩戸王子の死の6年後の628年にカシキヤヒメ大君が没した際に王位継承争いがあり、その時に厩戸王子の子の山背大兄王と彦人大兄王子の子の田村王子との間で王位が争われて結局、蘇我馬子の子の蝦夷の推す田村王子が即位してヒロヌカ大王となるのですが、彦人大兄王子といえば蘇我馬子が史上初の女王まで担ぎ上げて大王就任を阻止しようとした非蘇我系王族であり、その子の田村王子も当然、非蘇我系王族であったのであり、わざわざそんな王子を擁立して蘇我系王族であった厩戸王子が蘇我馬子の娘との間に作った子である山背大兄王を蘇我氏が排斥するというのも不自然な話です。
しかし蘇我氏と山背大兄王の上宮王家との確執は事実であり、それは絶え間なく続き、とうとう643年に蘇我氏は上宮王家を滅ぼしてしまいます。逆に考えると、643年に破滅的な結末を迎える蘇我氏と上宮王家の確執の原点は628年のカシキヤヒメ大王崩御時の王位継承争いにまで遡るのであり、蘇我氏が蘇我系王族の山背大兄王を排してわざわざ非蘇我系王族の田村王子を推したということは、よほど山背大兄王や上宮王家との決裂が根深く決定的で妥協の余地の無いものであったと推測されます。
そして628年に蘇我氏が田村王子を推した時点で既に蘇我馬子の娘が田村王子に嫁いでおり、この時点で既にこの夫婦の間に古人大兄王子が誕生していたということから逆算すると、蘇我氏と上宮王家の間の確執の原点は更に過去に遡り、既に蘇我氏は厩戸王子の存命中から上宮王家を見限って田村王子との縁戚を深めようと動いていた可能性が高いといえます。ちなみに蘇我馬子が亡くなるのは厩戸王子の死の4年後の626年です。
こうなると、厩戸王子の晩年における蘇我氏との関係は微妙なものであったということになります。しかしもともと厩戸王子は蘇我系王族のホープとして摂政に据えられて将来の大王候補として蘇我氏の期待を受けていたはずなのです。厩戸王子も蘇我氏も当初の青写真から逸れて迷走しているように見受けられます。

それは、この厩戸王子や蘇我馬子の時代であった7世紀の最初の四半世紀の時代が、王権国家文明の爛熟期の前期に相当するということを考えればなんとなく状況が理解できるような気もします。この時代は王権国家文明が時代を動かす主導権を律令国家文明に譲り渡していき、王権国家文明による律令国家文明への抑圧が継続しつつ、同時に律令国家文明主導による社会の成長が着実に進んでいき、その中で王権国家文明の成果が次第に花開いていくようになる時代です。
またこの時代は律令国家文明の草創期の前期にも相当し、外来刺激が脅威といえるほどに増大する時代ですが、まさに隋の脅威がそれであり、それに対応して律令国家文明の要素を更に発展させて、新文明の時代を準備する精神的理念のようなものがまとめられていきます。王権国家文明の様々な要素とこの時代の律令国家文明の様々な要素とが合体して、王権国家文明の様々な成果という形でまとめられていくのです。まさにそうした精神的理念や王権国家文明の成果の1つの現れが倭国土着の価値観をシナ儒教的言説で表現した「十七条憲法」であるということになります。
しかし、これらはまだまだバラバラの存在であり、1つにまとまって社会を変革していく巨大パワーにはなり得ていません。王権国家文明の求心力が低下し、律令国家文明もまだこの時代においては求心力を獲得していないわけで、つまりこの時代は決定的な求心力を失い社会がバラバラに解体していく段階ということになります。
それは新たに時代の主役になろうとする律令国家文明の要素に対する旧来の体制派である王権国家文明側のリアクションが二通りに分裂することからもたらされる混乱であると思われます。1つはあくまで律令国家文明側に主導権を渡さないように抵抗しようとする方向性であり、もう1つは、むしろ律令国家文明側と協調して、律令国家文明側に今までの王権国家文明の成果を引き渡していき、王権国家文明の成果を次の律令国家文明体制建設のために有効活用させようという方向性です。
蘇我氏は国家体制の大変革まで望んでいるわけではなく、あくまで豪族連合政権としての大和朝廷を中心として地方をよく統制した中央集権国家を目指していたのであり、対隋外交のために諸改革は行っていましたが、それらはあくまで表面的なものであるという考え方であったのでしょう。それは後にそれとは逆の根本的変革を求めるグループと激しく争い敗れていったのが蘇我氏であることから想像できることです。つまり蘇我氏はこの2つの方向性のうちの前者に相当することになります。
そしてその蘇我氏と敵対して滅ぼされた上宮王家は大化の改新後に主導権を握った根本的変革を志向するグループによって名誉回復がなされていることから考えても、おそらくはこの2つの方向性のうちの後者に相当し、その上宮王家の祖である厩戸王子もこの後者の中に含まれ、いや、この後者の方向性を切り開いたのが厩戸王子その人であったのではないかと思われます。

もともとは方向性が一致していたはずの蘇我氏と厩戸王子の方向性にズレが生じたきっかけは遣隋使ではないかと思います。おそらく何度か遣隋使を派遣し、留学生などが持ち帰った成果を精査した厩戸王子は、隋の繁栄やその強大さの要因は、表面的に現れた華やかな部分にあるのではなく、王土王民・一君万民の思想に基づいた均田制や、国民皆兵の徴兵制である府兵制、租庸調などの税制、律令法によって詳細に規定された中央集権官僚制などを総合した「律令制」というシステムにあるのだということに気づいたのです。
もちろん詳細に律令制を知り尽くしたということはないのでしょうけれど、厩戸王子はとにかく蘇我氏の考えるような国家ビジョンとは異質な体制がシナ大陸には存在し、それがいずれ東アジアのスタンダードとなるのであろうと予想したのでしょう。そうであるのならば、倭国としてもその体制を受け入れることを避けることは出来ず、ならばそれに対応してかねばならないと考えたのでしょう。
そして、そうした新しい律令国家文明を受け入れつつ、今までの倭国の王権国家文明の積み上げてきた成果といえるものをその律令国家文明の中に継承させていこうという試みが「十七条憲法」であったのではないでしょうか。いや、厩戸王子がそこまで計算して十七条憲法を作ったとは考え難く、これは歴史的運命の巡り合わせのようなものであったのでしょう。とにかくそうやって律令国家文明の中に引き継がれた王権国家文明のエッセンスである「十七条憲法」に込められた日本的な寛容さ、「和の心」は律令制の極端な中央集権性を中和していき、後に8世紀末に律令国家文明が成長の頂点で行き詰った時に律令国家文明をリニューアルして王朝国家文明という新しい文明を生み出し平安時代の幕を開ける動きの一要素となるのです。そうして厩戸王子は「聖徳太子」として後世に大きな影響を残していくことになるのです。
そうした遠い未来への影響は残しつつ、同時代的には厩戸王子はこのような「律令制」への親和性ゆえに蘇我氏との方向性の違いを次第に広げていき、蘇我氏とは徐々に疎遠になっていきつつ、しかし彼自身が蘇我系王族であるという限界もあり、状況を抜本的に切り開くことも出来ず、次第に政治的に不遇になっていったのではないかと推測されます。ちょうど618年に隋が滅びてしばらくの間シナ大陸は混迷の時代となったため、シナ大陸の体制である「律令制」への厩戸王子の高評価も蘇我氏をはじめとした大和朝廷内の諸勢力にとってはリアリティをもって受け止められなかったという事情もあるでしょう。そうして厩戸王子の不遇が深まるのと連動して、表面的な繁栄の陰で時代の混迷も次第に深まっていったのではないでしょうか。
そして622年に厩戸王子が不遇のまま没し、その庇護者であり政敵でもあった蘇我馬子が626年に没し、カシキヤヒメ大王も628年に没し、時代の主役たちの世代が交代し、ここで時代は王権国家文明の爛熟期後期に入り、王権国家文明もいよいよ大詰めとなり、ますます混迷が深まっていくことになるのです。
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【2013/12/28 06:39】 | # [ 編集]



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