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日本史についての雑文その310 壬申の乱
さてこのように668年に倭国が「日本」という新たな国家に生まれ変わった頃、朝鮮半島ではとうとう唐が百済に引き続いて高句麗も滅ぼして満州平原から朝鮮半島にかけて支配下に収めました。これはシナお得意の外交戦略である「遠交近攻策」を実行した結果でした。すなわち、唐は新羅と同盟して、新羅を走狗として百済と高句麗を滅ぼしたのです。しかし、この「遠交近攻策」の場合、最終的には走狗となった新羅も滅ぼして完了となるのです。新羅も唐がそのように企んでいることは承知した上で、それでも自らが生き残るためにあえて唐に利用されているわけです。
そして、百済も高句麗も滅んだ668年以降は、いよいよ次は用済みになった新羅が唐に滅ぼされる番ということになります。新羅もそういう展開は予想していますから、周到に準備を重ねた上で670年に唐に叛旗を翻し、百済の旧領に侵攻して朝鮮半島を統一支配して唐軍を追い出そうとします。新羅は百済や高句麗の遺臣や遺民を吸収して、新羅の国家機構をこれらの勢力を組み込んだものに改造して、新羅を新たな半島統一国家として唐軍と戦いました。このようにして、この戦いを単なる新羅による朝鮮半島支配のための戦いではなく、朝鮮民族による国土回復戦争という位置づけとしたことによって、新羅は唐に対して粘り強い抵抗を継続することに成功したのです。
思わぬ新羅の粘り強い抵抗を受けて焦った唐は、しかし大規模な新羅征討を行うことが出来ない状況にありました。新羅が蜂起したのと同じ670年に西域ではチベット高原の吐蕃が勢力を増して唐とトラブルを起こすようになり、唐の安西四鎮を攻め落としシルクロードを制圧するという事態が持ち上がり、692年までこうした事態は継続するのですが、この間、唐はこの事態への対処に兵力をとられることになるのです。
そうなると唐としては正攻法で新羅を叩くことが難しくなりますから、策を用いることになります。それは再び「遠交近攻策」を駆使するということで、今度は攻撃対象の近国は新羅で、同盟を結ぶ遠国は日本ということになります。

そういうわけで671年に唐の使者が日本へやって来て新羅を敵国とした同盟を持ちかけます。問題はこの唐からの同盟を持ちかけられた近江朝廷の状況であったのですが、天智天皇の腹心中の腹心であった中臣鎌足が新羅蜂起の前年の669年に55歳で死去しており、天皇は知恵袋を失った状態でありました。そして天智天皇は白村江のトラウマで唐軍を非常に恐れていたので、唐と敵対するよりは同盟するほうに傾きがちでした。
更に、近江朝廷には百済系や高句麗系の帰化人が多く、特に白村江の戦い以降に日本へ逃れてきた帰化人が多く、唐軍を半島に引き入れた新羅のことを「裏切り者」として憎悪する者が多かったと思われます。唐に対する憎悪よりも、新羅に対する憎悪のほうがむしろ強かったことでしょう。日本から見れば唐は強者であり、新羅は弱者でした。人は強者を憎むよりも弱者を憎むほうが楽なのです。
こうして近江朝廷内では反新羅ムードが強くなっていき、それに押されて天智天皇は唐との同盟に傾いていきました。しかし、これはシナお得意の「遠交近攻策」ですから、新羅を滅ぼした後に次に用済みになって滅ぼされるのは日本ということになります。実際、新羅まで完全に唐の勢力範囲になってしまえば、朝鮮半島南端まで巨大な大陸国家の勢力が及ぶということになり、日本列島は重大な安全保障上の危機を迎えることになります。曲りなりにも独立国の新羅というクッションが半島に存在しているからこそ日本も安心できるのです。そのクッションを自ら潰そうという同盟受け入れ策は全くの愚策であるといえるでしょう。日本として正しい選択は、むしろかつて高句麗に対して行ったように、新羅と同盟して共に唐と戦うことでした。鎌足が生きていればそのように天智天皇に進言したのではないかとも思われますが、鎌足亡き近江朝廷では「新羅憎し」の感情論が支配的になっていたのでしょう。

そうした近江朝廷の中で太子であった大海人皇子だけは唐との同盟に反対したのだと思われます。大海人皇子が反対した理由は、上記の安全保障上の理由ももちろん大きかったでしょうけれど、更に改新政治の実務面の統括者であり地方の中小豪族や人民の本音を把握していた大海人皇子は政権の求心力の面で大きな不安を抱いていたのではないかと思います。
つまり、急ピッチで進む改新政治は地方豪族や人民にとっては非常に痛みを伴うものであったのですが、彼らはそうした「痛みに耐えて」いたのは、「唐軍の侵攻を防いで国土を守るため」という大義名分があったからでした。近江朝廷に心から信服しているわけではなく、むしろ不満は鬱積していたのですが、「唐と戦う」という目的意識を共有して「痛みに耐えて」いたわけです。
それなのに、朝廷がいきなり180度姿勢を転換して唐と同盟してしまっては、それは地方豪族や人民たちから見れば弱腰に映るでしょうし、裏切りにも見えるでしょう。彼らとしてみれば朝廷に義理立てして「痛みに耐える」必要はもはや感じなくなり、朝廷に対して鬱積していた不満は爆発するでしょう。近江朝廷というものはそうした危うい均衡の上に成り立っていたのであり、地方の実情を把握していた大海人皇子にはそれが見えていたのですが、近江の朝廷に出仕しているだけの多くの官人や官僚化した中央豪族たちにはそうした現実が見えていなかったのでしょう。
ただ大海人皇子は実質的に摂政の地位にあった実力者であったので、本来は彼の意見は他の意見よりも強いはずなのですが、天智天皇が唐との同盟に前向きであったので大海人皇子と意見が食い違い、溝が生じました。その溝に朝廷内の勢力争いが絡み、この同盟問題を利用して近江朝廷内部に大海人皇子を政権中枢から外そうという動きが生じます。天皇もこれに加担し反大海人派が朝廷の主流派となり、671年に天智の子である大友皇子を首班とする政権が生まれ、大海人皇子は太子ではありますが政権の実務面からは外されて祭り上げられてしまいます。
そこで大海人皇子は本拠地の吉野に移り、近江朝廷と対峙することになります。ここに至り朝廷は真っ二つに割れることになり、中央豪族の支持を受けた天智天皇と大友皇子の近江朝廷勢力と、地方豪族の支持を受けた大海人皇子の吉野勢力が一触即発の状況となります。

こうした中で671年、天智天皇が死去します。これによって締結寸前だった日本と唐の同盟への動きはストップします。この天智天皇の死に関しては暗殺説もあり、もし暗殺であるとするならば大海人皇子の勢力による同盟阻止工作の一環であった可能性もあります。大海人皇子に関しても、実際は天智天皇の弟ではないという説や、異父兄弟であるという説もあり、もしそうだとするならば暗殺の可能性もあり得るでしょう。いや、国家の一大事となれば同腹の兄弟でも殺し合うことはあるわけで、真相は闇の中ですが、とにかく天智天皇が絶妙のタイミングで死去し、その後、近江朝廷は大海人皇子によって武力で滅ぼされているのは明らかな史実なのですから、天智天皇の死に大海人皇子が関与していても流れ的には不自然さはありません。日本書紀には天智天皇は病死と書いてあり、大海人皇子がその死に関与したとも書いてありませんが、日本書紀はそもそも近江朝廷を滅ぼして絶大な権威権力を集中した専制君主である天武天皇として即位した大海人皇子の命令によって作られた歴史書ですから、大海人皇子に都合の悪いことはまず書いていないと見たほうがいいでしょう。
とにかく天智天皇は671年に亡くなりますが、その後、近江朝廷では大友皇子が弘文天皇として即位し、相変わらず唐との同盟を推進する勢力が朝廷を牛耳って吉野の大海人皇子と対立したので、翌672年に大海人皇子は畿内を脱出して東国へ出て兵を集め、東国の地方勢力の大部分は大海人皇子のもとに結集しました。近江朝廷に対する不満がそれだけ充満していたということでしょう。
近江朝廷は慌てて西国の兵力を集めようとしますが、多くは失敗します。西国でも最初から大海人皇子側に与している勢力が多かったようです。筑紫大宰の栗隈王は朝廷の使者に向かい「筑紫の兵力は外敵に備えるためのもので、朝廷の徴発に応じて兵を動かせば国は無防備になります」と言って断ったそうですが、唐と結んで吉野を討伐して国家を危うくする近江朝廷に対する痛烈な皮肉といえるでしょう。一方、大海人皇子の側はこうした最前線の現場の声によく対応していたのだといえます。
そうして近江朝廷は畿内の幾つかの兵しか集められず、大海人側は優勢な兵力で美濃・伊勢方面から大和と近江に攻め込み、大和を制圧し、近江の大津宮に迫り、瀬田で激戦が繰り広げられますが大海人軍が勝利し、観念した弘文天皇は自殺しました。これが古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」です。
壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は翌673年に飛鳥宮で即位して天武天皇となります。この壬申の乱によって近江朝廷に集まっていた中央の有力豪族がほぼ全員、天武天皇に敗れたことによって発言力を喪失し、逆に大規模な内乱を圧勝した天武天皇は強烈なカリスマを獲得し、絶対的な権威と権力を集中した専制君主となります。この圧倒的な専制権力によって天武天皇は律令制を基盤とした中央集権国家化を強く推し進めていくことになるのです。
この壬申の乱によって改新政治を阻む守旧的勢力は大幅に弱体化し、先駆者グループが優勢な状況を作ることになったのです。そしてここから時代は、律令国家文明の形成期後期に入っていきます。その時代を牽引していき、新しく生まれた「日本」という国を本格的に建設していくのは、カリスマ的専制君主となって「天皇」という称号を実質的な内容を伴ったものとしていく、実質的な意味においての初代天皇である天武天皇なのでした。

そして、この天武天皇の時代においては一度も遣唐使が送られることはなく、その方針は天武没後も続き、702年まで30年間も継続されたのです。一方、新羅とはほぼ毎年互いに使節を交換し合うほどに密接な関係を維持し、事実上の同盟関係にあったといえるでしょう。つまり、壬申の乱以降、日本は新羅と同盟して唐と戦う道を選んだのです。実際に唐と日本が兵火を交えることはありませんでしたが、国交は断絶状態で、日本としては大陸とは縁を切る覚悟でありました。そしてこの時期に大陸から切り離された「日本」というものが形成されていくことになるのです。
こうして唐の「遠交近攻策」は失敗し、唐は単独で新羅を攻めることになり、674年に新羅王の官爵を剥奪して征伐軍を朝鮮半島に派遣しましたが、新羅側はよく防戦し、ついに676年には唐軍を百済の故地から撤退させることに成功しました。その後も唐は新羅を征討対象として対峙しますが、そうこうしているうちに682年に北方遊牧民部族が唐から離れて東突厥帝国を復興させ、また683年に唐で高宗が死去すると武后の専横が激しくなりそれに反発する反乱なども起きて唐の内政が乱れ、新羅征討どころではなくなってきました。
そして690年にとうとう武后が唐の帝位を簒奪して自ら皇帝となり、国号を周として聖神皇帝と自称しました。つまり彼女が武則天で、別名を則天武后といいますが、この周が705年まで続き、その後はまた唐が復活するのですが、彼女は自らの独裁を維持するために唐の政権基盤となっていた鮮卑人やシナ人の豪族勢力と、それの上に乗っかっていた府兵制を骨抜きにしました。これによって辺境への押さえが効かなくなり、周の内政の混乱をついて満州平原方面では契丹が暴動を起こし、さらにその混乱をついて高句麗の遺民が698年に渤海国を建国すると、その討伐のために唐(周)は新羅への姿勢を緩和するようになり、699年には新羅と唐(周)の国交も復活するようになりました。日本が遣唐使を702年に復活させたのも、こうした国際情勢の変化に対応したものであったのでしょう。
8世紀になると次第に渤海国が大きな勢力となってきて満州平原で唐と争うようになり、新羅は渤海国を警戒して唐と結ぶようになり、唐による渤海国征伐の戦いに兵を出すようになり、それによって唐は735年には新羅に大同江以南の領有を公認するようになります。そしてそうやって唐との関係改善が進むにつれて新羅は唐の影響を強く受けるようになっていき、それに比例して、日本との関係は疎遠なものになっていき、日本はむしろ渤海国と結んで新羅との仲は8世紀後半になると険悪なものに変わっていくことになるのです。この頃になると今度は唐がおかしくなってくるのですが、それはまた後ほど触れることにします。
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