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日本史についての雑文その308 白村江の戦い
中大兄王子や中臣鎌足らは649年にはかつて乙巳のクーデターの同志であった蘇我石川麻呂を無実の罪で死に追いやり、653年には自らが担ぎ上げたヨロズトヨヒ大王を遷都に反対したという理由だけで難波宮に追放同然に置き去りにしてしまいました。これらはあまりにも酷薄であるように思えます。いや、実際彼らは冷酷な面を持っていたのでしょうけれど、これらは彼らの余裕の無さの表れでもあります。彼らはいちいち石川麻呂や大王と議論を積み上げていく時間も惜しかったのでしょう。それだけ当時の倭国をとりまく情勢は緊迫の度を増していたのです。
644年には唐の太宗は高句麗に対して新羅と和睦するよう要求しましたが高句麗の淵蓋蘇文はこれを拒否し、これに怒った太宗は唐軍を自ら率いて645年に遼河を越えて高句麗遠征を行いましたが高句麗がよく防戦し、翌646年には一旦唐軍は引き揚げました。しかし唐は647年、648年にも立て続けに高句麗へ出兵し、その度に高句麗は撃退し、そのうちに649年に唐の太宗が没したので、ひとまず高句麗征討は中止されました。
しかし、これで唐が朝鮮半島方面の回収を諦めたわけではなく、ただ真正面から高句麗を攻めてもなかなか上手くいかないということは分かったので、シナ得意の「遠交近攻策」に取り組むことにしたのです。つまり遠方の国と同盟して近くの国を挟み撃ちするという戦略で、この場合の唐にとっての近くの敵国というのが高句麗で、遠方の同盟国として期待されたのが新羅でした。
その新羅では643年以降、国内で親唐派と反唐派の対立が続いていましたが、647年に国王を廃して唐から新しい王を迎えようとする親唐派の蜂起があり、これを反唐派が鎮圧し、これによって権力集中が図られるようになりました。
こうして新羅国内では反唐派が実権を握ることになったのですが、反唐派といっても元々は唐からの「王統を廃するように」という無茶な申し出への反発から生じた反唐であったのであり、百済と高句麗から常に圧迫されている新羅の国情を考えれば、新羅の王統を維持するという条件が守られるならば唐に頼らざるを得ないのでした。
そこで新羅は唐に接近し、649年には唐の衣冠礼服の制を取り入れ、650年には独自の元号を廃して唐の元号を使うようになり、651年には唐風の官制を導入して中央集権化を図るようになっていきました。

これは倭国にとっては由々しき事態でした。倭国にとって朝鮮半島南部は自らの天下世界の一部であり支配領域であるという意識が強かったのです。新羅も一応は倭国に貢物などを送ってくる属国のような存在として見ていたのですが、その新羅が勝手に唐の属国のようになり、倭国の同盟国である高句麗を背後から唐と挟み撃ちにしようとしたり、朝鮮半島南部に唐軍を引き込もうとしたりして、しかも一種の戦時総動員体制ともいえる律令制の導入において倭国よりも一歩先んじようとしているのです。新羅も自らの生存のために必死でやっているのですが、倭国や他の朝鮮半島の二国から見れば新羅の行いは立派な裏切り行為であったのです。
そこで651年ぐらいから倭国では「新羅討つべし」という強硬論が出てくるようになりますが、新羅自体が強大化しており、またその背後には北方草原地帯やチベット高原まで支配下に加えた、かつての秦漢帝国を遥かに凌ぐ超大国の唐が控えており、なかなか軽率に手も出せず、かといってこのまま朝鮮半島に唐勢力の浸透を許すわけにもいかず、そのような困難な状況の中で倭国の国内では大王への権限集中さえままならないで、改新政治は暗礁に乗り上げていたという状態だったのです。
653年の飛鳥への強引な遷都やヨロズトヨヒ大王の追放、イカシタラシヒメ大王の復位という流れの背景にはこのような緊迫した国際情勢と、それに対応し切れていなかった倭国の状況に対する焦りというものがあったのです。そしてこの653年には23年振りとなる遣唐使が派遣されており、その後立て続けに654年、659年にも遣唐使が出されています。これらも国際社会からの遅れを取り戻すため、唐の状況の視察や最新の政治制度や文物などを仕入れるためであったと思われます。

この650年から675年ぐらいにかけての時代は律令国家文明の形成期前期に相当し、この時代の前半にあたるイカシタラシヒメ大王の治世においては、このように対外的危機のレベルが一段と上がり、それに対応していくために革新的思想を持った新興勢力が勢力を広げていきます。
その新興勢力というのが大王の権威を絶対的なものに高めようとする中臣鎌足らを中心としたグループで、彼らがこの時期に行ったことというのは、大王の神的権威を高めるために飛鳥の王都を伝統的な首長霊祭祀に仏教の諸天なども加えた諸々の神々を祀り、更に大陸から取り入れた先進文明の要素で飾り立てた特殊な儀礼空間としたことです。
大王の権威は5世紀後半ぐらいから政治的混乱などもあって、やや低下していたのですが、王権の権威を高めて中央集権化を達成するためには、再び大和王権の草創期、ミマキイリヒコやヤマトタケル、オキナガタラシヒメの頃のような大王に首長霊の化身としての権威が備わっていた時代への復古を促したのです。それに新しい文明の要素を付け加えて、新たな王権神話を創造しようとしたのがこの時代であったのでしょう。
この時に最も重視された神が、やはり古くからの首長霊の中心的存在であった太陽神、つまり日神で、おそらくこの時期に倭国が「日神の守護する国である」という観念が再確認されたのではないかと思われます。この650年代以降に太陽神の権威が再確認されていったことが、後に「日本」という国の誕生に繋がっていくのです。
また、このイカシタラシヒメ大王の時代には、飛鳥の王都に巨大な運河を設けたり、儀礼施設を多数造営したり、とにかく積極的に建設事業を展開していますが、これは、これに先立つ難波宮時代に朝廷の地方への支配力が強まったことによって、朝廷に今までよりも多くの財物や労働力が地方から集められるようになり、それらを駆使して王権の権威を高めるために、まるでシナ帝国の専制君主の行うような大土木事業を展開して、倭国独自の「天下世界」の支配者としての演出としたのでしょう。また、そうした積極政策によって逆に中央集権化を進めていこうという思惑もあったのかもしれません。

律令制を中心とした中央集権国家というのは、一種の戦時非常時体制であって、そうした体制への移行を目指すのなら、人工的に戦時や非常時のような危機を演出するというのも一つの有効な手段となります。そのために次々と王都の町並みやモニュメントや運河などを建設していくというのも一つの手段で、シナ皇帝などもよくそういうことを行いましたが、なんといっても最も有効な手段は、外征を行うことでした。また、外征で勝利を収めることによって王権の権威が高まるという思惑もありました。
そういうわけで、このイカシタラシヒメ大王の治世においては、王都においては一大建設事業を展開しながら、同時進行で辺境においては拡大政策がとられたのです。すなわち、かつての大和王権の草創期のヤマトタケルを彷彿させるような東国への拡大政策、そして、かつてのオキナガタラシヒメを彷彿させるような朝鮮半島への介入政策でした。
倭国の勢力範囲は5世紀以降は基本的には関東地方や東北地方よりも西であり、関東や東北は蝦夷の居住する領域で、倭国から見て太陽の昇る方角であったので「ひのもと」と呼ばれていたのですが、この蝦夷の領域へ、イカシタラシヒメ大王の時代になってから積極的に進出していくようになりました。658年以降、朝廷の命を受けて越の国の豪族の阿倍比羅夫は何度も東北地方の日本海側に武装商船で進出していって蝦夷を服属させていきました。そして659年の遣唐使には、わざわざその服属してきた蝦夷を引き連れて行って、唐の皇帝の高宗に引見させたりしています。
これは結局、神から王権を授かった大王の支配する倭国を、「小型版のシナ帝国」と見なして、倭国は辺境に幾つかの小国を従えた独自の天下世界であり、そこを治める大王はシナ皇帝と対等の存在であると自己主張し、また、国内の豪族や人民にもそのような権威を示したいという欲求によるものでした。対外的に大王の権威を示すのも、そうすることによって国内向けに大王の権威が高まり、それによって中央集権化の土台が築かれるという計算があってのことであったのでしょう。
ただ、これらのイカシタラシヒメ大王時代の急進的な積極政策は、人々にはあまり評判は良くなかったようです。そもそも、それらの建設や戦争の財源は、朝廷の各地方の出先機関から集められたものであったのですが、これらはもともとは地方の人々のもので、地方の政治や暮らしのために使われていたものでした。それを改新政治などといって中央に持って行って、訳の分からないモニュメントや運河、戦争に使われて、今まで地方で既得権を持っていた人々から見れば愉快ではなかったでしょう。
実際は律令国家建設のためのステップの1つとして、朝廷のやっていることも全く無意味ということもないのですが、その意義は末端まで伝わりませんし、不満は多かったと思われます。そういった守旧派の不満とも戦いながら改新政治は進めていかなければいけなかったのです。そして、このイカシタラシヒメ大王時代の積極政策は、それが曲りなりにも上手くいっているうちはなんとか人々の不満も抑えられるのですが、それが失敗に終わった場合、一気に瓦解する危険性を孕んでいたのでした。

このように、倭国の中心たる飛鳥においては大王の宗教的・政治的権威を極度に高め、辺境においては積極進出政策をとり、東は関東東北地方、西は朝鮮半島南部を独自の天下世界の辺境と位置づけ、それらを支配する大王の国というのがイカシタラシヒメ時代の倭国のアイデンティティであるならば、同時期における朝鮮半島南部における新羅の唐との連携の動きは、倭国側から見れば到底許容出来ないものであったでしょうし、唐の新羅支援の動きは倭国から見れば自らの縄張りを荒らされるように感じたでありましょうし、新羅は裏切り者に見えたでしょう。
倭国から見て裏切りに見えたぐらいですから、新羅の唐への極度の接近策は百済や高句麗から見ても裏切り行為に見え、654年には百済と高句麗は連合して新羅を攻め、翌655年には新羅の北部の領土は百済や高句麗に奪われ、新羅は窮地に陥ります。そこで新羅は唐に救援を求めました。
この頃、唐の皇帝は太宗の子の三代皇帝の高宗でしたが、高宗は政治には乗り気でなく、実権は皇后である武后が握っていました。この武后の政治は専横が甚だしかったのですが、対外的には極めて積極政策で、新羅の救援要請を口実にして、朝鮮半島の回収に乗り出します。そういうわけで655年から連年、高句麗征討を繰り返しますが、やはり正面から高句麗を攻めても大した戦果は上がりませんでした。
そこで唐は作戦を変更して、まずは高句麗の同盟国の百済を征討して占領し、然る後に南の百済の地から唐軍を発して高句麗を背後から攻めようとしました。唐は新羅を示し合わせてその準備を進め、659年に百済が新羅を攻撃し、新羅が唐に救援要請したことをきっかけにして、660年に唐は水陸10万の兵で百済を攻め、新羅もこれに呼応して百済領へ攻め入り、東西から攻められた百済国王は進退窮まって夏には降伏し、百済はあっけなく滅んでしまいました。

百済の故地は唐が占領し、都督府を置いて直轄統治を開始しますが、百済の遺臣を中心にすぐさま各地で百済復興を目指す義勇軍の蜂起が起こり、この義勇軍が660年秋に倭国に救援要請をしてきました。倭国はこれを直ちに承諾するのですが、これを断ってしまえば倭国のイカシタラシヒメ大王政権のアイデンティティとなっている天下世界観は崩壊してしまうわけですから、朝鮮半島南部を支配下に置くミニ帝国という倭国の建前上、義勇軍の救援要請を断るということは出来ないわけです。
それに朝鮮半島の南部まで大陸の巨大国家の支配下に入ってしまった場合には、日本列島の安全確保が困難になるのであって、実際、後に高麗がモンゴル帝国の支配下に入った時には元寇という危機が生じたのであるし、近代の日清戦争、日露戦争も朝鮮半島が大陸国家の支配下となるのを防ぐために戦争であったのです。だからこの時も唐の勢力と対馬海峡を挟んで向かい合うという事態は避けたいというのが倭国の本音で、それを避けるために百済復興運動を支援するのは最善の策でありました。
それに、もともと倭国の朝廷には百済系の帰化人も多く、百済の危機を救援すべしという意見も多かったと思われます。あるいはイカシタラシヒメ大王には、この百済復興が成功すれば倭国の百済への支配は確固たるものになるという読みもあったのでしょうし、このような大規模な外征を行うことで王権への権力集中も進められるという、一種の王権の権威を高める事業の一環という意識もあったのかもしれません。それで60歳になっていたイカシタラシヒメ大王自らが、まるで古のオキナガタラシヒメのように自ら軍を率いて筑紫まで出向いたわけですが、661年の7月にイカシタラシヒメ大王自身が筑紫で陣没してしまいました。
そこで同道していた中大兄王子がとりあえず即位せずに政務を引き継ぐことにして、そのまま筑紫で百済復興義勇軍への支援活動を継続し、倭国軍を半島に送り、10月にはイカシタラシヒメ大王の亡骸を飛鳥に運ぶために中大兄王子は筑紫を後にします。しかし倭国はこの時点でまだ大王への権力の集中がしっかりとなされておらず、なんとかイカシタラシヒメ大王のカリスマでまとめていたというのが現状であったのですが、そのイカシタラシヒメ大王が亡くなってしまい、しかもその代理の中大兄王子も戦陣から去ってしまっては求心力を失い、指揮系統もバラバラで内輪揉めが絶えないようになってしまいました。一方、唐軍や新羅軍はちゃんと権力集中がなされていたので指揮系統も一貫しており、強かったのです。
それで百済の故地で倭国軍や百済復興軍の中でゴチャゴチャと揉めている間に唐と新羅が663年に百済故地に大軍を派遣してきて、8月に黄海沿岸で義勇軍の本拠地にほど近い白村江に陣取る唐の水軍に倭国軍が攻撃を仕掛けて大敗を喫してしまいます。そして9月には義勇軍の本拠地も陥落し、白村江の戦いで生き残った倭国の軍船は百済の難民を収容できるだけ収容して、生命からがら筑紫へと逃げ帰ってきたのでした。これで百済は完全に滅亡して朝鮮半島南端まで唐の勢力圏となってしまいました。
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