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日本史についての雑文その311 天武持統朝
つまり、672年に大海人皇子が親唐派の近江朝廷を武力で倒して新羅との同盟を選択し、翌673年に天武天皇として即位してから、699年に新羅と唐の国交が回復し、702年に日本が遣唐使を復活させるまでの期間は、日本は新羅と同盟して当時の世界最大の超大国であった唐と軍事的に緊張関係で対峙していたことになります。
687年に亡くなった天武天皇の後を継いだその妻の持統天皇は697年に孫の文武天皇に譲位して702年に没していますから、この期間は天武天皇と持統天皇の時代ということになり、そしてまたこの時代は律令国家文明の形成期後期に相当します。基本的には壬申の乱という古代最大の内乱の終結と唐と対峙する戦時体制の継続という一種の非常事態を背景として、古代天皇制と律令制を中心に据えた中央集権国家体制を構築していった時代であったといえるでしょう。

この間、都は飛鳥宮から694年には藤原京へ遷り、その後710年には平城京へと遷都され、奈良時代に入っていきます。この間の政治的な流れは一連のものであり、実質的には壬申の乱の直後から奈良時代に区分して考えてもいいように思います。
しかし、この奈良時代という時代の政治史は非常に複雑で、それが複雑になってしまっている大きな原因は、皇位継承に不自然な点があまりに多いからです。まずこの時代は他の時代に比べて突出して女帝が多いし、夫から妻(天武→持統)、祖母から孫(持統→文武)、息子から母(文武→元明)、母から娘(元明→元正)、叔母から甥(元正→聖武)、父から娘(聖武→孝謙)というように、あまりに不自然な継承ばかりが行われています。普通に考えればこんなに不自然な継承をしなくても天武天皇には多くの子孫がいたのであり、皇位継承者には不自由しなかったはずです。何か見えないルールというか、大きな制約の中で四苦八苦して皇位継承が行われている印象を受けます。
よく言われるのは、持統女帝の自らの血統への拘りと、藤原氏の血を引く皇族の優遇というものです。それらは確かに事実ではあるのでしょう。しかしそれらはいわば持統帝や藤原氏の私情ともいえるもので、そのような私情がコンセンサスを得ることが出来る何らかの状況が存在していたと考える必要もあります。つまり持統や藤原氏の血を引かない天武の皇子の子孫たちがどうしてそうした私情に対して異議を唱えなかったのか、いや、異議は唱えたのかもしれませんが、それでも大した抵抗も示すことなく持統や藤原氏に押し切られてしまっているのは何故なのか。

一般的には古代最大の内乱である壬申の乱を武力で制した天武天皇は強烈なカリスマを獲得し、そのカリスマによって中央集権化を推し進めていったと言われています。これも事実ではあるのでしょう。実際に天武天皇は律令国家建設を推し進めていきましたし、そのカリスマの源泉には壬申の乱の勝利は貢献していたのでしょう。
しかし壬申の乱の勝利が天武天皇のカリスマの源泉の全てではないのです。もし壬申の乱の勝利がそれほど権威を保証することであったとしたのなら、壬申の乱の時に実際に大海人皇子軍を指揮して勝利に貢献した天武の長男の高市皇子こそが天武に次ぐ大きな権威を持つのが当然であるし、天武政権においても絶大な発言権を有し、天武の後継者としても誰もが認める存在となって然るべきであったはずです。
それなのに高市皇子は亡き父の妻であった持統に皇位を簡単に渡してしまい、その下で普通に働いているのです。壬申の乱の貢献度で言えば高市は最高殊勲といってよく、持統は逆に敵方であった近江朝廷側の天智天皇の娘であったのであり、壬申の乱の貢献度が天武朝の権威の最高の源泉であったと考えると天武の後継者が高市でなく持統になるというのは不自然だといえるでしょう。
もちろん壬申の乱の貢献度が全く無価値であるというわけではありません。それがあるからこそ天武朝が始まっているのだし、高市皇子も持統の下で太政大臣という臣下としては最高の位についているのです。しかしそれは権威の源泉としては第一位ではなく、天武朝において皇位継承の条件としての第一の条件は別にあったのだということです。そして、それは天武天皇自身のカリスマの最大の源泉でもあったのです。

それは一般的には「血統」であるといわれています。つまり高市皇子やその他の天武の皇子たちは父は天武天皇ですが母は身分の低い地方豪族の娘で、皇位継承資格が無かったとされるのです。この頃は両親ともに皇族でなければ皇位には就けないとされていたのだというのです。だから天武天皇と持統皇后(天智の娘だから皇族)の間に生まれた草壁皇子が天武の皇太子となったのです。
しかしその草壁皇子は天武天皇が686年に死去した後に既に25歳になっていたにも関わらず、すぐに即位せず、その間、皇后であった持統が政務を執り、草壁皇子はその後689年に28歳の若さで死去し、690年に持統が即位するのです。まさか持統が我が子の草壁を謀殺したということはなく、草壁の死そのものは偶然の出来事なのでしょうが、この間の経過は非常に不自然で、事態は天武の正式後継者である草壁ではなく、天武の妻であった持統を中心にして動いているように見えます。持統が草壁の即位に反対であったなどということはまず無いでしょうが、とにかく皇位継承に関する決定権は持統が握っているという印象があります。
つまり、こう見てみると、絶対的カリスマであったはずの天武の遺志よりも持統の判断のほうが優先されているのであり、それが周囲にも許容されているように見えるのです。言い換えれば天武のカリスマよりも持統のカリスマのほうが強いように見えるのです。そう考えると、そもそも天武のカリスマのうちの大部分は実は「持統の夫」という部分に負っていたのではないかとも思えてくるのです。つまり、真のカリスマは天武ではなく持統のほうではなかったかという疑惑が生じてくるわけです。

だいたい草壁が即位するならともかく、持統が即位するとなるなら高市皇子などと条件的には対等のはずです。持統の父は天智天皇ですが、母は蘇我石川麻呂の娘で皇族ではありませんし、そもそも石川麻呂は蘇我氏の傍系であり反逆者(冤罪だったと思われるが)として処罰された男であり、さほど高貴な家柄というわけではありません。そうなると天武と豪族の娘の間に生まれた高市皇子らとそれほど血統に差は無いということになります。
もちろん持統には草壁没時に7歳であった遺児の軽皇子、つまり自分の孫の即位までの繋ぎ役を務めるという大義名分はあったのですが、草壁没時の時点で一気に天武の孫の代まで皇位継承の構想が飛ぶのであれば、草壁没時において高市皇子にも天智天皇の娘との間に生まれた13歳になる長屋王がいたのであり、血統的には高市と持統が対等であり、軽皇子も長屋王も共に未即位の天武の子の親王を父として天智天皇の娘を母としている(軽皇子の母も天智の娘)以上、年齢的には長屋王のほうが軽皇子よりも上であった以上、長屋王の即位までの繋ぎで高市皇子が即位するという選択肢も十分あり得たはずなのです。
しかし実際には高市皇子が即位することはなく持統天皇が簡単に即位しました。しかも、天武天皇の男の皇子が多数健在であるのに、それら皇子に比べてさして身分が隔絶して高いわけでもない皇后が「夫→妻」という変則的な即位をしたというのに、高市皇子らが異議を唱えた様子もなく、高市皇子らを担ごうという動きも生じなかったのは不自然だといえるでしょう。これはつまり、実際には高市皇子ら天武の皇子たちと持統の間には血統上、隔絶した高い壁が存在して、持統のほうが高い身分であったということではないでしょうか。

そうなると、高市も持統も母親は豪族の娘ですから、父親の血統に差があるということになります。しかし持統の父は天智天皇で、高市の父は天武天皇であり、天智と天武は共にヒロヌカ大王とイカシタラシヒメ大王の間に生まれた兄弟であり、血統的には両親ともに皇族であり大王であったという意味で対等のはずです。しかしそうではなく、天智と天武は同じ両親から生まれた兄弟ではないという説もあります。
鎌倉時代に書かれた「一代要記」や南北朝時代に書かれた「本朝皇胤紹運録」などには天武天皇の没年齢は65歳となっており、天武天皇の没年が686年であることもハッキリしているので、そこから逆算すれば天武天皇は622年生まれということになります。しかし日本書紀には天武天皇の生まれた年も没年齢も明記されていません。そもそも日本書紀は天武天皇の命令で作られた史書であり、歴代天皇の中で天武天皇に関する記事が最大分量であるのに、これは全く不自然なことです。
一方、天智天皇のほうは日本書紀でも没年齢と没年が明らかになっていますので、そこから逆算すると626年生まれということになり、天武天皇のほうが天智天皇よりも4歳年長ということになります。しかし日本書紀では天武は天智の弟ということになっており、天智天皇の皇太子が大海人皇子(天武天皇)で、その後、天智の没後に壬申の乱を経て天武が即位したということになっています。
日本書紀の作成が開始されたのは壬申の乱の少し後のことですから、いくらなんでも天皇の即位順を偽ることは出来なかったでしょうから、天智が天武よりも前に即位していたのは事実でしょう。しかしそうなると同父同母から生まれた兄弟でありながら弟(天智)のほうが兄(天武)よりも先に即位しているのは不自然です。そうした不自然を感じさせないように日本書紀では天武の年齢を隠して、天武が天智の弟であるかのように偽ったのでしょう。弟の天武よりも兄の天智のほうが先に即位したのは当然のことであるというわけです。そして兄の天智のあとを受けて弟の天武が即位したのは正当なことであるというわけでもあります。日本書紀は天武朝の正統性を述べるための史書でしたから、そうした作為はあったと考えたほうが自然でしょう。

しかし実際は天武のほうが年長の兄であったわけです。天武が無能であるとか皇位を嫌っていたとかいうのならそれでも不自然ではないのですが、天武は有能であるし後に皇位にも就いています。改新政府においても大海人皇子(天武)は中大兄皇子(天智)と共に中心的な役割を果たしていました。そういう兄を差し置いて弟のほうが先に皇位に就いたことのほうが不自然です。しかし現実には年下の天智のほうが先に皇位に就いたのです。
そうなると、そもそも天智と天武が同父同母から生まれた対等な兄弟であったのかというのが疑問となってきます。天武も後にほとんど違和感なく天皇に即位しており、壬申の乱以前からかなりの求心力を発揮していたことからも、天武も皇族であったこと自体は間違いないとは思いますが、果たして本当に天智と兄弟であったのか、あるいは兄弟であったとしても同父同母であったのかには疑問符がつくといえるでしょう。父あるいは母の身分がかなり低かったか、あるいは天智とは兄弟ではなく傍系皇族の出自であったのか、とにかくいくら年長で有能であったとしても天智を差し置いて即位できるような血統ではなかったのではないでしょうか。あるいは重用はされていても皇太子ではなかったのかもしれません。
だいいち天武の年長のほうの皇子が高市皇子を筆頭にみんな身分の低い女性から生まれていること自体が不自然です。天武の正妃は持統ですが、持統は645年生まれで、その息子の草壁皇子が生まれたのが661年ですから持統が天武に嫁いだのはおそらく660年あたりのことで、この時点で既に天武は30代後半で当時としては中年から老境に指しかかろうかというところで、それまで皇族の正妃を迎えていなかったということになります。
一方、日本書紀において同父同母の兄であるとされている天智はちゃんと若い頃から皇族の正妃を迎えています。ただ残念ながら正妃との間に子宝には恵まれなかったようですが、天智のように親が大王であるような高貴な身分の皇子であれば、その血統を皇位継承の血筋とするためにちゃんと皇族の正妃をあてがうのが当然というものでした。もし天武が天智と同父同母の兄弟であるのならば、天武にもそのような措置がなされていて当然のはずです。しかし天武は30代後半になって天智の娘の持統(正確には他にも何人か天智の娘を同時期に妻としている)を正妃にするまでは皇族の妻を持つことはなかったのです。それはつまり、天武の身分が皇族としては低いほうであったからではないでしょうか。つまり、天武は天智の同父同母の兄弟なのではなく、天智よりも4歳年長の身分の低い皇族であったのではないでしょうか。

そういう天武、すなわち大海人皇子が何故、30代後半になって急に天智の娘を正妃としていただけるようになったのかというと、改新政府の中で天智によってその有能さを見出されて天智の手足となって働き、天智の信頼を得ることが出来たからです。そして天智は大海人皇子に自分の娘である持統らを妻として与え、大海人皇子は改新政府の中で天智の娘婿として大きな権威を得ることになり、天智による改新政治の代行者として君臨することになったのです。
天智の急進的な改新政治には民衆や豪族レベルでは非難の声も多かったと思いますが、それでも改新政府内部においては乙巳のクーデター以降の改新政治を常にリードしてきた中大兄皇子、すなわち天智天皇はやはりカリスマであり、大王家の本家の血筋という血統の高貴さも改新政府内の求心力となっていました。大海人皇子は有能な男ではありましたが彼の改新政府内部における権威は天智の娘婿であり天智の政治的パートナーであることによって成立しているのであり、天智のカリスマに依存していたのでした。
そういう大海人皇子が壬申の乱を経て天武天皇として即位したのですが、そこで行ったことは結局は天智の遣り残した改新政治の続きであったのです。つまり以前と同じような改新政府のスタッフを引き継いでやっていくのです。それは天皇を絶対的な君主とする中央集権国家化であったのですが、いくら壬申の乱の圧倒的勝利という強みがあるにせよ、改新政府のスタッフから見れば天武個人は身分の低い皇族で、もともとは同輩であったわけです。絶対的な権威を感じることは難しかったでしょう。
そこで天武は天皇の絶対的権威の確立のために、自らの能力や実力、軍事的政治的功績に加えて、改新政治のカリスマであり古の高貴な正統皇族である天智天皇の血統を自分の家系に引き入れることによって自らの血筋の権威を高め、改新政治の後継者としての正統性をアピールすることにしたのです。
つまり、天武と持統の夫婦関係によって天武の傍系皇族の血統と天智の正統皇族の血統とがドッキングしたのであり、持統は単なる天武の妻なのではなく、天武と持統の共治体制のようなものが成立したのだと考えたほうがいいでしょう。むしろ天智の血統のほうが本家のような感じで、天武の血統の者達がまるで後の摂政関白のように実質的権力をもって縁戚関係によって本家である天智の血統を支え、天智の血統の権威を自らの権威として活用しているというような関係であったのではないでしょうか。いわば男女があべこべになった摂関政治のような関係であったのではないかと思うのです。

そうなると、天武天皇が即位した段階から持統皇后が実質的にはダブル天皇として同格の権威を持って存在していたか、あるいは権力は天武、権威は持統というように役割分担がなされていた可能性もあります。いや、あくまで皇位継承に関する主導権は本家出身である持統のほうが握っていたのではないでしょうか。そうであるからこそ、天武没後の皇位は一旦持統に預けられ、草壁の死後はそのまま持統に引き継がれ、それに対して天武系の高市皇子らは異議も挟まなかったのではないでしょうか。
高市らにしてみれば、そもそも改新政府内で天皇の権威が保てているのは持統ら天智系の皇女たちの存在があってこそなのであり、持統が皇位に就きたいというのであればそれは本家の持統の当然の権利なのであって、分家の天武系の高市皇子らにとってはそれに異議を挟むなど思いもよらないことだったのではないかと思います。そういうわけでこの後、奈良時代においては持統や元明などのような天智の娘の血を引いた皇子のみが皇位継承者となっていき、その間の繋ぎとしては「息子→母」や「母→娘」などのようなかなり不規則な継承の仕方によってでも、天智の血を引いた皇女たちがかなり自由に皇位を動かしていくことになるのです。それはそもそも皇位が彼女たちの所有物であったからだといえるでしょう。
天武天皇以降、奈良時代の皇位継承が一見、非常に歪な形で進んでいくのは、このように2つの皇室の血統が合体していくという流れが存在していたからなのではないかと思うのです。そして本来の皇室の血統である天智系の流れが常に主導権を握っていたために、結果的に歪な皇位継承が行われることが多かったのですが、それは本家尊重というコンセンサスが存在していたため、同時代的にはさほど違和感は感じさせることはなかったのではないかと思います。

ただ、いくら天智系の血統に権威があり、それを尊重するコンセンサスが存在していたとしても、事は権力闘争に直結する問題であり、天武系の皇族の中にも不満や野心も存在していたでありましょうし、天智系の中でも権力闘争の種もあったでしょうから、権威だけで乗り切れるというわけにはいきません。そこで天智系の皇位継承を円滑たらしめるための影の実働部隊のようなものが必要になってきます。
その役割を担って登場してきたのが、天智天皇の側近中の側近であった中臣鎌足の子孫である藤原氏なのです。この謀略の権化のような天智系皇族の影のような一族は、天武朝において天智系の血統を皇位に就けていくことを使命として代々にわたって暗躍し、その見返りに天智系皇族と縁戚関係を築いて関係を密にしていくことになるのです。そうした役割の元祖が鎌足の子の藤原不比等であり、持統天皇の影として働くことになります。この不比等が藤原氏の実質的な始祖であり、いつしか藤原氏は次第に国政を牛耳るようになり、この後長きにわたり日本の政治の中心に存在することになります。
以上のように考えると、奈良時代の皇位継承の不可解な部分と藤原氏の突然の台頭の謎が腑に落ちるように思えるのです。天智系と天武系という2つの皇統の合体と、天智系皇族の影としての藤原氏の存在という考え方です。畿内の中央政界でこのような構図のもとで律令政府が形成されていき、その中央政府が畿外の地方豪族の支配地域への統制を確立していって中央集権国家としての「日本」を形成していった時代が奈良時代であるということになります。

ちなみに天武天皇が天智天皇の同父同母の兄でないとして、ではヒロヌカ大王と皇族以外の身分の低い女性との間に生まれた異母兄にあたるのか、あるいはイカシタラシヒメ大王と皇族以外の男性との間に生まれた異父兄にあたるのか、あるいはヒロヌカ大王ともイカシタラシヒメ大王とも全く親子関係ではない単なる傍系皇族であったのか、その場合、皇統には男系の血統で繋がっていたのか、それとも女系の血統で繋がっていたのか、色々な可能性があります。
現在においては皇統に女系で繋がっている場合は「皇族」という扱いにはなりません。だから天武が天智の異父兄であった場合も現在においては厳密には「皇族」ということにはならないのですが、何せこの時代は「天皇」という地位自体が誕生したばかりであり、古代天皇制という制度そのものがまだ形成途上であった時代で、天智や天武と濃い血縁関係にある者達が「皇族」であるとするならば、まだその総数は少なく、皇統に血統的繋がりのある者はこの時代においてはまだ男系も女系も関係なくまとめて「皇族」という扱いであった可能性もあります。
(なお、「天皇制」という呼称は近代になって共産党によって作られたイデオロギー色の濃い用語なのでここで使用するのは適切ではないのですが、他に適切な言い方も思いつかないので、古代における天皇を中心とした政治制度を「古代天皇制」と呼ぶことにします。)

天武天皇がもし「女系皇族」であったとするなら、その妻となった持統天皇やその子の草壁皇子の妻となった元明天皇は天智の娘であるから「男系皇族」ですが、天武と持統の間に生まれた草壁皇子や、草壁皇子と元明の間に生まれた文武天皇や元正天皇、そしてそれに続く聖武天皇や孝謙天皇らは「女系皇族」ということになります。
古代のこの時期においては「女系皇族」というものも存在していたとしても、それにしてもミマキイリヒコ以来、女王というものは稀なものであったということは、基本的には男王が優先される慣習が確立されていたと思われます。天智には壬申の乱で死んだ弘文天皇以外にも男の皇子が志貴皇子と川島皇子の2人がいたのであり、2人とも母親の身分が低かったのですが、持統や元明の母親もそれほど身分が高かったわけでもなく、しかも持統や元明は女性であるのですから、2人の皇子の血統が優先されてもよかったはずです。
そうならなかったのは、改新政府における実力者であり壬申の乱の勝者でもあった天武一族のカリスマはやはり大きく、そこに嫁いでいた持統や元明の血統のほうが優先されたのでしょう。また、志貴皇子や川島皇子の周辺には百済系帰化人の影響が大きく新羅に対する悪感情が強かったため、新羅と組んで唐に対抗していくという壬申の乱以降の日本の基本方針と相容れないものが大き過ぎました。よって、この系統の皇統は新羅との関係が悪化する8世紀後半までは皇位継承の選択肢からは自動的に外れることになったのでした。
ただ、そうはいっても天武の血統が志貴皇子と川島皇子と比べてあまりにも卑しいものであったとしたなら、たとえ壬申の乱の勝者といえども、また、親新羅派であったとしても、天武の血筋と掛け合わせた持統や元明の血統のほうが優先されるということは難しくなりますから、おそらく天武のどちらかの親は大王であったのだと思われます。そうなると、天智との近しい関係から考えると、やはり天智とは異母兄弟か異父兄弟の関係であったのかと想像することになります。すなわち、ヒロヌカ大王と皇族以外の身分の低い女性との間に生まれた子であるか、あるいはイカシタラシヒメ大王と皇族以外の男性との間に生まれた子であるということになります。
これが果たしてどちらであったのかはハッキリとはしませんが、後者のほうでなかったかと思います。つまり天武はイカシタラシヒメ大王と皇族以外の男性との間に生まれた子だということです。イカシタラシヒメ大王はヒロヌカ大王の妻でしたが、これは再婚で、ヒロヌカ大王の妃になる前に別の男性と結婚して子を産んでいたと思われるのです。そうなると天武は「女系皇族」で、その妻や息子の嫁である持統や元明は「男系皇族」ですが、元明の子である文武天皇、その子の聖武天皇、更にその子の孝謙天皇らは「女系皇族」ということになります。
この孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、この称徳天皇でこの天武に始まる「女系皇族」の系譜は終わり、志貴皇子の子である光仁天皇が即位します。これは天智の男系の孫にあたるわけで、ここで「天武持統系=女系皇族」の系譜から「天智系=男系皇族」の系譜へと皇統が戻っているわけです。この後、光仁天皇の子の桓武天皇が794年に平安京へ遷都を行い、現在に至るまで1200年以上もの間、皇統が女系で継承されることはありませんでした。

京都にある皇室の菩提寺である泉涌寺においては天智以降の歴代天皇が祀られているのですが、この天武から称徳に至る「天武持統系」の天皇は祀られておらず、古い順に天智、光仁、桓武、そして平安期の歴代天皇へと繋がって祀られているのです。また、平安期以降は歴代天皇陵に対する神道の奉幣の儀式が天武持統系の天皇の陵に対しては一切行われていません。
天武持統系の天皇が存在したことは奈良時代初期に成立した「日本書紀」、平安時代初期に成立した「続日本紀」に明記されています。しかしどうやら平安時代になってから天武持統系の系譜を皇統に含めることはタブーとなったようなのです。そして平安時代以降、決して女系での皇位継承が行われなかったということと考え合わせると、この天武持統系が「女系皇族」であるがゆえに皇統に含めることがタブーとされたのではないかと思われるのです。
つまり、天武持統系の系譜の最後の時期に何らかのトラブルが生じ、そのトラブルは「女系」であることに関連するトラブルであり、そのトラブルを乗り越えて皇統は天智の男系の孫である光仁天皇を始祖として改めて再出発することになり、ここに古代天皇制は奈良時代の試行錯誤を経て形を整えてスタートすることになり、天智と光仁の間に存在した天武持統系の天皇はそのトラブルゆえに、そして「女系」であるゆえにタブーとされていくようになったのではないかと思うのです。
トラブルといっても、あらゆる人にとって困ることであったというわけではなく、平安時代の政治の実権を握っていたのは藤原氏ですから、藤原氏にとって不都合な出来事であったという意味なのです。天武持統系が「女系」であったということが藤原氏にとっての不都合な事態の原因となったので、その後にそのトラブルを克服して新たに光仁・桓武の皇統を盛り立てて平安時代の幕を開き実権を握るようになった藤原氏が皇統の女系での継承を強いタブーとしたのです。この事件の顛末はまた後に詳しく触れると思いますが、まぁ簡単に言えば、一族の娘を天皇の配偶者としていくことで実権を握る藤原氏としては男系継承のほうが都合がいいというわけです。
もちろんこれよりも遥かに昔から、身分の高い家というものは男系相続が定番となっており、皇統においても男系継承が基本ではありました。しかし、1200年以上もの長きにわたって皇統における女系継承が皇室の伝統的な強烈なタブーとして意識されるようになったのは、奈良時代末期に起きたトラブル以降のことだといえるでしょう。
このトラブルは藤原氏にとって都合の悪いことでもありましたが、もちろん皇室そのものにとっても不都合なことでした。そもそも藤原氏は皇室に寄生していく存在ですから、女系継承が皇室にとっても不都合なことであるという点も、藤原氏にとって女系継承を不都合に感じる大きな要素でもありました。そうした不都合は現代においても共通したものでもありますが、とにかくその起源は1200年以上前の出来事に起因するのであり、その後の1200年以上もの女系継承忌避の伝統は、やはり重いものだといえるでしょう。
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【2013/04/18 20:50】 | # [ 編集]



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