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日本史についての雑文その309 日本国誕生
663年の白村江の惨敗とそれに先立つイカシタラシヒメ大王の死によって倭国で進められていた王権の権威の上昇のための諸々の施策はどこかへ吹き飛んでしまい、朝鮮半島南端まで唐の勢力が達したことを受けて中大兄王子はまずは日本列島の防衛体制の強化に急いで取り掛かることになりました。664年には対馬、壱岐、筑紫に国境警備隊である防人や狼煙による連絡網を置き、筑紫には水をたたえた防御施設である水城を築き、665年から667年にかけて西日本の各地には防御用の城砦を築きました。
一方、百済の故地を占領した唐は百済の旧王族を都督に据えて傀儡として、664年にこれと新羅を和睦させて共に支配下に置き、これらの地の兵力も動員して高句麗征討に乗り出す姿勢を示しました。そして高句麗を攻める際の後顧の憂いを断つために同じく664年には倭国に使者を出して修好を図ろうとしました。しかしこの時は倭国は唐に対する警戒心が強く、文書も受け取らず筑紫から追い返しました。
この唐の修好の申し出というのは、修好といえば聞こえはいいですが、要するに百済の地や新羅の地における唐の支配権を認めるように迫っているわけで、倭国にとっては屈辱的な内容のものでした。しかし現実に白村江で空前の大敗を喫してしまい、唐の巨大な軍事力に脅えて日本列島の防衛に汲々としている現状では、倭国としてもこの要求を呑むしかなく、翌665年には結局、唐使を飛鳥まで迎えて和親を結びました。つまり、これによって倭国は唐に屈服し、朝鮮半島南部の利権を全て放棄することになったのです。
これによって倭国は唐との関係を復活させて、665年、667年、669年と立て続けに遣唐使を派遣することになりましたが、これらは朝鮮半島南部の利権の引継ぎなどの交渉の意味合いが強いのではないかと思われます。この間も倭国は日本列島方面への唐軍の侵攻を警戒し、国土防衛の態勢を整えていきました。
しかし唐軍は倭国のほうへは向かわず、高句麗攻略に取り掛かっていきました。高句麗は百済滅亡後も唐と新羅の攻勢をよく防いでいたのですが、665年に高句麗の実権を握っていた淵蓋蘇文が没し、その没後にその子たちが後継争いを起こして国内が乱れました。それに乗じて666年から唐と新羅の連合軍は高句麗に攻め込み、とうとう668年に高句麗も滅亡し、高句麗の故地も唐の支配下に置かれました。この頃が大唐帝国が最もその版図を拡大した時期ということになります。

この663年の百済滅亡から668年の高句麗滅亡までの時期に並行して、倭国では新たに大きな変化が生じていました。
663年の白村江の戦いで倭国軍が惨敗した原因は指揮系統がバラバラで、統制のとれた唐軍に太刀打ち出来なかったからです。なぜ倭国軍がバラバラで唐軍は統制がとれていたのかというと、倭国軍が豪族連合の寄せ集めであったのに対して、唐軍は中央集権国家の国軍であったからです。この彼我の差をそのまま放置したままでは、倭国軍は再び唐軍と戦ってもまた敗れることでしょう。
しかし倭国では664年以降、唐軍の侵攻に備えて防人を配置したり水城を築いたり各地に城砦を築いたりしていたのです。つまり唐軍との再戦を想定して準備に取り掛かっていたわけですが、しかしこのようにハードウェアだけ整備しても防衛体制を整えたとはいえないのであって、やはりソフトウェア、つまり軍組織そのもの、そしてその背景をなす国家体制そのものを改めなければ意味は無いのです。
つまり、倭国も唐のように中央集権国家となり、統制のとれた国軍を備えなければ、いくら水城や城砦を並べたところで、国土防衛はおぼつかないということであり、白村江の敗戦はそのことを倭国の支配層に痛感させたのです。
白村江の敗戦はイカシタラシヒメ大王時代に懸命に進めてきた王権の権威の絶対化を台無しにして王権の求心力を低下させてしまったのですが、それと同時に皮肉なことに、イカシタラシヒメ時代には手をつけられなかった中央集権化を、当初予定していたように王権のカリスマによってではなく、逆に王権のカリスマが崩壊してしまうほどの危機の出現という非常事態を名目にして一歩進めることになったのです。

それが664年に中大兄王子の命令で弟宮の大海人王子によって宣布された「甲子の宣」といわれるもので、その内容は、朝廷の冠位を増設したことと、中央豪族の諸氏の序列を定めて、そのウジの成員を朝廷が把握できるようにしたことと、諸氏の従来の経済的特権をその地位に応じて朝廷が再配分するようにしたことでした。
これらは要するに難波宮時代の大化の改新の時点では手付かずで終わっていた、中央氏族の既得権にメスを入れて、彼らから土地や人民を取り上げて朝廷から俸禄を貰う官僚へと変えていくという最終目標、つまり公地公民制への第一歩となるものでした。
これは豪族勢力の反発が強かったので大化の改新時には進められなかったのですが、それがこの段階で手をつけることが出来たのは、やはり白村江の敗戦によって豪族達も国家的な危機感を持つようになり、自分達の既得権ばかりに拘っている場合ではないという意識を持つようになったからでしょう。つまり中大兄王子は敗戦を逆利用して中央集権化を一歩進めることが出来たのです。
ただ、あくまで一歩進んだというだけのことでもあり、この「甲子の宣」の改革も本来の公地公民制から比べれば不徹底なものでした。なぜ不徹底に終わったのかというと、王権に求心力が無かったからです。なぜ求心力が無いのかというと、白村江で敗戦したからです。要するに、中大兄王子らは勝手に戦争を起こして勝手に負けて国家を危機に陥れ、それで危機になったからといって豪族達に痛みを強いているわけです。こういうのをまさに「焼け太り」というのであり、国家が危機的状況にあるのは事実ですから豪族達も必要な分の痛みは受け入れて既得権も手放しますが、そもそもそんな羽目に陥ったのは朝廷の指導層の責任なわけですから、必要以上に朝廷を肥え太らせる気は毛頭無いというのが豪族達の想いであったでしょう。豪族達も、唐軍の脅威という大義名分があったればこそ、既得権に手をつけられるという痛みにも耐え、朝廷の敗戦責任も厳しく追及しないで済ましている面はあったのです。
そのような反感を買いながらこの改革は進められていったのであり、この改革の担当者であった大海人王子の苦労は並大抵のものではなかったと思われます。しかしそれでも一定の成果が上がったのは彼の努力の賜物であり、この作業を通じて大海人王子は政治指導力を成長させ、豪族の諸氏との信頼関係を築くこととなったのです。このようにして育っていった真に求心力のあるリーダーによって、後にこの未完の改革は成し遂げられることになるのです。

このように官僚制と公民制、つまり律令制へ向けての動きが進み始めた頃、665年に朝廷は唐に屈服して朝鮮半島南部の利権を手放すことになりました。白村江の敗戦時に既に多くの百済からの帰化人や、百済に駐在していた倭人、また百済に住んでいた華僑たちが倭国に逃れてきていましたが、彼らはこの決定に失望したことでしょう。
また唐との戦いに備えて痛みに耐えている倭国の豪族や人民も、この朝廷の弱腰に失望したこととは思いますが、それでも帰化人も含めて豪族、人民ともに、唐軍から日本列島を守らねばならないという意識は強く、団結心を強めていきました。
この朝鮮半島南部の失陥によって倭国の枠組みが大きく変化しました。今までの大和王権時代から引き続き、そしてイカシタラシヒメ大王の時代に再確認された、「東は蝦夷の国まで、西は朝鮮半島南部まで」という一種の小型帝国であった「倭国」というものは解体し、唐の侵攻に備えて後背地獲得のために東国へ進出し、蝦夷を同化して蝦夷の居住地「ひのもと」と合同国家を作っていくようになります。
また百済にいた豪族や人民の一部が日本列島へ移動して大和朝廷の直属の臣となることによって朝廷内の勢力の再編も行われ、倭国の中に百済の一部を取り込んだ或る種の合同国家のようなものが形成されるようになりました。これに668年以降は高句麗の一部が合流してくることになるのです。
この倭人、帰化人、華僑、蝦夷などによる日本列島限定の新たな枠組みの国家が唐への対抗意識によって団結し、律令制を採用する中央集権国家を目指していくことになるのですが、その団結の求心力となるものが必要でした。それはこの時点では大王ではありませんでした。いや、そもそもこの665年あたりの時点においては大王は正式に即位もしておらず存在していなかったのです。事実上の大王は中大兄王子でしたが、彼は白村江の惨敗の責任者であり、求心力にはなり得ませんでした。
それよりは、先代のイカシタラシヒメ大王の時代に再確認された倭国の伝統的な首長霊である太陽神のほうがよほど求心力として適当でありました。イカシタラシヒメ大王時代から倭国の別名として一部で使われるようになっていた「ひのもと」という呼称が採用されて、665年以降に日本列島に形成されていった新たな枠組みの国家は「日神の治める国」という意味で「日本(ひのもと)」と呼ばれるようになっていったのです。おそらく蝦夷の領域としての「ひのもと」の意味も重ねて、このように呼ばれるようになっていったのでしょう。
このような「日本」という新たな国家概念が育つのと並行して、唐軍の侵攻に備えた防衛体制が整い、そして官僚制や公民制の基礎がある程度は整備され、667年に中大兄王子は近江大津宮に遷都し、この地を新たな中央集権国家の都と定めます。ただ、この近江大津宮は非常に狭い不便な土地で、この遷都は飛鳥よりも更に奥まった地に都を移すことで防衛体制の強化を図ったものであったと思われます。この遷都も豪族や人民には非常に不評であったのですが、唐軍への対抗上の措置ということで不満を持つ人々も納得していたと思われます。
こうして663年の白村江の敗戦以降の激動の時代が一段落ついたと判断して、近江遷都の翌年の668年に中大兄王子は42歳にして正式に即位して天智天皇となります。そして国号を正式に「日本(ひのもと)」と改め、日本初の行政法である「近江令」を定め、670年には初めての全国的規模の戸籍である「庚午年籍」を作成し、その内容は極めて中途半端ではありますが、とにかく律令制国家への第一歩を踏み出すことになります。ここにおいて「日本」という国家が誕生したのです。

また、ここで「天皇」という王号が初めて登場してきます。「天皇」と最初に名乗ったのはおそらく天智天皇で、まぁ「天智」は諡号ですから後世につけられた呼び名ですから実際は「天智天皇」と自分で名乗ったわけではないのですが、いちいちそんなことに拘っていては歴史記述に支障をきたすので今後は通例通り、「天智天皇」「天武天皇」のように漢風諡号で呼称させていただきます。いや、そもそもここまでのミマキイリヒコやイカシタラシヒメなどという呼称も和風諡号なのであって生前にそのように呼ばれていたわけではにという点では同じなのですが。
とにかく、この天智朝の時期はまだ単に今まで「大王」と言っていたところを正式な場では「天皇」と言い換えるようにしただけで、王号として「天皇」を使用し始めたのが天智朝時代であるということです。しかもこの天智朝時代においては日常的にはまだ「大王」という称号のほうが使われていたのではないかとも思います。しかしとにかく「天皇」という称号が使われるようになった最初がこの天智朝時代からであると思われるのです。
なぜ、この時に「天皇」と名乗るようになったのかというと、この天智の場合は皆に尊敬されて「天皇」と呼ばれたわけではなく、逆にあまり求心力が無いものだから、その権威を高めるために、シナ皇帝と対等の称号である「天皇」と名乗ることにしたのでしょう。この時期はとにかく唐に対抗することが王権のアイデンティティになっていましたから、単なる「王」では皇帝の臣下になってしまうからダメなのであって、シナ皇帝の臣下ではなく官爵を受けないという意思を明確に示す、かつて厩戸王子も国書で使用した、この「天皇」という称号を名乗ることによって、新たに生まれた「日本」の人々の人気を取ろうと考えたのでしょう。この「天皇」という称号が真に権威あるものになるのは、真にカリスマ性のある人物がこの王号を名乗るようになる次の時代以降のことになります。
天智天皇の時代においては、「天皇」は名乗っていますが、基本的にこの天皇はかつて白村江で倭国軍が惨敗する原因を作った「敗軍の将」であり、その汚名を挽回する機会も得ていなかったのであり、「敗軍の将」にはやはりどうしても求心力というものは生じないのです。ただ緊急事態なので仕方なく他の人々が彼に従っているだけのことで、心底から信服しているというわけではありませんでした。だからこの時代においては中央集権化の改革は形式的には進みますが、まだまだ実質を伴ったものにはなっていませんでした。
しかし、そうはいっても、とにかく663年の白村江の戦い以降、新興勢力の中から更に革新的な先駆者たちが現れて、「日本」という新しい枠組みを作って時代を牽引し始めることになったのです。そしてそうした先駆者の勢力が次第に優勢になっていき、律令国家文明の形成期前期も終盤へ向かっていくのです。
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