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日本史についての雑文その307 大化の改新
7世紀前半は王権国家文明の爛熟期であり、王権国家文明、つまり大和朝廷は成長が極大に達して最高の繁栄を示し、その成果が社会の表面に現れてくることになります。そして同時に社会から求心力が失われて、社会矛盾が表面化してくるようにもなり、混乱状態も生じてきます。特にそうした傾向が強まって王権国家文明が行き詰ってくるのはこの爛熟期の後期である625年以降、だいたい厩戸王子やカシキヤヒメ大王らが亡くなった頃ぐらいからでした。具体的にそれがどのような行き詰まりであったのかというと、部民制といわれる社会システムの拡大とその限界や矛盾点の露呈によるものでした。
部民制というのは6世紀になってから形成されるようになった「部(べ)」を基本単位とした社会システムでした。
「部」というのはもともとは朝廷直属の帰化人の職業集団だったのですが、6世紀に入ってから、この「部」が各地方に設置された時に地方豪族が「部」の管理を朝廷から委託されるようになり、地方豪族は「部」に所属する民を私有民のように扱ってもいい代わりに「部」を使って得た財産を使って、朝廷に出仕して奉仕する「伴(とも)」の供出を行うように義務づけられました。
そして527年の磐井の乱以降に各地に設置されるようになった地方統治の拠点である「官家(みやけ)」を統括する「国造(くにのみやつこ)」という地方豪族の首長クラスが地方豪族を配下に置いて、この「部」を財源とした地方豪族からの「伴」の奉仕を受けて「官家」を運営していくようになり、強大化していきました。
また、各地方豪族から供出された「伴」を朝廷において職業別にまとめる「伴造(とものみやつこ)」という役職を専門職別に世襲する大和の中央豪族の一族が専門職の「部」を独自に所有して、朝廷における職業集団であり血統集団である「氏(うじ)」を形成するようになり、蘇我氏のような朝廷において大王を補佐して政治を行う豪族も同じように独自の「部」を所有して「氏」を形成するようになり、これらも強大化していったのです。

こうした中央豪族や地方豪族の連合政権が大和朝廷であったのですが、朝廷の権限を強くして全国に一元的支配を及ぼそうという動きが6世紀後半になると生じてきて、その努力の一環として氏族共同体の枠を超えた新宗教である仏教の導入などが図られて、7世紀に入る頃にはそうした動きは勢いを増してきます。
ただ同時に、6世紀後半ぐらいから部民制が変質してきて豪族が更に強大化してくるようになります。もともと「部」は帰化人の職業集団のことを指していたのですが、この「部」の範囲が拡大されて、倭人の一般農民なども「部」としてまとめられて地方豪族や中央豪族の傘下に入るようになっていったのです。
こうして豪族は多くの「部」を持つようになり、その経済規模は大きくなり、そうなると、そうした豪族の供出する「伴」も巨大化して、その分、大和朝廷に集まる人員や富の規模も大きくなりました。7世紀に入るとこうした傾向は顕著になり、大和朝廷は絶頂期を迎え、まさに王権国家文明は爛熟していくことになったのです。
そしてこの625年以降の王権国家文明爛熟期の後期に入る頃には、倭国の民衆の殆どは何らかの豪族の「部」に所属することになり、大和朝廷は間接的に「部」を通して全国支配の体制を整えることになり、部民制は完成することになったのです。しかしこれはあくまで間接的な支配体制であり、しかも豪族の支配下ごとに縦割りに細分化された支配体制で、朝廷による一元的支配とはほど遠いものでした。特に有力な地方豪族の国造や、中央豪族の氏族は多くの「部」を集中して所有して朝廷権力を阻害したり中間搾取が甚だしくなるまでに強大化する場合もあり、大和朝廷の進める一元的支配の確立への方向性と矛盾するようにもなってきました。
このような縦割りの支配体制は、人々の間に自己の所属する「氏」への強い帰属意識を生み出し、諸氏の構成員は互いに対抗心や対立感情を持つようになり、諸氏はそれぞれ一族の私的利益の追求に走りがちになり、排他的な同族意識を持つようになり、混乱も生じてくるようになりました。
ただ、こうした多元的な君臣関係が重層的に存在し、人々が「氏」のような中間的な社会組織への帰属意識を強める状態というのが絶対的に間違っているということはないのです。いや、日本史を眺めてみると、そうした状態にある時代のほうが大部分であるといえるでしょう。
しかし、例えば戦国時代であっても江戸時代であっても、その重層的な君臣関係が実際には存在しながらも、建前上は天皇を一元的に君主と仰ぐ統治制度に全ての人々が所属しているという意味で日本という国の一体感は維持されていたのであり、そうした統治制度が構築される以前であったこの7世紀前半においては、構築された以後の時代とは違って、やはり不安定感は大きかったのだと思われます。そして、この時代においては、そうした国内の不安定感の存在が許されないほどに国際情勢は緊迫してきていたのです。

608年に隋使を送って第三回遣隋使が派遣され、この時に倭国からは留学生として恵日、福因、高向玄理、僧旻、南淵請安などが送られました。この留学生たちは長く隋に留まって隋の政治制度や文化などについて学ぶことになっていました。
その隋が高句麗遠征の失敗などが原因で618年に滅び、代わって唐が興りました。興ったといっても、この時は李淵という鮮卑人の将軍が長安を占拠して傀儡皇帝として擁立していた代王を殺して隋朝を滅ぼして自ら皇帝を名乗り、唐の高祖となったのですが、まだその勢力は長安周辺の陝西や甘粛のあたりに限られており、シナ大陸の各所には隋末期に蜂起した反乱軍が軍閥化して群雄割拠の状態になっており、高祖の次子の李世民が各地に遠征を繰り返してほぼ華北を統一したのが621年のことでした。
唐では当初から隋の律令制がほぼそのまま踏襲されていましたが、いよいよ華北も統一されて唐の支配が確立されてきた頃、その情勢を見極めた恵日や福因らの倭国から遣隋使で派遣されていた留学生たちが623年に倭国に帰国し、朝廷に「大唐国は法式の整備された立派な国なので使節を絶やさないようにすべきです」と建言しました。
この時点で厩戸王子は亡くなっており、朝廷の実権は蘇我一族が握っていたと思われますが、この後、遣唐使が派遣されたのは630年のことで、実際には更に7年間は使節が絶えたわけですから、蘇我氏はあまり律令制の摂取には熱心ではなかったと思われます。630年の第一回遣唐使にしても628年に唐が完全にシナ統一を成し遂げたことへの祝賀使節のようなもので、この時、唐の二代目皇帝の李世民、つまり太宗が「倭国は遠いから毎年朝貢しなくていい」と言ったのを幸いに、その後、大化の改新後の653年まで遣唐使を派遣しなかったわけですから、その間、大化の改新の混乱があったにせよ、645年の大化の改新以前の15年間の空白期間は、やはり蘇我氏の律令制摂取意欲の低さを表しているといえるでしょう。
これはやはり、律令制の持つ「王土王民」「一君万民」の思想が、部民制の上に繁栄していた蘇我氏の立場としては受け入れ難いものがあったのでしょう。このように朝廷の主流派である蘇我氏が唐から帰国した留学生グループの建言を無視し冷遇したとするならば、留学生グループは、628年のカシキヤヒメ大王死去後の王位継承争いに敗れて朝廷における非主流派となった上宮王家、つまり厩戸王子の子である山背大兄王の側に接近していって、その勢力に頼って朝廷を動かそうとしたと推測されます。こうして蘇我氏と上宮王家の抗争は反律令制派と律令制派の代理抗争ともなっていったのです。

蘇我氏が律令制に興味を持たなかった他の理由として、唐が当初は倭国にほとんど興味を示しておらず、倭国として危機感が薄かったという事情もあります。626年に唐の二代目皇帝となった太宗はまずは華北の北に勢力の有していた梁師都という軍閥とそれを支援していた東突厥と対決しつつ、内政を充実させることに集中していました。そして628年に梁師都を滅ぼしてシナを統一し、更に東突厥を破り、630年には東突厥の可汗を降して捕虜として東突厥帝国を滅ぼしました。ここに至って北アジアの遊牧民の部族長たちは太宗を自分たちの可汗に推戴し、唐の皇帝は北方遊牧帝国の君主も兼ねることになったのです。また630年頃にチベット高原を統一した吐蕃とも盛んに外交して、640年には唐の帝室と吐蕃の王室との間で縁戚関係が成立し友好国となりました。この間、太宗の治世は三省六部や宰相の制度などが整備され、「貞観の治」としてその後も長らくシナ世界において理想とされた政治が行われました。この640年までの間、帝国の東方にはほとんど関心は払われませんでした。
また、630年の第一回遣唐使以降、唐との交渉が途絶えた理由としては、この第一回遣唐使を送って632年に倭国へやって来た唐使と倭国の朝廷との間でトラブルが生じたという事情もあるでしょう。これはおそらく唐が倭国を臣下扱いして冊封しようとしたため、倭国側がそれを拒否して、結局は唐使が冊封を果たさずに帰国したというトラブルであったのですが、こういうこともあって倭国側が唐との外交に乗り気でなくなったのでしょう。
唐側は善意で冊封しようとしているわけですから、そんなに冊封を受けたくないなら勝手にすればいいという感じで、倭国に対しては冊封をせずに朝貢だけ受けるという特殊な関係を持つようになりました。これは倭国の実力を評価して対等に扱ったというよりは、単に倭国に対してほとんど興味を持っていなかったということの表れと見るべきでしょう。実際、この後、延々と653年まで倭国は朝貢の使節すら送らないわけで、それでも唐側は大して不審にも思わないわけで、つまりは倭国と唐の間のあまりに疎遠な関係のゆえに、なしくずしに「不臣の国」としての倭国の位置づけが固定化されていったのでした。
それゆえ、倭国内の海外情勢に通じたグループから見れば、この状態は対等外交の達成として歓迎されるような事態ではなく、むしろ国際社会から取り残されていく事態として憂うべきことと捉えられました。そうした状態の中で、608年に隋に渡って以来、32年間もシナ大陸で過ごして唐の太宗の「貞観の治」も見届けてきた留学生の高向玄理、僧旻、南淵請安らが640年に倭国に帰国してきて、律令制の核心と最新の国際情勢を伝えました。

シナ大陸で隋が滅びて唐が興り、唐によるシナ大陸統一が進められつつある頃、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による死闘が繰り広げられていました。唐が興ると三国ともに朝貢し冊封を受けましたが、626年に高句麗と百済が同盟を結んで共同で新羅を攻めるようになると、劣勢となった新羅は次第に唐に頼るようになり、朝鮮半島は「高句麗+百済」VS「新羅+唐」の対立構図となっていきました。倭国は高句麗とも百済とも同盟関係にあり、新羅とは長年不仲であったので「高句麗+百済」側に与していました。ただ唐はこの頃はまだ東方に力を割く余裕は無く、常に新羅は劣勢にありました。
ところが630年に唐が東突厥帝国を滅ぼして大きな勢力を有するようになると高句麗は唐に対して警戒感を抱くようになり、631年には唐との国境に長城を築きました。それでもまだしばらくは唐は西方への勢力拡大に専念し、チベット高原の吐蕃と同盟を結び、そして640年に西域の高昌国を服属させ、とうとう朝鮮半島方面への本格的進出を企図するようになったのです。
640年に南淵請安らによって大和朝廷に伝えられたのはこうした情報であったのですが、この後、朝鮮半島情勢が更に緊迫の度を増していくにつれて、彼ら帰国留学生グループの唱える方針は官人たちの間で広く支持されていくようになっていったと思われます。
唐の圧迫を受けるようになった朝鮮半島では各国で権力の集中が行われるようになったのです。まず百済では642年に義慈王が政府の要人を多数追放して独裁体制を敷き権力集中を成し遂げ、また国内体制の再編の必要性を感じた高句麗の権臣の淵蓋蘇文は同じく642年にクーデターを起こして王を殺し王弟を擁立して宝蔵王として実権を握り権力を自らに集中しました。この二国が呼応して新羅を攻め立てたので苦境に陥った新羅は643年に唐に救援要請をしましたが、唐の太宗は援軍派遣の見返りに唐の帝室の人間を王位に就けるように迫り、結局援軍は送られませんでしたが、これにより新羅国内では親唐派と反唐派の対立が生じます。

こうした激動の朝鮮半島の情勢を受けて、倭国でも権力を大王に集中させて一元的な支配体制を実現しなければ周辺国に遅れを取ることになるとして、律令制の導入による中央集権国家体制の樹立を目指す勢力が勢いを得るようになっていったのです。その中核にいたのは南淵請安らの唐から帰国してきた留学生とその弟子のグループで、その後ろ盾となっていたのが山背大兄王を当主とした上宮王家でした。
そうした上宮王家の勢いに脅威を感じた蘇我氏は641年にヒロヌカ大王が没するとその妃であった宝王女を担ぎ出してイカシヒタラシヒメ大王としました。これはカシキヤヒメ大王即位の場合と同じように有力な王子の即位を阻止するために女王を担ぎ出すという蘇我氏の得意技で、つまり山背大兄王の即位を阻止し、ヒロヌカ大王と蘇我馬子の娘との子である古人大兄王子の即位に繋げようという算段であったと思われます。言い換えると、こんな手を使わねばならぬほど蘇我氏にとって山背大兄王の勢力が侮り難いものとなっていたということです。
危機感を募らせた蘇我氏の後継者の入鹿は643年に思い切って挙兵して山背大兄王をはじめとした上宮王家の一族を攻め滅ぼしてしまいました。これは入鹿の父である蝦夷も驚き呆れたともいわれ、またこれによってかえって蘇我氏が孤立したことはこの後の乙巳のクーデターの顛末を見ても明らかであり、この上宮王家滅亡事件の前に実際に追い詰められていたのは蘇我氏のほうであり、劣勢を挽回するための起死回生の反動攻勢であったのではないかと思われます。
こうして大和朝廷の中枢からは律令制導入派は一掃され、蘇我氏が律令制導入派を弾圧して反動政権を運営していくことになったのです。律令制導入派は地下に潜ることになったのですが、朝廷の豪族や官人の多くは周辺国の情勢なども鑑みて、蘇我氏のやり方に眉を顰める者も多かったと思われます。
この時期はまさに王権国家文明の爛熟期末期にあたりますが、文明の爛熟期末期には旧文明側の反動攻勢があり、それが失敗することによって社会の混乱が加速され、旧文明は求心力を失い、新文明を形成していく新興勢力が生み出されていくことになります。蘇我入鹿の暴走による上宮王家滅亡事件はまさにそうした反動攻勢であり、ここから爛熟期末期の混乱の時代が始まるのです。

640年に唐から帰国した南淵請安が開いた私塾に通っていた秀才に中臣鎌足という男がおり、鎌足は請安から唐の律令制度を学び、律令制によって倭国を大王による一元的支配の行われる中央集権国家に生まれ変わらせ、それによって激動の国際情勢に対応していける強国にしていこうと構想するようになり、鎌足の周囲には志を同じくする同志が集まるようになっていきました。
中臣氏というのは朝廷の祭祀を担当する古来から続く名家で、かつて崇仏論争の時には物部氏と共に排仏派に立って崇仏派の蘇我氏との権力闘争に敗れた家でした。その神道に関係の深い中臣氏の人間とシナ大陸の政治制度である律令制とは一見繋がりが無いように見えます。しかし律令制というのは皇帝への極端な権力集中が前提であり、そのためには皇帝の絶対的権威の確立が必須となります。それは宗教的に裏付けられた権威でなければならないのです。
唐では仏教が国教の扱いを受けて保護されていましたが、これはあくまで中央集権支配のツールとして有益であったからであり、皇帝の権威の源泉ではありませんでした。だいたい基本的に仏教というものは「仏の前では皆平等」という教えですから皇帝を特別に神聖視するような思想にはそぐわないのです。ではシナ皇帝の絶対的権威を裏付ける宗教とは何であったかというと、それはシナ古来の天帝思想であり、儒教であったのです。
しかしこれらは倭国においては大王の権威を裏付ける宗教としては存在していませんでした。倭国において王権の権威を保障していた宗教は神道であり、つまり王権国家文明より1つ前の文明であった部族国家文明から生み出されてきた成果である首長霊祭祀というものであったのです。かつて3?4世紀にかけて首長霊祭祀が確立されていくのと歩調を合わせて日本列島において「大王」という権威が確立されていったのであり、それを再び「律令制」という衣を被せて繰り返すことによって倭国は大王を中心とした真に強大な中央集権国家として生まれ変わることになるのです。
単に制度としての律令制だけを導入してもその中心に存在する大王に神的ともいえる超越的な権威が備わっていなければ律令制は機能しないのです。だから新しい倭国を作るための革命集団には外来の政治制度である律令制に通じた人間だけではなく、大王に神的権威を与える神道のノウハウを熟知し、そうした領域で権威を有した人間も必要であったのです。中臣鎌足はまさにそうした両方の面を兼ね備えた人間であったのです。

そしてこの鎌足は天才的な謀略家でもあり、643年の上宮王家滅亡事件以後も密かに蘇我氏打倒の計画を進め、まず蘇我氏打倒後に擁立すべき王族として中大兄王子を取り込みました。中大兄王子は現大王であるイカシタラシヒメ大王と前大王であるヒロヌカ大王の間の子で、大王を継ぐには血統的には申し分ないのですが、蘇我氏との血縁関係が無いために、蘇我氏の血を引く異母兄の古人大兄王子の日陰の存在に甘んじていました。つまり中大兄王子にとっては蘇我氏は目障りな存在というわけです。また蘇我宗家を効率よく滅ぼすために蘇我氏の分断策をとり、鎌足は蘇我氏の内紛に乗じて分家の蘇我石川麻呂をも味方に引き入れることに成功しました。
こうしてクーデターの準備は整い、鎌足や中大兄王子の一派は645年の6月に飛鳥宮にて行われた三韓進調の儀式に出席した蘇我入鹿を襲撃して斬殺し、さらに軍勢を出して入鹿の父親の蝦夷の屋敷を囲み、蝦夷は自刃して果て、蘇我本家はあっけなく滅びたのです。これが乙巳のクーデターで、この時、蘇我氏に味方する豪族が全くいなかったのは、鎌足の計略が緻密であったのもありますが、そもそも蘇我氏が既に孤立していたからでもあると思われます。この時、中大兄王子は19歳、中臣鎌足は31歳でした。
現代から見てみると蘇我氏の行っていた政治が特に間違っていたということでもなく、むしろ鎌足らのクーデター派のほうが手法の過激さが目につくのですが、この当時の倭国を取り巻く国際情勢のほうが異常事態であったのであり、それに対応していくためには一種の戦時体制である律令制の急激な導入にも一理あったのであり、国内的にも鎌足一派のような過激さが必要とされていたとも言えるでしょう。

ただこのクーデターにおいて鎌足の計算外であったのが、入鹿殺害の場面で本来斬りかかる役割であった同志が怖気づいたため、仕方なく中大兄王子が率先して斬りかかることになったことでした。おそらく鎌足の本来の計画では中大兄王子はあくまで手を汚さず、表向きは中立の立場で蘇我氏を処断し、その後で大王に即位する手筈であったのでしょう。しかし中大兄王子は、おそらくやや直情的な性格であったのでしょうが、自ら入鹿に斬りかかってしまい、クーデター側に立っていることを公衆の面前に晒してしまいました。これでは蘇我氏を滅ぼした後にすぐに中大兄王子が大王に即位すれば、クーデターは王子の私利私欲であったということになってしまい、大王の権威に傷がついてしまいます。それでは大王の求心力も低下して、せっかくクーデターを行った意味が無くなってしまいます。
そういうわけで鎌足は中大兄王子の即位をひとまず諦めることにして、イカシタラシヒメ大王の弟である軽王子を即位させてヨロズトヨヒ大王としました。そして中大兄王子は太子として国政の実権を握ることになったのです。
このイカシタラシヒメ大王からヨロズトヨヒ大王への王位の継承は史上初の譲位で、つまり先代の大王がまだ存命であるのに退位して新しい大王に位を譲ったということです。それまでの倭国では大王は終身職であったので生前譲位は出来なかったのですが、この時からそれが出来るようになったのです。
それまでのように大王の死後に引継ぎが行われるということは、大王本人の意思よりも群臣の推戴や神祇の承認などが重視されていたということで、譲位が行われるようになったということは群臣や神祇の意思よりも先代の大王の意思が優先されるという方向性を示すことが狙いで、大王の権威権力の他に対する隔絶性を確立するためでした。
この譲位というアイデアは、おそらくは大王の継承儀礼などにも詳しい鎌足が考えたものでありましょうが、本来は彼の構想では史上初の譲位はイカシタラシヒメ大王から中大兄王子へと行われるはずであったのでありましょう。しかしアクシデントによって中大兄王子が即位できなくなったので、史上初の譲位は軽王子に行われ、ヨロズトヨヒ大王の誕生となったのです。

クーデター勢力はこのヨロズトヨヒ大王を頂いて、太子に中大兄王子、左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我石川麻呂を置き、唐から帰国した留学生グループを政権のブレーンとし、中臣鎌足は大王の側近となって軍事権を握りました。秘密警察の室長のようなもので政権の謀略部門担当のようなものだったのでしょう。
そして新しい時代の到来を示すために元号を「大化」と定め、645年の末には難波宮に遷都を行い、巨大な王宮の造営を開始しました。そして翌646年の元旦には「改新の詔」が発表され、新政権の目指すべき方針が示されたのです。その内容は部民制を廃止して官人には大王から俸禄を与えることと、地方支配の制度を整備することと、戸籍を作成して班田収受制(均田制)を施行することと、租税や労役や兵役などを王権のもとに一元化することなどでした。これは更に要約すれば、支配層内部の君臣関係と、王権による全国支配の体制をともに一元化して、大王を中心とした支配体制を構築するということでした。
つまりこれは隋で完成されて唐に引き継がれた律令制の基礎となっている「王土王民」「一君万民」を倭国においても実現しようというもので、この「改新の詔」に基づいて「大化」が元号である646?650年にかけて着々と改革が進められていったのが歴史上、「大化の改新」であったということになっています。
しかし実際は、これほどの大改革を、たかが宮廷クーデターで政権を掌握しただけの新政権に遂行出来るはずもなく、これらは政策目標を示したスローガンのようなものであったと思われます。と言っても、全く掛け声だけで何の改革も行われなかったかというとそんなこともなく、まずは各地に使者を派遣して改新政治の理念や目的を説明しつつ、各地の人民の戸数などの状況を把握して、国造の権限を制限するために在地豪族を官人として任用し、各地の国造領内の武器を王権の管理下に置くということが行われました。つまり部民制を根底で支えていた各地における国造を頂点とした君臣関係を解体して、大王を頂点とした一元的な君臣関係に再編するための基礎作りから着手したということです。
こうした試みはかなりの成果を上げて、国造の広大な支配領域を「評(こおり)」という細かな単位に分割して、国造の権限を大幅に削ぐことに成功しました。その「評」を管掌する官人には、円滑な地方支配の実現のために在地の伝統的な支配体制を温存して在地の豪族を登用しましたが、それぞれの「評」の官人が特定氏族で占められないようにして、現地で競合関係にある氏族を巧みに登用することにして中央によるコントロールを可能にすることにしたのです。中央から官人を送り込むのではなく在地の競合関係までも利用するあたり、日本的であるともいえますし、いかにも鎌足の考えそうなことだとも言えます。
こうした地方における中央政府の権限の増大は以前から少しずつ進められてきたことであり、おそらく蘇我氏政権でもかなり取り組まれていたと思われ、改新政権はその成果を受け継ぎ一気に進展させたともいえます。つまり、ある程度の基礎はあったわけで、それで短期間で一定の成果が上がったのだといえます。

しかし中央政府内における改革はそうはいかず迷走することになりました。すなわち「氏」から「部」の所有を切り離し、新しい政治機構を作ってそこに「氏」の人々を俸禄で召抱える官僚とすることはほとんど骨抜きになり成果は上がらなかったようです。それはやはりそれまでの積み上げが無かったからであり、中央政府内の各氏族もそこまでの急激な改革は望んでいなかったのです。つまりは、まだ少し積み上げの時間が必要であったのです。
しかし鎌足や中大兄王子はそうした現状に不満を感じました。いつまでもそうして愚図愚図していては、彼らの目指す中央集権国家はいつまでも実現せず、律令の施行はおろか、その基本となる公地公民制すら達成は遠いのでした。何より彼らが不満であったのは改新政権のメンバーの意識の低さであったのでしょう。蘇我石川麻呂のような穏健派が中央政府の急進的な改革を阻んでいると見ていましたし、何よりもそうした穏健派に理解を示すヨロズトヨヒ大王に対する不満が大きかったようです。
ヨロズトヨヒ大王は仏教を愛好する温厚な君主であったのですが、鎌足の望むような神的権威を備えて改新政治をリードするカリスマ的な専制君主、つまりシナ皇帝の倭国版のような存在にはほど遠いものがありました。
そうした不満は募り、649年に左大臣の阿倍内麻呂が死去した際、鎌足と中大兄王子は蘇我石川麻呂に讒言により罪を被せて自殺に追いやり、更に652年にせっかく完成したばかりの難波宮を捨てて、653年にはヨロズトヨヒ大王を難波宮に置き去りにして群臣を引き連れて飛鳥宮に戻ってしまいました。
失意のヨロズトヨヒ大王は翌654年に亡くなりますが、その後に即位したのが先代大王で譲位して飛鳥に隠居していたイカシタラシヒメ大王でした。つまり中大兄王子は自分の母親を担ぎ出したわけですが、この史上初の譲位を行った女王は、その譲位を行ったことによって大きな権威を得ており、しかも仏教だけでなく神道にも熱心であったので、鎌足はこのカリスマ性を獲得した女王を復位させてその本拠地であり王権の古の聖地である飛鳥の地において、改新政治に神道的な装飾を加えて、まずは大王の権威の絶対化を図り、その後にその専制的権力を使って改新政治を進めようと考えたのでしょう。
こうして改新政治は迷走しながら再び飛鳥の地に戻って新しい政治理念を持った新興勢力によって再出発が図られることになり、ここから更に時代は激動の度合いを増していくことになり、王権国家文明の爛熟期は終わり、代わって律令国家文明の形成期が始まることになるのです。
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